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アニホムマツ工場
アニホムマツ工場

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愛猫擦り寄る


「ふふ……愛おしい。余を守り、愛し抜く手だ」

 テランスの右手を撫でまわす、高貴な猫がそう鳴いた。
 指先から指の股をつうっとなぞり、手のひらの硬い豆をちょいとつついては、嬉しそうにくちびるを緩める最愛の人。今にもごろごろと喉さえ鳴らしてくれそうで、テランスの眦は愛らしさにとろんと蕩けた。
 手付かずの左手で、じゃれつく頭を優しく撫でる。すると、ご満悦なはずの愛猫様から、間髪入れずにぴしゃりと跳ね除けられてしまった。
 首を傾げる。さて、なにがご不満なのか。右手は未だ、にぎにぎと遊ばれているのだが。
 もう一度、左手をそうっと近づけてみる。魅惑のかんばせに到達する寸前、理不尽な上目遣いに咎められ、ああなるほどと破顔した。

「私から触れるのは禁止なのですか?」
「そうだ。余がお前を愛する番だ」
「それは重畳」

 優位に立って胸を張る、その愛くるしさがじんわり胸に沁み渡る。大人しく弄ばれているうちに、テランスの硬い指の腹が、無垢なくちびるのうえに招かれた。
 ディオンには、気に入ったものを口元に持っていく癖がある。まるで幼子のような仕草だが、一番のお気に入りたるテランスは、もう何百回とそのくちびるで味あわれている。あどけなくもいやらしい、とっておきの可愛い癖だ。
 目を細めて、美しいくちびるをじっと眺める。紅を指さずとも桜色に艶めいて、撫でられれば撫でられるほど、甘く色づく彼のくちびる。視界と指先でやわらかなそれを感じて、ぱちぱちと光が爆ぜるようだった。
 もはやテランスの指が撫でているというより、彼のくちびるに愛でられているといった様相だが、その蹂躙は好ましい。
 うっとりと息を吐いたら、悪戯な上目遣いと目が合った。楚々として開いたくちびるから白い歯がちょいと覗いて、逞しい指を甘く食む。
 こうなると油断はできない。困ったことに彼の噛み癖は愛嬌も威力も絶大で、テランスをすぐダメにしてしまう。
 かじらないでくださいね、なんて建前だけの抵抗を示す前に、歯形がつくほどがじりとやられた。思わず笑う。マーキングなんてされなくたって、テランスはとっくにディオンのものだ。

「ディオン様は本当に私の手が好きですね」
「太くて硬くて筋張っている。勇猛な騎士の手だ。噛み心地もいい」
「味見ですか? お口に合えばよいのですが」
 「味なんかとっくに知っている。好きだから食べているのだ」

 噛み跡を、小さい舌がちろりと撫でる。指を咥えたままの双眸が、挑むようにこちらを向いた。挑む、というには熱と期待が大いにこもり、仔猫が腹を見せて万歳をしているような、勝ちを譲る眼差しだ。
 いじらしいおねだりに飛びつきたくなる心地を抑えて、テランスは紳士を装った。

「私から触れてはならないんでしたね?」
「……お前はときどきいじわるを言う」

 麗しいくちびるがむっと尖った。

「順番は守りませんと。それとも、『私が愛される番』はもうお終いですか?」
「……いじわるばっかり言う」

 ますます尖った。
 相好を崩して白旗を掲げる前に、ディオンの指先がテランスの左手を運んでいって、手のひらいっぱいにぺとりと頬をくっつけた。金糸がさらりと流れて光る。すべすべのほっぺを思うさま擦り付けられて、愛を囁く余裕もなくしたテランスは、忍び笑いもほどほどに額をこつんとくっつけた。
 
「今度は私が貴方を愛する番だ」
「うん。お前が欲しい。指では足りない」

 贅沢な睫毛の下から男をねだり、お気の向くまま懐いて甘えて、尊大に私を炙って蕩かす、ヴァリスゼアいち可愛い愛猫。

「仰せのままに。私のディオン」

 擦り寄るくちびるに返事ごと食べられて、ちうちうと吸われるまま熱い吐息にねぶられた。

「いっぱいしてくれ……」
「欲張りさんだなあ。お腹いっぱいにしてあげますよ」
「ふふ! 残さず平らげてやる」
「ほんとに食べられちゃいそうだ」

 可愛いうなじにリボンを結んで、家猫にできたらいいのにな。
 叶わぬ夢想はさておいて、くにゃりとしなだれとびきりの媚態を見せる恋人に隅から隅まで味わってもらうべく、テランスは愛しい身体に覆い被さった。


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たまゆらの微睡に添う


 テランスはときおり、たとしえない懺悔の心に見舞われる。

 組み敷かれてなお清らかに咲く恋人の、慈愛の色に染まるくちびる、悦びにもえたつ身体のなだらかな稜線、きららかな頬をつたう涙のひとすじ、そうしたものを認めたとき、テランスの胸は掻き乱れ、許しを請わせてもらえぬものかと、たけりたつ楔を突き入れながら膝をついて頭を垂れてしまいたくなる。
 彼を抱いているときはいつも、罪なき喉笛に噛み付いて、純白の羽根を煩悩に染め上げていくような、そんなさまを己のうちに広げている。いつしか終わりに手招かれたとき、神の御許へ召されるべきディオンが欲に濡れそぼった翼のせいで羽ばたけず、共に地獄へ向かう羽目になったとしたら、己が彼を貪り尽くしたからに違いない、と。
 けれど、その奥深い混迷を見透かしたかのように、ディオンは力強い男の手でテランスの背をかき抱いて、契り結ぶそこをみだりがわしく蠢動させて、「テランス……」と口端を上げて愛を呼ぶ。ひとつに交ざる身体を無上のようにうち震わせ、無垢なる幻想を脱ぎ捨てて、私は果ててなおお前と共に在るのだと、言外にテランスの魂を愛撫する。
 極上の馳走を貪り、暴いて、腹の奥に迎え入れられながら、身勝手に哀れな仔犬の面で鼻を鳴らしていたテランスは、そうして同じだけの愛欲に浸されて、拘泥を深いものにする。
 互いをくまなくまさぐって、触れぬところのないほど愛を確かめ合ったあと、テランスはいつも恋人の無垢な寝顔を眺めて、ディオンのすべてを胸に刻んだ。
 テランスの目は、愛しくまろいディオンを余すことなくつぶさに映す。なにより気高いその光は、テランスの目を焼くことなく楽しませ、ただ在るだけで肌に沁み入り心まで温める。波打つ純白のシーツに横たえられた身体の、いかに冴え勝りまばゆいことか。足あとひとつ残せぬ高潔な雪原のようでいて、テランスにとってディオンはとこしえに絢爛の春である。
 乱れた金糸を優しく梳いた。頽廃の世にありながら、閉じた瞼に安らぎをのせる彼の四辺には、テランスが育てた眷恋の花が咲き誇っているようである。ディオンに注がれる溺れるほどの愛情、そのおこぼれを吸った花々はあるじに似て勇ましく、きっと太陽たる彼に向いている。これほどの想いは世に名高き斬鉄剣にも斬れまいと、幻想の花々で愛しい人を包んで満たし、ひとり笑う。
 衣擦れの音がして、微睡みのふちをさまようディオンのゆびが、テランスのゆびをひとつ、ふたつ、……しまいにはいつつ握って止んだ。あどけなく、無防備なようでいて、テランスの骨を抜くには十分な攻撃だった。

 テランスはときおり、たとしえない懺悔の心に見舞われる。

 けれどディオンの度量がその憂いを良しとせず、『私を愛せ』と熱烈に男を蕩かすものだから、テランスの仄暗きは照らされて、光の皇子の最たる伴として胸を張り、二本の足で立っていられる。
 荘厳な翼広げてテランスを招く、愛しいディオン。いつまでも彼の隣で、幸多からんことを願ってやまない。
 額にくちづけられた彼が睫毛をふるりと震わせて、しかし瞳をあらわすことはかなわずに、あえかな吐息を枕に落とした。

「余をひとり夢のなかに見送るつもりか。そうはさせない……」

 睡魔にどっぷり浸かったくちぶりで、再びふにゃふにゃとゆびを握りこまれる。テランスは布団よりも上等な体躯で彼を覆って、「おやすみディオン。いい夢を」と緩んだくちびるで、彼にとっておきの愛を捧げた。


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とこしえ映える恋露光
※現パロ


 光沢とろけるシルクシャツを身にまとい、下着一枚履いただけの生脚を晒した恋人が、むじゃきな素振りで私の手をとり、シャツの下へと導いていく。薄布の下に潜り込んだ無骨な指がなめらかな素肌に食い込んで、耳元で「ン……」とあえかな吐息がこぼれてとけた。
 指の腹が浅ましく絹肌を舐めあげる。焦れた爪先がシーツを蹴って、私の太ももにずしりと魅惑の双丘をのせた。渇望を飲み込んで喉を鳴らせば、艶やかなくちびるが得意気に微笑んだ。
 
「ふ……、どうしたテランス。そう固くなることはない」
「……っ、いけません。こんな……妄りすぎます」
「余とこうするのは嫌か……?」
「そんなわけないでしょう。嫌じゃないから困るんだ……」
 
 鼻先を撫でる甘えた声、恋人が身動ぎするたび思考をぼやかす衣擦れの音、それらに混ざってシャッターの切られる硬い音が私を現実に立ち返らせて、焦燥に似た戸惑いを増長させた。
 私だけが知るディオンの痴態──これはその一欠片に過ぎないが──を十の瞳が凝視して、何枚もの刹那が愛の記録として積み重なっていく。皆が真面目くさった顔つきで二人を見守り、持ちうる魅力を発揮させんと尽力するこの空間に、疚しい気持ちを抱える不届き者はただ一人。
 
「テランス……。いつもみたいに可愛がってくれないのか……?」
「っく、はっ……」
 
 違った。私とディオンの二人きり。
 衆人環視を物ともしない奔放な恋人が、私の耳に熱い吐息を流しこむ。ときめきを超えて灼熱の血潮が股間に集中しそうになって、私は固く目を瞑り、どうしてこんなことに……と、ことの始まりに思いを馳せた。
 
 
 ──ときは2週間前に遡る。
 
『イケメンアイドル、路地裏ディープキス! ディオン王子、夜はテランスのお姫様!?』
 
 ……なんて、衝撃的な見だしですっぱ抜かれた。
 大々的に見開き2ページを飾った写真には、壁に背中を押し付けられたディオンが、暗がりの中でもそうとわかるほど恍惚とした表情を浮かべて、向き合う男──もちろん私だ──に四肢を絡めて縋り付いているところがバッチリ写っていた。おまけに、私の手がディオンの腰……いや、尻を揉んでいるのも一目瞭然で、重なりあい蕩ける二人のくちびるはどう見ても舌を入れてますね、といった様相で、それはもう、言い逃れのしようもない完璧な熱愛写真であった。
 やられた、と思いこそすれ、自業自得なのだから決まりが悪い。
 一瞬の油断が仇となった。打ち上げの帰路、酒精にとろんと赤らむ目尻、ぬるい夜風にほどける金髪、低俗なネオンの光に照らされてなお品位に満ちた火照る頬、二人を囲む建物に切り取られた夜空を見上げて「狼でも出そうな夜だ」なんて、目の前の男を狼に変えてしまう悪戯な笑みを浮かべる恋人……。すべてが夢の中のようでいて、うつつの体温を伝えてくるディオンにすっかり舞い上がってしまったのだった。
 ……正直、一瞬どころではなく、かなり盛り上がった。とても際どいところまで。ディープキス程度の暴露で済ませてくれたのは良心的だと思えるほどに。
 あの夜はそう、街の喧騒も二人の時を穢すに及ばず、瞬く星さえ恥じ入るほどにディオンの痴態は輝いて、まさに今、雑誌を握りしめてワナワナと震えている彼と同じくらい赤く茹だった素肌は私を昂ぶらせ……、眉間をおさえて首を振る。私だってこの記事を歓迎しているわけではない。
 ついに衆目に晒されてしまった、下品な形で。世間に愛と笑顔を振りまき、ファンの声援に応えようと邁進してきたつもりだが、世を忍ぶいっときの逢瀬さえ見逃してもらえず、玩具にされてしまうとは……。
 ドン、と鈍い音がした。机に雑誌を叩きつけた恋人に言葉をのんで、荒々しい呼気に膨らむ背を見つめる。
 
「……ディオンのキス顔は横から見ても美しいんだね」
 
 気を紛らわせようと呟けば、あえなく胸を殴られた。手加減なしの威力に咳き込む。びくりと肩を揺らした彼に苦笑して、固く握りしめられた拳を両手で包み込む。眉尻を下げて覗きこめば、紅潮した頬がぷいと逸らされ、険しい横目に睨まれた。
 
「お前だって美しい!!」
 
 うーん。そこは「ふざけるな」じゃないのか。かわいいな、私のディオン。
 
 ──ディオン・ルサージュ。
 世界一美しい男。一世を風靡する人気アイドル。閣僚の父を持つ、財閥御曹司。
 そこに「幼なじみで同僚のテランスをパートナーに持つ男」という肩書が加わるだけだ。素敵なことだ。たとえ世間に後ろ指をさされようと、ディオンに瑕がつくことはない。ただ、タイミングが悪かった。
 人づてに「父親が弟に家督を継がせるつもりらしい」と聞いたばかりで、ディオンは混沌の最中にあった。あっちへうろうろ、こっちへうろうろ、狼狽える彼に熱愛記事の追い打ちだ。平生の威厳あふれる佇まいは姿を消して、毛を逆立てる仔猫のごとき荒れ模様、噛む引っ掻くならご愛嬌だが、ディオンにはいつだって晴れやかに笑っていてほしいと願う私の方が先に根を上げそうだった。
 ひとしきり低く唸った彼がきゅうと下唇を噛んだので、腕を広げて訪れを待つ。ひとつ、ふたつ瞬いて、素直な仔猫が飛び込んできた。体躯に見合った勢いを受け止めて、ぎゅうっと大切に抱きしめる。襟足に隠れたうなじを撫でれば、そこは熱く滑らかな手触りをもって私の手のひらを受け入れた。
 柔らかい頬が首筋に擦り寄せられる。寄る辺ない温もりがしっとりとくっついて、物憂い吐息が素肌を撫ぜた。
 
「すまない。あんな所でお前を誘ったから……。すまない……」
「いいや、私こそ軽率だった。でも大丈夫、私たちは何も変わらないよ」
「テランス……」
 
 か細い声が鎖骨の上をすべって、上向いたかんばせと目があった。額を合わせて指の腹でうなじを撫でさする。ぞくぞくと身を震わせたディオンが、目をそらすことなく私をじっと見つめている。
 ──この瞳に抗える者などいるものか。路地裏ディープキスがなんだ、昼夜問わずどろどろに愛し抜いて腕の中に囲わずにいられる忍耐力を褒められたっていいくらいだ。
 不遜な胸中はおくびにも出さず、うっとりとまたたく瞳に同じだけの想いを返した。
 
「あの写真は少し気恥ずかしいけどね。今まで通りさ。ずっと一緒にいよう」
「テランス……! ……そうだな。ファンにはきちんと説明をして、……。周りがどう変わろうと、テランスと私が変わることはない」
「うん、ディオン。私たちの幸せを願ってくれる人たちもいるはずだ」
「ああ……。まずは筋を通さねばな」
 
 張り詰めていた糸がふっと緩んで、美しいくちびるが柔らかく弧を描いた。たったそれだけで、温かいものが指の先まで満ちていくようだった。
 安堵をこめた指先で、彼のなだらかな背筋をなぞる。真綿でくるんで、甘い蜜でとろかして、溺れるほどの愛を注いで、輝かしい彼にさらなる光を。とろけるような微笑をこぼしたくちびるが私の首筋に甘くかじりついたものだから、真摯な誓いに下心が混ざるのも早かった。
 ──そうして、いつも以上に甘やかしすぎたのかもしれない。
 だってまさか、ファンに説明をと、二日後に開いた会見で。
 
 
「テランスは余の最高のパートナーだ! 同時に、余もテランスの最高のパートナーだ!! 皆に隠していたこと、そして、はしたない真似を晒してしまったこと、本当にすまなかった。今後は節度を持ってめいっぱい睦み合おう!!」
 
 ──そんなことを、滅多に見られない満面の笑みで宣言するものだから。
 おとがいを解いて涙が浮かぶほど笑っていたら、視界の端でマネージャーが膝から崩れ落ちるのが見えた。めくるめく焚かれるフラッシュをも凌ぐディオンのまばゆい笑顔がこちらを向いて、もう一度、にこ!と、今度は私だけに向けて炸裂した。
 そこから後は、いまいち覚えていない。真摯に「この度はお騒がせて申し訳ありません」から始めようと思っていたのに、ぜんぶ頭から吹き飛んだ。あれで筋を通したつもりの胸を張る恋人が健気でかわいくて、謝罪ではなく惚気会見だったと皆に茶化されるくらい、ひたすら愉快だったことは覚えている。
 その夜は、やらかしてくれた恋人をベッドの上で丁寧に執拗に可愛がって思う存分泣かせたし、後日、事務所へ訪れた雑誌記者にも泣きに泣かれた。増刷に次ぐ増刷、売上が歴代最高記録を絶賛更新中らしい。知ったことではないのだが。
 
 
 それはさておき、今をときめく恋人様はというと。
 
「ああテランス、お前は本当に惚れ惚れするほどの男前だな……」
「ディオン様の寵愛を一身に受けておりますからね」
「ふふ、違いない」
「……っこら、いけません、ディオン様」
 
 こそばゆい囁きを二人の間にとろりと垂らし、凛々しい双眸を甘やかに細めて、キスシーンさえ披露したことのない“王子様”らしからぬ艶やかさで、ゆっくりと私をベッドへ押し倒して厚い胸板を愛撫していた。
 いつの間にか肌蹴させたシャツをめくって、逞しい腹筋を指先でなぞって味わい、粟立つ脇腹をつたってくすぐるように乳首を掠め、しばらくそうしてなすがままの男の肉体を弄んでいたかと思ったら、上体をくっつけて顎を食み、満足そうにくすくす笑ってなんている。天真爛漫な恋人の腰にただ手を添えて、生殺しを耐えている私とは雲泥の差だ。
 ずっと秘密の恋人として密やかに過ごしてきたはずが、世間公認のパートナーになるなんて。あの一件で逆風が吹くどころか、『愛に溺れるセックス特集』と銘打った雑誌で特集を組まれるほどの歓迎っぷりには戸惑うばかりで、夢じゃないだろうなと、しなだれかかる恋人の脇腹をつねってみれば、「あっ! ……ん、そこじゃなくて……」なんて理不尽な両腕に頭をかき抱かれて、ぎゅうと鼻面を挟む胸の谷間に瞠目した。現実は夢よりはるかに刺激的だ。
 
「もう、全年齢向けの撮影なんですよ」
「だってお前とツーショットなんて嬉しくて……」
 
 オイタを叱っても、いじらしくくちびるを尖らせて、大義そうに上体を起こして可愛いお尻を重く揺すぶり、私の恥骨と男心をくすぐってくる。
 両手を上げて降参したら、「それとテランス、いつまで従者気取りのつもりだ? 敬語はやめろ」と追撃された。スタッフたちが小さくどよめく。どうやらディオンは、王子と従者という二人組アイドルの姿を捨てて、本気で恋人同士としてこの撮影に臨んでいるらしい。
 ありのままをつまびらかにさらけ出すつもりはないが、そっちがその気ならと「ディオンも『余』なんておすまししてないで、いつもみたいに可愛くお喋りしなきゃね」と口端を上げて頬を撫でれば、鎖骨までぶわりと赤く熟れた食べごろのお顔が「……ん……」と小さく頷いた。どよめきが一層空気を揺らす。
 よし。かわいいディオンがこれ以上周りを魅了する前に、さっさとかたをつけないと。
 腹の上の恋人がひっくり返らないように腰を支えて、丹田に力を入れて身を起こす。ベッドが軋んで、大人しくひっついたままのディオンに額を合わせて表情を引き締めれば、眼前の瞳がきらきらと眷恋の光を帯びて、華美な睫毛が瞬いた。
 
「世界一愛しい私のディオン。最高の写真を撮ってもらおうね」
「ああ。私の世界一のテランスも、いっとう格好良く撮ってもらわねば」
 
 ふにゃりと笑顔が花開く。とっておきのキメ顔を作ったつもりが、つられて頬が緩んでしまった。格好つかないなと呟いたら、「お前は格好よくてかわいいぞ」と余計やに下がらせるようなことを言う。時と場所を選ばず愛されるのも困ったものだ。くちづけを降らせる代わりにぐりぐりと額を押し付けて、また二人一緒に破顔した。
 
「最後にもう少し撮りたいんですが、テランスさん、クールな感じでお願いできますか?」
「うぐ、はい……」
「もっとこう、最高位の雄らしく、自信たっぷりに……。『ディオンならたっぷり愛し抜いたぜ』みたいなお顔でお願いします」
「えっ?」
「『ディオンならたっぷり愛し抜いたぜ』みたいなお顔で」
「はっ、えっ、はい……?」
 
 撮影開始から散々こっ恥ずかしいことをしているが、そう言われると尚更むず痒くなってきた。しかし、ディオンは私のものだと改めて世に広く牽制するチャンスなのだから、ここで勝負を決めなければ。
 顎を引いて視線を戻すと、ディオンがミーアキャットみたいになっていた。
 
「とすると、余は『愛し抜かれました』という顔で……?」
「いえ、『足りない……』というお顔で」
「おねだりを!?」
「『おねだりを』!?」
 
 二度見した。可愛い口から可愛い語彙がまろびでるのを耳にして、私までミーアキャットみたいになってしまった。
 
「はい。ではいきますね」
 
 異を唱える暇もなく、仕事人の顔をしたカメラマンが構えて促す。最高位の雄なんて表現が肩に重くのしかかるが、ディオンに選ばれた唯一の男となれば、紛れもなく雄の頂点に違いない。
 「二人でてっぺんとろうか」と指を絡めて軽口を叩いたら、「ふ。もとより私たち二人に敵うものなどおるまいよ」なんて凄艶にくちびるを吊り上げて、肉厚なそこを飢えた舌でゆっくりと湿らせる。骨を抜く無二のまなざし、ディオンのすべてに骨の髄までむしゃぶりつかれて、まさしく『愛に溺れる』獣めいた男の顔を晒した私は、くちびるの触れ合う寸前で吐息が熱く混ざり合うのを聞いた。
 
 
 ──そうして、二人の際どいツーショットをふんだんに掲載した紙面が、路地裏スクープの何倍にも世間を騒がせたあと。
 事務所宛てに、先の雑誌カメラマンから手紙が送られてきた。
 三人掛けのソファに二人でぴとりと太もも寄せて、いそいそと封を開けて中身を見やる。
 そこには、簡潔な手紙のほかに、テランスとディオンが笑い合う一枚の写真が入っていた。
 
「はにかんでるディオン、この角度から見てもすごく可愛い!! ……私っていつもこんなにデレデレした顔してる?」
「ふふ。している。仔犬みたいで可愛いぞ。この写真すごくいいな!」
 
 オフショットというやつだろうか。どちらかというとディオンがメインを飾っていた誌面と違い、私が主な被写体となっているようだった。いつの間に撮られたのだか知らないが、ディオンを前に相好を崩して……いや、鍋いっぱいの砂糖で煮詰めて煮詰めて、めろめろに惚けきっているような、そんな照れくさい写真だった。
 
「客観視するのがこんなに恥ずかしいとは……」
「うむ。楽しかったな。また撮ってもらおう! 返事を書くぞ。なあテランス」
「返事はいいけど、ああいう撮影は二度と御免だ」
「なに? 私がお願いしているのに?」
「かわいい顔してもダメ。ディオンの酷なお願いは二度と聞かないって決めてるからね」
「? 酷なことなど言ったことがあったか?」
「さあね。ともかく、ディオンのあられもない姿は今後誰にもおすそ分けできません。乱れるのは私の前だけにしようね」
 
 愛しい身体を惹き寄せて、つるりとしたうなじに這わせたくちびるで、わざとリップ音を立てて吸う。雄々しいくちづけに犯された肌が熱を帯び、ほのかに汗ばんだそこに男の欲望が滲んでとけた。大胆にべろりと味わうと、ディオンの腰がくにゃりと曲がって、ダメ、なんて甘美な誘いがこぼれ落ちた。
 
「テランスっ、こういうのは自宅でだけだと……!」
「んー。撮影のとき散々弄ばれたからね。仕返しされても文句は……っうおお!」
 
 股間を鷲掴まれた。強気な手のひらが服の上から局部を揉みしだく。瞬時にしぼむ余裕とは裏腹に、何かがむくむくと頭をもたげそうになって、大慌てで手首を掴んだ。戦局を覆して優位に立った恋人が、三日月のように細めた目で情けない男の顔を覗き込む。かち合う視線、いっそう深まる美しき笑み、勝利を確信してうごめく剛毅な手。
 
「ディっ、ディ、ディオン!! 本当にダメ、だめだってば、あう」
「仕返しに仕返しされても文句は言えまい? ははは! テランス討ち取ったり!」
「打ち取られた! 可愛い!! さすがだディオン、っく……」
 
 ソファの端まで追いつめられ、いたずらな手首を退けようと抗うも、私よりはるか怪力を誇るディオンの猛攻は止まらない。悪ふざけが過ぎると一喝すれば彼も引いてくれるだろうに、やましい気持ちが言葉を下して喉を鳴らした。若気の至り、ここに極まる。
 ええいままよと目を瞑って身を固くしたら、ふと、優しく撫でるような動きに変わった。急に大人しくなった手のひらの主をちらりと窺う。私を散々弄んでいたはずのディオンが、目元を鮮やかに紅潮させて、伏せた睫毛の下で、羞恥にけぶる瞳をうろうろと彷徨わせていた。
 
「ん……なんだかほんとにエッチな気分になってきた、テランス……」
「っ、ディオン……こっち向いて。ちゃんと顔を見せて……」
「そんなだから週刊誌に撮られるんでしょうが!!! 弁えなさいこのバカップル!!!!!」
 
 二人して飛び上がる。目の前にマネージャーのマダムが立っていた。鬼のような形相で。
 
「「す、すみません……」」
 
 居住まいを正して頭を下げる。私の腕にすがりついて固まっているディオンに胸がキュンと締め付けられたが、腕組みをして見下ろす彼女の見事吊り上がった眦を前にして、色ボケした気持ちは素足で逃げ出していった。普段はおおらかな人が怒るとめっぽう恐ろしい。
 上目遣いに伺う先で、大仰な溜息が空気を揺らし、ディオンが小さく「うぅ」と唸った。二の腕がぎゅっと魅惑の胸板に挟まれて、色ボケした気持ちが抜き足差し足忍び足で出戻ってきた。こっそりと歯を食いしばる。
 
「仲睦まじいのはいいことだけれど、自覚と自制心を持ちなさい。本当にもう……。まあいいわ。『愛に溺れるセックス』特集のあなた達が大好評だったから、数カ月先も特集のメインに据えたいそうよ。今度のテーマは『官能を知る』ですって。OKしておいたから」
「やった!!」
「ええっ! ダメです、ディオンが減る!!」
「減った分はテランスが増やせばよい!」
「どういう原理!?」
 
 ガッツポーズをしたディオンに、どさくさに紛れてほっぺチューされた。凝視するも、ウキウキとはしゃぐ恋人はどこ吹く風だ。会見のあとから日を追うごとに大胆になっていっている気がする。真摯な愛情をもってお応えしたいところだが、マダムの唇が不自然なほど弧を描いていたので、腰を抱くにとどめ……るなんて勇み足を踏むのもやめて、気をつけの姿勢で誠意を示した。
 
「いいさ。『官能を知る』だって? ディオンに鼻の下を伸ばしてる奴らに、私たちのめくるめく官能をこれでもかと思い知らせてやる」
「聞いたか? 私のテランスは最高にイカす男だ」
「はいはい。とっととロケ行くわよ。早く支度して」
「この写真、父上にもメールで送ろう。『お元気ですか? 近々この素敵な恋人とご挨拶に伺います』……送信、っと。」
「あああ!! 相変わらず思い切りがいい……!!」
「きっと父上もわかってくださるはずだ。な、テランス」
「うっ……うん、そうだね。そうなんだけど、猊下はまだ少し怖いなあ……」
「猊下? 案ずるな。何があろうと必ず私がお前を守るから」
「ディオン……! 君は最高にイイ男だ……」
「とっとと支度しなさい!!」
 
 
 ──撮影のときも肯定的に受け入れられて戸惑うばかりだったが、それからも二人を取り巻く空気はあたたかく、スタッフはおろか、行く先々で大勢の人から祝福された。
 さすがに全員とはいかずとも、大多数の人々に好意的に受け入れられていると肌で感じる。それでも急に恋人として振る舞うつもりはなかったが、ディオンに「王子と従者はやめて、王子と王子でいかないか」なんてぽそぽそと耳打ちされて、面白い冗談だなと顔を向ければ、ふざけた色のないかんばせに見つめられて面食らった。
 そなたに従者の真似など、そういつか耳にした彼の切ない声音が蘇る。ディオンの心に刺さる棘は今の世も変わることなく、けれどそれを取り除くのはきっと、あの頃よりもはるかに容易い。少しずつ頑張るね、そう言って額を合わせれば、美しいかんばせがぱっと喜色に華やいだ。
 ディオンは晴れやかな顔で過ごしていることが増えた。特に今日なんて、ロケの最中はおろか道中や休憩中でさえ、そして今もなお、大層ご機嫌そうに頬を緩めて燦燦と輝いている。なかでも、私が人前でつい敬語を忘れて話しかけたとき、いっとうくすぐったそうにはにかんだ笑顔を見せた。人前で恋人として振る舞えるのが嬉しいのかと思っていたが、そういうことか、と、すとんと腑に落ちて、夜の帳が下りた帰路、月明かりに照らされた穏やかな笑みを見つめていたら、ようやくじんわりと体の芯から実感が湧いてきた。
 あの頃とは何もかもが違うのだ。重責に心潰されることもなく、運命に翻弄されることもなく、もしかしたら、長きを共に生き抜くことだって。
 
「ディオン。よかったね」
「ん……」
 
 寄り添う寸前の距離、ちょんと触れた手をそうっと握ってみれば、指は正直に互いを求めて絡みあった。なにが、とは返されずに引かれた顎を見て、微笑みが優しい夜にとけていく。
 心地よい沈黙に身をひたし、いつかの夜のようにネオンに照らされた頬を眺める。ディオンのくちびるがふわと開いて、結ばれて、柔らかなそこを見つめて彼の心を待っていたら、もいちどほどけたくちびるから、吐息のような安堵が漏れた。
 
「……あの日、『ずっと一緒にいよう』と言ってくれたろう。とても嬉しかったのだ。こんなに幸福なことはないと、そう思っていたのに……。ふふ、今はもっと幸せで、これからもきっと、もっとずっと幸せだ。テランスと一緒にいるからな」
 
 美しい瞳がまっすぐに私を映して、まばゆく笑んだ。
 ディオンが、私と共に歩む幸福を選んで、満ち足りた表情を浮かべている。
 一生を伴してよいのだと、他ならぬ彼がそう心に決めてくれたことが、私に寄り添うてくれたことが、それがどんなに、どんなに……。
 心臓を直に掴まれたような、激しい痛みにも似た歓喜の万雷が全身を駆け巡り、ぼやける視界はディオン以外の有象無象を覆い隠した。目の淵いっぱいに雫をたたえて、それでもどうにか、泣き顔よりも笑顔を返してあげたくて、震えるくちびるで不器用な笑みをかたどった。言葉はなくとも、きっとディオンには伝わっている。彼の隣にとこしえに在ることが、私の愛の証明だ。
 固く結んだ手のぬくもりに導かれ、そっと鼻先を寄せ合った。ふわりとほころび、私の訪れを待つくちびるに恭しくくちづけて、ゆっくりと彼のあわいに己を忍ばせる。ディオンの弱いところを舌先であやすようにうっとりと愛撫して、焦れた彼が私の後ろ首をかき抱いて下腹部を押し付けてくるほど丁重に、快楽と己のすべてを染み入らせるような舌使いで、ディオンの腰が砕けるまで熱くとろける口腔を蹂躙した。
 何度味わっても新鮮な歓びに満ちたくちびる。互いの形に寄り添い融け合うそこを甘く食み、名残惜しく離しても、いつまでも繋がっているような心地でいられて、ふにゃふにゃに蕩けて笑っているディオンをたまらず強く抱きしめた。
 夜は短く、私たちの未来は長い。駆け出したくなる衝動をおさえて、歓喜迸る身体をタクシーに詰め込んで、比翼の鳥は愛の巣へと舞い戻った。
 
 
 ──案の定、またバッチリと写真を撮られてマネージャーからしこたま怒られる羽目になったのだが、隠し撮るほどの物珍しさがなくなるほど愛し合う私達の姿が日常茶飯事となるのは、きっとそう遠くない未来のことである。


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春の腕(わたしのうで)


 ホムラの腕はひんやりしている。

 ほどよく日に焼け、惚れ惚れするほど筋肉質で、ぺたぺたと手触りのよい腕だ。ひやりとしたそれに触れれば、体温も威厳も慎みをもしっとりと奪い去られてしまう。
 私のふたつの手のひらに包まれてほのかに温まっていく様子に「雪融けのようだ」とひとりごつと、「春のグラエナをお呼びでしょうか」なんて、真っ向から交えた視線も逸らさずに、明るいうちからそんな困ったことを言う。
 ひのこで炙られたように紅潮していく自覚があって、くちびるを結んで撫でさする。ふいと伸ばされた手の甲が「春ですね」と優しく頬を撫で、髪の毛を耳にかける素振りで耳の縁をつうとなぞっていった。こくりと喉を鳴らしても、夜を思い起こさせる指先は、それ以上私に触れることはない。

「お前のせいで、ぜんぜん麗らかじゃない……」
「はい。マツブサ様こそ綺麗に溶けていらっしゃる」

 恨みがましく睨めつけても、涼しい顔でいるから悔しい。
 張りのある肌をつねってみたら、やはり微動だにせず、「あまりお可愛らしいことをなさらないでください。真っ昼間ですよ」なんて飄々と言い放つ。どの口が、となんだかおかしくなってきて、思わずふにゃふにゃ笑ってしまった。
 オイタした痕が赤く染まっているのに気づいて、円を描くように指の腹で労っていると、自由にしているもう一方の腕が私に寄ってきた。
 硬い指先が、いち、に、……三本、羽のようにくちびるを撫でていく。そうされるのは好きなので、愛しい指をふんわり食むと、「マツブサ様……」と掠れた声が降ってきた。
 意趣返しは成功だ。若い雄は相変わらず平静を装っているものの、まなざしだけがぎらぎらと欲に濡れている。……成功、だろうか。少しやり過ぎてしまったような。
 今さら気づいても、もう遅い。感極まった不埒な両腕に抱きすくめられてしまって、ちっとも抜け出せそうにない。

「ふふ。くるしいぞ、ホムラ」
「くるおしい、のお間違いではないでしょうか」

 たいそうな自信だ。けれど、男の顔がくちづけもなしに首筋にぎゅうと埋まったものだから、照れてるな、ふふん、と得意になった。勝ったと言いたいところだが、この勝負、遺憾ながら引き分けである。
 だって私の両腕も、ホムラの背を掻き抱いて離れない。溶けたところがくっついてしまったみたいで、だからそう、溶かしたホムラが悪いのだ。春だなんだと言いながら、一足飛びに熱帯夜を運びこむ男には、責任をとってもらわなければなるまい。

「今日はお前の腕が痺れるくらい、思いきり尽くしてもらおうか」
「腕どころか全身痺れてしまいそうです。ラフレシアさえ凌駕する抗いがたい猛毒だ。ああ、素敵ですマツブサ様……」

 人をどくポケモン扱いしてうっとりするな。
 口説き文句は微妙だったが、縋り付く力強い腕、頬をくすぐる短髪、火照った吐息、どれもこれもが可愛らしくて、悪い気がしなくなってしまった。
 紫の髪を鼻先でかきわけて、ちうと何度かくちづける。耳をぱくりと食んだ途端に跳ね起きた赤い顔と至近距離で見つめ合い、くちびるの重なる寸前で囁いた。

「ふふん。望み通り動けなくして、頭からぱくりと食ってやろう」
「毎度動けなくなるのはマツブサ様の方ですが」
「ぶ、無礼な……!」

 間髪入れずに返された。口では冷静に突っ込んで、余裕のない様子で昂ぶりをグイと押し付けてくる。まったく、可愛くなくて可愛い男だ。ぞくぞくと背筋が震えても、腕の檻にとらわれていては逃げ場もない。観念して……いや、こうしたかったのは、最初から私の方だ。
 ぎゅっと抱きしめ返して、お好きにどうぞと身体で示す。今度はホムラが身を震わせた。ぬくぬくとした気持ちになって「春だな」と今一度告げてやれば、「はい、お花畑みたいです……」なんていよいよ愛らしいことを抜かすので、声を上げて笑ってしまった。




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悋気ほどいて踊る爪先


「明日、アオギリと海に行くぞ」
「なんち?」

 梅雨らしからぬ五月晴れ、うだる暑さもなんのその、燦々たるお天道様に負けじと輝く満面の笑み。
 ……を浮かべたマツブサ様から放たれた衝撃的な一言は、忠実なるしもべことわたし、ホムラから敬語と標準語を吹っ飛ばし、鍛えた体躯をも見事にひっくり返した。
 尻餅をついたまま、しばし呆然。咲き誇るぴかぴか笑顔をまばゆく仰ぐ。そこにおわすは常と変わらぬ見目麗しきマツブサ様で、海などいう野蛮な場所とは縁遠いお方であるはずが、今ばかりはそのお姿も蜃気楼のごとく遥かに見える。
 海。アオギリと海。……アオギリと海?
 すわご乱心かと疑うも、マツブサ様にお間違いなどあるはずもない。真意を図りかねているうちに、いたくご機嫌な想い人が、しょうがないなという風にひとつ笑って腰を屈めた。差し伸べられた手に、ひたむきな視線を這わす。
 滑らかで、たおやかで、わたしに惜しみない愛情を注いでくれる白い手のひら……。
 ついに思考を放棄して、愛しいそれにそっと縋った。やおら起きあがろうとして、当然、わたしの体重を支えられようはずもない痩躯が倒れ込んできた。慌てて抱き止め、床に倒れ込む。腕の中でくすくすと可憐な声が上がった。
 わたしを下敷きにした人の、清らかで、かろやかで、喜色溢れるかんばせが、口づけんばかりの距離にある。

「すまないホムラ、ビックリさせたな」
「いえ、失礼しました。海、海とおっしゃいましたか。アオギリの野郎と。アオギリの野郎と海。楽しみですねそれは」
「そうだろうそうだろう!」

 晴れやかな笑顔とは対照的に、わたしの心は大荒れ模様だ。海、ならず者の長、忌避すべき名を二つも並べて、どうしてこうも声を弾ませていらっしゃるのか……。
 心もとない気持ちになって、羽のように軽い柳腰を抱きしめた。贅を尽くした衣装は手のひらに心地よく、胸板の上で無邪気にくねる御身の描く曲線は奇跡みたいに美しい。うっとりと撫でさするも、胸の内にわだかまる黒い靄は消えそうになかった。

「んん、日焼け対策を万全にしておかなくてはな。明日はしばらく滞在するつもりだから」
「は、…………」
「ふふふ。アオギリの奴、二つ返事で快諾しおって。めいっぱい楽しんでやろう」
「…………」

 なんということだ。マツブサ様の方から、あの男にお誘いを……?
 お星様のようにきらめく人の跳ねる声音が、目の前を真っ暗に染めてゆく。マツブサ様は、愛しさと不安でわたしをぺしゃんこにしてしまうおつもりなのだ。ぐるぐる唸って、華奢な胴体に縋り付く。
 あの男の元へ行かせたくない。あの男に限らず、明日といわず、いつまでだってマツブサ様を独り占めしていたかった。強靭な腕の檻に閉じ込めたって、わたしのものにはなってくれないマツブサ様の唯一無二の愛情を、この身一つに賜ることができたなら。それはどんなに幸せなことだろう。
 欲をかいて追い縋るなどみっともないとわかっていても、とても手放せそうになく──
 ふと、頬をやわく突かれているのに気がついた。はっと目を見張る。楚々とした指先が、ツン、ツン、とわたしの柔らかな肉をつついている。お考えの読めない微笑とともに向けられた無垢な爪先が、ツン、ともう一つ頬をつついて、わたしの暗澹たる思いをひといきに蹴散らした。

「この私を腕に収めて、なにを不安がることがある?」
「マツブサ様……」

 視界いっぱいに映るマツブサ様の双眸が、甘やかに、いっとう優しげに細められて、恍惚と見惚れているうちに──ちゅっ。なんて、天使みたいにとろけるくちづけが降ってきた。
 鼓動が跳ねる。平常心に着地する暇もなく、ちゅ、ちう、むちゅ、……数秒くっついて、愛らしく食まれて、柔らかな手のひらに頬を包まれて、……ちゅう。と、艶やかなくちびるが繰り出す連続攻撃に見舞われた。
 瞬いて、また瞬いて、わたしをとろとろに蕩かすそれが──6回当たった、こうかはばつぐんだ!──どうやらおしまいのようだと気付いたら、可憐なおくちに、とどめに首筋を齧られた。びりりと全身にときめきが駆け巡る。

「ま、まつ、まつぶさ様」
「ふふ。さては勘違いしているな? アオギリと遊びに行くわけではないのだよ」
「! それは、どういう──」

 極めてゆっくり丁重に、胸に抱いたマツブサ様ごと上半身を起こす。憐れに鼻を鳴らした忠犬に寄り添う得意げなくちぶりが、耳元を熱く撫で上げた。

「奴のプライベートビーチにプルリルやベトベターを大量放流してやろうと思ってな。その下見だよ。そうとは知らぬ奴自身に隅々まで案内させてやるのだ」
「……!!」

 ぱあと口端が安堵にゆるむ。威光溢るるマツブサ様が、いつにも増して世界を照らす光に見えた。
 奸計を口にした罪深いくちびるが、わたしの耳元からうなじへと伝いおりてゆく。くすぐったさに息を漏らせば、マツブサ様が小さく肩を揺らして笑った。とくんと胸が高鳴って、首筋がじんと熱を持つ。
 何もかもを捧げてやまない男の肌に、なお愛を吸うやどりぎを植え付ける悪い人が、首元に埋めていたお顔を上げた。艶やかな額にかかる赤い髪房をすくい上げる。感謝を口にしようとすると、ふっと寂しそうに眉尻が落とされた。切実な表情に心が乱れて惑う。

「マツブサ様?」
「はあ……それにしてもだ。こうして好きなだけ側に侍って、特別を許されておきながら、それでもやきもちを妬いてしまうのか?」
「も、申し訳ありません……。あなたはあらゆる衆生を惹き寄せます。その輝きは日々増すばかりで、マツブサ様のことを想えば想うほど、わたしの悋気はおさまらず……」
「ふうん。信用されていないのだな……」
「そんな! 滅相もございません!」

 弱々しく伏せられた睫毛の下、視線はふいと逸らされて、尖るくちびるにこぼれる吐息、すべてがあざとく胸を打つ。からかわれているとわかっていても、それらはわたしの心をひどくかき乱し、庇護欲を煽り立ててやまないものだ。
 ひとつになるほどぎゅうと抱きしめ頬ずりすれば、忍び笑いをした人がこつんとわたしに額を寄せた。

「こんなにもお前を可愛がっているのにな? それでも足りないと言うつもりかね」
「はっ、足り……足っ……足りません」

 お茶目な戯れに乗ったつもりが、上目遣いに媚びるポチエナのごとき響きを帯びた。低音の求愛を受けた御身がくすぐったそうにちょいとよじれて、白肌がほのかに赤みさす。

「しょうがない子だ。満たしてやらねば立つ瀬がないな。なんでも叶えてあげるから、なんでもわがままを言ってごらん」
「はっ……! では、明日の下見にお供してもよろしいですか……?」
「うむ。よかよ♡」
「マツブサ様っ……!」

 わたしの背を抱く爪先が、つうと淫らに背筋を伝った。まだ日も落ちぬうちから情事を思い起こさせるようなそれ。昨晩できた傷跡をなぞるように、甘い指先が背中で踊った。

 ──底なしに男を溺れさせてやまないお方を前にして、慢心などできようはずもない。
 けれど、懐き縋る犬を甘やかしてふやかすマツブサ様の無常の愛は、わたしだけに向けられた、わたしだけを手招き受け入れ溺れさせる、まこと比類なき真心である。
 ……と、背中に名誉の傷跡を残していただけるうちは、こうして堂々胸を張っての我が物顔を許していただこう。


 そうして、いざ明くる朝。

 わたしの杞憂をよそに、「いや水着持ってこいや水着ィ!! てめえが『泳ぎたいな、お前のプライベートビーチで』って抜かしたんだろうが!! 農作業レベルの厚着して来てんじゃねえよ! しかも!! そいつは!!! 招待してねえ!!!!!」などと、のっけからがなり立てる水着の男を前に愛嬌溢るるウインクを飛ばしたマツブサ様がめっぽう極めて愛らしく、自然と笑顔溢れる楽しい1日となったのだった。




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くるぶし
※モブ目線

 おまえは、うやうやしく持ち上げられる白いくるぶしを見たことがあるか。
 普段はしかめつらしく振る舞って、最低限しか肌を晒すことのない麗人の、ひらりと舞って男を誘うくるぶしを。

 ──違う違う。誘惑の相手はオレじゃあないさ。高嶺の花は路傍の石を愛でたりしない。ただ、石だからこそ手のひらで転がしてはいただけた。
 オレはなによりあの方の、すらりと魅せつけておきながら隠れんぼしてる脚が好きでさ。裾をめくって、靴下を脱がせて、裸んぼのおみ足を一目見られたらと夢想するほど……。まあ、だから、衝撃的だったわけよ。
 あの方の脚は拝むことができたけど、なまじ見ることができたばかりに、目に焼き付いて離れない。一度だって味わえず、二度と見ることもできやしない、こうも残酷な仕打ちがあるか。
 ちくしょう、オレがもっと見目よく才もあったなら、あのくるぶしをものにできたのかなあ。
 ……気になるか? 高貴なるお方の爛れた情事、聞きたいか? へへっ。そうこなくっちゃなあ。
 潜伏任務中、近くの屋敷にあの方が逗留なさるってんで、こりゃあとびきり運がいい、お顔だけでも拝めれば、いいやあわよくばお褒め頂きたい、なんて下心を抱えてご報告に上がったんだよ。そうしたら、いたのさあの人も。あの方と夜中に二人っきりで。誰ってそりゃ、尊いお方に触れることを許された男といやあ、わかるだろ。あの人さ。
 そう急くなって。あのおみ足に手の届かない者同士、よぅく語ってしんぜよう。宵の肴にでも夜のオカズにでもするがいい……。


*****


 月の明るい夜だった。町外れに佇む屋敷は閑寂として、赤松林の影に荘厳な姿を忍ばせていた。
 オレは堅苦しい数奇屋門をくぐり抜け、長廊下を急いでいた。床板の軋みは背後の薄闇に吸い込まれていき、足裏を季節外れの冷気がなめた。
 火急の用であれば遠慮は無用と聞いてはいたが、プライベートな空間を侵しているという実感が不安を掻き立てて、同時に胸を高鳴らせた。前のめりな気持ちを追って足を動かし、ようやく辿り着いた最奥の部屋の前で、深呼吸をひとつ。就寝されているかもしれないと案じていたが、どうやら杞憂だったようだ。ひたと閉められた障子の格子からは灯りが漏れて、足元に優しく落ちていた。
 一枚隔てたあちら側に、リーダー……マツブサ様がいらっしゃる。きっと無防備にくつろぐ彼は、少しの驚きとともに、優しくオレを出迎えてくださるはずだ。
 緊張を期待と興奮が上回り、騒ぎ立てる鼓動をおさえてこぼした声は上ずった。

「夜分に失礼します。リーダー、少々よろしいでしょうか」

 障子の向こうで、人の動く気配があった。
 高鳴る心音が障子紙を突き破りそうな気がした。そうして数秒、十数秒、いくら待ったかわからない。

「こんな夜更けに何の用だ」
「……!」

 くぐもった声が響いた。明らかにリーダーとは別の男の、冷淡で不機嫌そうな低い声。ここはリーダーの屋敷のはずだ。困惑し、返答に窮していると、障子がざっと開いて大きな人影が現れた。

「っ……ホムラ隊長!?」

 動転し、敬礼も忘れて仰ぎ見る。
 紫色の髪、凛々しい垂れ目、獣のように引き締まった身体。リーダー同様滅多とお目にかかれぬ雲の上のお方だが、こうも印象的な行動隊長その人を見紛うはずはない。
 ご挨拶をしなければ、と唇を開きかけて、彼の格好にぎょっとして後ずさった。はだけたというより、かろうじて身にまとったという様相の浴衣姿で、雄々しく匂い立つ胸板がさらけ出されている。目をそらすこともかなわず見つめる先で、盛り上がった筋肉を汗が伝った。唇が震える。縦框に寄りかかって腕を組みこちらを見下ろす立ち姿は、傲慢なまでに美しかった。

「用件は」
「あっ、り、リーダーにご報告がありまして……」
「マツブサ様はお休みになられている。報告があるなら私に」

 底冷えのする美貌が顎を上げる。否が応でも意識させられる体格差、威圧的な態度に、身も心もすくみあがった。こんな深夜に何故リーダーの私室に、と疑問を呈することはおろか、逃げを打つことすら許されない物々しさだ。
 ……だというのに、オレときたら取り繕うこともできずに、震える舌に正直な欲望をのせてしまった。

「う、その、できれば直接リーダーのお耳に入れたく……」
「私には聞かせられない『報告』か? 面白い冗談だ」

 くっと口端が上げられた。いよいよ縮み上がったオレの頭上へ、しなやかな上体が覆いかぶさるように伸ばされた。

「とっとと失せろ」

 苛烈な瞳に射抜かれて、ぐうと喉から恐怖が漏れた。がくがくと頷いて踵を返そうとした瞬間、隊長の背後から生白い腕がにゅるりと伸びてきたのを見て飛び上がった。
 ──悲鳴すら出なかった。シミひとつない白蛇のような腕。隊長の脇腹に巻き付いた幽艶な細指が、男の肌をなよやかに伝っていって、むき出しの胸板にするりととまった。おどろおどろしい腕に絡みつかれながらも、隊長はまるで動じていない。眼光鋭くオレを睨んだまま立っている。
 生気の感じられない手が、ぽん、と窘めるように厚い胸を叩いた。

「こらホムラ。あまりしたっぱ君をいじめるんじゃない」
「はっ。申し訳ありません」
「あっ! りっ、り、リーダー……!?」

 居住まいを正して振り向いた隊長の肩越しに、リーダーの微笑が覗いた。幽霊と見紛うのも無理のないほど、生活感の浮かばぬ白肌だ。ほっと息をつく。しかし、隊長の眉間の皺に気圧されて、安堵の気持ちは引っ込んだ。
 緊張に手汗がにじむ。どうしてお二人が揃っているのだろう。今すぐ引き返せと、脳内でけたたましく警鐘が鳴りだした。

「報告があると言ったね。おいで。聞かせてもらおうじゃないか」
「う、はっ、はい……」

 直々にお声がけいただいてしまっては、固辞できようはずもない。
 こちらを手招いたリーダーが、小鳥が羽を休めるような気軽さで、隊長の首根っこに細顎を寄せた。隆々と盛り上がった男の肌に華奢なおとがいがぺとりとくっつき、美しいかんばせが白百合のような笑みを浮かべた。
 口を開けて立ち尽くす自分をよそに、あるじの媚態を当然のように享受した隊長が、柳腰に手をまわして部屋の中に引っ込んだ。伴われた痩躯も浴衣を身に着けている。それもまた着崩れていて、貴婦人をエスコートするような恭しさも、そろいの乱れた浴衣姿とくれば淫猥な仕草に見えた。
 ──ホムラ隊長はリーダーのご寵愛を受けている。いくらでも替えのきく我々と違って、格別有能な偉丈夫は可愛がられて当然だ。
 それでも、それにしたって、さすがにこれは。
 頭を振る。詮索する気持ちを唾ごと飲み下し、ええいままよと敷居をまたいだ。

「散らかっているが気にするな。ホムラと一杯やっていたのだ」
「は、い、いえ……。し、失礼いたします」

 広々として品の良い和室だった。向かいの障子は開け放たれており、月を載せる薄雲に抱かれたえんとつやま、そこからなだらかに続く庭園の眺望も見事なものだったが、それよりも部屋の中央に敷かれた一組の布団が激しく目を引いた。
 くしゃりとめくられた掛け布団、気怠げな皺を寄せた敷布団、そして、脇に転がった二つの枕……。夜の名残が色濃く立ち込めるそこからとっさに視線を逸らしたものの、生々しい光景は脳裏にこびりついてしまった。
 そわそわと尻込みしながら、勧められるまま奥のテーブルにつく。椅子は2つきり、見回せば柱にもたれ掛かる冷ややかな面持ちの隊長と目があって、慌てて視線を伏せた。
 ちょんとすねに刺激を感じた。見下ろすと、桜色の爪をのせた爪先がオレを戯れに突っついていた。真白い裸足……、リーダーの素足。瞠目し、生唾を飲む。
 すべらかな足の甲、ぷくりと愛らしい血管をのせたくるぶし、ほっそりと美しい足首。一連の完璧な調和に見惚れていたら、もったいぶったように脚が持ち上げられて、すらりとしたふくらはぎが大胆に浴衣の裾からお目見えした。しらじらとしてきめ細やかな、麗しいおみ足。息を乱して食い入るように見つめていたら、組まれた足先がそっぽを向いた。
 熱に浮かされた視線を上げる。脚の持ち主は頬杖をつき、蠱惑的な微笑みを浮かべてこちらを見ていた。不躾に見過ぎたことを咎めるでもなく、己の脚が視姦されるのを面白がっているかのように。
 そしてまた、オレのすねをちょいと蹴った。マッチ棒のように、やわらかい裸の指の腹が男の芯を擦って火をつけたのだと思った。リーダーの背後に立ち控える隊長のくちびるが、恐ろしげな弧を描いた。
 背筋が凍った。
 向かいの柔和なくちびるが開かれた。

「それで」
「……あ、は、はっ! ええと。ご、ご報告します。ソライシの動向ですが、奴に仕掛けた盗聴器から言質をとりました。本日落下した隕石を採取するため、明後日の朝えんとつやまに向かうようです。い、急ぎご報告をと思い、馳せ参じました」
「ほう。隕石の存在は確かか」
「は、はい。奴は探知機で大まかな場所も把握しているようです」
「よく知らせてくれた。助かるよ」
「……! はっ、あ、ありがとうございます……!」

 おひさまみたいに優しい笑顔だった。天にも昇る心地になれればよかったが、上機嫌な上司の背後から漂う不穏な気配に肝が冷えた。全身から脂汗がにじみ出る。
 早急に辞そうとする心算をよそに、リーダーがついと顎を上げ、隊長が机上の瓶とグラスを手にとった。ラベルに木の実の絵が描かれた瓶がゆっくりと傾けられる。隊長に酌をさせるなど、と腰を上げたオレをリーダーの片手が制した。その柔らかな指の腹、手のひらには、ほのかに赤みがさしている。
 背筋を正し、細面に視線を這わす。血の気のないように思えたが、明かりのもと改めて観察すれば、目元や頬は紅潮し、うなじなんて湯上がりのようにつやつやと火照ってさえいた。憧れのリーダーの汗ばむ素肌を目の当たりにして、まるで情事の余韻じゃないか、と下腹をくすぐった下品な考えはすぐに打ち消した。酒精に赤らんでいるだけに違いない。着衣の乱れも一組の布団も、そもそも隊長が同席していることだって、深く考えてはいけないことだ。
 芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。隊長の大きな手が無言でグラスを差し出していた。蔑むような凍てつく視線に耐えかねて、受け取る両手も感謝の言葉も惨めに震えた。

「ふふ、ナゾの実のワインだよ。晩酌でこいつをやるとぐっすり眠れる」
「は、はっ……。で、では、遠慮無く。いっ……いただきます」
「よく味わうといい。とっておきだからね」

 冷たいガラスの縁に口をつける。たゆたう水面に舌先が触れても、のんきに一献とはいかなかった。向かい合う切れ長の目が、傍に控える隊長のおもてをとらえた。

「それにしても、えんとつやまか。思い出すなあ。いっとうかわいいグラエナを手に入れた日のことを……。ふ、お手製のひみつきちなんて慣れぬものを作った。まだ残っているかな」
「は、またいつかご招待いただけますか」
「もちろん。かわいいかわいいグラエナの凱旋だ」

 たおやかな指が持ち上げられて、身を寄せる隊長の腹のくぼみをつうとなぞった。ころころと愛らしい笑い声が鼓膜を撫でる。生きた心地がしなかった。恐る恐る窺うと、精悍なおもてにどろりと愛を垂らしたまなこが、熱っぽくリーダーのかんばせを見つめていた。
 ──アクア団の奴らが隊長を『マツブサの忠犬』と嘲るのを聞いたことがある。なにを馬鹿なと聞き流していたが、今ならわかる。これは正しく忠犬だ。ポチエナやグラエナなんて可愛いものじゃない。獰猛で、牙に劣らず鋭い瞳をギラギラと輝かせ、大きく膨らむ身体をあるじにひたと擦り寄せて、「待て」が解かれるのを今か今かと待つ獣だ。
 オレは、そんな恐ろしい忠犬がよだれを垂らして辛抱している目の前で、いたずらな裸足が仕掛けたちょっかいを、鼻の下を伸ばして受けとめた。そして、現在進行形で、あるじの笑顔を享受している。
 喉奥へ一気に滑らせた酒は、まるで味がしなかった。血の気が引いて、震えながら置いたグラスが神経質な音を立てた。

「ソライシに隕石を拾わせたら直ちに奪取しなさい。手荒なことをしても構わん。そのまま現地でボルケーノシステムを試してやろうじゃないか。アクア団の妨害があるやもしれぬから、ホムラ、お前が指揮をとってあげなさい」
「は。必ずや最良の結果を捧げます」

 隊長が恭しく頭を垂れる。慌てて追従し、「そっ、そろそろ失礼します、ごちそうさまでしたッ」と立ち上がりざまテーブルに腿をぶつけたが、もはやかまってはいられなかった。きょとんと瞬いたリーダーが「そうか。ご苦労だった」と言い終わるのを待たずに、ざりざりと畳の上を滑るように退室した。
 凭れるようにして障子を開き、おぼつかない足取りで数歩進んだところで、障子を閉め忘れたことに気がついた。動悸がする。引き返そうにも、この身はすでに彼らの密やかな空間からぷつりと途切れて、薄闇にぽつねんと包まれている。
 影が縫われて動けやしない。振り返ることがどうにも怖くて、ただ呼気を乱していたら。

「ん……いい子で待てたな。おいでホムラ」
「マツブサ様……」

 ……蜜のようにとろけた応酬が背筋を舐めた。
 視界が揺れる。振り返ってはならない。ただちにここを立ち去らなければ。心臓がばくばくと暴れている。けれど、男を惹き寄せる甘い蜜に抗えるはずもなく、緩慢に振り返った。振り返ってしまった。
 ──あちら側、中央の布団の上で、たくましい背中がリーダーに覆いかぶさっていた。淫靡に溶けた吐息が耳に届いて、どろりとした予感が肌にまとわりつく。続く甘やかな水音に、ほむら、と愛撫するような嬌声が混ざった。くちびる同士がつながりを深めて、恍惚とひとつに蕩けあう。理性が溶けて、足が震えた。
 赤い襟足が敷布に乱れて、細腕が広い背にすがりついた。くちびるや舌どころではない、二人の全身が絡みあってうごめく度に、衣擦れの音が濃密にわだかまっていく。隊長の背を掻き抱いてはだけた浴衣の裾から、長いおみ足がつるりと生えて、生白い太ももまでもがあらわになった。
 下半身に血が集まる。清潔さが過ぎて、不埒なまでに艶やかな脚だった。
 隊長の手が絹肌をつたって、気品に満ちたくるぶしがそうっと持ち上げられていく。爪先がピンと伸ばされて、情欲を掻き立てるようにうっとりと宙を掻いた。さっきオレのすねを確かにつついた指の腹が、ずっと手の届かぬ彼方でみだりがわしい愛欲に濡れている。艶々と潤う肌のおもてに明かりを浴びて、苛烈で生々しい色気を放つ脚が、股ぐらに誘い込んだ男をむしゃぶり尽くそうと舌なめずりをした。
 目眩がした。気がつけば、あるじの媚態にどっぷりと甘やかされる男の黒い瞳が、食い殺すようにこちらを見ていた。
 オレは弾かれたように逃げ出した。

 ──それから、ほうほうの体で小屋へ帰った。
 布団に入り目をつぶっても、楚々としたくるぶしがまなうらでいやらしく身をくねらせて、眠るどころか身体はますます昂ぶるばかりで、強烈に迸って弾けるその熱を数時間は夢中で反芻していた。
 もう一度見たい、触れてみたい、あの清らかな脚にきつく抱擁されたい。美しく整えられた爪先に翻弄されたい。いたずらなそれを捕まえたなら、指先で舌先で存分に味わいくすぐって、なよやかな足裏までもみだりに穢して、可愛がって可愛がられて……。
 そんな爛れた欲望で頭がいっぱいだった。……だから、忍び寄る影に気づかなかった。

 覚えているのは、そこまでだ。


*****


 ……どうした? 顔色が真っ青だぜ。
 ああ、今頃気がついたのか。オレ、どんどん透けてきてるよなあ。足なんかとっくになくなっちゃって。化けて出ても、こうやってなくなっちまうのかと思うとさ、やっぱり美しいおみ足は生きてるうちに見せびらかしてほしいもんだよな。
 待て待て、気を失う前に忠告! 隊長な、涼しい顔しておっそろしいほど悋気の鬼だぜ。最期に見た人影は、きっとあの人だったと思うんだ。リーダーの色っぽいくるぶしは命に変えても見る価値があるけどな。なんせ、こうして誰かに話したくってたまらなかったほどだから。
 ま、大それた下心は抱いちゃならねえってことだ。おまえもせいぜい気をつけろよ。……聞いてくれてありがとな。
 それじゃあ、おやすみ。良い夢を。




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義理の固さで釘が打てる
※リメイク版解散後


 生きとし生けるものを灼き尽くさんとした太陽が夢幻の如く消え、まったくのんきな春波がちゃぷちゃぷとオレを手招くようになった頃。

 まさに激動と呼ぶべき変化に取り巻かれて忙しなく過ごすうち、すっかり世間の賑わいから遠ざかっていたもんだから、うっかりバレンタインデーという一大イベントを素通りしてしまっていたのだった。

 そう、疎遠になっていた相手と再びお近づきになれねえかなあなんて願望を叶えてくれそうな、なんでもかんでもこじつけるには格好の一日を。
 ……なんて、カレンダーを前に肩を落とす日々を送っていたのだが。

 本日、3月14日、AM7:00。

 突然の訪問にはちょいと非常識な時間のチャイムに起こされて、瞼をこすりながら開けた扉の先には、麗らかな春空に赤毛照らされ、仏頂面にメガネを乗せたかわいこちゃんが立っていた。

「ホワイトデーだ。受け取れアオギリ」

 開口一番、そんな訳のわからんセリフを放ちながら。
 いつもの団服に七三分けできっちりピッチリめかしこんで、お前それ押して歩いて来たの?と二度見するほど摩訶不思議な、コータスほどもあるダンボール箱を載せた台車を添えて。
 見なかったことにして寝直していいかな、と思ったが、メガメガネの下のくろいまなざしに縫い止められては引っ込むわけにもいかず、しばし無言で見つめ合った。
 頬をかく。間の抜けたキャモメの鳴き声が、頭上を通り過ぎていった。薄手のスウェットでも包み込まれるような春日和、ちっとも麗らかではない表情で、唇を引き結んだマツブサがじっとこちらを睨めつけている。
 寝起きの頭をゆるゆる回す。
 「ホワイトデーだ」、事実確認に違いない。しかしながら「受け取れアオギリ」、これがどうにもいただけない。だって前者のセリフとくっつけてしまえばまるで、「バレンタインデーのお返しですよ」と言ってるみたいじゃないか。
 首を傾げる。正面でふんぞり返っているマツブサも、こてんと同じ方向に首を傾けた。
 いくつになっても驚くほど可愛い男だが、今はときめいている場合じゃないのであった。

「……オレ、あげてねえけど」
「…………もらった」
「ええ……?」

 誰かと勘違いされているのだろうか。
 マツブサにバレンタインチョコをお見舞いし、なおかつ律儀にお返しを貰えるような果報者が、このホウエンにいるとでも。
 長らく普通に対面することすら叶わなかった男が自ら会いに来てくれたというのに、青天の霹靂である。なんだか無性に悲しくなってきた。
 取り繕うこともできずにじんわり顔を曇らせていたら、なぜだか大いにメガネをズラして慌てた様子のマツブサが口を開いた。

「た、確かにもらったのだ。…………昔。一緒に、勤めていた頃」

 オレの機嫌をとるかのように、ことさら殊勝な口ぶりで。ここ数年の間、憎まれ口しか叩かなかったこの男が。
 一度、二度、瞬く。すがるような眼差しだった。
 「お前は覚えていないだろうが」、ぽつりと付け足しながら、レンズの下の睫毛がゆっくり伏せられていく。視線の先には、履きつぶしたサンダルに乗るオレのむくつけき足の甲があるだけだ。やましいことでもあるかのように、瞳はまつ毛の影に姿を隠したまま、穴の開くほどつま先を見つめている。

 ――霞んだ記憶が甦る。

 いつのことだったろう。バレンタインだ!なんて同僚がはしゃいでいたもんだから、そういうもんかと思いつつ、ただなんとなく、そう、いたって何の気なしに、売店で買った百円かそこらのチョコアイスだった気がする、そんなものを「バレンタインデーだぜマツブサ!」なんてわたしてやったことがあった。
 いいや、何の気もなかったなんてのは嘘だ。ほんの少しは浮ついていた。好きな奴を困らせない程度の、だけど少しくらいは意識してくれたらなって、ガキっぽさ極まるケチでしょっぱい打算があった、ような気がする。

「思い出した。確かにやったな。だがよお、どんだけ昔の話だよ」

 言われて頭を捻りに捻って、ようやく思い出せた程度のちっぽけな出来事だ。それにその時のマツブサといったら、嬉しそうな素振りの一つもなしに、眉根を寄せてだんまりを決め込んでいたはずだ。
 だというのに、そんな気の遠くなるほど昔の思い出を大事にとっておいたというのだろうか、こいつは。
 一歩踏み出す。くたびれたサンダルの下で、砂が乾いた音を立てた。

「バレンタインに菓子を貰ったら、一ヶ月後に返すのがしきたりだろう。ちゃんと返そうと思っていたのだ。ただ、あの頃から互いに時間がなくなって、それから、……とてつもなく長い間、我々は別の道を歩んでいたから」

 つま先から横へと逸れていった視線が、穏やかな海に向く。朝日を反射してきらきらと輝く青を眺めて、歳を重ねた双眸が眩しそうに細められた。
 あれから幾年経っただろうか。恋煩う暇もなく、相手を思い遣るより出し抜くことばかり考えて、過ぎ去った過去はもう戻らないと思っていたのに。
 クソ真面目で、ぶっきらぼうで、オレの心を惹き寄せてやまなかったこいつがあの頃とあまりに何も変わらないもんだから、一度は捨てたはずの気持ちがこうも胸を締め付ける。

「だからそれは妥当な品だ。受け取った義理に過ぎ去った分の利子を加えただけの、ただの義理返しなのだ。なにも言わずに受け取れ、アオギリ」

 台車をガラリと押したそいつの唇が、ん、と尖ってまた閉じた。
 目眩がした。義理なんてもんじゃないひたむきさにだ。そんな途方も無いスケールの人情を秘めたダンボールが、重々しく二人の間に鎮座している。
 長閑な陽光さす地に根を生やしたまま、マツブサは照れるでもなく、いっそ真摯な眼差しで、オレが首を縦に振るのを待っている。
 大きく息を吸い込んで、大仰に吐き出した。
 重苦しいそいつを重荷に感じないほど、こちらだって長年拗らせては積もらせてきた想いがある。ハイそうですかと受け取ってやるのも癪で、つっけんどんに顎をしゃくった。

「……オレは義理なんて言った覚えはねえけど」

 気の利いたセリフの一つも返せやしない、ううんオレの意気地なし。
 けれど、ちらと盗み見たマツブサは、なんとまあやはりというか、オレのバツの悪さに微塵も気がついていない様子で、盛大にメガネをずり下げていた。

「は!? ブラック●ンブラン一本に真心を込めるのかキサマは!? 冗談だろう」
「なに貰ったかまで覚えてんのかよ! お前って奴は……」
「悪いか。キサマが忘れようとも、私は……。なんでもない」

 台車の持ち手を、退こうとする掌ごと掴む。指先から伝わる熱は、なんでもなくはない温度でオレを末端から温めていった。じわり、回りこんで隣り合う。
 逃れるタイミングを奪われたマツブサは、びくりと震わせた瞳をしばらくうろつかせ、そしてようやく観念したようにオレを見た。
 威圧せぬよう、至って朗らかに見えるよう、意識してマツブサの黒い瞳をじいと見返す。

「なあ。あのアイス当たりつきだったろ。どうだった? 覚えてっか」
「ム。……1本分当たりだった」

 思わず上体を揺らして笑っちまった。そんなことまで覚えてるなんざ、意識してもらえたどころの騒ぎじゃねえな。
 奴の肩からも力が抜けて、ほっとしたように目つきが和らいでいく。

「よかったじゃねえか。交換しに行くか? なーんて……」
「そうだな。また会う時に持ってこよう」
「……マジでまだ棒持ってるのかよ」
「ん? ああそうか、有効期限が切れているかな」
「そういうことじゃなくて……まあいいや。いやよくねえな。全然よくねえわ」

 鮮やかな赤の生え際を指でそうっとなぞる。マツブサはくすぐったそうに身を捩り、ちらとこちらを上目に見やった。
 オレは今、数年前なら信じられないような近さでマツブサと寄り添っている。そう気付いたら、体の芯からぽかぽかと春がこみ上げてきた。
 ごほんと咳払いをひとつ、お返しの品を注視する。

「開けていいか?」
「ここで開けるのか」
「ああ。待てねえや」

 ニッと白い歯を見せる。メガネのつるをクイと持ち上げたマツブサが、「仕方のない奴だ」なんてこくんと頷いた。まんざらでもなさそうだ。上下した顎も、そいつにくっつく赤リブに包まれた首も、これがまあ細っこくて危うげだこと。
 関係ねえことに気を取られながら、心をはずませテープを剥いでいく。そしてダン箱の中からこれまた外箱と思しきダン箱が現れて、満を持してご対面したそれにはどでかく「ウォーターオーブン」の文字がドン!
 ……一目見ただけで、お高さが窺い知れるやつだった。

 いや。いやいやいや。
 なにこれ。なんだこれ?

「配送事故? 取り違えとかあるのな、実際」
「間違ってない。それがお返しだアオギリ」
「いやなんで? マジでなんで? ホワイトデーってこういうのだっけ」

 3倍返しなんて次元じゃあない。さっき利子がどうとか言ってた気もするが、それにしたって百円そこらの棒アイスから十数万円の家電まで成長させる利子なんざ、オレは極悪非道の高利貸しかってんだ。
 真顔を向ければ、マツブサは眉尻をへにょんと下げていた。いやいや、狼狽えたいのはこっちだぜ。

「カガリに相談したのだが、なかなか決まらなくてな。自分が貰って嬉しいものなら間違いないという結論に至ったのだが。……もしや不快だったか」
「快とか不快とか以前に仰天してんだよ。落ち着く時間くれ。タンマだタンマ」
「う、うむ……?」

 顎鬚を撫でる。ざりざり、見据える先のマツブサが、所在なげに視線を彷徨わせている。
 あいも変わらずズレてる奴だ。離れている間もまともな人付き合いをしていなかったことが窺えてなんだか寂しくなってくるが、まあ今回は相談相手が悪かった。ホムラがこのことを知れば止めてくれたに違いない、ああ無念。
 けれども、明らかにやりすぎとはいえ、オレの喜ぶものを考えてうんうん頭を悩ませて、それでようやくこれならば!と目を輝かせて購入し、せっせとここまで運んできたのだろう姿を想像すると、なるほど最高の贈り物であると頷けなくもないのだった。
 なにより、『自分が貰って嬉しいもの』ときたもんだ。
 にやーっと口端が上がっていく。「オレんち来る?」なんてお誘いを繰り出すには、あまりにおあつらえ向きの口実を含んだお返しであった。
 気付いてねえんだろうなあ。虎視眈々と己を狙う狼の住処に家電を置いてく、その意味に。
 ニコニコと頬を緩ませるオレに何を思ったか、愛しい赤毛の男もまた、にやりと悪戯な笑みを浮かべた。

「嬉しいかアオギリ」
「ああ嬉しい、嬉しいぜマツブサよ」
「ふん。借りは返したからな。せいぜい冷えた油物をチンして元通り美味しく腹に収めたりなどするがいい」
「どんな気持ちで言ってんだそりゃ」

 大の男が二人して、キャスターをごろごろ転がし歩く。玄関の段差にがつんと台車をぶつけて停止、大人しくしているマツブサの片手を惜しみながらも解放し、ダン箱の前にしゃがみこむ。
 上目遣いに見上げてみれば、逆光に目を細めるオレに負けず劣らず細まった瞳と目があった。

「アイス、当たったんだよな」
「ああ。証拠なら家に……」
「つまりオレは2本あげたと言っても過言じゃねえ。ってことはよお、お返しも2倍にならなきゃおかしいんじゃねえの?」

 どっこいせ、なんて掛け声と共に箱を持ち上げる。豪華なお値段に見合ったなかなかの重量だ。
 あんぐりと口を開けて立ちすくむ男を置いて、サンダルを脱ぎ散らかしてすたすたと廊下を進む。

「は……?……、はっ!? いや、そっ……、暴論ではないか!?」

 ようやく我に返った男の慌てっぷりが、実に耳に心地よい。くるりと見返りお顔を拝見。マツブサはドアの隙間に身を挟み、足を踏み入れてよいものだか逡巡しているようだった。
 今更遠慮する仲でもあるまいに、と微笑ましく思う己を自覚しながら、顎で誘う。

「ってことで、寄ってけよ。朝一で来といて、捨てゼリフ吐いてハイ退場はねえだろ。アオギリ様特製アクアパッツァでもお見舞いしてやる。せいぜいオレがこいつを使いこなすところを指をくわえて見てるがいいぜ」
「ぐ、ぐぬぬ……。い、いやしかし、それでは施しを受ける一方……」
「ざまあみろ。一生返しきれねえ勢いで、義理には義理を重ねてやるさ」
「そ、そうか。……それは、困ったな」

 ちっとも困ったように見えない男のかんばせが、ふわりと柔らかくほころんだ。
 そよそよどころか、男の見栄もプライドも吹き飛ばす勢いの、真っ向から対峙するには勢力を増しすぎた春一番の笑顔であった。
 思わず見惚れていると、そろりと玄関に身を滑り込ませたそいつが右手を壁につき、片足を曲げてブーツを脱いだ。初めて目にする幼い仕草に、そぞろ胸をくすぐられる。
 毛を逆立ててばかりだった野良猫をうまいこと手懐けられたような、一段飛びに腹まで撫でさせてもらったような、そんな達成感に満ちた気分だ。遅れてぐわんと、心どころか身体までもが大きく戦慄いた。
 参ったな。どんな荒波だって軽々制するオレさまが、一人の男にこんなにも酔わされちまうだなんて。

「そんじゃまあ、今日からこいつを使い倒してやるからな」
「いいから前を向け。つまづくぞ」
「ハッ、照れてんのか?お顔がゆるゆるだぜマツブサさんよお」

 なあんてはしゃいでいたばかりに、案の定腕に抱えた義理の塊をぶち当て壁に大穴を開け一悶着を起こしたのだが、それはまた今度の話だ。




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竜の光明


 創世阻む陽炎ひらめき、天を光の矢が穿つ。
 宙に浮く禍々しき結晶が、人の世へと降り注ぐ。

 テランスは、傷だらけの最愛の人とそのさまを見た。

 重々しく立ち込めていた暗雲が舞台を降りて、無垢な星星が夜空へと舞い戻る。
 ヴァリスゼアに光落とす望月を遥かに眺めていたディオンは、傍らのテランスに一瞥もくれることはなかった。
 打ち寄せる波が岬にくだけて、崖下で白白と波打った。風がうなって、濡れた長衣は重くはためき、崩れた金髪が頬を打つ。拳だけが強く握りしめられて、表情に険はない。
 ビリッと耳慣れた音がした。無理を通した彼の右腕、矜持満ちたそこを仄白い閃光が取り巻いて、弱々しく月夜に散った。それが、ドミナントたる彼の最後の発露だった。

 とても静かな幕引きだった。

 ディオン・ルサージュは、ザンブレクの英雄だった。民草を護り、救い、導き賜う聖なる光。──それが、かつての彼だった。
 今、テランスの瞳に映るのは、途方も無い虚ろを抱きしめる人間の姿だった。
 目を離せば二度と会えなくなるような、危うい淵に立つ人間の。

「フェニックス、イフリート……。終わった、すべてが……」

 かぼそい呟きをその場に残し、ディオンの靴底が土を擦った。おぼつかない足取りが月影へと吸い寄せられていく。その先に待つのは断崖だ。けれど、一歩、また一歩と彼は歩みを止めることなく、白い背中が悠久の闇にとけていく。
 テランスは、幼い頃からその背に憧れ、敬愛し、必死で守り抜いてきた。それが今やぽつんと遠のいて、とてもさびしく、この世のものと思えないほど幽艶に揺らめいている。ぞっと血の気が引いて、咄嗟に声を張り上げた。

「ディオン様! 終わりではありません、これからです!」

 応えはない。必死の遠吠えは愛しい背中に跳ね返されて、足元にほろほろと落ち重なった。ともすれば縋り付くような励ましも、今の彼には抱えきれないだろうことも承知で、けれど諦めるつもりはなかった。

「我々はまた、ここから出発するのです! ディオン様は、我々の……私にとっての、唯一のしるべです。どうか、どうか……」

 本当は、テランスにとって民も国も二の次だった。ディオンの望みを叶え、彼が幸せでいてくれさえすれば、それでよかった。その齟齬が二人を隔てていることも、重々承知した上で。
 よき理解者たりえなかった、黄泉の道連れにも選ばれなかった。けれど、彼の支えとなるのは、この世の楔となれるのは、きっとテランスの他にない。そう思うのに、ようやく絞り出せたのは、弱々しい懇願だった。

「……置いて行かないで……ディオン……」

 テランスの大切な人は、ゆっくりと断崖へつま先をかけた。その先は、と目を見張れば、土埃に輝きを奪われた彼の靴が、動きを止めた。
 瞬く。まさか、と思って、ごくりとつばを飲む。
 ああ果たして、そのまさか。
 ディオンの手のひらが、テランスを手招いた。顔は向こうへ向いたまま。来い、とでも言いたげな、不釣り合いな気軽さで。
 あ、と唇を震わせたテランスの方へ、澄ました横顔が振り返った。
 ひときわ強い風が吹き、鼓膜が震えた。穴の開くほど見つめる先で、金髪をゆっくりとかき上げたディオンが、小さく笑った。

「仕方のない奴だ。そう悲壮な声で鳴かれては、おちおち物思いに耽ってもいられない」
「……っ! ディオン様……!」

 たまらず彼のもとへ駆け寄る。彼の中にはまだ自分の居場所がある、その事実だけで、身体が羽のように軽く感じられた。
 月華を背負う愛しい人が、ぎゅうと目を細めてテランスを見つめた。遠く、まばゆいものを見るような眼差しで。浮足立った心がすとんと地に足つけて、テランスは彼の目の前で立ち止まった。
 静かに佇むディオンを、じっと見つめる。闇夜に翳る彼の笑顔は、とても朗らかとは言いがたかった。
 ──取り繕うこともできないほど傷ついて、それでいながら無理にくちびるを歪ませて、どうしてこの人はこうなのだろう。
 だからテランスは、強がりの彼を大事に大事に腕の中にしまいこむことにした。めいっぱい捧げた愛に寄りかかってもらえずとも、別にいい。傷も悲しみもひた隠して、それでもこわごわとテランスに寄り添う彼の優しさを知っている。
 ディオンはほうっと息をついて、ぎこちなくテランスの首筋に鼻を埋めた。それだけで十分だった。

「帰りましょう、ディオン様」
「…………」

 俯く彼の髪をそうっと撫でる。返事はない。脇腹のあたりに指が縋り付くのを感じて、常になく寄る辺ない温もりに、胸を締め付けられた。
 無骨な指先が何度か髪を梳いたころ、物憂い吐息が素肌をなぞった。

「……余にはもう、帰る場所など……」
「私がいます。貴方の安寧は私がつくる」
「……安寧……余が奪った、父上から、民から……」
「ディオン……」
「アルテマは斃れたが、余の罪が消えたわけではない。こうして長らえた命さえ、正しいのかどうかさえ……。それでも、それでも余は……お前と共に……」
「っは……!」

 押し殺した声に、短く返す。
 贖罪に命を賭そうとしていた彼が、わずかでも希望に手を伸ばそうとしている。それがなにより嬉しくて、二人の間に光明が差したようだった。
 世界が一変したとて、テランスは揺らがない。ディオンと共にある限り、テランスが折れることはない。それはまた、彼にとってもそうであればいいと願っている。いいや、願いなんてものでは足りない。
 今度こそ、己がディオンにとっての光となろう。
 強く抱きしめた腕の中、愛しい身体がふるりと身じろいだ。

「……お前はどうしたい」
「ディオン様のお側に」
「もう主従ではないと言っても……」
「はっ。永劫あなたと共に」

 もう一度、彼の身が戦慄いた。腰を抱いて、つむじにくちづける。今度はくすぐったそうに震えたディオンがゆっくりと顔を上げ、熱い視線が交差した。痛々しい笑顔がほどけて、愛しいかんばせが、ぎこちなくとも安堵に頬を緩ませている。心にふつふつと喜びが灯されて、テランスはつられて微笑んだ。

「……余から離れる最後のチャンスを逃したな。お前は馬鹿だ。救いようのない馬鹿だ」
「一途だとおっしゃってください。どこまでだってお供いたします」
「うん、もう手放したりするものか」

 あどけなくつぶやいたくちびるに、とっておきの愛を返す。少し荒れてしまった、けれど変わらず瑞々しくて柔らかなそこは、ふわりとテランスを受け入れた。別離の時を取り戻すような口づけではなく、末端でさえこれほど愛おしい彼を慈しむようについばんで、ふやけてひとつに融け合ってしまうほど、魅惑のくちびるを味わい、満たす。
 滑らかなうなじに手を這わせて、ぞくぞくと身を震わせる彼をより引き寄せる。薄く開いたそこに招かれた舌でディオンの好きなところを丹念に可愛がったら、んぅ、と切なくあえかな吐息を漏らした彼が、うっとりと長い睫毛を上げて美しく微笑んだ。くちびるを離して、かわりに額をこつんと合わせ、甘やかなディオンの表情に陶酔する。

「ディオン……」
「ん、はぁ……。お前はいつだって余の欲しいものをくれる。ふふ。『永劫共に』……か」

 花も恥じらう極上の笑み、心を蕩かす口ぶりで、ディオンはテランスの左手をそっとすくい上げた。見開いた視界の中で、彼の指が丁重に、かけがえのないものを扱うかのような優しさで、テランスの薬指に柔らかいくちびるを押し付けた。瞬いて、また瞬いて、彼の整った鼻梁を呆然と見やっても、夢幻に消えることなく、彼はテランスにぴたりと愛を寄せている。
 そうしてゆっくり離れていったかんばせが、テランスを見つめてふわりとはにかんだ。

「テランス。余の永遠もお前にやろう」

 ──その、言葉以上に燦々と注がれる、愛にあふれたまなざしに。
 己のすべてが、報われた、と思った。
 目頭と喉が熱くひりつく。くちづけられたところから温もりに蕩けてしまいそうで、ぐっとこみ上げた嗚咽を飲み込み、それでもこらえきれずにこぼれた雫が、はたはたと頬を伝った。

「……ディオン、ディオンっ……!」
「すまない。ずいぶん待たせたな」

 目からたくさんの想いが溢れては零れ落ちていく。
 視界が滲んで、テランスは大急ぎで目元を拭った。もはや彼からいっときも目を離さないと誓った心が、喜びの雨に彼の姿を隠してしまう。
 凛々しくて、強がりで、決して涙を見せないこの人に、己ばかりが頼りない姿を見られて情けないような、弱みさえ受けとめてもらえるのが喜ばしいような、矛盾した想いが喉奥を焼いた。

「……そうこすっては腫れてしまうぞ」

 拳にするりと静止の指がかかって、瞼に、目尻に、濡れた頬に、淡いくちづけが降ってくる。それがまた雫を溢れさせると知らずに、ディオンは途方もない想いをのせたまなざしでテランスをじっと見つめている。

「ほら、楽しいことを考えてみろ。帰ったら何がしたい? なんでもしてやろう」
「っ、う、なんでも、」
「なんでもだ。愛しいテランス」

 その言葉だけで十分なのに、ディオンはそれ以上をくれると言う。いじらしい人の愛情にこたえるべく頭をひねるが、貴方の側にいられるだけで……とくちびるを震わせることしかできなかった。
 ふと、優しく首を傾げたディオンの耳飾りに視線がいった。無垢な耳たぶを抱きしめているそいつは、できることなら己の指で外してあげたいものだと、いつだって朝まで褥を共にできない我が身に溜息を吐かせる代物だったはずだ。
 そう、人目を避けねばならず、時間をかけて睦み合うこともできなかったあの頃、抱いていた夢があったじゃないか。冗談みたいにささやかで、けれども、口にすることさえ憚られた叶わぬ夢が。
 頬を吸うくちびるに誘われて、テランスはぽつりと願いを零した。

「……ディオンと、一日中ベッドの上で、自堕落に過ごしてみたい……」
「んっ……ふ、ティーンのようなことを」
「な、なんでもとおっしゃるから……!」
「はは、すまない。柄にもなく照れているのだ、あんまりお前が愛おしくって」

 口を尖らせたテランスの後ろ首に、するりと両腕が巻き付いた。どきりと高鳴る胸に、ぶ厚い胸がすがりつく。星月の霞むほどきらきらとまばゆい彼の、ふわりとほころぶくちびるが、テランスのそれに重なった。

「今日から伴侶だ。余のプロポーズを受けたからには、お前をとびきりの幸せ者にしてやる。お前も余を満たしてくれ。なあ、テランス……」
「ディオン……」

 テランスの下唇を甘美に食んだその人が、熱を乞うて身を揺らす。
 男を求める舌を優しく吸って、両腕にとらえた彼の背筋を淫猥に撫でおろす。とびきりの嬌声、こぼれる吐息のひとひらさえ口腔に招き入れ、テランスはディオンに甘えるように腰を押し付けた。
 それからテランスは、宝箱にしまいたいほど素晴らしいディオンの痴態──テランスのシャツの下に滑り込み、広い背をまさぐる手のひら、愛する男を敷いて前後に揺れるまろい尻、口では恥じらいながらも、大きく広げられてテランスを迎え入れる両足、……。そのすべてを心に刻んだ。
 二人はじっくりと時間をかけて互いを与え合い、もはや分かたれぬひとつの心をくまなく確かめ、慈しみ、果てなき愛情に浸って長い夜を明かした。


***


 ──がらりと色を変えた世界にも、変わらず朝はやってくる。
 聖なる翼はおろか、あらゆる魔法が姿を消して、社会の有り様や人々の営みに至るまで、様変わりした生活に戸惑う毎日だったが……ああ、テランスとディオンの在り方に比べれば、それらは実に瑣末な変化だ。
 フェニックス、イフリート、皆で守り抜いた人の世を、ディオンとずっと一緒に守っていく。傍らに控える従者としてではなく、隣り合って苦楽を分かち合う伴侶として……。

 テランスは分厚いカーテンを開け放ち、古めかしく軋む窓を全開にして、部屋に新鮮な空気と光を取り入れた。薄く引かれたレースカーテンを揺らす風が、小鳥のさえずりをシーツの上に運びこむ。
 ベッドの上、半身を起こしてはいるものの、差し込む朝日にぽやぽやと微睡んでいる可愛い伴侶の額にくちづけて「おはよう」と笑いかければ、「んぅ。……う」と、返事なのだか寝言なのだかわからない鳴き声があがって、テランスは破顔してもうひとつくちづけた。
 かつて欠けたるところのなかった皇子様は、今や無防備な姿を晒してくれるようになった。愛されたがりなディオンが、素のままで十分に愛してもらえるともっと自信を抱けるようになるまで、テランスはべたべたに甘やかすつもりでいる。
 テランスは、子猫のように擦り寄ってきたくちびるへお望みのままくちづけて、「まだ寝る?」と蕩けた声で問いかけた。ふにゃふにゃと何か(否定だろう、たぶん)を口の中で転がしたディオンが、裸足のつま先をゆらゆらと彷徨わせ、ぺたりと床を踏みしめた。
 スリッパを履かせてあげたくなるけれど、ぐっとこらえる。『従者のような真似』は彼の頬をふくらませる要因だ。こちらとしては『ベタ惚れ伴侶の仕草』に違いないのだが、線引きの難しいところであるし、それに、口喧嘩で勝てた試しがなかった。

「おはようテランス」

 眠り姫のお目覚めだ。寝ぐせがついていようと、着崩れたリネンシャツから柔らかな胸がこぼれていようと、丸見えの滑らかな脚が目に毒だろうと、ディオンは今日も麗しい。

「おはようディオン。いい朝だ」
「うん。……下着がどこかにいってしまった」
「ええと……昨日、廊下で脱がせたかも……ごめん」
「ふふ……そういえば寝室まで点々と脱ぎ捨てていったな。面白いからそのままにしておこうか」
「そうだね。今日はロズフィールド卿しか来客予定がないし」
「ロズフィールド卿が来るんじゃないか!」

 ──地に堕ち、贖えぬ罪を背負っても、ディオンは折れずにまっすぐ立っていた。
 愛する父に従順な英雄たらんとするのをやめて、人々のためにより心を砕き、助力を惜しまず泥をかぶって邁進するその姿は、余計に男の魅力を引き立たせた。
 もとより見目麗しい男の全身に、清廉かつ気高い美しさが生々しく息づいているのだ。幼い頃から憧憬に懸想の念をけぶらせていた一人の雄が、惚れ直さないわけがない。
 ほうと息をついてディオンを見つめる。テランスの熱視線を『いつものこと』として享受した彼が、意気揚々と廊下に向かった。

「卿も多忙だな。こたびは野獣退治の件だったか……。支度をするぞ。行こうテランス」
「ああ。無理はするなよ、ディオン」
「誰に物を言っている? お前の伴侶がそれしきで音を上げたりするものか」

 にっといたずらな少年のように上がった口端。以前にまして愛らしいかんばせに見惚れていたら、ちゅうと頬にくちづけが降ってきた。あっと驚いて手を伸ばすも、ひらりと逃げられて、おまけに向けられた満面の笑みにとどめを刺されて、とうに骨抜きのテランスは幸せに溺れてしまいそうだった。

「そもそも、余の身を案じるなら夜は少しくらい手加減しろ」
「それは無理だ。もう誰憚ることないと思うと、可愛い君を前に我慢できるはずがない」
「お前は可愛げがなくなった。前は余の言うことならなんでも叶えてくれたのに……」
「でも今のほうが好きだろ?」
「自分で言うな。恥ずかしい奴……。大好きだテランス!」
「わっ、もう、ディオン、君は本当に……!」

 振り向きざまに飛びつかれて、二人して床に転がり笑い合う。テランスを下敷きにし慣れた身体が胸板に手をついて起き上がったと思ったら、また勢い良く倒れこんできてテランスはぺしゃんこに押しつぶされた。
 ぺったり身を寄せたディオンが、耳元でころころ笑う。くっついたところから伝わる振動が心地いい。背中を抱いて声を上げて笑っていたら、遠く階下で「おおい、邪魔するぞー! おらんのかー!?」という大声と無遠慮な足音が響き渡った。がばりと跳ね起きたディオンが、脱兎のごとく駆けていく。

「下着!!!!」
「あっ待ってディオン! 私が……」
「うわああああああああ」
「うおおおおなんじゃあ!! 見とらん! ワシは見とらん!!」
「ああ……ははは……」

 最強の翼を失おうと、その手に輝き灯すことがなくなろうと、ディオンは、どんな光よりまばゆく温かく愛おしい。

 ──あの日墜ちた英雄は、今もこれからも人として、ずっとテランスと共にある。


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玄鳥の帰る家


 古の隠れ里。
 そこは今や帳の降りた山野にあって、中央にぽつんと佇む庵から漏れるわずかな光が、薄闇に紛れる来訪者を優しく手招いている。
 家主の纏う闇色を思い描いて、アヤシシさえ追い抜く速度の心と身体が風を切る。

 ここに来たのは知りたいことがあったからだ。口の中で、心のこもらぬ言葉を転がす。プレートのことでいち早く知りたいことがあって、云々。
 本当は、ムラを追われてこのかた、横殴りの雨に晒されるキャンプで寝泊まりする日々が続いていて、心細くて人恋しかった。明かりの灯る家に、少しだけでいい、おれの居場所が欲しかった。彼女ならきっと優しく出迎えてくれると信じて、今日という夜を駆け抜けてきた。

 目元を拭う。足早に橋の上を通過して、傍らの焚き火にテーブルに見事な畑に目をくれることもせず、まっすぐに扉へと向かう。心弾ませ辿り着いた先で、ドンドンと気の急くノックをして、ドキドキしながら応えを待った。しかし、思い描いていた声は返らずに、どさ、ばさ、とどこか慌てたような衣擦れの音と、軋むような音がした。返事はない。けれど、コギトさんは中にいるようだ。そのことにほっとして、返事も待たずに扉を開いてそうっと足を踏み入れた。
 入ってすぐ、こんもりと布団を盛り上がらせたベッドが視界に飛び込んできた。足元には脱ぎ捨てられたのだろう衣服がわだかまっている。黒服の下にちらりとのぞく派手な色。とりどりのハーブの香りの影で、少しだけ空気がこもっている感じがした。
 しまった、明かりはついているけれど、寝ていたのかもしれない。そう思ってもじもじと視線を彷徨わせていると、布団の2つの山のうち、ひとつがもぞりと動いて、銀糸ののった頭がぴょんと飛び出した。――コギトさんだ!

「コギトさん」

 目が合うと、警戒するような目つきが途端にぱっと和らいで、彼女はもぞもぞと億劫そうに身を起こした。するりと布団が肩から落ちる。次第にあらわになっていくコギトさんの姿に、おれのまなざしは縫い止められた。

「なんじゃ、テルか……よく来たのう」
「……あ、…………」

 いつもは黒襟に隠されている細首が、夢のように生白く照らされている。生唾飲み込み見つめる先で、結われることなく下ろされた寝乱れ髪のくるくると踊る隙間から、虫刺されのような赤い点がいくつも姿を覗かせていた。そして、胸元に抱き寄せられた毛布からこぼれる二つの膨らみや、存外ふっくらとした二の腕、その影が落ちる脇のくぼみまで、おれはしっかり、まざまざと、目の当たりにしてしまった。

 ……大人の女の人の裸だ……!

 目をそらさなければと気は逸るのに、繊細な陰影を形取る鎖骨から、なだらかな丸いラインを描く裸の肩までうっすらと珊瑚色に染まっていることに気がついて、ますます釘付けになってしまった。息が上がっているのか、わずかに上下している双丘にも、普段は白手袋に守られているほっそりとした指先にさえドギマギしてしまって、言葉が喉につかえてうまく出てこない。

「こんな夜更けにどうしたのじゃ。あたしに何か用かのう」
「あ、あのう……」

 いつにも増して気怠げな、それでいて甘く掠れた声が、淀んだ空気にじんわり溶けた。流れる銀髪をゆっくりかきあげて耳にかけたその人の、長いまつ毛の影からのぞく魔女めいた瞳に見つめられて、頭からぱくりと食べられたみたいに動けない。
 交差する視線、非難の色の見えない温かいまなざし、しっとりと汗ばむ白肌……あ、目尻が少し、赤くなってる……。
 おれはブンブンと頭を振った。

「あっ、えっとその、ご、ごめんなさい……。おれ、あの……」
「ふむ。すまぬが、少し待ってくれぬか。今はちと都合が悪くてな」

 繊細な爪をのせた細指が唇をなぞる。無防備なそのさまに、不安が胸のうちに湧き上がってきた。夜中に突然訪ねるのは非常識だってこと、もっと早く気付けばよかった。
 おれの眉毛がどんどん八の字になっていくのを見て、気遣いの滲む困ったような表情が、「そうじゃな。……少し、外で待っていてくれれば」と呟いた。
コギトさんの横、不自然に膨らんだままの布団を、ぽんとたおやかな手が叩く。しぼむ気配はなく、固い何かがそこに潜んでいる――コギトさんもポケモンと一緒に寝るのだろうか。想像しかけて、もう一度頭を振った。

「はい。急に来てごめんなさい……。プレートのことで、聞きたいことがあったんです。庭で待ってますね」

 うむ、と頷いたのを認めて、頭を下げながら扉を振り返る寸前、視界の端でコギトさんの隣の塊がグンと動いた。すわポケモンかと身構えたが、不自然に盛り上がっていたそこ、勢いよく跳ね除けられた毛布の下から姿を現したのは――男、彫刻のように美しく隆起した上半身に、見慣れた美貌をのせたウォロだった。

「プレートのことなら火急の用件ですね。テルさん、何が知りたいんです?」
「えっ!! う、ウォロさん……!?」

 あんぐりと空いた口がふさがらない。泳ぎまくる視線の先で、隆々とした二の腕が、コギトさんの柔らかそうな素肌にぴとりとくっついているのが見えた。お馴染みのポーズで指振り笑顔振りまくその男が、どうしてこれまた一糸まとわぬ姿でこんなところにいるのだろう。一方のコギトさんは額に手をあてて、なぜだかため息をついている。華奢な彼女と並ぶとますます互いの魅力が匂い立つような、いや、そんなことよりも……。

 ――裸の男女がひとつの布団から生えているこの状況、もしかして、もしかしなくても、自分はとんでもない現場に闖入してしまったのでは?

「すアッッすすみませっ! おれその急ぎじゃないんでえ!! じゃあッ!!!」
「ええっ、プレート集めは急務かと……あ、ちょっと、テルさん!」

 心臓が飛び出てしまいそうだ。とんぼがえりする心についていけないもつれる足で、大いにこけてめちゃくちゃに転がりながら走り出したおれの背後で、呆れた声音が遠く聞こえた。

「なんで出てくるかのう……。そなたは本当に思いやりのない男じゃ」
「ンン? 心外ですね。ジブンは今夜も優しかったでしょう。さあ、それよりも早く続きを」
「はあ。デリカシーもない男じゃ……」

 虫刺されかと思ったあれ、あれってつまり、アレだったのか!!なんて大騒ぎする鼓動をおさえて、軒先からすぐのところでまたつんのめって転がって、大の字に倒れて空を見た。ああ、裂け目が広がって禍々しい赤色に燃えていようとも、夜空が壮大で綺麗なことにかわりはない……。
 気づけば、傍らのケーシィがじっとおれを見下ろしていた。這いずって足元まで寄って行くと、うわ、と言わんばかりに身体を跳ねさせたが、逃げ出すことはなかった。隊長に似て、優しい子なんだ。ああ、早く皆のところに帰りたいなあ……。



 と、そんなことがあったのが、小一時間前のことである。



「……こんばんはウォロさん」
「まだいたのかよ!!!! いや、まだいたんですか。ビックリしました」

 ケーシィにすがりついて返答のないお悩み相談をしていたら、薄着のウォロさんがひょっこり出てきて見つかってしまった。一瞬崩れたものの、相変わらずのにこにこ笑顔がそこにある。対して仰ぎ見たケーシィはいつも通りの無表情だったが、心なしかゲッソリしてしまった気がする。無理やり付きあわせてしまって、ちょっと悪いことをしたかもしれない。バツの悪い思いで膝を抱える。

「何か物音がすると思ったらまだいらっしゃるとは。普通帰りません? ジブンが言うことではないんですが」
「帰るところがないんですぅ……」
「おっと失礼、そうでした。アナタをここに匿ったのはジブンでしたね。ではどうですか、一緒に寝ます?」
「…………」

 冗談めかしたウォロさんの言葉に、視線をそらして唇を尖らせる。幼い仕草だとわかっていても、だんまりを決めるほかなかった。だって、一緒にという言葉が、たとえ冗談だとしても本当に嬉しかったから。
 ともすれば涙をこぼしてしまいそうなおれに気づかないフリで、手招きをしたウォロさんが踵を返した。

「さあ、外は冷えます。プレートの話は中でゆっくり聞きましょうか」
「で、でも、二人は……いや、コギトさんが、えっと……都合が悪いんじゃ」
「よいぞ。お色直ししてあたしはすっかり元通りじゃ。ほれ、なんでも聞いてやろう」

 バアンと音を立てて開いた扉から、えへんとふんぞり返ったコギトさんが姿を現した。万全のアピールなのか、薄手の黒いキャミソール一枚を纏った姿で、腕を広げてゆっくり一回転なんてしている。惜しみなく晒された白い脚、わずかな面積の黒い布からのぞく谷間に、つんと上を向いている胸が、裸でいるよりよっぽど目の毒だった。とどめに、首元を隠すように巻かれた色鮮やかなファー、そいつはどう見てもウォロさんのものだった。人の物を我が物顔で身にまとう女性が、これほどいやらしく目に映るなんて思ってもみなかった。
 かっぴらいた目でしっかり脳裏に焼き付けていたら、唇を弧に描いた野性的な美貌が耳元に寄ってきて、いたずらに囁いた。

「コギトさんもああ言っていることですし、思う存分甘えるといいですよ。あの人、若者を甘やかすのが大好きなので」

 横目で見やる。爽やかを通り越して胡散臭い笑み、やっぱり何を考えているんだかわからない人だ。男の顔をして、それでいて保護者然に振る舞って、でも今は、絶対におれをからかって面白がっている。
 そっちがその気なら遠慮しませんからねと、鼻を鳴らしてずんずん庵に舞い戻る。心底可笑しそうにかみ殺された笑い声が耳に届いても、開き直って心を決めたおれは今度こそコギトさんに真っ向から対峙することができた。オクタンみたいに赤くなっている自覚はあるが、若いんだもの、しょうがない。
 すると、喜色を浮かべた麗人が、これまた嬉しそうに手を叩いておれを見た。

「テル、お腹は空いておらんか? オヤツはいくらでもあるでな。これなんかどうじゃ。スイートトリュフにきらきらミツをかけただけじゃが、中々いい塩梅になっての。そうじゃ、イモモチも焼いてやろう。こんな時間じゃが、若いからどれだけ食べても平気じゃろ。ウォロが持ってきたまふぃんとかいうのもあるぞ。そなたの時代の甘味には劣るかもしれんが、ごりごりミネラルをかけるとあら不思議、ますます美味しくなるのじゃ」

 てきぱき、生き生き、もりもりと、テーブルの上にありとあらゆる食べ物が並べられていく。すべすべの肌に見劣りしない、とっても美味しそうなおやつたち。素材そのままみたいなものから、コギトさんの手作りらしきおやつ、コトブキムラ新名物のマフィンだってある。
 ぽかんと眺めていたら、ウォロさんが横からすいっと手を伸ばして、行儀悪くオヤツをつまんで口に放り込んだ。

「こら、一人だけ先に食べるでない。そなたは早く外から椅子を持ってこんか」
「ベッドに座って食べればいいじゃないですか。その方が楽しいですよ」
「まったく……まあ一理あるのう。おいで、テルも遠慮しなくていいんじゃぞ」

 そう言って微笑んだその人は、魅惑的な格好だとか、女と男のあれやこれやの気まずさだとか、何もかもが吹っ飛ぶくらい、ただただ安心感に満ち溢れたおばあちゃんのようだった。
 山盛りのお菓子を振る舞うコギトおばあちゃんと、ぷらぷらしてちょっかいをかけてくるウォロお兄ちゃん。見目麗しい二人はお似合いなようでいて、恋人と呼ぶにはなんだか違う気がする。けれど耳年増なおれは知っている。こういうのを、若いスバメと呼ぶのだと。
 そしてどうやら、ひとりきりだったおれの居場所を、二人は作ってくれている。どうしようもなく嬉しくって、泣き虫な心を振り切るように、弾んだ声で切り出した。

「ありがとうウォロさん。おかげで田舎ができました。スバメつきの」
「えっ? すばめ? どういうことです?」
「プレートのことを教えてもらったら、すぐに向かいますから! 今はたくさん食べて力をつけますね。ありがとうコギトさん」
「うむうむ。その意気じゃ」
「そういえばジブン、マフィン2個しか買ってきてな……あっもう残ってねえ!!」
「すばやさが足らんのじゃ」
「そうなのじゃ」
「はあ!? ちょっと、いつの間に仲良くなってるんですか!」
「イモモチ食べたい人~」
「は~い」
「ちょっと! はい!! ジブンも!!」

 はいはいはいと挙手をするウォロさんに、「では手伝え」と素気ないお達しが下った。「テルは今日は食べる係じゃからの」と、気持ちの良い依怙贔屓つきで。いつも飄々としている男が大仰に肩を落として、「今日だけは係をかえたい気分です」なんて甘ったれたことを言って頭をはたかれている。これからもおれはここにいていいんだと、驚くほどすうっと心に沁みて、久しぶりに、腹の底から笑えた気がした。

 そうして夜明けまではしゃぎ倒した結果、いつの間にか三人で折り重なって昼下がりまで惰眠を貪っていたのだが、その後向かった湖でセキさんに「遅い!!」とウォロさんともども怒鳴られて、巻きでプレートを回収するハメになった。それさえも楽しくってしょうがなくって、この日のことは一生忘れないだろうなと笑っていたら、口をへの字に結んだセキさんにほっぺをつねられた。いひゃいですと見上げれば男前が吹き出して、側に立つウォロさんまでにんまり笑うものだから、釣られたおれもにまにま笑んで、男三人で肩を並べて不気味に笑いあったまま、隠れ里への帰路を歩んだ。


 居場所というのは、場所じゃなくって、人なんだ。
彼らがくれるそれは時として増えたり減ったりするけれど、温かくって、居心地がよくって、宝物とも呼べるくらいどれも大切なものである。
 一番はもちろんギンガ団の皆と過ごす居場所だけれども、彼と彼女の思い出がつまったおれの田舎も、同じくらい大好きで、かけがえのない居場所となっている。



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 ところで、図鑑が242匹とずいぶん分厚くなった頃。
 遠いところへ旅立ったかと思いきや、スバメは今日もおれの田舎に羽を休めに舞い戻る。


「いやちょっと! もう会うことはないでしょうとか言ってませんでした!? なんでいるんですかウォロさん!!」
「なんでって、ここはワタクシの家ですから」
「そなたの家ではないのう……」
「アナタこそなんでいるんです? もうここに用はないでしょう」
「ハァそりゃもちろん、ここはおれの田舎ですから!?」
「いつの間に田舎になったのかのう……」
「クラフト台だってあるし! おれはいつ来たっていいんです! 歓迎されてます!」
「残念、そのクラフト台は昔コギトさんがワタクシのために用意してくれたものですよ。そうワタクシのためにね! はい以後テルさんは使わないでください~」
「残念、今となってはもうおれだけのものです~」
「幼児の喧嘩じゃのう」
「はあウォロさんめ、いなくなったと思ったらコギトさんの前には抜け抜けと現れるなんて。くそう、おれのアルセウスを見せてやる!! いけアルセぼん!!」
「あー!! 格好わるいニックネームをつけられているアルセウスの分身なんて心の底から見たくありません!! ガブリアス、打破せよ! ……いや打破もしたくありません!!」
「仲良しだのう。さて、イモモチ食べる人~」
「は~い」
「はい!! ワタクシも!!!」


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6V最強こじらせフェアリー


「抱けません」
「えっ」
「抱けません。マツブサ様は童貞がお好きでしょう」
「えっ?」
「私はマツブサ様のご寵愛を失いたくないのです。ですから、抱けません」
「ええっ!?」

 マツブサは激怒した。必ず、かの初心童貞の操をいただかねばならぬと決意した。


 ──時は少しばかり遡る。

 夢見る世界はほど近く、大地の化身も鼻の先。
 お天道様が燦々輝く真っ昼間、磨きぬかれた廊下をるんるん道行くマツブサは、盛大に足を滑らせた。あわや転倒、華麗に宙舞う痩躯はしかし、おとぎ話の姫君よろしく軽やかにすくわれた。

「むっ?」
「お気をつけください、マツブサ様」

 マツブサはぱちぱちと瞬いた。
 突然世界が回転したと思ったら、厚い胸板に抱き込まれ、天を向いた鼻先で、恋知らぬ処女さえ蕩かしそうな美貌がこちらを覗き込んでいた。ちかちかと目の眩むなか、すっかりお馴染みの固い手のひらを背中に感じて、もしかして私、転んだ……? とようやく気付いたマツブサは、己を抱き寄せる力強い腕にどきりとし、甘やかに垂れる眼差しのひたむきさに面食らった。
 その男、間一髪でマツブサを救った王子様もといホムラは、瞬くばかりのあるじに向けて「大丈夫ですよ私がお守りしてますからね」と言わんばかりの微笑を浮かべて、実際に「大丈夫ですよ私がお守りしてますからね」とズケズケと言い放った。マツブサはつい唇を尖らせた。
 しばし見つめ合う。長い睫毛に縁取られた精悍な瞳が「ずっとこうしていましょうね」なんて言い出しそうな危うい熱を帯びはじめた。慌てて身をよじる。片腕にやすやすと支えられている上半身がより不安定な角度をとったため、マツブサの身体はひょいと姫抱きにされてしまった。
 異論を挟む隙もなく、整った鼻梁が間近に迫る。思わず目を瞑って身構えると、頬に柔らかいものがくっついた。もちもち、むにむにと、滑らかな頬を大胆に味わう不届き者は、どうやらホムラのほっぺただ。なんとまさか、ポチエナもびっくりの愛くるしい頬ずり攻撃を受けている。……マツブサは目をまんまるに見開いて、しばしのすりすりを享受した。
 ところで往来である。数人のしたっぱが、ジブンは何も見てませんからッ……! という必死の形相で、蜘蛛の子を散らすように駆け抜けていった。
 くっついた頬が、しっとりと別れを告げた。

「う……うむ。いつもすまないな、ホムラ」
「はっ。ご無事で何よりです。ところでマツブサ様のおみあしを狂わせたこの下衆な床材を選んだ業者への処遇についてですが」
「待て待て、私が勝手に転んだのだ。そういうのはよしなさい」
「お咎め無し、現状維持ということで。ではこれ以上の危険に見舞われぬよう、お部屋までお運びさせていただきます」
「またかぁ……」

 今日もホムラは元気ハツラツだった。このおせっかいな側近が蝶よ花よマツブサ様よと甘やかしてくれるものだから、己の足腰は弱りゆく一方なのではないかと、マツブサは真剣に疑っている。
 配慮に満ちた足取りが執務室へと歩みだした。思いがけず手持ち無沙汰どころか手荷物扱いとなったマツブサは、太ましくそそり立つ首筋へと戯れに鼻先を寄せてみた。愛くるしい部下の肌は温かくこれを歓迎した。いたずらに嗅ぎまわる上司を宝物のように運ぶ男は、時折くすぐったそうに身を震わせながら、お好きにどうぞとマツブサの勝手にさせている。
 ふと首を傾げてみれば、赤い襟足がさらりと遊んだ。この後は書類決裁を残すのみで、特段重要な予定は入っていない。だから、ふむ……なんて意味ありげに呟いて、隆々とした胸板を手慰みに撫でながら、優雅に濡れる舌で戯れを転がした。

「ホムラは本当に私のことが大好きなのだな」
「はい。心よりお慕いしています」
「想ってもらえて嬉しいよ。だが、私は真っ白な童貞が好きだから……。お前ほどの器量良し、経験がないわけがあるまい?」

 己を支える男の指を捕まえて、そのうち一つをきゅうと握る。恣意的であざとい上目遣いに、それとわかっていて可愛い部下は引っかかった。とっておきの内緒話をするように、ホムラのくちびるが降りてくる。ぽってりとしたそのあわいから伝わる熱がマツブサの耳朶を湿らせて、低い囁きが心を揺らした。

「是非ともお耳に入れたいことが。なんとわたくしホムラはですね、五つの頃から己を魅了してやまない人がこうして焦らしてくださるものですから、二十七歳童貞です」
「はぁ……ますます私好みじゃないか……♡」

 蕩けるように呟いて、マツブサは熱い舌でくちびるをなぞった。ホムラの恭しいくちづけが手の甲に降ってきて、次いで白い歯が人差し指を優しく咥えた。

「このやり取り何回目ですか……? そろそろご慈悲をいただかないと、このままではフェアリータイプに進化してしまいます」
「あく/フェアリータイプ複合か。確かガラル地方にいたな? オーロンゲ……、ビルドアップポケモンだ。お前にぴったりじゃないか」

 くすくすと肩を揺らせば、美しい狼は甘えているようにも恨めしげにもとれる唸り声でぐるぐると喉を震わせた。すっかり気を良くして笑ってると、「あまりいじわるを仰らないでください」と拗ねた声が降ってきて、ずり下がりつつあった身体を軽々と支えなおされた。一瞬ぴょんと宙に放り上げられたマツブサは、「ひゃうっ」などとこぼした口を慌てて閉じて、平静を装った。
 再び歩み出した男の首にしっかと抱きつき、すがりついて身を任す。ほのおのからだから伝わる熱が、ぽかぽかとマツブサを温めた。

「いたずらごころも、おみとおしも、持ち合わせる余裕はないですよ」
「わるいてぐせで翻弄したらいいではないか。ふふ……」
「はっ。ではお言葉に甘えて」
「んんっ、やめなさい、ふ、くすぐったいぞ」

 耳を食まれて身をよじる。幼子のように足をバタバタと動かしてじゃれあっているうちに、執務室が見えてきた。部屋の前に控えるしたっぱたちが姿勢を正して扉を開く。
「ご苦労、下がっていいぞ」と労うマツブサを抱えたホムラは部下へ一瞥もくれることなく、濃紫の絨毯が敷かれた部屋へと足を踏み入れた。重厚な音を立てて扉が閉まり、世界が二人だけに切り取られる。
 しんと静まり返った空間で寄り添うも束の間、そうっと丁重に降ろされて靴底に柔らかな感触を感じたマツブサは、ホムラの体温や息遣いの離れゆくのが惜しくなり、逞しい胸に置いた手はそのままに彼へと向き直った。ホムラは、注がれる視線に首を傾げるでもなく、言葉を紡ぐでもなく、ただ同じだけ熱烈に、燃えるまなざしを返している。
 マツブサは唐突に、『今だ』と閃いた。

 ──マグマ団の勝利は目前だ。なれば、今こそ満を持してホムラと契る時である!

 マツブサははしゃぐ気持ちを押し隠し、ふわりと長衣を揺らして愛しい男に顔を近づけた。あるじのご機嫌な仕草を前にして、ホムラは真顔でありながらも嬉しそうに尾を振っている。硝子窓から射す陽光が、愛らしい部下を祝福とばかりに照らしだした。
 瑞々しく光を弾く二の腕、隆々とはち切れんばかりに熟した体躯、マツブサに焦がれる眼差しを向けるかんばせの、彫り深く芸術品のように整う雄雄しさといったら。本日も、水の滴る美丈夫っぷりは健在だ。
 マツブサは艶やかにとろりと笑んだ。直視したホムラはさっと頬を赤らめた。
 くすくすと期待が喉から漏れた。はしたない響きにならぬよう、努めて静かに男の名を呼ぶ。けれど、この愛おしい雄に許可をやろう、褒美をやろうとときめく心が、呼ばう声音に媚態ともとれる艶を与えた。
 ホムラは夢見心地に口を開いて、短く応えた。
 そうして、長い足を折りたたんで跪き、陶酔した上目遣いを捧げて言うことには。

「ああ、とうに虜である男をこうも誘惑なさるなんて、マツブサ様は本当にイケナイお方だ……。決して情を交わすことは許されないというのに」
「ふふ、…………えっ? なんて?」
「抱くわけには参りません」
「んっ?」
「抱けません」
「えっ」

 ──冒頭のそれであった。


 愕然としたマツブサは、咄嗟に胸ぐらを掴んで恫喝しそうになったが、ぐっとこらえて『いや、こやつほどの男が据え膳食わぬはずがあるまい。きっと照れているのだ』と気を持ち直した。初心で可愛い私の仔犬が、何よりも私を大切にするこの男が、まさか私を拒むはずがないという確固たる自信があった。
 ホムラはとうにマツブサのものである。マツブサが欲し、また相手もマツブサを欲してやまぬ存在である。けれど、その男は立ち上がりざまにマツブサの両肩を掴んで、熱に浮かされた身を優しく残酷に引き離した。

「初物でなくなったら、歓心を失ってしまわれる。そうですね?」

 誠意に満ちた面差しが、ちらと白い歯を覗かせて微笑んでいる。それは、マツブサの目に寂寥を滲ませる仔犬と映った。マツブサは、己のしでかした過ちに気がついた。

 ──このよく出来た側近には、降り注ぐ流星群さえ霞むほど、無上の愛を注いできた。寵愛の蜜にとっぷり浸して、「お前は私抜きには生きていけない、そうして私もお前抜きには生きていけないよ」と、精神の深いところをぐちゃぐちゃにかき乱し、煮え立たせ、マントルを抱く猛き男に育ててやったつもりである。
 けれども、身体を許さぬまま猫かわいがりし続けてきたせいで、「マツブサ様は『決して手を出さない私』を愛している」という思い込みを植え付けてしまっていたらしい。

 マツブサは青ざめた。失策を悟っても、とうに後の祭りである。

「そんなわけあるか! 大体お前、『ご慈悲を』なんて言っていたではないか!?」
「はい。愛していますマツブサ様。狂おしいほどにあなたが欲しい……。ああ、ひとつに融け合うことができたらどんなにか! 私はあなたに恋い焦がれる誠実な雄であり続けます。ですので、劣情に身をやつすことはございません」
「すこぶるつきの良い男が童貞をこじらせるんじゃない!」
「はっ、ありがとうございます」
「褒めてない!!」

 黒手袋をするりと脱いだ指先が、マツブサの震えるかんばせを愛情に満ちた手つきでなぞった。眼前に立つホムラの凛々しいくちびるは、マツブサをぺろりとたいらげそうな狼の風情に歪んでいる。けれどその指先は狼藉を働かず、ゆっくりとマツブサの稜線を清らかな愛情でふやかした。憔悴する心と裏腹に、耳の付け根から首筋へと辿られるこそばゆさは好ましく、知らず固くなっていた身体から恍惚と力が抜けていく。マツブサはぞくりと身を震わせて、恥じらいに濡れた吐息をこぼした。

「んっ、ぁ……、ホムラ……」
「では、お仕事に戻りましょう。どうぞ」
「………………」

 マツブサは丁重にエスコートされ着席した。
 火照った身体は置いてきぼり、「あなたの相手はこいつですよ」と言わんばかりに積まれた書類。マツブサは仰天して、斜め後ろに立つ男を見やった。後手に腕を組んだホムラが、いっそ清々しいまでの表情できょとんと瞬いた。

「どうなさいました? 先にお食事にいたしますか」
「こっ……この童貞!!」
「はっ。お側に」
「呼んでない!!」
「ええ……?」

 年甲斐もなく頬を膨らませたマツブサのうなじを、無遠慮に、けれど紳士的な指の腹がちょいとなぞった。なんとも憎らしく愛らしいご機嫌伺いだ。身体は正直に快感を拾ってぞくぞくと震えたが、懐柔されてたまるかと顔を背けて抵抗を貫いた。

「マツブサ様」
「…………」
「マツブサ様……」
「………………」
「お気に召しませんでしたら、一休みいたしましょう。ベッドまでお連れいたします」

 マツブサの耳元に、弱りきったくちぶりの誘い文句が飛び込んだ。固い指先がうなじを離れて、弾力のある厚いくちびるが、白肌にちうと吸い付いて慈悲を乞う。
 そら来た! マツブサは目を輝かせて安堵した。ああは言っても若い雄、やはり手を出さずにはいられまい。執着の滲むくちづけ、情欲にけぶる吐息を漏らしてうなじを味わう狼のくちびるがその証左だ。
 マツブサは胸を高鳴らせ、勝利の予感に酔いしれた。仕方のない奴めと余裕ぶって澄ました声が、上ずった。

「ふっ。ベッドに連れ込んで何をするつもりだ……? このスケベ」
「何もいたしません」
「………………」
「誓って」
「ぐうーっ、誓うな!!」

 マツブサは激怒した。必ず、かの童貞を貪り喰ろうてやらねばならぬと決意した。


 ***

 その晩、童貞事件の早期解決に臨むマツブサは、思い詰めた面持ちで受話器を握りしめていた。テーブルランプの仄明かりに沈む中、ディスプレイの青白い光に目は冴えて、無機質に鼓膜を叩く呼び出し音が、マツブサにごくりと唾を飲ませた。
 伏せられた睫毛の下で、瞳は欲に燃えていた。長年ホムラにおあずけを強いてきたのはマツブサだったが、いざ自分がおあずけをくらう立場になると、一刻も早くあのとっておきのご馳走をいただきたくて堪らなかった。
 もはやなりふり構ってはいられない。マツブサは決して人には言えない手段をとった。
 そう、つまるところ電話の相手は──

「……もしもし」
「アオギリか。聞きたいことがある、手短に頼む」

 宿敵、アクア団のリーダー、アオギリであった。

「はァ~? のんきに電話なんかかけてんじゃねえよ、マグマ団のリーダーさんよぉ」
「では切る」

 かけたはいいが、いざ巻き舌で煽られたら腹が立った。

「早ぇよ! なんだよ気になるだろうが! チッ、しゃあねえ。話くらいは聞いてやる。で? アクア団に叩き潰されてぴーぴー泣く予定のマツブサちゃんが、なにを聞きてえんだって?」
「くっ、相変わらず無礼な男め……! まあいい。それがな、ホム……いや、私とホムラはまったくの無関係で、とある知人の話なのだが」
「ぜってえお前らの話じゃん。嫌な予感するわ。聞きたくねえんだけど」
「長年焦らしすぎたせいか、抱いてもらえないのだ。どうしたらいい?」
「聞きたくねえんだけど!!」

 突然のがなり声に眉をひそめて、マツブサは受話器から耳を離した。海に傾倒する男はこれだからいけない。ならず者め、と舌打ちしたい気持ちをこらえて、「それで? 貴様には解決策がわかるか、わからないか、どちらだ」と仏頂面に続けた。
 悲しいかな、マツブサにはアオギリと当事者のホムラ以外にこんな話を打ち明けられる相手がいなかった。下手に出ることは矜持が許さないものの、藁にもすがる思いで返答を待つ。深々とした溜息が聞こえて、次いで、そっけない声が耳を打った。

「そりゃ、色仕掛けでもすりゃ一発だろうが……お前、色気ねえもんなぁ」
「ぶ……無礼な!!」

 陸の力を知らぬ者はこれだからいけない!! マツブサは歯ぎしりをした。
 しかし、悔しいが相手はさすが別世界を生きる無法者の長である。思ってもみない着眼点だ。考えてみれば、なるほどアオギリの指摘は的を射ているように思えてきた。
 色気、色気とは……と首をひねっていると、受話器の向こう側で、ならず者が水を得た魚のようにピチピチとはしゃぎだした。

「ねんねちゃんだからなァ! マツブサちゃんはなァー!!」
「ぐ。き、極めつけの無礼者め! 色気など……っ、どうしたらいい、言ってみろ」
「はん、偉そうに。それが人に教えを請う態度かあ?」
「ぐうっ、貴様覚えておけ……! 教えて下さい。ほら言え、すぐ言え、さっさと言え」

 早口にまくし立てる。ホムラとの共寝のためならこれしきの屈辱安いもの、とくちびるを引き結んだものの、耳元で品のない笑い声が炸裂したせいで、脳裏に思い浮かべたホムラの表情が「マツブサ様……」と悲しげに歪んでしまい、とっさに受話器を叩きつけそうになったがすんでのところで耐え切った。

「ハァ~おっもしれえ! んなの知るかよ、経験でも積みゃいいんじゃねえの」
「経験……? ふむ。そうとわかれば善は急げだ! 感謝するぞアオギリ。ではな」
「はあっ? ちょっ、待て、もし浮気なんざしたらあの野郎にお前……」

 まだなにか喚いている気配があったが、マツブサはガチャンと受話器を下ろした。
 ふっと鼻で笑ってほくそ笑む。あの男、バイバイのあとも延々と電話を切れない寂しがりだと見える。髭面のならず者にも、可愛いところはあるものだ。
 それにしても……。
 経験、経験、経験ねえ。口の中で実態のない単語を転がしてみる。それはどんな味だか露とも知れぬ。けれど、手に入れる方法はすぐにピンと来た。
 身も蓋もない言い方をすれば、今は出口たる尻穴を魅惑の入り口へと改造すべく、身体を慣らせということだろう。他の男など論外、となれば、アダルティなグッズを購入して挑むべし! そしてその道は開かれている。

 なんと、マツブサはネット通販を使えるのである!!

 できるリーダーは違うな、と口端を上げて襟足をファサッと払ったマツブサは、早速パソコンを立ち上げてぽちぽちとショッピングを始めた。実のところ、めぼしい通販サイトはブックマーク済である。マツブサも男の子なので、そういうことには俄然興味があった。
 画面上では、多種多様なブツが屹立してギラギラとその身を主張していた。下品すぎて気が引けないでもなかったが、ええいままよと本腰を入れて吟味する。
 ──大人になったホムラの現物を目にしたことはないが、あれほどの男前だ、おそらくは悪タイプの王様みたいに立派に違いない。そうきっとこの一番えげつない見た目の商品みたいに!
 大層逞しいそのイチモツがホムラの股間から生えているところ、そして天高くそそり立たせたソレを見せつけるようにしごくホムラを想像して、マツブサは肌を真っ赤に染め上げた。実践前からこんな調子でどうする、と、火照った身体を冷ますようにバスローブを脱ぎ捨てる。一糸まとわぬ姿になったマツブサは、激しく波打つ胸にそっと手を這わせて、今一度お目当ての商品写真をじっくり眺めた。
 そのページには「※上級者向け」と記載されていたが、マツブサは大いなるマグマ団のリーダーである。初心者だが問題なかろうと英断を下し、それでもやっぱり恥じらいに頬を染め、もじもじと両足をすり合わせながら購入ボタンをクリックした。


 そうして、そいつはご希望通りに明くる日届いた。


「マツブサ様ですね~。お荷物お間違いないスか?」
「うむ」
「はい~ではここにハンコくださぁい。……あざっしたー」

 たまの休日、晴れ渡る空、えんとつ山を望む麓に根ざした、マツブサ所有の由緒正しい別荘地。自慢の数奇屋門を背にして遠ざかる配達員の姿を見送ったマツブサは、満面の笑みを浮かべてぎゅっと輸送箱を抱きしめた。

「ふふ……! 待っていたぞ。早く試さねば……!」
「何を待っていたのですかマツブサ様」
「ウワ!!」

 不機嫌そうな声がして、背後からたくましい腕に抱きすくめられた。力強い顎が無遠慮に肩に乗り、マツブサの手元を覗き込む。密着した背中、薄手のシャツ越しに寝起きの温もりを感じて、後ろめたさに鼓動が跳ねた。
 ちらと見たホムラのおもてには、『私に無断で』という不満がありありと浮かんでいたが、マツブサは毅然とした態度でツンと顎を上げた。いちいち部下にお伺いを立てねばならぬ道理はない。私だって一人でお買い物くらいするのだ、そもそも今日だって別荘に護衛など必要ないのだ一人でできるもんなのだ……!と湧き上がる反抗心はしかし、腹に回された手がさっと箱を奪い取り、なんの伺いもなく梱包を破き始めたものだから、瞬時に萎れた。

「わーっ! なにをするホムラ! 勝手に開けるな!」
「失敬、危険物が混ざっていないか確認を……、アァ?」

 抵抗むなしく、段ボールが投げ捨てられてド派手な中身がお目見えした。乱暴に引っ掴まれた透明なプラ箱は少しひしゃげていたが、それでも、『ドドド淫乱ご満悦!衝撃爆震あなたの恋人♡』なんて文字を背負ってデカデカと佇むソレは、しっかりと二人の目に入った。

 空気が凍った。

 やましいことなど何もない。隠さねばならぬものでもない。
 ……はずなのだが、マツブサは心の中で「助けてグラードン……」と、まだ見ぬ彼に追いすがった。
 プラ箱から取り出したブツを握りしめたホムラが、空いた腕で無遠慮にマツブサの腹を抱いた。まろやかな脇腹に指が食い込む。マツブサはビクンと肩を揺らした。

「なんですか、これは」
「……そ、ううん、なんのことかね……?」
「マツブサ様がしっかりと『お荷物お間違いない』ご確認をされて『早く試さねば』ともおっしゃられた、この『ドドド淫乱ご満悦衝撃爆震あなたの恋人』なる不埒なコレは、なんですか」
「あう……!!」

 逃げられなかった!!
 至近距離から威圧してくる冷ややかな美貌、マツブサを射抜く瞳は猛獣めいて、今にも喉笛を食いちぎらんとせんばかりに爛々と光り返事を待っている。
 寵愛する部下から不遜な態度をとられた驚き、それから、不貞が発覚したかのような罪悪感、どさくさに紛れて男性器の形をしたソレでぐりぐりと服の上からへそをいじめられる羞恥心、下腹を撫でさする手に煽られる劣情……、一挙に押し寄せる感情に苛まれたマツブサはすっかり縮こまり、茹で上がって、ぷるぷると震えだした。

「う、あ、えっと、ほら、……いわゆるその、……ばいぶ……なのだ……?」

 無防備な下腹を容赦ない手のひらが圧迫する。子犬のようにきゃんと鳴いたマツブサの耳に、怒気の滲む低い囁きが注ぎ込まれた。

「用途は」
「よ、用途!? うっ、……な、慣らすために……」
「慣らす? このような下品な棒で? なにを慣らすおつもりですか」

 犯罪者を取り調べるおまわりよろしく、ホムラの顔つきがますます険しくなっていく。馴染みある形をしたソレがヘソのたもとで力強く握りしめられ、ミシミシと軋んだ音が肌を伝って、思わず股間がひゅっとした。転じて、己に忠誠を誓ったはずの男が重ねる度を越した蛮行に、堪忍袋の緒が切れた。

「ええい、わかりきったことを……! なぜ私が詰問されねばならんのだ!! そもそも、お前がさっさと手を出せばこんな策を弄せずとも済んだのだ!!」
「マツブサ様、」

 突然逆上し、滅多とない大声で吠えたにも関わらず、怒れるあるじを抱えたホムラは身動ぎすらしなかった。それがかえって、マツブサの怒りを募らせた。

「ホムラのイケズ! すっとこどっこい!! なぁにが『ご寵愛を失いたくない』だ無礼者、一度抱かれたくらいで飽いたりするものか!! 死ぬまで抱け!!!!」
「マツブサ様……」
「ほらどうした! 私を満足させてみろ!!」

 経験を積んで色気たっぷりにホムラを誘惑してみよう!……という企みだったはずが、色気はおろか、ムードのひとつも醸せずに、マツブサはいまや暴君と成り果てていた。
 その気もないのに覆いかぶさる身体が癇に障って、マツブサは激しくもがいてホムラを振りほどこうとしたが、がっちりと抑えこまれて余計に密着されてしまった。ふうふうと息を荒げて、憎たらしい剥き出しの腕に爪を立てる。さすがはマグマ団きっての頼れる懐刀、こんな時まで誇らしく思えてしまうのが悔しいが、頑として抜け出せそうにない。
 ええい腹の立つ!と暴れ子エネコのような抵抗を続けるうちに、へそからバイブが離れたのに気付いて、ぴくりと身体が戦慄いた。見下ろせば、握りしめられたそれがマツブサの上半身へノックを始めて、へそより上を目指すように、とん、とん、と上りはじめた。
 断りなくやわな肌をつつきまわす暴挙、不快というより不気味な感触に眉根を寄せた刹那、「申し訳ありません」と頭越しに謝罪が降ってきて、故意か偶然か、固いそれの先が左胸の小粒を押し潰すように突き立てられた。とっさにくぐもった声が出て、マツブサは怒りとは違う感情で肌をかっと赤らめた。

「お許しください。私は貞操を守ることこそ最大の献身と思っておりました。しかし、それはとんだ誤りだったのですね。マツブサ様をこうも不安にさせてしまうなど……」

 しおらしい声に反して、ホムラの操る不埒な棒が、胸の先端を押し上げ、つついて、こね回すようにいびり始めた。明確な意図を持って動かされるそれに、マツブサは耐えられず嬌声を上げた。羞恥心に勝る歓喜が、くちびるを笑みの形に歪ませる。マツブサは快感もあらわな息をこぼしながら、固いそれにそっと指を這わせた。
 もたらされた刺激は喉から手が出るほど欲しいものだったが、だからこそ、無機物を通してではなく、ホムラ自身の指で与えられたかった。

「ホムラ……! わかってくれたか! そうだ、私はお前と……」
「はい。私と愛を育みたくて、先走ってしまわれたのですよね。もどかしかったでしょう。申し訳ありません、マツブサ様……。ですが、こんな手段はいただけません」

 すい、とバイブを遠ざけられて、乳首への刺激が止んだ。あ、……と物足りなさに喉を鳴らしたマツブサのねだるようなまなざしが、底なしに愛を惹き寄せるホムラの瞳に絡め取られた。
 溺れる、そう直感した瞬間、ホムラの指が、ぎゅうと胸の尖りをつまんだ。バイブ越しの快楽など比ではない電流が、胸の先から下腹部へと迸った。

「あぁっ! んっ、ほむらっ……!」
「マツブサ様を善がらせていいのは私だけだ!!!!!!!!!!」
「ヒッッッ」

 あらん限りの膂力をもって投擲されたバイブが、見事な弧を描いて遥か彼方へ飛んでいった。解放された乳首の疼きも忘れて、あっけにとられる。
 お、お前が勝手にグリグリしたくせに!? ……なんて突っ込む間もなく、マツブサは思いやりをかなぐり捨てた指先に顎を捕まれ、飢えた狼さながらぎらつく紅顔にくちびるを奪われた。

「んぅ、ン! っ、ふ……」

 ──全身が灼熱の欲に炙られる。
 後頭部を掴まれて、下唇を食まれ、気持ち良いところを無遠慮な舌に嬲られて、『嬉しい』、『ホムラ』、そればかりが思考を占める。みだりがわしい水音に耳を犯されて、乱れた吐息も余さず味わうように、角度をかえて何度も何度も、互いの柔らかいところが押し合い、くっつき、形をかえて、ひとつになってはまた離れ、そうしてまたひとつに溶け合い絡みあう。
 激しい口づけの合間、わずかに離れたくちびるが糸を引き、荒々しく肩で息をする二人の濡れたまなざしが交差した。技巧も手管もあったものではなかったが、衝動に逸る初心なキスは大いに情欲を煽りたて、マツブサを天にも昇る心地にさせた。

「っはあ、ん、ふ……! はっ、きもちい、ほむらっ……」
「はァっ……お可愛らしいです、マツブサ様……」

 多幸感に背筋がじんと痺れて、己を包み込む広い胸郭にすがりつく。いやらしい真似だとわかっていて、マツブサは揺れる腰ごと身体を押し付け、男の顎先をくすぐるように甘く食んだ。上目遣いに窺えば、細められた垂れ目がいっそう蠱惑的に蕩けて見えた。
 力の入らぬ指先で、引き締まった胴を掴む。「はやく……」と、マツブサのすべてを明け渡す呼ばい声、掠れた吐息に求められたホムラが、にぱっと笑った。
 それは太陽よりもまばゆく輝いて、とても照れくさそうな、嬉しくて幸せでたまらないというような、マツブサが大好きな男の稀に見る最高の笑顔だった。
 心臓をぐわりと捕まれ、身体がよろめく。とどめとばかりに、愛情に満ちた手つきで大事に大事に抱きしめられた。華奢な身体を抱く雄々しい腕、甘えるようにすり寄せられた熱い下半身、くちびるに、頬に、瞼に、首筋に、止むことなく降り注ぐ無上のキス……。
 舞い上がって喜悦に蕩けたマツブサの頬に鼻先をちょんと寄せたホムラが、「愛しています、マツブサ様……」と真っ白な誠意に満ちた愛を囁いた。

「まずは交換日記からですね……」
「エ゛この期に及んで!?!?」
「晴れて恋人です、ふふ……!!」
「エッ付き合ってなかったのか!?!?!?」

 驚愕に全身から力が抜けた。ホムラはいっそうあどけなくふにゃふにゃとはにかんでいる。
 マツブサは怒髪天を衝く勢いで憤怒した。必ずやこの筋金入りの童貞を悩殺し、理性を失くした獣のように滅茶苦茶にしてやらねばならぬと決意した。
 ……つもりだったが、千切れんばかりに激しく尻尾をぶん回し、腹を見せて転がる大型犬のごとく愛くるしいホムラを前になすすべもなく絆されて、自らもめいっぱい相好を崩して、ホムラにぎゅーっと飛びついた。


  ***

「……ということがあってな。ゆっくり進もうと決めたのだ。ふふ。まさか清らかなお付き合いから始める羽目になろうとは! まあ、じっくりとろ火にかけられるというのも、これがなかなか悪くない。無論、私ではなく知人の話なのだが」
「だから聞きたくねえんだって!!!! ……いや待て、交換日記の件は気になる。まさかマジで始めた?」
「うむ。すごいぞ。業務日誌か? みたいな内容に、愛の言葉が数ページ挟まる。それも毎日」
「ウッワ………………」
「気になるか。見たいか。見せんぞ! ふふん」
「グゥ……!! 悔しいが正直見てえ」

 マツブサは朗らかに笑った。
 難攻不落の愛すべき男とのお付き合いは、まだ始まったばかりである。




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あまいゆめ


 伏せられた睫毛が、ぱち、ぱち、ぱちりと、大義そうに瞬いている。
 おねむですか、なんて意地悪を言えば、愛らしいくちびるがちょんと尖った。

 若葉匂い立つ昼下がり、日光浴をしようと言い出したのはマツブサだった。
 「いいですね」と返したホムラの声はすっかり弾んで、たっぷり作っていたカイスの実のジャムでサンドウィッチでもこしらえようと腰を浮かすと、「今日くらい、私に付き合ってだらだらしなさい」と愛くるしいウインクに止められた。
 そうして、どこに隠していたのだか、きのみが山程入ったバスケットを平らな胸に抱き込んで、そのうち一つをつまんでホムラの厚いくちびるに押し付けたりなんてする。
 「ナゾの実だよ。星の力を持っているのだ」とお顔を輝かせて簡単に言うけれど、ナゾの実といえばホウエンでは滅多とお目にかかれぬ珍品であり、そも、おそらくこれはマツブサ自ら育てたものに違いない。背筋を伸ばし、心して味わおう……と咀嚼するものの、口触りのよさや芳醇な風味より、視界に飛び込んでくる可愛い人のわくわくとこちらを見やる笑顔の方がよほど心に染みこんで、「好きです」と飲み下せない告白をこぼしたら、「そうだろう!とっておきなのだ」なんてますます愛らしく胸を張る。

 そんな一幕があって、青い芝生に二人腰を下ろして自然の恵みをつまみつまみ、澄んだ大空を頂く牧歌的な風景を眺めていたのだが、ぽかぽかとした日差しに彼の身体がゆっくりと傾いていって、しまいにこてんと、大地と一体になってしまった。
 地べたに直接寝転ばれるなんて、と以前なら慌てていただろうホムラも、マツブサが自然や自由や、なにより「肩肘張らない生活」を謳歌しているのだとわかっているので、ただ穏やかに見守っている。
 薫風そよいで、チルットの群れが青空に溶けて流れていった。
 目下の彼はくにゃりと伸びきっている。華奢な胸板がゆっくりと上下しているのを見つめながら、のんびりナゾの実をかじっていると、物欲しげな上目遣いに捕まった。バスケットへ手を伸ばす。違う、と言いたげな真白い指に太ももをつねられた。ひとつ笑って、彼の薄く開いたくちびるのあわいに、一口大の齧りかけを献上する。柔らかなそれをむにゅ、と食んで、つるっと吸い込んだかんばせが、それはもう満足そうにほころぶものだから、ホムラは思わず気の抜けた笑い声を上げた。

 ──マツブサは、あれからすっかり気を張るのをやめてしまった。

 例えば、風に遊ばれてきらきらと輝く赤髪。以前は丁寧にくしけずられていたそれが乱れて顔にかかっても、彼はちっとも気に留める素振りを見せやしないで、その都度ホムラが指でそっとすくって額をなぞり、形良い耳に優しくかけておまけに手櫛で整えたらば、目を細めて「お利口」なんてうっとりと微笑んでみせるのだ。
 『この子はどこまで私に尽くすのだろう』と興味本位で泳がされている気がしないでもないが、薄く染まる目元に作為的なものは見当たらない。なにくれと世話を焼きたがる男のために理由をくれているのだと思って、ホムラも好きにやっている。
 甘やかしているのだか、甘やかされているのだか。……と、まあ、近頃はもっぱらそんな様子で、現にいまのマツブサは、いとけない子どもみたいに、うつらうつらと夢うつつなのを隠しもしない。

「諸々のことを片付けたら、アルトマーレに行きましょう。ゴンドラでゆっくり街を巡って、海沿いのホテルに泊まって、朝から晩までずーっとお天道様を浴びて過ごすんです」
「水の都か……うん、いいな」

 返事はないかと思ったが、むにゃむにゃとぬくもった声が律儀に返した。

「はい。あちらにも守護神とされるポケモンがいるそうですから、もしかしたら会えるかもしれませんね」
「よく知ってるな」
「マツブサ様と色んなことを経験したくて、たくさん調べているのです」
「ふふ……そうか」
「のんびりした街のようなので、腰を据えて過ごしましょう。気ままに美味しいものを楽しんだり、好きなだけ惰眠を貪ったり……。時間に追われることがないと、むしろやれることが多くて大変かもしれませんね。これからは思い切り羽を伸ばして、……、マツブサ様?」

 重厚な石橋の上をあちらこちらへ舞う痩躯、舌鼓を打つ彼の白い手につうと垂れるジェラート、青天よりも晴れやかに破顔して、私の手を引き心をくすぐる彼の喜ぶ姿……、とめどなく湧き上がる想像に夢中になっていたホムラは、いつしか相槌が途絶えていることに気がついた。
 ホムラはそっとくちびるを結んで、隣で横臥しているマツブサを見下ろした。
 そよそよと気持ちの良い風が、赤い前髪を揺らしている。いくぶん伸びた癖っ毛が、閉じられた目蓋の上で優しく舞った。無垢な細面に顔を近づけ見つめてみても、愛しい瞳は瞼の下に隠れたままで、マツブサは本当にまどろみにとらわれてしまったようだった。
 いっそ禁欲的なまでに無防備な寝姿だ。──ホムラは自らが夢見がちであることを重々承知しているが、現のマツブサは己の夢想など及ぶべくもないということも、こうしてよく知っている。
 堅苦しい詰襟から解き放たれた、鎖骨まであらわな生白い頸すじ。つるりと男を手招きするそこに指を伸ばしかけ、肌理細やかなその流線上に新緑の影が踊るのを見て、不埒な心と一緒に指を引っ込めた。
 ホムラはひとりぽつねんと静けさの中に取り残されて、一度、二度の瞬きののち、自分もごろんと寝転んだ。改めて彼の方に向き直る。くうくうと静かに寝息をもらす表情には険がなく、夢を追いかけていた頃の何倍も穏やかに見えた。

 ――「なにも無くなってしまった」。
 グラードンが彼方へ立ち去るのを見届けたあの時、マツブサはかすかにそう呟いて、すぐ後ろにホムラが立っているのに気が付くと、バツが悪そうに「冗談だよ」と美しく笑った。
 ホムラは、それが軽口だなどと信じていない。彼はあれきり失意も諦念もあらわにすることはなかったが、それでも、心にぽっかりと穴の空いているであろうことは、彼を恋い慕う男としてわかっているつもりだ。

 もしも願いが届くのならば、どうか温かい夢でありますように。

 安らぎを感じさせる寝顔は、ホムラの胸にぽかぽかと沁みこんだ。けれど同時に、夢の中でしか安寧を享受できない彼の不器用さを、少しばかり歯がゆくも感じた。
 ホムラはゆっくり目蓋を閉じた。薄い瞼の向こう側で、木漏れ日がちらりちらりと揺れている。
 なにも今、急いですべてを満たそうとする必要はないのだ。これまでも、これからも、マツブサはずっと手の届く場所にいる。ホムラにとって、共に過ごす未来は希望に満ちていて、終わりなどないように感じられた。
 目を閉じたまま、そっと指先を伸ばしてみる。触れた先の柔らかい感触は、マツブサの滑らかな手のひらだ。それは世界を沈める冷たさでもなく、星を飲み込む灼熱でもなく、実に心地よい温もりでホムラの指先と溶け合った。
 きゅうと握りしめてみる。いらえはない。けれど、ン、……と鼻に抜けた声が蜜のように甘く蕩けて落ちたものだから、たまらない心地になって、引き寄せた手の甲にくちびるを押し付けた。柔肌を伝って、指を優しく絡ませる。その仕草が幼子のようなのか、恋い焦がれる男のようなのか、自分ではとんとわからないけれど、きっと彼に聞いたって答えてはくれない気がした。
 とっぷりと睡魔に浸りゆく中、ホムラは『心に穴が空いたなら、私で満たしてしまえばよいのだ。アルトマーレだろうと、どこに行こうと、この人をめいっぱい幸せにして差し上げよう。そうして、何度だって忠誠を……いいや、これからはとこしえに愛を誓うのだ』と思いつき、ふにゃりと相好を崩して、マツブサを追いかけるように夢の世界へ誘われていった。




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おやすみ


 星の降る静かな夜を、俊馬のように駆ける愛車が切り裂いていく。
 木々の隙間からこぼれる星屑は限りなく、冴え冴えとした光の群生は幻想的ですらある。
 地に足の着いたまなこでは天の国など見出せず、そのようなところが実在せずとも構わなかった。
 確かなことは、ホムラは今こじんまりとした新居への帰路を急いでいるのであって、一刻も早く会いたい相手は空の向こうにはおらず、地続きのそこで待っているということだけだ。

 山道を行き、木々の間を走り抜け、真っ向から浴びる風は春の気配を含んでいる。
 ヘッドライトと星光だけが頼りの道のりもずいぶん慣れてきた。シャワーを浴びた紫髪も突っ切る夜風ですっかり乾いて、踊る毛先が宙に残像の糸を引いている。
 ――もうすぐ会える。そう思うと、浮足立って口端は緩み、スピードはぐんぐん加速する。
 そうして流星よろしく飛ばしていたら、とつぜん空高く伸びる木立が途切れて、開けた空間いっぱいに満天の星が広がった。
 幾星霜の明滅に覆われて、星明かりに浮かぶ建物を認めてじわりと減速、急ぎ足で停車する。見事な夜景も待ち人の前では霞むほど、はやる気持ちが体を追い越し玄関へと走り出す。ああ、口酸っぱく言われているスタンドパッドを忘れずに。
 夜露に濡れた雑草を踏み分けて、性急にドアノブへと手をかける。もちろんチャイムは鳴らさない。なぜならホムラは、いつでも自由にあの人のもとへ帰る権利を手に入れている。
 家主は二人。片割れそのいち、ホムラ様のお帰りだ。


 ――惚れ抜いた末に差し伸べた手がいくら届かぬものであろうと、マツブサはホムラのしるべであった。
 そも、彼がまだホムラの世界の頂点であった頃、その背中は雲間からもれる光線のように神々しく、彼方を照らす希望であった。夢も野望も大義さえ打ち砕かれた今、正面切って向き合った彼から輝きが失われたかというと、実のところそうでもない。むしろ、ホムラにとっては長い夜を明かしてようやく兆した曙のようにも見えるのだ。遥かあまねく世を射抜く光芒ではなく、優しく明けの陽光をこちらに導く、そんな大切な存在に。
 そして、美しい東雲は今宵もまた、ホムラの恋慕を素知らぬ顔で受け止める。


 闇夜に沈んだ室内に、薄く開いた扉から仄かな光が差し込んだ。滲む人影が足音も立てずに忍びこみ、扉を閉めて真っ暗闇を取り戻す。
 ――『ただいまは必ず言うこと。そうでないと、寂しいからな』。愛しい笑顔と共に思い浮かんだ決まり事、ホムラは律儀に守りぬいている。
 迷いない足取りでベッドサイドへと近寄ると、こんもりと膨らんだ布団をついと撫で、面映い囁き声をそうっと落とした。

「ただいま帰りました、マツブサ様」
「…………んン」
「ふふ。ぽかぽかしていますね」
「う」

 長い四肢を折りたたんだ男がくるまる布団に、断りもなく潜り込む。クイーンサイズのベッドは軋んで、美しい人の唸り声をかき消した。
 シーツの上に散らばる寝乱れ髪を指で梳く。咎めるつもりで伸ばされたのであろう手のひらは、ホムラの頬をゆるりと撫でて力尽き、重力に従いぱたりと落ちた。思わず笑えば、むにゃむにゃと小言のような呪文のような、やはり寝言に近いそれが布団の中で二人の間にわだかまる。

「マツブサ様、もっと寄ってもよろしいですか?」
「んや……んんう」
「はは、なんでしょうかそのお返事は」

 ゆるくかぶりを振る気配があって、温もりの中でこもった衣擦れの音がした。けれど嫌がる素振りは建前で、存外寒がりな彼は人肌に寄り添って寝るのがお気に入りだと、ホムラはとうの昔に知っている。
 ホムラは忍び笑いもほどほどに、ぐずる年上の彼にそうっと寄り添った。薄く柔らかい胸に優しく顔を埋める。抱きしめているともすがりついているともとれる絶妙な引っ付き加減は、子どもの頃に夜ごと繰り返していたもので、こればかりは彼も無碍に扱えないということをわかった上で、やっている。
 その証拠に、美しい人の右手はうろうろと彷徨って、終いには大きな子どもの背中をそうっと抱きしめ返し、早く寝なさいとばかりにぽんぽんと穏やかにリズムを刻んだ。夢と現実の狭間をたゆたう今の彼からすれば、腕の中のホムラは幼く庇護すべき男の子なのであろうが、ホムラ自身も親愛の情もあれから優に育ちに育って、健全な肉体には歳相応に邪な想いも満ち満ちている。

「はー……マツブサ様」
「ん」
「疲れました……」
「ム」

 大きく息を吸い込むと、彼の胸部からはほのかに石鹸の香りがした。ホムラは誘われるままに、寝間着の上から乳房――この魅力的な部位はそう呼ぶに相応しい――の輪郭をくちびるでゆるやかに辿っていった。そこはぴくりとさざめいて、「ンぅ、」という鼻に抜けた声が聞こえたが、彼はホムラの際どい仕草を幼い所作として許容することに決めたようだった。保護者然とした手のひらが紫髪を二度三度撫で回し、ホムラの鼻先はますます魅惑の谷間に沈んでいった。
 密着したところから、とくん、とくんと、鼓動がやわらかく染みこんでいく。まるで一つになったよう、と言うには少し、隔てる布地が邪魔をした。未だ「子ども」の枠に収められているホムラにとって、薄布一枚隔てた素肌はとても遠い存在だ。
 しかし、男として意識されていない分、マツブサの油断、もとい付け入る隙は実に大きい。
この麗しい想い人を陥落させると心に誓ったその日から、ホムラの恋心は希望に満ちて、下心は夢に満ち満ちていた。
 温かくて、華奢で、口に含めば溶けてしまいそうな彼の胸を、乳飲み子の手振りで揉みしだく。ふと、つむじにあえかな吐息を感じた。それはどうやら寝息ではなく、呆れと羞恥をのせた溜め息のようだった。

「ふ……」
「ん。きもちいです……」
「ほむ、ら」

 滑らかな指先が頬をつねる。寝ぼけた仕草と掠れた声は男心を奮起させ、それでいて押しとどめるには十分な威力があった。

「ほむら……」
「はっ。すみません、もう寝ます」

 心ゆくまで堪能したいところだが、彼の夢入りを台無しにするのは本意ではない。おとなしく平らな胸にくっついて、眠気が訪れるのを待つことにした。
 伝わる心音に耳をそばだてる。熱い息をひとつ落として、ぬくもりにとぷんと身を浸していく。

「おやすみなさい、マツブサ様」
「おやすみ……ホムラ」

 幾重もの鎧を脱ぎ去って、夢も目標も失って、けれどこちらを呼ぶ声はずっと昔から変わらずに、ホムラの心を真綿でくるむ。
 美しい人が奏でるいのちのリズムはホムラを優しく包み込み、優しく絆して温かなまどろみへと導いていった。




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惑溺



 果てなき闇の中、いさり火のごとく雄を惹き寄せるものが立っている。
 裸の肩にショールを引っ掛けただけの淫蕩な有り様で、恵まれた肢体を幽艶に見せつけるその人は、おすわりをさせた私に「ご褒美だ」と蕩けるように囁いた。
 玉の白脚が、すらりと眼前に伸ばされる。顎を持ち上げた爪先が、首筋を、鎖骨の間を、激しく鼓動する心臓の上を、劣情の炎でくすぐるように伝い降りていき、お預けの間にすっかり固く猛った私の欲の塊へ、しっとりと密に吸い付いた。
 柔らかい五つ指と穢れなき足裏が、男根を擦りつけ、しごきあげては、はしたない先走りを纏ってぬらぬらとその珠肌を光らせている……。


「……という夢を見まして」

 白みゆく空、上がりきらぬ己の瞼、目前におわすは愛してやまぬ東雲。

「ど、どうしてそれを私に報告するのだ……」
「正直は美徳ですので……」
「そ、そうか……」

 ぱちぱちと瞬く合間も露と消えぬ麗人は、途方に暮れたような表情で、手にしていた書類を現在進行形で床にぶちまけている。拾い集めてお手元にお返しする際に、さり気なく手袋を外して包み込むように撫で申し上げ、滑らかな手の甲を堪能させていただいた。

「夢の中の貴方も麗しゅうございましたが、現のマツブサ様は夢も理想も遥かに超えて、世界を照らすただひとつの光であらせられると、今改めて実感しております」
「お前さては寝不足だな?」
「その凛乎たるお姿と貞淑な佇まいが、一介の部下たらんとする私に却って身を焦がすほどのエロティシズムを想起させ」
「いいから早く出発しなさい」
「はい」


 なんて仲睦まじく見つめ合い、そわそわと襟足を撫でるばかりで身の入らぬ様子の主君に後ろ髪を引かれつつ、出立したのが今朝の出来事。
 お天道様座すえんとつ山のてっぺんで、目的の隕石はマグマに沈み、ものの見事に任務失敗。
 業務過多による睡眠不足と欲求不満が祟ったなどと、口が裂けても言えるはずがない。己の怠慢に内心しおれて帰路につくと、生涯を賭してお仕えする主君であり、私の帰る場所であるマツブサ様は、帰還した我々をにこりともせず出迎えた。

 今朝は優しく輝いて見えた鮮やかな赤髪も、今ばかりは目に痛い。

「ボルケーノシステムを滅失。挙句、隕石も手に入れられず」
「はっ……。申し訳ありません」
「お前がついていながら、ソライシなどに遅れをとったのか」
「申し開きのしようもございません」
「ふん……」

 かつ、かつ、かつん。
 丁寧に整えられた爪先が、磨きぬかれたオークのデスクを弾いている。真っ向から睨めつけられて微動だにしない私の隣、青褪めた部下が、びくりと身体を震わせた。
 日頃のにこやかさはどこへやら、主君は冷ややかな面差しで沈黙し、我らに発言権はない。広々とした執務室に、不機嫌なリズムだけが響きわたる。
 かつん、かつん、……かつん。
 どこまでも重苦しい音が止んだ。静寂が我々を囲みこむ。苛烈な眼差しは、かわらず私を射抜いている。
 自惚れではなく、私はマツブサ様からいっとうのご寵愛を受けているという自負がある。だからこそ、対峙する部下を萎縮させるように黙りこむ姿がらしくなく、申し訳なさよりもその様子が気がかりで息が詰まった。
 張り詰めた空気を隔てる展望窓の向こう側では、キャモメの群れがのんきに晴天を泳ぎ回っている。燦々と降り注ぐ陽に照らされて輝く主君の色なき眼差しが、私を逃して隣の部下へぎろりと向いた。
 麗しい唇が薄く開いて、沈黙に終止符を打った。

「君はもう下がっていい。ホムラは残れ。話がある」
「はっ」

 ひ、と部下が息を呑んだ。はいと応えようとして、惨めにも失敗したようだった。
 隊長に責任を負わせて退出してよいのだろうか、なんて憂慮の見えるおどおどとした素振りで、部下がマツブサ様に背を向ける。その丸まった背中に、怜悧な声がざくりと刺さった。

「朝までこの部屋に誰も近づけるな」

 か細く上がる短い返答。地獄の仕置きでも思い浮かべたのだろう。ひどく狼狽した部下は、私の身を案じるような目配せを最後に、もつれる足取りで去っていった。
 礼を失した音を立て、重厚な扉が閉まる。そうして、二人だけが密室に残された。

 ──当の私はといえば、声を上げて笑いだしてしまいそうだった。

 夜がな夜っぴてマツブサ様とご一緒できるだと! 罰どころかとんだ恩賞だ。心の弾む音がする。お前の上司に待ち受けるのは極楽の褒美だと、哀れな脱兎に大声で教えてやりたいほどに。
 マツブサ様が腰を上げた。すらりとした長身がデスクを回りこみ、後ろ手に仁王立つ私の方へゆっくりと歩を詰める。赤髪がしゃらりと揺れて、小首を傾げた厳めしい双眸が至近距離から覗き込んできた。

「……さてホムラ。どう埋め合わせをしてもらおうか」
「はっ。どんな罰も甘んじて受ける所存です」
「ふ。今にも庭を駆け回りそうな顔をして、罰を受けるもなにもあるまい!」

 自慢のポーカーフェイスも、この方の前では型なしだ。顎を下げずに見つめる先で、口をへの字に結んでいた主君が破顔した。途端に周囲がぱっと明るく華やいでいく。
 どうやらご機嫌をなおしてくださったようだ。
 知らず安堵の息をつく私の周りを、後ろ手を真似して茶目っ気いっぱいのおみ足の、ポチエナのように弾む足取りがくるくるまわる。どんな心境の変化かはわからぬが、打って変わって喜ばしそうなお姿にハテナが浮かぶも、その様子がお可愛らしかったので、見惚れて思考を放棄した。

「玩具を壊して尾を振る雄犬には、きつく灸をすえてやらないとな」
「はっ……」

 沙汰を待つ私の顎を、指先がついとなぞって離れていった。ときめきもあらわに視線で追うと、洒脱な長衣を翻してくるりと一回転、踵をそろえてこちらに向き直ったマツブサ様が、まばゆい笑顔で両腕を広げて私を招いた。破壊光線顔負けの、凄まじい威力がこの身を襲う。
 ちかちかと目を眩ませながらお招きに応じようと足を踏み出すと、辻斬りのごとき勢いでマツブサ様の方から飛び込んできて、ぎゅうっと抱きしめられた。清らかな香りが鼻孔を満たす。震え慄き、無上の愛くるしい存在を捕らえようと両手を回すも、一足遅く華麗にひらりと逃げられた。
 そうして、わずか数秒の犯行で男を煽りに煽った通り魔様は、応接ソファにぴょんと腰を落ち着けた。お尻からソファに飛び込むなんて真似、お行儀が悪くて、一生の思い出に残るくらい、とんでもなく愛らしかった。
 若者の動揺などなんのその、マツブサ様は優雅に脚を組み、口元に指を添えて私を呼んだ。

「座りなさい。ほら、ここ」

 マツブサ様が座る横、優に二人分は空いたそこを、ぽんぽんと白い手が叩く。遠慮がちに隙間をあけて腰を掛けると、ぐいと身が寄せられて、太ももの側面……どころか、二の腕に至るまで密着してしまった。次いで、華奢ながらも貧相とは程遠い身体がしなだれかかってくるものだから、腰に手を回して抱き寄せれば、高鳴る胸板にそっといたずらな手のひらが置かれた。
 視線を上げると、マツブサ様のかんばせが、くちづけをねだるような近さにあった。慈愛に満ちた眼差しが、吐息さえ混ざる距離からこちらを見つめている。波打つ鼓動を確かめるように、滑らかな熱が私の胸を撫であげる。

「灸をすえるなど冗談だ。今回は、ボルケーノシステムが実用に足るということがわかっただけで十分だからな。そんなことより、お前がソライシごときに土をつけられたことの方が心配なのだよ」
「寛大なお心遣い痛み入ります。……ですが、あの、マツブサ様……先程まで怒っていらっしゃいました、よね?」
「ん……」

 睫毛が伏せられて、気品に満ちた唇がつんと尖った。拗ねた口ぶりが、羞恥をのせてぽつりと落ちる。

「ホムラが急にエッチな話をするから、期待に応えようと思って待っていたのに……、お前ときたらそんなことも忘れて、しょんぼりした顔で帰ってくるものだから」
「ま、マツブサ様……!!」
「まあ、かわいいお前を見ていたら、怒りなど吹き飛んでしまったが」

 私の呼吸にあわせて上下する団のシンボルマークの上で、シミひとつない手のひらが、欲に濡れた手つきで薄布越しの胸筋を味わっている。どぎまぎと身を固くしていると、タンクトップの裾をつまんでできた隙間から白い指がすいと侵入し、直に腹筋をなぞられた。ごくりと喉が鳴る。
 粟立つ素肌の上を歩く手のひらが、裸の胸に吸い付いた。勿体ぶった手つきで、柔らかく揉まれる。色鮮やかな欲望が、ぱちぱちと視界で爆ぜた。
 「仕切り直しだ」そう言って、マツブサ様が唇すれすれのところにちゅうとキスをする。
 舞い上がって奥ゆかしい唇を迎えに行くと、私の舌を甘ったるく吸って瞼を閉じたその人の指先が、優しく乳首をつまみ上げた。慣れない刺激がなんとも面映ゆく、こそばゆさに上体が揺れる。
 報いるように、マツブサ様の大好きな上顎を可愛がろうと口づけを深めると、頭を振って逃げられた。一方で、私の乳首は相変わらず摘まれている。
 気持よくしようとしてくださっているのはわかるが、焦れったさが頭をもたげた。

「あの、申し訳ないのですが、そこはあまり……」
「えっ、そうなのか? こうされたら、私はすごく気持ちいいのだが……」
「………………」

 勝手知ったる可愛い小粒を、服の上からつまみあげる。

「あっ! こらっ、やめなさい」
「不可抗力です」

 ぺちんとはたかれ一時撤退する。すぐさまリベンジしようと両手を差し向けると、照れくさそうに身を捩る主君から「がっつくな。私からしてあげるから、ちょっとだけ我慢だ」なんて絶大な効力を持つ意地悪をいただいた。

「マツブサ様……」
「ここ最近働き詰めだったから、疲れているだろう。労ってやる」

 言うなりこちらに向き直ったマツブサ様が、ずりずりと膝で移動して私の上に乗り上げてきた。柔らかなお尻が腿に座る。躊躇いつつ柳腰に手を添えると、ほんのり色づいたお顔がこちらを見つめながら、見せつけるように大きく開脚した。蠱惑的な振る舞いに唾を飲む。
 胸板を離れた手のひらが、臍周りをなぞりながら下がっていって、身を震わせた私のベルトに指をかけて静止した。

「お前はいつも私に奉仕しすぎなのだ。たまにはすべてを委ねてみなさい」
「はっ、しかし……」
「いい、日頃のお返しだ。前後不覚になるまで甘やかしてやろうじゃないか」

 カチャカチャと音を立てて、不慣れな手つきが金具を外す。うきうきワクワク、心から楽しそうなご様子で、私のボトムに手をかけている。
 引きぬかれたベルトがフロアマットに落ちていくさまを夢見心地で眺めていたが、はしゃぐ指先がファスナーを下げようとしたところで、我に返った。手首を握って待ったをかける。

「ま、まだシャワーを浴びておりません」
「うん? それがなにか」
「一度その、身体を流してきても……」

 ぐるり、握った細い手が裏返って、私の手首を生温かい熱が包みこんだ。

「構わん。このままいいようにされたまえ」
「い、いけません……」
「そんなに物欲しそうな顔をされては、こちらだって我慢がきかないよ。私に待てと言うのか? なあ、ホムラ……」

 幼子をあやすように、柔らかく額へ口付けられた。続いて、軽いリップ音とともに、頬に愛らしい口付けが。悪魔のように艶治な指で男の顎を上向かせ、屈みこんでこちらを伺う可愛い人は、私の唇をやわく食んで「キスしなさい」と囁いた。
 これほど凶悪に誤魔化されては抗えず、分厚い舌で上品なそこをこじ開けて、敏感な粘膜を丁寧に愛撫する。くふくふと嬌声を漏らして身をくねらせるマツブサ様の指が、とん、とん、と私の手の内を歩いていって、しまいに指の付け根をこしょこしょとくすぐって、再びボトムに手をかけた。
 口腔を味わっていた舌先を焦らすように甘く噛まれて、魅惑のくちびるが離れていく。
 「マツ、」言いかけて、耳に熱い吐息を吹き込まれた。ぞくぞくと震えた私の首筋に、愛らしい白い歯がかじりつく。そして、熱に疼く身体の中心、はっきりと兆したそこを服の上からさすり上げられて、下肢が震えた。

「う、ぐ」
「ほら。ここは触ってもらえて嬉しそうだぞ」

 口端を上げて勝ち誇る、その上気した頬が、期待に濡れた眼差しが、私を興奮の淵に追い立てる。ぐっと握りこまれると同時に、首筋をなぞりあげた唇に耳を食まれた。

「は、あっ」
「ふふ。お前は耳が弱い」

 ジジ、とかすかな金属音が聞こえた。大きく前をくつろげられる。みっともなく下着を押し上げる熱を見つめて、マツブサ様がはあと火照った溜息をついた。
 たおやかな指が、膨れ上がったそこを弄ぶ。こしょこしょ、つんつん、さわさわと、布地にシミの浮くほど脈打つ分身をしばらくそうして遊ばれて、唐突に、ぐいと下着を下ろされた。滾った逸物がぶるんと飛び出す。あらわになった私の怒張が、品なく天を向いている。
 目元を赤くしたマツブサ様が、うっとりと喉を鳴らした。高貴な指が、逆手にゆっくりと灼熱を撫で上げて、カリのくびれをかしかしとくすぐった。
 一方的に暴かれる感覚にたまらず細腰を強く掴んでしまい、マツブサ様の「あっ、ン……」と感じ入った吐息が私の耳を悦ばせた。

「だーめ。労うと言っただろう? じっとしていなさい、ステイ」
「ふ、う、……っは、い……」
「いい子だ。お前に触られたら、なんにも考えられなくなってしまうからな……」

 待てを命じられた忠犬は、ただじっと期待して、ペニスの先から涎を垂らすことしかできない。
 ご主人様は、肉欲の塊をいやらしく撫で回し、ぷくりと滴る先走りを人差し指に塗りつけて、鈴口をにちにちといじめながら、典雅に笑んでくちびるを一舐めした。

「手で、と思っていたのだが……ホムラ、舐めてもいい?」
「お、お口でそんなっ……、していただけるんですか」
「いいぞ。たくさんぺろぺろしてやろう」
「シャワーを浴び」
「しつこい。私は今すぐしたい」
「ゴムを」
「生がいい。ホムラの味が知りたい」
「んぐぅ……」

 己の口をバシッと手で塞ぐ。ときめきでのぼせて死にそうだ。
 ギンギンに主張するそれをすべすべの手でしごきながら、マツブサ様がゆるりと腰を引いた。小鳥がついばむような口づけをひとつ、腿に乗っていた熱がひいて、魅惑の体躯が足元に下がっていく。私の太ももに手をかけたマツブサ様が、足の間にぺたんと座り込んだ。
 肉棒に手を添え頬寄せて、仔エネコのごとく愛嬌たっぷりに笑うマツブサ様……暴力的なまでに素晴らしい光景だ。……が。

「お、御身が跪くなど……!!」
「ひどいホムラ。私のすることが不服だなんて……」
「すみません大歓迎です」
「だろうな。正直でよろしい」

 やられた。もとより逆らえるはずもないが、私はマツブサ様の望むまま咲き乱れる、盛りのついた雄犬だ……。両手で顔を覆うも、指の狭間から見えるマツブサ様は極上の笑顔でグロテスクなそれにキスをして、私を慰め昂ぶらせていく。
 やにわに、指でぴんとペニスを弾かれた。楚々としたくちびるが、筋の浮く竿を横からかぷりと食んだ。

「っ、マツブサさま……」
「おっきくって、咥えられそうにないな……。ふふ、顎が外れてしまいそうだ」
「はぁっ……、かわいい、お可愛らしいです、マツブサ様」
「かわいいのはお前の方だ。ここをこんなに膨らませて」

 マツブサ様が、うっとりと男性器に頬を擦り寄せた。唾液をまとった舌先が、私の卑しい末端をぺろりと味見する。
 そして、男根を握りしめ、伏目がちに恥じらうお顔が、ちうと先端にキスをした。喉奥から獣のような唸り声が出る。何度もくちづけを落とされて、透明な粘液が桜色の唇との間に糸をひいた。先走りを絡めとるように舌でぺろぺろと舐められて、ますます粘ついた欲望がとろけ出していく。
 てらりと光る唇が花開いて、貞淑にも淫猥にも満ちたそこが先っぽを咥えた。快感が背筋を走る。濡れそぼった口腔が先端を包み込むも、優艶で慎ましいお口ではひと息に飲み込めないようで、ゆっくりと亀頭がぬかるんだそこに覆われていく。マツブサ様の頬がぽこりと膨らんで、ぎらつく目線が釘付けになる。

「マツブサ様ッ……! っはァ……」
「んく」

 麗しの細面が、男を咥え込んだまま、ころころとお笑いになっている。その可憐な振動がダイレクトにペニスを刺激するものだから、歯を食いしばって快感を受け流した。
 心休まる暇もなく、膨張したそこをちゅぷちゅぷと食まれたかと思うと、ちゅうとすぼまって熱く吸われる。息を詰めたところで、根本を押さえていた両手の指が裏筋をこすりあげ、舌先がぬるぬると割れ目をなぞって往復した。

「うっ……、き、もちい、です……、っは……」

 私の喘ぎ声を受けて、愛しい瞳が嬉しそうに細められた。少しずつ喉奥に咥え入れられて、溜まった唾液を飲み込んだ喉に亀頭が絞られ、腰が跳ねそうなのを必死に抑える。喉奥を突き上げるなど以ての外だ。快楽の奔流が、全身を駆け巡っている。
 鼻息荒く、無沙汰な手で乱れた赤髪を耳にかけ、頭を撫でて差し上げる。得意げな上目遣いと目があった。欲望がずしりと質量を増す。
 マツブサ様が頭をひいて、熱く熟れた口腔からペニスがまろびでた。ひやりとした空気が触れて、けれどすぐに、弧を描いたくちびるが根本に吸い付いた。やわく蠢く舌とともに、下の方から幹をはむはむと伝いのぼっていく。
 凄艶極まる可愛い人は、「かわいいな……」と蕩ける吐息で肉竿を撫で、かぱりと開いた赤い口で、亀頭を飲み込んだ。

「っう、あ!」

 みっともない声が出た。しとどに絡みつく舌が、淫らにうごめく肉壁が、固く張り詰めた肉棒にむしゃぶりついて、奥へ奥へと咥え込んでいく。微かに苦しげな表情で、時にずろりとこうべを引いて、ぐうっと深く顔を埋めて上下する、そのたどたどしく懸命にご奉仕くださるお姿が、狂おしいほど胸を打つ。

「ふっ、はァ、ま、つぶさ、さまっ……」
「ん、ぐ、……っむ、」

 くちゅくちゅ、ぬぽぬぽと、上品なくちびるが奏でる品のない音に血肉が滾る。
 太ももの横で握りしめた私の拳に、竿をいじめていた手のひらがぺたりと覆いかぶさった。指を絡ませる。繋いだ手が愛に汗ばみ、ぎゅうと吸いついて一つになる。
 耳まで真っ赤に染めて涙を滲ませた上目遣いが、ゆっくりとこちらを仰ぎ見た。

「う、ぐ、ま、マツブサさま、もうっ……、ッ……!」
「んぅ……」

 悦楽にとろんと蕩けた微笑みが、私を絶頂に導いた。
 果てる寸前、繋いだ手をほどき、華奢な両肩を掴んで引き離した。ちゅぽんと音を立てて解放された先端から白濁が迸り、咄嗟に目を瞑ったマツブサ様のお顔に降りかかる。
 ばくばくと心音が鳴り響く。眼前に広がる絶景に、ごくりと喉が鳴った。
 マツブサ様の火照り顔が、私の精液に濡れている……。
 うぶな瞼がそろそろと開いて、数度瞬いてから、握りなおしたペニスの先を尖ったくちびるがつんとつついた。くすぐったさと愛おしさが、後ろめたさを凌駕する。

「ま、まつぶささま、申し訳ありません……。目に入っていませんか?」

 ポケットから出したハンカチで頬を拭く傍ら、マツブサ様の指が、塗り広げるような動きで口元を拭う。蜂蜜でも嗜むように、白濁を可憐なお口が舐めとった。

「大丈夫だ。少し驚いただけで、ん……」
「ああっ、お舐めになってはいけません」
「お前はいつも飲んでいるではないか」
「私はよいのです。マツブサ様のものは一滴残らずいただきたいので」
「ホムラばかりずるいぞ。もう一回だ。今度はちゃんと私の中に出しなさい」

 私の中……。マツブサ様の手の内で、素直な愚息がグンと反応した。
 先程まであんなにいやらしくしゃぶっていた人が、わ、と小声で驚いて、恥ずかしそうに眉尻を下げた。それなのに好奇心いっぱいな手つきで揉まれて、男の象徴が再び硬度を取り戻していく。
 おまけに上目遣いで玉をぺろんと舐められて、んぐうと唸った男心を知ってか知らずか、仕草ひとつとっても悪質な主君は「ホムラのエッチ……。本当に私のことが大好きなのだな」などと言い放ち、頬を染めてはにかんでいる。

「はっ、大好きですマツブサさま」
「私も好き。だが、奥までは咥えられなかったな。すまない」
「いえ、天にも昇る心地でしたので、お気になさらず……」
「そう? じゃあ次は本当に天に昇らせてあげようか。ふふ」

 口を引き結んで愛を飲み下す。
 男の情動をよそに、ふわついた小さな舌が、ガチガチに復活した剛直の先を舐めだした。ご褒美に息を乱しつつ、美味しそうにしゃぶっていらっしゃるこのお顔、見覚えがあるような……と首をひねって思い出した。大好物のアイスクリームを握りしめ、幼子のように夢中で味わっていらっしゃった時の、あの幸せそうな表情だ。
 気づいた瞬間、体中がのぼせ上がった。

「マツブサさまっ……」
「いつも私ばかり気持ちよくしてもらっているからな。今日はお前が満足するまで、好きなだけいじめてやろう」
「っく、光栄、です……」

 愛する人の繰り出す言葉が、急所を抉って突き刺さる。これ以上興奮させられてはたまらないと、獣めく両目で睨めつけたところで。

「……なんてな。本当は、私がたくさんしてみたいのだ。さっきも舐めていただけで、気持ちよくなってしまって……。はしたないが、ホムラとこうするのを、朝からずっと楽しみにしていたから」

 えへへとはにかみながら、容赦無い追撃。
 すんでのところでこらえていた理性が、あっけなく消し飛んだ。

「マツブサさま」
「なんだ?」
「お覚悟ください」
「えっ?」

 ソファの背もたれを倒し、ベッドへ様変わりしたそこへ魅惑の痩躯を引っ張りあげて、俊敏かつ丁重に押し倒した。
 のしかかった己の腕の中、まんまるに見開かれたお目目が私を見上げて瞬くが、お咎めをいただく前にとっておきの愛でくちびるを塞いだ。

「んむ、っふ、ンン……!」

 薄い唇をくにくにと食み、火照った吐息ごとねぶって味わう。ふわりと開いたくちびるのあわいに侵入を果たして、さきほど可愛がることの許されなかった上顎をねっとりと蹂躙する。力を抜いた舌先でくすぐるように愛撫して、合間に可愛い舌をすくいあげては踊るように絡ませ合って、キスが大好きなマツブサ様の心も身体も満たして差し上げる。
 口内を可愛がれば可愛がるほどとろとろに開花されていくマツブサ様は、恍惚とした表情で舌を震わせて顎を上げ、私に犯されるのを求めるように動きを追っていらっしゃる。
 くっと口端が上がるのを自覚した。私の愛するご主人様は、ことさら快楽に弱くどこまでも私に甘い……。

「んっ、んぅ、……」

 鼻にかかった嬌声が私を呼ばう。わずかに腕の動く気配を感じて、両手の指を絡めてソファに縫い止めた。両腿を膝で挟み込む。鍛えぬいた躰の檻に閉じ込めたって、雁字搦めに囚われているのは己の方だ。みだりがわしい水音に犯され、呼吸の追いつかぬほど昂ぶっているご様子に、唇を解いて幾つものくちづけを降らせる。白雪のごとき肌、紅潮した頬、透明な雫をたっぷりと湛えた目尻に、万感の想いを込めて。
 服の上から胸の先端をひっかく。生白い顎がびくんと上向いた。垂涎の首筋へかぶりつき、手慣れた手つきで服の釦を外していく。
 何回何十回とこの身を許された私にかかれば、輝く素肌にお目通り叶うまでものの数秒もかからない、が。

「待て」
「……ッ! う、」

 頭で理解するより早く、反射で身体が固まった。
 瞠目した先で、か弱く喉元を晒すばかりに見えた獲物が、燃え盛る眼でこちらを見ていた。先ほどまで確かに翻弄されていたはずだ、それなのに。
 肩で息をするマツブサ様がわずかに頭を持ち上げて、こつりと額が合わさった。くろいまなざしがニタリと笑んで私を穿つ。

「自分で脱ぐ。私のストリップなんて貴重だろう? じっくり鑑賞するといい」
「ま、マツブサ様……」
「脱ぎ終わるまで、そのおっきなもので遊んでいなさい」
「っは……う、」

 呆然と静止するなか、繋がったままの右手が己の男根へと導かれていく。絡んだ指がひとたび離れて、手の甲を覆われたかと思うと、自らの逸物を握らされた。それから、年端もいかぬ男児に自慰を教えるかのような手つきで、こし、こし、と優しく揺すられて、とうに膨れ上がったそこがびくびくと脈打った。

「ほら、ごしごし……ゆっくり、ゆーっくり、出しちゃダメだぞ。ふふ」

 劣情が口から滴り落ちそうだ。みっともなく鼻息を荒くする私を見て、喜悦に瞳を細めたマツブサ様が、ぐいと上着の合わせを開いた。胸の先までほのかに上気した抜けるような白肌がこぼれだし、横っ面を張られたような衝撃に戦慄いた。
 まさか、素肌に直接羽織っていらっしゃるなんて……。
 ごくりと喉が鳴る。つんと主張する胸の頂きを逆上せた頭で見つめながら、激しく手の内の自身を抜き上げた。
 マツブサ様は焦れったく身を捩りながら、もたもたと袖から片腕を引き抜いている。とてもストリップなどと呼べる有様ではなく、むしろそんな下品なものより男の心を穿って離さぬお仕草に、握りこんだ剛直の先からますます歓喜の雫が滲みだした。
 しばらくそうして、薄い腹やくびれた腰をねじって仰け反り、奮闘の末ようやく上半身だけ裸になったマツブサ様が、にこ、と照れくさそうに微笑んだ。
 己を組み敷きペニスをしごく男に向かって、上手に脱げたぞ、さあ褒めなさいみたいなお顔で。

「ぅく、は、マツブサさま、まつぶささまっ……」
「偉いぞホムラ。もう少しだけ我慢できるな? うんと気持よくしてやるから……」
「っは、う、うぅ」

 倒錯的な状況が言葉を奪う。
 触れたい、舐めたい、味わいたい、唇で辿って吸い上げて、指先でなぞって蹂躙して、余すところなく堪能させていただきたい。それなのに、手を出してはならぬ、欲を解放させてもならぬと、極まらない程度に竿を扱き上げることしかできず、鈴口から耐え忍ぶ涙がつうっと落ちる。
 それがマツブサ様の下衣を汚してしまうと思い至らぬほど、お預けをくらった頭は茹だって靄がかり、顎先を伝い落ちた汗までもがぽたりとマツブサ様の口端を叩くも、あ、と瞬く間に、淫猥な舌がぺろりと私の体液を舐めとった。

「辛そうだな……。健気で可愛い犬には褒美をやろう」
「あ、ま、お待ちくださ、ッう、はァ……ッ!」

 優しさを装った凶悪な指先が、カリをこしょこしょとつまんで遊びだした。そのまま手のひらで亀頭を覆われ、粘液で滑る熱い肉にねちねちとこね回される。あらん限りのプライドで抑えこまなければ、今にも爆発してしまいそうだった。

「ア、はっ、マツ、くぅっ……!!」
「ふっ、は……そう、待てだ。いい子いい子……」

 血管が切れそうだ。ぐらぐらと男を煮え滾らせるマツブサ様のもう一方の手が、そっとご自身の胸元に寄っていく。未だ下肢の脱衣にとりかかる気配すら見せず、これでもかと私を地獄の責めで苛んでおきながら、乳首へとたどり着いた指先が、魅惑のそれを引っ掻いてはくにゅりと摘んで、最高のひとり遊びをはじめてしまった。

「ん、あっ、ホムラ、ほむらっ……あっ、ンぅ……」
「~~~~ッツブサ様ぁ……!!」

 ぴんと尖った乳首が、くにくにと押し潰されて形を変える。
 お預けをくらわせた犬と見つめ合い、貞淑を形にしたような指で桜色に染まる乳首をいじって、嬌声を溢れさせては善がる淫乱な飼い主さまは、蕩ける笑みでくちびるを舐めて湿らせた。

「はぁっ……出したいか、ほむら……? ン、ふふ……かわいそうに……」

 憐憫を口にした美貌が、艶やかに濡れた眦にシワを寄せた。
 くちびるを極上の愉悦に歪めて、心の底から楽しくてしかたがないという風に。
 激しく震えた左腕が自重に屈して、マツブサ様の上にどさりと倒れ重なった。きゃうんと子犬のような息遣いののち、下敷きになった主人が耳元で可憐に笑う。
 両腕に背中を掻き抱かれ、首筋に熱く吸い付かれた。

「はっ、はーっ、ウッ……! まつぶささまぁっ……!!」

 果てなき快感が迸り、勢いよく体外へと溢れ出た。
 ばくばくと暴れる鼓動が、密着した主人の胸を叩く。愛しい身体に覆いかぶさったまま、ぜえぜえと全身で息をする。
 余韻を噛んで、白い項に鼻先をくっつけて思いきり吸い込んだ。清楚で芳醇な、男を包み込むマツブサ様の芳香に、心も肺も満たされていく。
 大きな飼い犬にじゃれつかれたご主人様は、可笑しそうに、愛おしそうに、耳元で「待てを破ったな……悪い子だ」なんて囁いて、優雅にくすくすと笑っている。
 ひときわ愛のこもった強さで抱きしめられて、たまらず火照った痩躯に縋り付いてくちびるを貪った。

「んちゅ、う、……んく」

 熱い手のひらが背を滑り、か弱くも必死さの滲む力で、タンクトップを握って引き寄せた。望まれるまま身を寄せあって、絡みついてきた舌を吸い上げ歓迎し、好きなだけ口内を貪りあう。私の手管を真似ているのか、たどたどしく歯茎をなぞる舌先が愛おしい。下腹を快感の炎が舐める。
 マツブサ様のなだらかな胸板が大きく上下するのを感じて、優しく舌の根をすくい、惜しみながらくちびるを解いた。
 真っ赤に熟れた口腔、とろける吐息、熱に浮くまなざし、あられもない痴態に、体の芯まで熱に侵される。
 耳元から首筋にかけてちうちうと執着の痕をつけながら、しっとりと汗ばむ胸を両手で揉むと、マツブサ様がくすぐったそうに身を捩らせた。昂ぶるままに肌を食む。

「っん、あまり、痕をつけるんじゃない……」
「ご安心を。お召し物で隠れます」
「そうじゃなくて、あっ……見るたび、思い出してしまうだろう……」
「……忘れられないよう、毎日つけて差し上げますよ」
「それは……いやじゃないから、こまる……」

 恥じらいにけぶる瞳を逸らして、ぽつりとそんな愛を吐く。喉笛に食らいつきたい衝動に駆られるが、甘く噛むにとどめて、従順な獣のふりをした。牙を突き立てて奪うより、丁寧に可愛がってとろかして、この人のすべてを仕留めてしまいたかった。
 男の膨れ上がった執着にねぶられてなお高嶺に咲き誇る人の手のひらが、つうとひそやかに背筋をなぞる。頬に吐息を感じ、キスをくれるのかと期待した瞬間、とっておきの囁き声が鼓膜を撫でた。

「私のかわいいホムラ。くちびる以外でも、もっとお前を感じさせてくれないか……?」

 ゼロ距離で放たれる、とどめとばかりの、はにかむ笑顔。
 眩すぎて世界が霞んだ。

「はっ……!!」

 灼熱の幸福が全身にこだまする。沸騰する愛と欲望に満ちた手つきで柳腰をなぞり下ろせば、生白い肌がぴくんとさざめいて、淫猥な吐息が空気に溶けた。
 身を起こし、背から白い手が滑り落ちたのを惜しむ暇もなく、中途半端にわだかまっていた衣服をすべて脱ぎ去る。マツブサ様の下肢も露わにしようと手をかけると、唇にひたりと人差し指の静止がかかった。
 息を呑む。艶やかなくちびるは何も語らず、ただ、情欲を孕んだ瞳が笑んでいる。
 この期に及んで、まだ焦らすおつもりか。
 すぐにでも善がり狂わせて差し上げたいのに、きっとまた『可愛がられて』しまうのだ。けれどその予感にも昂ぶるばかりで、逞しい身体を華奢な身体にぴたりと重ねて、思いきりベッドに埋めた。
 「ぅぐ」と唸ったかわいい人に、にこりと笑顔を差し上げる。手出しを禁じられようとも、奉仕する方法ならいくらでもあると、思い至っていただくために。
 厚い胸筋で薄い胸の頂きを押し潰すと、マツブサ様が可憐に鳴いた。

「あっ、重いぞ……こら、こすっちゃ……ア、ん、んぅっ」

 互いの肌が吸い付いて、しっとりと皮膚が惹かれ合う。尖りきった乳首を愛で転がすように、押し付けた上体をねちっこく揺り動かす。先端同士を合わせるように擦ってみれば、「あっ、もっと……」なんて素直にねだられた。抗議のつもりだったのに、感じ入る様子がただ嬉しくて、ますますご奉仕をしたくなる。
 二人して、前戯だけでどろどろだ。ずっとこのまま、という澄んだ思いと、奥の奥まで受け容れてほしいという欲望が煮えたぎる。そこに、「は、ぁふ、あ、」と喘ぐくちびるに天使のようなキスをされて、やはりくまなく犯し尽くして差し上げなくては、と怒涛の勢いでペニスに血が集まっていく。

「っんン、やっ……も、気持ちよくってダメだ! ふふ……」
「おみ足も、可愛がらせてください、まつぶささま」
「あはは! あっ、ン……いいぞ、好きにしなさい」
「はっ……!」

 待てが解かれた!
 早急に下肢のお召し物に手をかけて、湿った感触に気がついた。外側を私の白濁に穢された黒のスラックス、その股間部分が、内側からしっとりと濡れている。思わずお顔を見つめると、口元を隠すように翳された手指の隙間から、美しく白い歯がこぼれた。

「んっ、ホムラ……。私、触れられてもいないのに達してしまったのだ。濡れて、きもちわるいったら……。ふふ、脱がせなさい、はやく」
「ああっ、マツブサ様……」

 いたずらな笑顔がまばゆく光る。腰を掴む私の手を、たおやかな指がなぞって離れた。
 性急に、けれど恭しく、衣服をずり下ろす。マツブサ様は、お尻をわずかに持ち上げると、服を抜かれるのに合わせて、爪先で宙を掻いた。
 下着を履いていらっしゃらない、頭ではそうわかっていたが、実際に瑞々しい生肌がお目見えすると、鮮烈に心が眩んだ。
 頭をもたげる綺麗なペニスをじっと見つめる。伸ばされた手がそれを覆い隠した。ちらと見やれば、上気した頬が、むっとむくれて先を促している。
 可愛らしくて、つい声をこぼして笑っていると、愛しいくちびるがますますツンと尖っていった。へそを曲げられてしまわぬうちに、引っかかっていたスラックスと靴下を抜いて放る。丁寧な手入れの賜物、年の頃を伺わせない美の象徴たるおみ足が、つまびらかに目前に晒された。
 私を魅了してやまない人の、艶やかな腰のライン、そこからすらりと伸びる脚、喉から手が出るぐらい欲してたまらないそれらが、お好きにどうぞと差し出されている。
 愉悦に喉を鳴らして、腿からつま先まで指でなぞって味わう。張りのある、絹のような手触りだ。視線を合わせたまま身を引いて、形よい爪先を優しく咥えた。
 夢にまで見た『私の』足だ。繊細な飴細工を味わうように、熱い舌で包んで甘やかす。
 マツブサ様がぞくりと身を震わせた。花のかんばせを見つめたまま、口に含んだ指を、爪の形のわかるほど念入りに、指の股を溶かすほどしつこく、ねぶって吸って慈しむ。

「あ……っ、そこばっかり、やめなさい……」

 そんな風にたしなめながら、まんざらでもなさそうに色づいて、視線はこちらを捉えたままでいる。咎められようと、吸い付かずにはいられまい。
 一本一本順繰りに舐めあげて、指の付け根の窪みから白い足裏の盛り上がりまで、丹念に舌を這わせる。マツブサ様の吐息が甘く掠れていくのに口端を上げて、親指と人差指の間のやわい皮膚をねぶり犯し続けていると、耐えかねたようにつま先が逃げていってしまった。
 口の中が寂しくなって、けれどすぐに舞い戻ってきたふやけた足指が、目の前でぐねぐねと動いてみせて、私の顎を持ち上げた。

「しゃぶってばかりいないで、ほら……。大好きなコレで、どうしてほしいか言ってみなさい」
「は、ア、……もっと、触れたい、触れてほしいっ……です」
「触れるだけ? ……」

 真白い足裏が、首筋をぺとりと吸った。窪みが気持ちよく合わさるところを探すように、柔らかなそれが鎖骨の上を這っていく。私の肩口を蹴遊ぶのにあわせて、しなやかなふくらはぎが盛り上がって美しさを知らしめる。
 懇願の言葉をこぼしかけた口を、土踏まずが塞いで覆った。こみ上げた恋慕が喉奥に詰まって息苦しい。何もかもを許すような微笑みに見守られ、淫欲まかせの舌使いでべろりと舐める。

「あっ、……こぉら。めっ」

 くすくすと甘やかな声とともに柔肌が口元を発って、淡い血管が浮く足の甲、まろみのある踵、ぷくりと膨らむ血管をのせたくるぶしが翻り、余すことなく魅せつけられる。目も心も奪われる中、つま先にこしょこしょと顎をくすぐられ、恍惚に鼓動が跳ねた。

「はあっ、まつぶささまっ……」
「ふふっ……。夢みたいに、お前のおちんちん、ぐちゃぐちゃにしてやろうか……?」

 からかうというより、もはや期待さえ滲むいやらしい口ぶりに、ぷつりと箍を外された。
 弄ぶ脚をつかまえて、足裏をくすぐる。途端に「やうっ」と身を引こうとするのを、足首を掴んで逃さずに、ぐっと膝を曲げて胸元に寄せる。
 窪みをくすぐり続けながら、くちびるはつま先からすねへ、膝横を通って内ももへと、軌跡を残さぬ淡いくちづけで辿りゆき、足の付根まで上り詰めたところで、目を合わせたまま性器の付け根にキスをした。

「あっ、や、このっ……!」
「今度は私が、マツブサ様をぐちゃぐちゃに溶かして差し上げます」
「ホム、……っア!?」

 頬の横でぷるりと揺れる、マツブサ様の根本に舌を這わせた。

「あっ! ふ、あぁっ……!」

 唾液をたっぷりまとった舌で、ねろねろと竿全体をねぶり犯す。震える肌に煽られながら、根本を掴んで先端を口に含めば、途端に半身が仰け反って、甘美な嬌声が胸を打った。
 いじらしく膨らんだそれを舐め蕩かしながら飲み込んでいく。根本までしゃぶり尽くして差し上げたいが、深く咥えては『恥ずかしくって死んじゃう』と、こちらが殺されそうな科白をいただいた前科があるので、すぼめた唇と喉で中ほどまで愛でながら、根本を指ですばやく抜き上げた。びくびくと爪先がソファを掻いて、内ももに顔を挟まれる。

「ほむ、っふ、ン、あ、ぁあっ……!」

 優しく柔らかく、裏筋をくすぐり舐める。今にも極まりそうな声があがって、弱々しい手のひらに、くしゃりと髪を掴まれた。指先でかきまぜるように頭を撫でられて、ぞわぞわと肌が喜びに震える。
 敏感に跳ねる生白い腹を堪能し、獰猛に貪り続けていると、互いの体液で口周りがべたついてきた。ご馳走にがっつく犬さながら、みっともないが――知るか、もう。
 冷静さなど、とうの昔に欠いている。かわいい人のかわいいところを奉仕して、とびきりの痴態を堪能する、こんな至福が他にあろうか。

「あぁ、あっ、やめ、まえ、ばっかりっ……うぅ……!」
「……っ」

 しゃぶり蕩かそうと上下する頭を、震える手のひらが押しとどめた。
 突き入れる悦びよりも穿たれる享楽を望む、そんなお身体になったのは、ひとえに私の丹精込めた溺愛ゆえだ。
 宥めるように前を愛撫するのにあわせて、奥まった秘部へと手を伸ばし、会陰に指を這わせる。くんっと押し上げ刺激すると、ひときわ大きく声が震えた。

「あっ、あぁっ、んぅ……ほ、むらぁっ」
「ン、あふうああ、っん」
「あううっ、くわえたまましゃべるなぁっ……! っア、ッぁああっ……!!」

 赤毛を振り乱し悶絶するさまに煽られて、舌と手の奉仕を強める。搾り尽くすつもりで亀頭をじゅうと吸い上げると、マツブサ様の身体ががくがくと痙攣して、ぴんとつま先が伸ばされた。口内にほろ苦くも甘い愛が広がっていく。舌に絡めて、ぬるついた先端を労るように舐めていると、髪に埋まっていた手がはたりと落ちた。
 ゆっくりと頭を引いてペニスを解放し、一滴も残さず味わい飲み下す。濡れた性器越しに見上げれば、はくはくと喘いで仰け反った顎の下、キスマークに侵されて火照った首筋が、汗ばんで艶めいていた。満ち足りた気分が、マツブサ様のすべてを渇望する欲に塗りつぶされていく。
 貪婪な獣性は明かさず、鈴口にくちづけて、ちゅうと吸い上げた。

「んぅ、はぁっ、は……」
「たっぷり可愛がっていただいたお礼です」
「うぅ、く、なまいきな……」

 時折ぴくんと肌が粟立つも、愛しい人は未だ荒い吐息をこぼして、たゆげに脱力していらっしゃる。気怠げな息遣いがにじんで、しずしずと脚が開いていく。濡れたまたぐらに誘い込まれて、奥の窄まりへ指を滑らせ、縁の皺ひとつひとつを慈しむようになぞって楽しむ。
 ぎゅうと窄まったそこへ、人差し指がつぷりと飲み込まれていく。濡れるはずのないそこが、ぬかるみ、ほぐれて、熱く指を抱きとめた。
 下腹を駆ける熱に唇をひと舐めし、欲深な視線で穿つ。こんなところにローションまで仕込んでおきながら、焦らしに焦らしてくれたご主人様は、両手で顔を覆って黙りこんでいる。表情は窺えずとも、耳まで茹だっているものだから、こちらまで頬が熱くなった。

「ご自身で馴らして……?」
「……待っていたと、っん、言ったろう。だから、ゆび、じゃなくて……」

 細指の隙間で揺れる瞳が、あからさまに男をねだる。腕が伸びてきて、やわな指の腹が私の手首をなぞった。寄せられた眉根、愛くるしいおねだりに見舞われて、心が浮つきよろめきかける。

「は、いえ、十分にほぐしませんと」
「私は今すぐお前が欲しいのに……?」
「っ……、いけません、マツブサ様」
「ふふ、いじわるめ……。っあ! んう、そこっ……!」

 どのお口が、ああもうかわいい、とこめかみに青筋を立て、突き入れた指先で腹側にある急所を押し潰せば、からかい笑んでいたくちびるから嬌声が溢れて、マツブサ様の全身がどろどろに熟れていく。
 狭いそこに中指もつぷつぷと飲み込ませ、きつく食まれた二本指で円を描くように入り口をくじり続けていると、「あっ、ほむらぁっ……」と悦楽に溶けたかんばせの上から両手がそろりと立ち退いて、切ないくちびるが細指を咥えた。
 うっとりと法悦にひたる瞳に見つめられ、腰が甘く痺れる。

「も、ゆび……、いいからっ……」
「マツブサさま……」
「ンぅ、はやくっ……きなさい、ほむら……」
「っぐ……!」

 マツブサ様を慮って滾り勃つペニスを、婀娜めく逆手が扱き上げる。
 おイタが過ぎる手のひらを掴んでぬめる先端を擦りつけてやれば、自分から手を出しておきながら、ビクンと跳ねた赤い頭がイヤイヤと振られて、襟足が頬をくすぐった。
 腸壁を擦り上げながら、夢中で薄い胸にむしゃぶりつく。小さな突起を舐めると、無垢な肌が震えて、途端に高まった手に頭を抱え込まれた。乳首を掠めては羽のようになぞりあげ、もどかしいほど恭しく舌をそよがせながら、ぐちぐちと胎内を押し拡げてゆく。

「っ、ほむ、ほむら、ん、ふ、ぁ、あっ」
「はァッ……」

 ゴム、は、ない。取りに行く隙も、余裕さえ、締め付けられた指先から吸い取られて、茹だる頭ではもはや屹立を突き入れることしか考えられなかった。
 挿れたい、ぐじゅぐじゅに突き動かして、マツブサ様のすべてに溺れたい、……
 ひたぶる心に燃えるおもてが、滑らかな両手に包まれた。鼻っ面を擦り付け唸る。耳の付け根をたどる指先、輪郭をあわく撫でる手のひら、こちらを見据えるご主人様の容赦無い眼差しに、理性の鎧が剥ぎ取られていく。

「おいで、ホムラ。ここで……っン、」

 びしょびしょに濡れて蜜垂れる声が、こくり、と吐息をのんだ。

「めいっぱい甘やかしてやるから、ほら……っ」

 きゅうっと菊座がすぼまって、指より太い愛をねだった。
 ──熱に浮かされた頭が爆ぜる。

「はあっ、はっ、マツブサさまッ……!」

 指を引き抜き、太ももを抱え上げる。親指でくぱ、と開かせた入り口に切っ先を宛てがえば、ひくつくそこにちゅうと甘く吸い付かれ、溺れる心地でぐっと腰を突き入れた。

「はっ、あう、っふ……~~ッぐぅ……!」
「う、……はッ……」
「っく、ン、んっ、あぁっ、ほむら……っ」

 みちみちと拡がる後孔に太いところを飲み込ませ、背中に縋り付かれるのを感じながら、ゆっくりと身を沈めていく。狭くて柔くてぬるぬるで、溶けそうなほど熱くって、頭がおかしくなるほど気持ちいい。男を知らぬ顔をして、きゅんきゅんと淫乱に蠢くそこが、私を食いちぎらんばかりに咥え込んで奥へ奥へと誘っていく。
 荒い息遣い、滴る汗、生々しく繋がった肉体の悦びに、無茶苦茶に腰を振りたい衝動に駆られるが、愛しい人の瞑った目尻に浮かんだ雫を指ですくって、大きく息をつき、中が馴染むのをじっと待つ。
 くちびるに、頬に、くちづけを落とせば、マツブサ様はとろんと瞳を潤ませて、こくりと喉仏を上下させた。「ホムラ……」なんて喜色鮮やかな無上の愛をくちびるにのせて、私を包み込んでいるところ、白くなよやかな下腹を、愛おしげに撫でている。心臓が早鐘を打ち、マツブサ様を穿つ愛がますますかさを増していく。
 私に縋り付く身体の強張りが解けてきたのを感じて、優しく前後に揺すり上げた。

「あっ……! く、ン、いい……ふ、」
「っは、ふわふわで、きもちい、です、マツブサ様っ……」
「ん、ん、う……っあ、あふっ、は、んっ、んぅ」

 とん、とん、と穏やかなストロークで、けれど容赦なく前立腺のしこりを押し上げ内側をかき乱せば、苦悶にも似た表情で感じ入るくちびるから、甘い喘声が蕩けだした。かぶりついて直に吐息を貪りながら、ずりずりとペニスを引き抜いて、一息に奥まで突き入れる。華奢な身体が弓なりに反って、背に爪が立てられた。鋭く走る痛みにさえ掻き立てられて、自ら腰を押し当ててきたかわいい人に応えるように、獰猛に穿ち突き動かす。

「っ、う、ああっ、あっ、ほむっ、ア、……ぁああっ……!!」

 双丘がほのかに赤味さし、湿った肌がひっついては引き離されて、肉を打つ卑猥な音が響き渡る。ずっとこの熱に甘やかしてほしくって、今にも果ててしまいそうなのを我慢しているさなか、マツブサ様がびくびくと痙攣して、後孔が熱烈に締まった。射精せず絶頂に達したらしい。何度も強く絞られて、歯を食いしばって耐える。獣のような声を上げ、密着したままぐりぐりと腰を回し犯していると、首元にビリリと刺激が走った。──噛まれた。マツブサ様の、小さなお口に。
 法悦の息をついたのと、腰を突き上げたのと、どちらが先だったろうか。
 硬く張り詰めたもので奥まで抉って、甲高い嬌声をあげた身体を強く抱きしめる。ぐうっと締め付けられて、身も心もマツブサ様の深いところに愛される。けれど今目指すべきは最奥ではない。

「っ、あ、あ、ン、ほむら、ぁっ」
「はっ……ふ、マツブサ様……」

 縁ぎりぎりまでペニスを引き抜く。逃すまいと収縮した後孔に強く亀頭を締め付けられて、ぐりぐりと窄まりの奥へ身を沈めては引き返し、浅いところばかりねちっこく擦りつければ、くちびるを噛んだ涙目に睨めつけられて、ふっと微笑がこぼれた。前立腺の膨らみにカリを引っ掛けるようにグラインドし、思い切りそこばかり攻め立てる。

「あっ、あ、あぁっ……! うあっ、や、ア、あぁっ」
「っふ、マツブサ様の大好きなところ、たくさん愛して差し上げますねっ……」
「あ、あ、ひっう、や、だめ、もっ、またいく、ぁ、いっちゃ、~~ッアああ……!」
「は、一緒に、く、マツブサ様っ……」

 絶頂を予感し、ペニスを引き抜こうとした瞬間。──長い両足が、がしりと私の胴に絡みついた。
 喰われる、そう直感が囁いて、歓びに心が躍る。マツブサ様が、至極楽しそうに喉を鳴らして、果てる寸前の獲物を引き寄せた。

「っあ、マツブサ様っ、もっ……でる、でます、から、」
「ん、はぁっ、いいぞ、出しなさいっ……」

 射精寸前の剛直がびくびくと脈打った。散り散りの理性をかき集めて腰を引こうとして、まとわりつく四肢に引き戻されてぐちゅりと最奥へ分け入った。マツブサ様の艶めかしい息遣いに耳を犯され、幸福に気が遠くなる。愛しい身体を掻き抱いて、根本までむしゃぶりついて離さない胎内のいっとう深いところまで、本能のまま穿ちねじ込んだ。
 絡みつく襞が激しく収縮し、ぎゅうっとひときわ情熱的に搾り取られる。

「あっ、は、ほむらぁっ……ア、っぁは、ぁああッ……~~~~っ!」
「ぐっ……う、まつぶささまぁっ……」

 肩口に顔を埋めて歯を食いしばる。強すぎる快感に視界が明滅し、びゅくびゅくと迸る精液がマツブサ様の中に注ぎ込まれる。ひとつになるほど縋り付かれて、多幸感に頭が真っ白になって、……また、首筋に、噛みつかれている、そう気がついた時には、ずぶずぶに受け入れてくれる身体に溺れきって、ふたり全身で息をしていた。
 無意識に、最後の一滴まで出し切るように、ぐちゅ、と揺すりかき混ぜる。「んうっ……」と艶めく嬌声に素肌をなぶられ、ハ、と我に返ってペニスを引き抜いた。それにすら感じ入る美声があがり、醒めゆくはずの心がぐちゃぐちゃにかき乱される。くてんと脱力したお身体は、未だ私を大事に抱きしめて離さない。

「はぁっ……はっ……、ン、いっぱい出せたな……」
「中に、申し訳ありません、早くシャワーを……」
「いい。さっき口に貰えなかった分だ。っん、……それより、」

 「まだ出せるな……?」なんて首を傾げられ、止まりかけた心臓の上を、淫靡な手のひらがうっそりと撫で上げた。途端、尽きぬ期待に鼓動がはずんで、みるみるうちに気合がみなぎっていく。
 このままもう一回、なんて唆されでもしたら、きっともう抗えない。それどころか、一回で止まれる自信もなかった。
 ぐるぐると犬のように唸って応える。痩躯を姫抱きにして、丸め込まれる前にシャワーブースへずんずん突き進む。おとなしく抱え上げられたマツブサ様は、ゆさゆさと揺れる振動に愉快そうにおとがいを解いて、両腕を私の首にまわして胸元に擦り寄り懐いている。密着する素肌どころか、裸足に刺さるマットの毛先までもが妙に神経を刺激して、下半身が苛立って仕方がない。
 中出しなど失態もいいところだ。これ以上の無体は働くまいと気を引き締めて、腕の中のマツブサ様を抱き直しながら「煽るのはおやめください」と低く唸った。すると、よしよしわしゃわしゃと愛情に満ちた手のひらに頭を撫で乱されて、そのうえ、嬉しそうにほころんだあどけないくちびるに、ちうと頬を吸われてしまった。

 …………ので、完膚なきまでに陥落した。

 結果、シャワールームにもつれ込んだあと、精液を掻き出すだなんだと再び繋がって、ベッドに戻ってお身体が冷えてはいけないからと温もりを分かち合い、更には、ぐでんぐでんに蕩けて力の入らぬありさまで私に乗りたがるマツブサ様を下からあやして、二人して笑いが止まらぬ程ぐだついた騎乗位を満喫し、それから、……言うには及ぶまい。

 愛する主君と過ごす夜は酩酊とともに深まって、可愛がって可愛がられて、甘やかし甘やかされて戯れて、燃え尽きることなきほむらのように情熱的なものである。

畳む



※後朝は蛇足だったため消しました。
 一部の聡いしたっぱたちにはバレバレで、ツートップが仲睦まじくておめでたい!と祝福されています。




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灼熱のマグマはひどく冷たい

※モブ目線
※このページのみモブへの過激な暴力描写有 注意


「私に手を出したのが運の尽きだ。とびきり優秀なグラエナが地の果てまで追ってくる。行けるところまで逃げだしてみるといい、最期まで見守っていてあげよう」


**********


 その男は人畜無害と聞いていた。

 マグマ団の首魁マツブサ。
 依頼主が宣うに、切れ者、凄腕、犬狂い、神がかった人誑し。されど腕力はからきしで、人をも殺める凶猛な飼い犬さえ撒いてしまえば、そいつ自体に脅威なし、と。
 それでも入念に慎重に万全を期し、男の命を奪いに向かった。非力な男の始末など、常と変わらぬ楽な仕事のはずだった。
 けれど違った。無防備に背を向ける男に狙いを定めたその瞬間、凶牙立ち並ぶ狗の口腔に誘い込まれていたと気付いたときには、もう取り返しがつかなかった。

 温かく親しみに満ちた声。人を惹き寄せ溺れさせる甘い眼差し。見るものすべてに至福をもたらす比類なき笑顔。
 綺麗な薔薇だ。数多の男を雁字搦めに貫く茨、地獄の華だ。
 それが、振り向きざま傍らのグラエナにはかいこうせんを放たせた、マツブサという男の印象だった。


**********


 脱兎のごとく夜を駆ける。遠くへ、もっと遠くへ、燃え盛る赤毛の手から逃れるように。
 痛みに火照る身体を氷雨が叩く。追手の気配はなかった。それでも少しも安堵などできなかった。
 入り組んだ道をがむしゃらに走り続けて、そびえ立つビルの隙間に転がり込んだ。震える腕でボールを放る。宙に舞いでたオオスバメは、尋常ではない俺の様子にひどく怯えた顔を見せた。それでも、翼を広げる相棒の足をなんとか掴んで、ぬかるんだ地面を蹴る。地上から離れて数秒もしないうちに、足首を鋭利な何かに喰らいつかれて、泥溜まりの中に無様に引き倒された。
 オオスバメがひとり虚空に逃げ去ってゆく。伸ばした手に応えるように、きらきらとした光の粉が、周囲をぶわりと取り囲んだ。まぶたが落ちる。
 閉じゆく視界の端で、業火の赤を翻す、禍々しい黒角を生やした悪魔が、ゆっくりと飛沫を上げて歩み寄るのを捉えた気がする。

 あとから思い返してみれば、人畜無害などとんだ笑い話だ。
 飼い犬が人を殺めるのは、飼い主が命令を下すからだというのに。

 暗転。



**********


 こつ、こつ、と、遠くで耳障り良い音がする。

 重いまぶたを持ち上げる。数度瞬くと、次第に霞がかった視界が晴れてきた。
 見知らぬ空間だ。正面には、閉ざされた重厚な扉が見える。息苦しく周りを囲む黒い石壁には、ヘルガーの意匠が彫刻された燭台が等間隔に並んでおり、不気味に踊る焔の群れが、薄ぼんやりと空間を照らしている。
 はっと意識が覚醒し、やにわに飛び起きた。実際に跳ね起きたのは気持ちだけで、体はなにかに阻まれ身じろぎすらできなかった。
 唇を噛む。直立の姿勢で、腕が後手に固定されている。頭は……動く。見下ろすと、胸部からおそらくは足首に至るまで、光を反射する細糸──虫ポケモンの糸で幾重にも縛り付けられていた。背後に固定された手首をまわして探ると、どうやら体躯より細い柱に拘束されているようだった。
 全身に浴びた泥が、乾いてこびりついている。体中が鈍痛と疲労を訴えている。あえなく捕まった事実に腹の底が重くなった。けれど、俺はまだ生きている。それも、五体満足で。
 途方も無い安堵に、思わず瞳が潤んだ。

 こつ、こつ、と途切れることなく近づいていた音が、足音が、すぐそこで止まった。

 次いで、ギイイと軋んだ音をたて、いかにも重々しそうに扉が口を開けていく。心の準備は間に合おうはずもない。知らず息を潜めた。再び、こつ、と固い音が地を叩く。向こう側に広がる闇の中から、煮えたぎるマグマの権化が姿を現した。
 ひっと息をのむ。滾る炎に巻かれて、めらめらと焼きつくされるさまを想起した。けれどその絶望とは裏腹に、静かにこちらへ歩を進めた悪の巨魁は、目を細めてふわりと微笑んだ。

「おかえり。たくさん走って疲れただろう。まだ眠っていてもよかったのだぞ」
「う、…………」

 恐怖心に囚われた幼子を宥めて包み込むような、ぬくもりある炎だと思った。
 ばくばくと高鳴る鼓動を抑えるように努めて、彼をじっと見つめ返す。焔色に包まれた恵まれた肢体、佇まいは気品に満ちている。やはり、人を統べるに相応しい、いかにも聡明そうな男であった。
 先程まであれほど恐ろしかった存在が、尻尾を巻いて逃げた己を恥じ入ってしまうほど、希望を与える庇護の眼差しでこちらを見ている。
 ぐっと恐れを飲み込んだ。語りかけることはせず、言葉を待つ。男の不興を買いたくなかった。命乞いというより、彼の心を曇らせたくないと思った。

「やはり私のグラエナは優秀だ。狩りに出したのは久方ぶりだったのに、すぐに獲物を咥えて帰ってきたから驚いたよ」

 ひとりごち、くすくすと可笑しげに笑う。上機嫌な様子に肩の力が抜けていく。捕らえた罪人に言葉をかける姿に、この人なら、きっと生かして帰してくれる、と思った。今すぐ、両腕を上げて敵意がないのを示したかったが、縛られているため叶わない。だからせめて、上目遣いの視線で媚びた。

「ああ、本当にこんな仕事受けなきゃよかった。降参だよ。あんたには敵わない」
「おや、どういう心境の変化だね。私は今、見ての通り隙だらけだよ。今なら殺せると思わないか?」
「殺せない。抜け出せそうにないし……。それに、こんなに立派で綺麗な人だとは思わなかった」
「ありがとう。私もキミが気に入ったよ。数いる犬をくぐり抜け、マグマ団のリーダーまで辿り着いた手腕、褒めてやろう」

 男が音を立てずに拍手をする。焔色と黒色の袖がさらりと衣擦れの音を立て、彼の腰に帰っていった。蝋燭の火が揺れる。赤毛は三メートルほどしか離れぬ先に立っている。
 赤毛が口を閉ざすと、辺りはしんと静まり返って、首筋をひやりと冷気が撫でた。
 彼には必ず目的があるはずだ。気まぐれで咎人のもとへ足を運んだわけではあるまい。狙いはおそらく依頼主についての情報……ええいもう、進んで口を割ってしまおうかと腹を決めかねていると、「ところで」と細腰に手をあてた赤毛が、ちょいと顎を上げて悪戯な笑みを浮かべた。

「私のグラエナには顔を合わせたか?」
「どいつだよ、あんたの犬はいっぱいいすぎて……」
「ふむ。マグマ団随一のグラエナだ。獲物に噛み付いたら最後、二度と離すことはない。骨まで噛み砕き、命尽きるまで食らいつく」

 誇らしげな、いや、恍惚とした表情で、綺麗に整えられた爪をのせる指が、くちびるを撫でている。ちらりと覗いた真っ赤な舌が、蠱惑的に動いて唇を湿らせた。犬狂いと呼ばれるわけだ。殺害を示唆するような不穏な内容に震える背は無視して、おどけてみせた。

「見てないね。そんな躾のなってないグラエナは」
「逆だ。そういう風に躾けたのだよ。まったく惚れ惚れするほど優秀に育ってね。忠誠心の塊みたいなとびきり美しい雄で、骨の髄まで私のことがだぁい好き」
「ずいぶんと大事にしているんだな。アンタのつがいか」

 虚勢を張る下卑た皮肉に、男は否定も肯定も返さなかった。静かに睫毛を上下させ、ただ、艷やかなくちびるに人差し指をあてている。
 それを見てなぜだか、彼が男を咥え込む姿が脳裏に閃いた。抜けるような白い肌、滑らかで長い指、すがりつきたくなるほど魅力的な柳腰。この躰は『男を知って』いる、そういう確信が胸中に広がっていく。思わず、ごくりと喉が鳴った。
 赤毛がこちらへ手のひらを差し出した。

「さて。そんなグラエナの主人の命を愚かにも狙ってしまい、今も無礼を重ねているキミの処遇についてだが……」
「悪かった。なあお願いだ、見逃してくれよ」
「私に刃を向けた愚行が謝罪ひとつで済むとでも?」
「だけど、お上品に生きてるアンタのことだ。足がつくような真似もしたくねえだろう」
「まあ、それはそうだな。私は慎ましやかに過ごしているからね。人を殺すだなんてとてもとても」

 大仰に肩をすくめる芝居がかった仕草も、この男にかかれば憎らしいほど様になる。ほうっと嘆息が漏れた。
 殺し屋なんて稼業をしていても、死ぬのは怖い。身をすくみ上がらせるその恐怖を、赤毛はたやすく取り除いてくれた。聡明で、部下に慕われ、話のわかる男だ。俺が与えそびれた死を、惨たらしく返すような真似はしないだろう。

「それなのに、見ず知らずの人間に命を狙われるなんて。心外だ」
「ああ……俺が間違ってた。アンタはむしゃぶりつきたくなるくらいイイ男だ」
「ふふ。お褒めの言葉をありがとう」
「靴の裏だって股ぐらだって舐めてやる。だから……」

 赤毛が人差し指を振る。口を慎みなさい、というサイン。不快そうな様子は見えない。だってあんなにも、心から愉快でたまらないというふうに、口角を吊り上げている。

「まだ気づかないのか? キミの喉元にはとっくに牙が突き立てられているのに」


 刹那、後ろから勢いよく、なにかが耳をかすめて横切った。


 呼吸が止まった。
 驚愕に見開いた目に、ひとの腕……男の片腕、が、映っている。
 唐突に背後の闇から生えて、顔の横に浮かぶ、凶器さながら隆々と鍛え抜かれた男の腕。手首から先を黒手袋に覆ったそれが、ゆっくりと俺の方に折れ曲がり、喉仏に覆いかぶさっていく。五指がぞろりと這って、俺の首は深淵に掴みあげられた。
 固い指先が、冷たい革手袋から滲み出る殺意が、薄い皮膚を抉るように食い込んでいく。

「うっ……ヒ、ぐ」

 出入り口は、赤毛を越えた向こうにある扉のみ。考えを巡らすまでもなく───その腕の持ち主は、今までずうっと、俺の背後に立っていたのだ。
 ひっ、ひっ、と、醜い音が冷気を揺らした。自分の口から漏れている音だと気づいた時、赤毛の男がなまめかしく微笑んで、「大丈夫か?」と俺を案じた。
 恐怖に全身がガクガクと震え出す。見開いた視界の真ん中で、悠然と佇む男はただ美しく笑んでいる。聞くに耐えない哀れな呼吸が次から次に溢れ出す。
 力一杯絞めるでもなく、しかし苦痛を与えたくてたまらないというような、口ほどに物を言うてのひらが、俺の命を強く握りしめている。
 それでも、腕の根本に人が存在するとは思えないほど、背後からは気配ひとつ感じられなかった。

「っひ、ひ、あ……」

 真後ろにいるのは死神だ。根源的な恐怖に身が竦んだ。後ろの正面、殺意の塊、目の当たりになどしたくない。だのに、震える瞳が意思に反して、横に横にと滑っていく。

「キミ」

 赤毛の男がこちらを呼んだ。ぱっと視線が彼に向く。目を細め、顎に手をあててくちびるを隠している。滑らかな指からはみ出た口端が赤く弧を描いている。

「振り返らない方がいい。目を潰されてしまうかも。キミの後ろにいる私の王子様は、たいそうご立腹のようだから」

 物騒なことを愉快げに言い放つ。「お戯れを」と後頭部に声が降ってきた。指先にみなぎる殺意とは裏腹に、感情が窺えないひどく冷淡な声だった。
 若い男だ。死神が血肉をもって、確かにそこに立っている。目眩がするほどぞっとした。呼吸が過ぎて、息が苦しい。赤毛の男は、死神に言葉も視線もくれてやらぬまま、俺の目をじっと見つめて言った。

「恐ろしいか? 大丈夫。好きなだけ私を見ていたまえ。ずっと笑っていてあげる。約束だ、他ならぬ君のためだから」
「……う、……っ!!」

 張り巡らせた糸に絡まった虫を、女郎蜘蛛の嘘偽りなき優しい眼がなめる。心が抱き寄せられそうになる瞬間、思いきり首を握り潰された。
 視界がかっと赤く染まる。息ができない。かっ開いた目に赤毛の苦笑が映る。骨が軋む、これ以上ないと思える剛力は際限なく力を増していく。窒息、いや、破裂する!早すぎる死を確信したとき、赤毛が薄く口を開いた。

「ホムラ」

 凛とした、人を手玉に取る男の声だった。

「はっ。申し訳ありません」
「ハァッ! はっ、ぜぇっ、は、はあーっ! ハッ、はァっ、ひゅ、……ッ!! はぁっ」

 ぱっと手が離されて、必死の思いで酸素をのむ。視界がちかちかと明滅する。
 こつ、こつ、と革靴が再び音をたて、唾を垂らして喘ぐ俺の隣に立った。充血した横目で奴を追う。彼は、俺の背後──ホムラと呼ばれた男の方に腕を高く掲げて、ゆっくりと動かした。
 聞き分けのない子犬を甘く叱るような緩んだ口元、しゃりしゃりと髪のかき混ぜられる音、もしかして、死神の頭を撫でている……?

「こら。私はまだ楽しませてもらってないぞ」
「快くご高覧いただくため、お好みの赤に染め上げました」
「斬新な気の利かせ方だな。……なにをちょっと誇らしげにしているのだ。よしよし」
「わふっ」

 度肝を抜かれた。それは隣の赤毛も同じだったようで、目も口もまんまるに開いている。

「わあ可愛い! どうしたのだ」
「は、マツブサ様に王子様とお呼びいただいたので……」
「んっ……ふふ、ふっ、う、嬉しかったのか。か、かわいい、あはっ」

 荒々しく肩を上下させ、死の気配にまとわりつかれたままの俺をよそに、男たちは笑い合っている。いや、ころころと笑っているのはマグマのトップ一人だ。死を司る男の声には、ひとつも浮かれたところがない。にも関わらず、ご主人様に首ったけなんだろうな、という雰囲気をひしひしと肌で感じた。
 ひたひたと、足元から仄暗いものが這い寄ってくる。躊躇いなく人の首を絞めるような、己に心酔しきった番犬を罪人の背後に置く。それは、どういう意図だろう。彼らが睦まじく交わす熱が肉をなめ、言い知れぬ恐怖にじりじりと骨まで焦がされる。

「一曲踊っていただきたいほど舞い上がっています」
「そ、そんな真顔で。ふふっ、お腹がよじれる! あは、んふふ、ダメだぞ王子様。お前はまずこの子をエスコートしてやるのだ」
「…………」
「急に拗ねる! ふふふ」

 俺に希望をもたらすはずの人が、活き活きと声を弾ませて死神の手を引いた。赤毛の男がゆっくりと俺の前方へ歩み戻る。繋いだ手に追従する地獄の番犬、殺意満ちる者の姿を、俺はようやくこの目にした。
 一目見て、なんて美しいけだものだ、と思った。
 俺をあらん限りの力でいたぶっておきながら、無頼漢とは似ても似つかぬ、礼節をわきまえた好青年のようでさえあった。精悍な顔つきの中ほどで甘やかに眦が垂れているが、凍りつくような無表情が優しい印象をごっそりと削り落としている。そして、そんな端正なおもてには不釣り合いなほど、はちきれんばかりに凶悪に盛り上がる筋肉が、水の滴る男振りを鰻登りに上げている。
 赤毛が愛おしがるのも頷ける、恐ろしいほどに見目の整った青年だった。殺気をみなぎらせているという一点を除けば、きっと好印象を抱いただろう。
 そんな男の黒い瞳が、無感情に俺を刺し貫いている。落ち着いたはずの息が、次第に荒くなっていく。嫌だ。怖い。忌避すべきものだ。すがるような視線を赤毛に向ける。それをあろうことか、赤毛は死神の背に手をそえて、えへんと胸を張った。

「なあキミ。すこぶるイイ男だろう、私のグラエナ。ほら自己紹介」
「マグマ団幹部兼行動隊長兼マツブサ様のグラエナ兼王子様のホムラだ。短い間だがよろしくな挽き肉」

 どっと全身に脂汗が浮いた。

「こら、失礼だぞ。まだ人の形をしているだろう。そんなにこの子が気に入ったか」
「それはもう。丁重にエスコートして差し上げます」
「好きにしろ。せっかく会食の予定が潰れたことだし、久々に二人きりで楽しもう」

 男たちの言うことが、すぐには理解できなかった。
 ひとのかたち、ふたりきり……。
 俺、もう、人間として数えられていない!!
 ぐるぐると視界がまわって、希望の光をはるか遠くに見失った。ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返す。逃げなければとがむしゃらに暴れても、糸の拘束はびくともしない。
 錯乱する俺を意にも介さず、二人は見つめ合っている。若い男が、手首を軽く振ってまわした。

「おや。いつものグラエナは使わないのか?」
「はい。本日は、マツブサ様のことが骨の髄までだぁい好きな、優秀で美しく忠誠心に満ちたグラエナがつとめます」
「ふふっ。頼もしいと愛おしいも追加してやろう」
「身に余る光栄です」

 死神の手から救ってくれたはずの赤毛が、剥き出しの二の腕をうっそりと撫でてあげて、俺というおもちゃを犬の鼻先につきつける。呼吸がうるさい。殺される。このままでは。命を乞わなきゃ。だが何と。赤毛は温和に笑んでいる。「冗談だよ」と肩を叩いてくれそうな、気の置けない表情で。犬が一歩踏み出す。赤毛も俺へと距離を詰めた。底冷えのする美貌が、諌める視線を主人に送る。

「お召し物が汚れてしまいます」
「飛び散らないようにやれ」
「はっ」

 猛犬の鎖が外された。
 ──失禁した。濡れた感覚が、俺に人語を取り戻させた。

「やめろ! 助けてくれ!! 頼む、お願いだから!! あんたを殺すように言ってきた男はアクア団の幹部だ、奴らの情報を持っている、だから!」

 絶叫が石壁に反響する。灯火がゆらゆら揺れる。赤毛が至って柔和に小首を傾げた。

「キミが二週間前に会った男は、幹部ではなくしたっぱだ」
「あっ? そ、そんなはず……ッ、ま、待て、なんで知って……」
「尾行にも気付かないしたっぱ君が、アオギリを思って愚かにも私を消そうと企んだのだろう。それがあの男の逆鱗に触れるとも知らずにね。今頃サメハダーの腹の中じゃないか、ふふふ」

 赤毛の口がアオギリの名前をなぞった瞬間、犬はわずかに眉間をしわ寄せたが、たちまち無表情に戻って凍える視線を俺に放った。目の前に仁王立つ。拳は固く握られている。

「つまり、キミの持つ情報には価値がないということだ。だが安心したまえ。キミの身体には価値がある。さきほど言っていた、股がどうとか……なんだったかな? ホムラ」
「『股ぐらだって舐めてやる』」
「そう、そんな下品なことをさせる気はないが、私はよく鳴く犬が好きでね。楽しませてくれ。そうすれば少しは長く……」
「い、嫌だ!!! やめ、助けっ……!!」
「やかましい。マツブサ様のお言葉を遮るな」

 容赦ない打撃が頬を襲った。あまりの勢いに拘束糸が引きちぎれ、側頭部から地面に激突する。ぐわんぐわんと世界が揺れる。地面に点々と、光を反射する白い粒が転がっているのが見えた。赤く濡れた白……。歯、俺の歯だ。
 這いつくばりながら、拘束が解けて手足が自由になったことに気がついた。一も二もなく逃げなければならなかったが、すくみ上がって震える手をつき、首をわずかに持ち上げるだけで精一杯だった。

「ああ、そんな風に殴るだなんて。拳を痛めてしまうぞ」
「ご心配なく。“仕事”用のグローブです」
「なるほど。お利口さんだな」

 箸よりも重いものを持ったことがなさそうな細指が、犬の血管の浮く太い手首を擦っている。男根にねっとりと絡みつく白蛇のようだった。抜けた腰は役に立たない。腹ばいに地を這う。ぶるぶると慄き定まらぬ腕で前へ前へと、未来待つ扉へ進む。
 温かい声が俺の背中を縫い止めた。

「こら、私を見ていなさいと言っただろう」

 焔と闇の色に包まれた両腕が降りてくる。きめ細やかな肌が、俺の涙を拭って、頬を優しくなぞる。こんな状況にもかかわらず、うっとりと顎をくすぐる指使いに、下腹に熱が溜まりそうだった。横から伸びてきた腕が俺の胸ぐらを掴みあげ、無理やり立ち上がらせる。相変わらず表情には悋気の欠片も浮かべぬ犬が、主人にひたと火焔の瞳を向けている。

「冥土の土産に笑顔を賜るなど、下郎には過ぎた褒美です」
「ふふ。そんなに好き? 私の笑顔」
「大好きですお慕いしています愛していますこの世の何より優れて麗しく慈悲深いマツブサ様のすべてを。一息にはとても表現しきれませんので、あと数日……いえ生涯をかけてお伝えさせていただきますが、まずはこのゴミを片付けないといけないのですよね」
「うんそう。キミ今の聞いたかね? こんな感じで私を好きになってくれたら、死ぬ間際まで満ち足りた気分でいさせてあげられると思うのだが。我ながらいい案じゃないか?そうだ、手でも繋いでいてあげようか」
「ご冗談を」
「そう目くじらを立てるな」

 俺だってこれまでに何人かの命を奪ってきたんだ。奪う覚悟も、奪われる覚悟もできていたはずだった。それでも、今から命を奪う相手を前に、相好を崩して朗らかに会話を続けるなんて、こちらまでまともな神経を失ってしまいそうだった。人の皮を被ったおぞましい化け物ども、俺はそんな奴らに手を出して、返り討ちにされるのだ……。

「……しにたくない……」

 ぽつりと悲嘆が口から落ちた。両膝が激しく笑う。だが立っている。一縷の望みが俺を宙から吊っている。ホムラと呼ばれた死神は、侮蔑さえこもらぬ冷めた双眸で俺を見下している。赤毛の男、マツブサは、誰を彼をも惹きずりこむ底なしの笑みを湛えて、地獄の釜の縁に立つ人間の行く末をただただじっと見据えていた。そのときになって、ようやく飲み込めた。

 ああ、もう、たすからないのだ。

 わかっても必死の叫びは腹の底から湧き上がって、自らの鼓膜をつんざいた。

「……っない、しにたく、しにたくないっ、死にたくないぃ!!! ころ、ころさないでッ、殺さないでころさないでころさないで!!!!」
「いいだろう。すぐには殺さない。私だったら一秒でも長くマツブサ様を感じていたいからな。ましてや最期まで笑ってお見送りいただけるなど、嗚呼、貴様はまたとない果報者だ……」
「あ、あっあっあっあああころっ、ころさないでころっ、ォア゛!!!」

 目にも留まらぬ強力な一撃が脇腹を抉った。息もできずに激痛に身悶える。男は、背を丸めて転がる俺の頭を足蹴にし、赤毛の方に向かせて踏みにじった。顔中から様々な液体を垂れ流す俺を、穢れとは無縁の慈しみに満ちた笑顔が出迎える。後光さす救いの化身、けれどその手はひとすじの蜘蛛糸を垂らす慈悲もない。
 髪を引っ掴まれて上体を持ち上げられる。隣に顔を並べた美丈夫の甘く垂れた双眸が、赤毛の躰にうっとりと孕ませるような視線を捧げて、返す瞳で路傍のゴミでも見るかのようにこちらを一瞥、掴んだ頭部を地に叩きつける。また蹴り転がされて、赤毛の姿を目の当たりにさせられる。
 容赦なく振るわれる暴力、笑顔の拝謁を赦される恩寵、繰り返される、死ぬまでずっと。
 意味を成さないうめき声が、ぼろぼろと落ちて崩れた。赤毛は、それにすら耳を傾けてくれている。
 男が、片足をゆっくりと後ろに引いた。

「光栄に思え、そして出来うる限り生きてその身に刻むといい」

 びょうと風をきる音。目の前が真っ赤に染まった。



**********



 犬が拳を振るうたび、俺というちっぽけな人間から、人の尊厳が剥がれ落ちていく。
 急所を外されて、殴られ、蹴られ、赤毛の方を向かされる。永遠に続く責め苦の中を、赤毛に見守られるなか、生かされ続ける。信じ難いことに、犬はそれを、これから死にゆく者へのせめてもの手向けと、心からそう捉えているようだった。もしかすると、悪行の合間に善行を積んでいるとさえ思っていたかもしれない。そもそも、悪行だと思っている素振りはなかったが。

 気が付くと、黒い革靴が目前にあった。赤毛の足だ。暴力の嵐がすいと止む。ずっと傍観を決め込んでいた赤毛が、屈みこんで俺の両頬を手のひらで包み込んだ。甘やかな笑顔が近づいてくる。この人も俺を殴るんだと絶望に目を瞑ったら、天国のように柔らかい感触が、切れてぼろぼろの唇に重なった。恐る恐る瞼を開く。至近距離で、赤毛がはにかんでいる。「キスしちゃった。ホムラ以外の子と、はじめて」そう言って、淫猥な処女のように頬を染めて、愛する犬に熱い眼差しを注いでいる。もはや怖いものなどない俺も、その視線の先を追いかけてみた。すると。

 犬の口元が、激しく引き攣っていた。

 初めて表情を崩したなと、なぜだかとても愉快な気持ちになった。
 それもすぐに、早く殺して欲しいと縋る心地にとってかわった。
 こんなにも執拗に徹底的に、憎悪と殺意のこもった拳を振るわれているというのに、決定打というものは、なかなか与えられないものだ。



**********



 何度目の意識喪失で、何度目の覚醒だったろう。
 目の前で、冥府の犬どもがひとつになって蠢いている。
 ──死体の横でおっぱじめるなよ。急にすっきりと晴れ渡った意識で、ふと思ったのはそんなことだった。自分という存在が床にでろりと、汚泥のように広がっている。しかし、まだ生きていた。死に体と表現するにふさわしい有様でも、かろうじて機能しているらしかった。
 どうにもまったくついてない。地獄の責め苦は終わりを迎えたようだというのに、走馬灯さえ過ぎることなく、おぞましい野郎どものセックス(それも騎乗位!)が人生の見納めになるなんて。
 獣たちの交尾を見つめる。尻の穴にぶっとい逸物を突っ込まれて揺さぶられているにも関わらず、赤毛の男は恍惚と蕩けた表情で、つんと尖りの主張する胸をなまめかしく反らして快楽を貪っている。横たわる若い男は、身に乗せた痩躯……とはいえ長身の赤毛の腰をがっつり掴んで、下からがんがんに突き上げて雄々しい唸り声をあげている。瑞々しい肉体を玉の汗が伝い落ちるのが見えた。ちょっとしたお散歩ぐらいの感覚で、ご主人様の下からの眺めを満喫しているのだろうか。どんな膂力をした化け物だ。さすが、いちばんに可愛がられる犬の体力は無尽蔵だと、しみじみ思った。
 美しい獣の鉄面皮もご主人様の痴態の前には剥がれ落ち、蹂躙しているように見えて、めいっぱい可愛がられてずぶずぶに溺れきっている。それでもなお、もっともっとと際限なく愛をねだって、千切れんばかりに尾を振るグラエナ。それを当然のごとく受け入れて、致死量の愛を注いで可愛がる赤毛のご主人様。
あんな風に己の全てを受け入れられてしまうのは、すべてを奪われるのと変わらない。
 心酔、陶酔、手綱を締められて主人になにもかもを捧げるけだもの。俺はそんなやつの、ぴかぴかに輝くご主人様に手を出したのだ。ころされるのも、むりはない……。

 震えが止まらない。
 痛くて寒くて、残り少ない歯の根があわない。

 凍えそうに寒いのに、冷や汗が止まらない。べっとりと水分を含んだ服が重く張り付いている。一衣纏わぬ赤毛の肌は艶やかに紅潮して、しっとりと汗ばみ輝いている。人肌が恋しい。しなやかにくねる美味そうな腰、手を伸ばせば届きそうなのに、腕はちっとも上がりやしない。もはや四肢の感覚すらなかった。いたい。息が苦しい。いたい。いたい? いたいってなんだったろう。
 骨の砕けてひしゃげた身から、ひゅうひゅうとか細い息が出る。もはや咽び泣く気力さえなかった。内側からじわじわと終わりに蝕まれていく。
 生きた血を全身にほとばしらせる激しい交尾を見せつけられて、淀んだ血を吐き出して冷たい地面に横たわる俺。惨めで、みっともなくて、寂しかった。まぶたを瞑っても、そこにあるのは底なしの暗闇だ。そんな侘びしいものよりは、愛しあう彼らの姿を見ていたかった。
 あえかな吐息に喘ぎ、悩ましげに犬の名前を紡ぎながらも、赤毛はかわらず極楽浄土の微笑みをそのおもてにのせている。ずっと、笑ってくれている。
 約束、ちゃんと守ってくれるんだ。
 俺のこと、幸せにしてくれるんだ……。

 ぽろぽろと目から感涙が零れて伝った。篝火のような赤毛が闇を舞う。それはきっと温かいに違いないのに、情熱的に燃える赤糸の隙間から、一千度の愛を失った漆黒の溶岩がぎょろりと俺を射抜いた。

「ホムラ、待て」

 いっとう忠実で利口な犬は、ぴたりと腰の動きを止めた。白いうなじをつるりと汗が滑り落ちていく。赤毛が、己を掴む男の手に自らの手のひらを重ねて、ゆっくりと腰を下ろしていく。じれったく前後に揺すってあやし、最奥まで犬を咥え込んだとき、ひときわ艶やかに笑んだ。ずっと、俺に、目を向けたまま。

「驚いた、まだ生きてるぞ。ンっ、ふ、ほむら、お前は、おもちゃで遊ぶのがうまい……ッ、楽しめたか、なあ? っあ、いいっ……」
「は、マツブサ様と睦み合うひとときに、勝るものなどございません」
「ふ、ぁハっ、与え甲斐のない犬だ」
「お情けをかけていただいたあの日から、しゃぶりつくす骨はひとつと決めています」
「っあ、ン……いい子だ。おいで、思う存分味わいなさい」
「っ、マツブサ様っ……」

 若い男の胸に、赤毛が蕩けるようにしなだれかかる。性急に腹の上の赤毛ごと身を起こした犬が、放り投げた外套の上に主人を押し倒してのしかかった。余裕も理性も飛ばしたケダモノ、けれどご主人様に触れる手だけは、人を殴り嬲り蹂躙し尽くしたものだとはとても思えないほどに、恭しく慮りに満ちていた。
 冷たい石床に、赤髪が乱れ散らばる。脚を掴まれ大きく開かされた男が、重機のような雄にめちゃくちゃに穿たれて、善がりきった嬌声を響き渡らせる。白いうなじがぐっとのけぞる。仰向けに揺さぶられている赤毛の首が、ゆっくりとこちらを向いて、にんまりと嗤った。最期の最期で、これまで見せた優しさを裏切るような、直視するだけで全身が爛れるような笑みだった。
 俺のために笑ってくれるんじゃなかったのかよ。そうか、愛犬を見せびらかしたいだけだったんだな……。

 地獄の業火、灼熱のマグマは、ひどく冷たい。

 人生初の知見を得て、そこで俺の輝かしい人生というやつは、綺麗さっぱり幕を下ろした。




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一生私だけのグラエナ


 煮えつくような夏の日、ホムラは畢生の主君に出会った。

 青雲は足早に流れゆき、熱風が肌を撫でていく。
 大小の石にとられる歩みは遅く、未だ遠い山頂を背にして振り返った麓の町並みは、さほど彼方へ離れていなかった。
 太陽照りつける活火山、それもロープーウェイの張られた山など、徒歩で登り始めるものではない。
 ホムラは深い溜息をついた。
 えんとつ山には元来さほど興味もない。好き好んで登ろうはずもなく、背に重くのしかかる遺恨を断ち切るために、お天道様へ伸びる道をひたすらに歩き続けていたのだった。
 ふと、腰に下げたホルダー上でモンスターボールが揺れた。透ける赤色越しに、相棒のグラエナが何か言いたそうにこちらを見上げている。この暑さだ、他にトレーナーの影もなく、ボールに入れたまま数時間は経っただろうか。彼がポチエナの頃からずっと一緒にいる仲だ、隣り合って進めばきっと楽しい旅路になった。けれど、自慢の毛皮に覆われた彼を、灼熱地獄に道連れにはしたくなかった。
 顎を大粒の汗が流れていった。再びボールが揺れる。暑さに参っているホムラを案じているのかと思い、安心させるように笑いかけたが、とうのグラエナは目もくれず、前方に向かって牙をむいていた。
 視界の端に黄色が映える。首を巡らすと、そこには――のんびり寝そべるドンメルがいた。
 沈んだ気持ちがほのかに上向く。こちらに気づいた様子はなく、ぐっすりと寝入っているようだった。手持ちが増えれば気分も晴れようと、片手に空のボールを構える。弱らせるまでもないこの無防備さ、一発で捕まえられれば万々歳だ。
 意気揚々と振りかぶった、その瞬間。
 低く涼やかな声が、真昼の空気を凛と覚ました。

「待ちなさい。その子は私のものだ」
「!?」

 ――空振った!
 慌てて振り返る。果たしてホムラの手元を狂わせた何者かは、十数メートルほど離れた所に立っていた。
腰に手を添え、こちらを見据える細身の男。一見して、とても派手な出で立ちだった。
 肌をさす陽射しのもと、いかにも暑苦しい焔色の長衣を見につけて、汗ひとつ浮かべていない。服の上からなだらかな線を描く細腰を視線でなぞりあげると、きちりと上まで詰められた襟の上、几帳面に整えられた燃えるような赤毛が鮮やかに目に映った。そして、ひたとこちらを貫く強いまなざしに見惚れて、ホムラはその場に縫い止められた。
 自信あふれる、人の上に立つ者の佇まいだ。美しい、と思った。出会ったばかりにも関わらず、男の気品に満ちた眩さに、心までくらんでしまう心地がした。
 この人を捕まえたい。ドンメルを見つけた時の高揚と比ぶべくもない衝動が口まで出かかったいよいよそのとき、まぶたを伝い落ちた汗が美しい男の姿を滲ませて、ホムラを正気に立ち返らせた。
 頭を振って睨めつける。とても横取りなぞする無法者には見えないが、不躾にも相手は先ほどドンメルを自分の獲物と宣った。見つけたのは己が先だ。いちトレーナーの誇りにかけて、譲るわけにはいかなかった。

「わたしません!」
「……ふむ」

 相棒の入ったボールを手に、じりと両足を開いて構える。
 雰囲気だけみれば、赤い男は手練に見える。どんなポケモンを繰り出すだろう、果たして自分に勝機はあるか……。
 手のひらがじとりと湿った。静かに佇んでいた男が、無言のまま脚を踏み出した。
 じゃり、ざり、山道に不似合いな磨きぬかれた革靴が、こちらに一歩、また一歩と近づいてくる。敵意を感じさせない足取りで、けれど眼差しはホムラを呑んでしまうほどに燃えている。
 ふと、彼の美しい瞳が細められ、くちびるが涼やかに弧を描いた。王者のしるしとはかくあるべしというような、相対する若者を怯ませるには過ぎた仕草だった。
 ひときわ大きな足音が間近に響いて我に返れば、相手の端正な顔つきがつぶさに観察できるほど、距離を詰められていた。息もできずに心奪われる。
 ボールごとホムラの手を包むように、細い指がそっと覆いかぶさった。

「人のものをとったら泥棒。君は、悪い子かな?」
「……は?」
「大切な子だ。捕まえられたら困ってしまう」

 くすくすと甘い声が耳に届いた。笑い方まで優雅な方だ、と余韻に浸る間もなく、言葉の意味を理解して一気に血の気が引いた。
 男と一匹を交互に見やる。この状況でなおくつろぐ鈍感ポケモン、こいつはまさか野生ではなく……。

「こ、このドンメルは、もしかしてあなたの……」
「うん? そうだとも。言ったろう、私の子だよ」
「し、失礼しました! 野生と勘違いを……!」
「おや、そうだったのか」

 勢いよく上半身を折り曲げる。ボタボタと地に落ちたのは冷や汗だろうか、それほどまでに底冷えした心地で、それでもうっとりとなぞられた五指は熱を持つようだった。たおやかな指は宙をなぞって、彼の腰元へ帰って……いかずに、口元に運ばれたようにも見えたが、謝意を示す最中に確かめるべくもない。

「外に出していたのが紛らわしかったかな。こちらこそすまないね」
「いえ! 本当に、とんだ失礼を」
「そう畏まらないでいい。顔を上げたまえ」

 深々と下げた頭にかかる声はどこまでも温かい。あまりの失態に頭を垂れたまま彼の靴先を見つめていると、長衣の裾を食んでいるドンメルと目があった。いつの間に目を覚ましたのか、無表情に裾をもぐもぐと咀嚼して、男もそれを止めることなく遊ばせている。ドンメルの堂々たる立ち振る舞いがある意味では男そっくりで、緊張が少しだけ和らいだ。

「ふふ、もう気にするな。勘違いならしかたがない。だろう?」
「は……申し訳ありません」

 恐る恐る顔を上げると、にっこりと花咲く笑顔が視界に飛び込んだ。ちょいと小首を傾げて、上目遣いにホムラを見ている。

 ……可憐だ……。

 心臓に深手を負った。無礼を働いたトレーナーに対して怒気のかけらもなく、燃ゆる瞳にはいまや慮りの色さえ浮かべて、なんと寛大で愛らしい人だろう。
 手にしたボールを腰のホルダーに戻す。さきほど中のグラエナが見えたのだろう、「美しい子だ」と、それこそ美しく在る彼が慈しむように呟いた。

「グラエナを連れているトレーナーに悪人はいない。私の持論だ」
「そ、れは……いえ、ありがとうございます」
「そうだ、君の自慢の子とポケモンバトル! ……といきたいところだが、今の手持ちはこの子だけでね。むやみに弱らせたくはない」

 照れた風に頬をかく様もまた麗しい。緊張をほぐそうと配慮してくれているのに気が付いて、ますます心打たれたホムラはすっかりこの人に参ってしまった。

「手持ち一匹でこんなところまで?」
「ゴールドスプレーをたくさん撒いてきた。効果覿面だ」
「どうりで野生のポケモンを見かけないと……。それは周囲に撒くものではなく、ご自身の身体にかけるものですよ」
「そうなのか。物知りなんだな、君は」
「いえ……」

 トレーナーなら知っていて当然だ、と返そうとして、湧き上がった不自然さを飲み下せずに言い淀んだ。
 そんなことも知らないトレーナーが、ロープーウェイも利用せず、わざわざ危険な山道を登るものだろうか。人っ子一人見ぬ炎天下、登山に縁遠い革靴で、そもそもホムラを諌めた時だって、この人は突然現れたように見えた……。
 口をつぐんだホムラをよそに、彼はすらりと高い背をかがめてドンメルの頭を撫ではじめた。優しくポケモンを愛でる手つきに、なんだかいけないものを見ているような気になって、けれど桜色の爪をのせたたおやかな指に惹きつけられて、視線をそらすことも能わない。所作ひとつとっても幽艶だ。そんな人が荒々しい火山道にひとり佇む姿は、いっそ薄気味悪ささえ感じるようだった。

「こんなところで、何をなさっていたのですか」
「君の方こそ。……と言いたいところだが、まあいい」

 怪しいのはお互い様だ、と続いた言葉にドキリとする。いぶかしむ気持ちがお見通しだったことにも、素性を探るような返しにも、咄嗟に言葉を返せなかった。けれど彼は相も変わらず気にした様子を見せないで、ドンメルに向けていた微笑みをそのままこちらへ投げて寄越した。

「ひみつきち」
「え」
「掘ってみたのだ。君にもあるだろう、ひみつきち」

 ひみつきち……。
 高貴さを漂わせる男にはまるで似合わない代物だが、幼い頃ぬいぐるみやらを持ち込んでは遊んでいた、あれのことだろうか。上品な唇が紡いだ幼稚な響きがかえって淫猥な印象を抱かせて、なんだか尻の座りが悪い。

「はあ、昔木の上に作ったような気もしますが……こんな山の中に?」
「こんな山の中にだ。うまくできたのだが、このままでは君に見つかってしまいそうだなぁ」
「このあたりですか」
「どうだろう」
「あ。……もしかして、あそこの隙間」

 男の肩越しに臨む積み重なった巨岩群、そこにバクーダが通れそうな程の大穴を見つけた。奥の様子は窺い知れないが、周囲を見るに中はそこそこの広さがありそうだ。

「もう見つけたのか? 目がいいのだね」
「うーん。いえ、あれ隠す気ありますか?」
「あんまりないよ」

 明け透けな様子に肩透かしをくらった気持ちで視線を向けると、にこりと笑みを返された。邪気も裏表もなさそうで、それがかえって、どうにも怪しい。
 見つけてくれと言わんばかりに空いた穴。男の「ひみつ」に食いついて足を踏み入れた途端、ウツボットのようにぱくりとひとのみにされるのだろうか。物盗りには見えないが、なんにしたって弱者を狙えばいいものの、自分より体格の優れた男を誘い込む意味、そんなの、そんなのは……。
 ひみつきち、暴いてしまって、よいのだろうか。
 ちらと誘うような流し目を受けて、好奇心が膨れ上がった。ごくりとつばを飲む音に、男の柔らかな声音が被さった。

「よかったら招待しよう。ついておいで」
「ぜひ」

 外面もなく即答した。彼は目を瞬かせて、そうか、と嬉しそうにひとつ頷いた。ドンメルが胡乱げな顔でホムラを見上げている。誘ってくれたのは君のおやなのだから、何らやましいところはない。……はずだ、と、目配せしてみたが、通じているのだかどうだか。そいつは新たに仲間に加わったホムラに鼻を鳴らして、自らのおやを先導するようにぽてぽてと歩き出した。
 行こう、と男が言って、赤衣をひるがえす。しゃんと伸びた背筋が、相変わらず場違いに涼しげだった。
 ゆっくりとした足取りに着いていく。怪しすぎる誘いだが、この人に迎え入れてもらいたいという気持ちが勝った。
 男の名前を、男のことをもっと知りたい。逸る心が踊りに踊って、ホムラの足を進ませる。

「あの、あなたは」

 言いかけて、前を歩く男がこちらを振り返ったとき、突風が身体を打った。
 丁寧にくしけずられた赤い髪が、風にすくわれ宙を舞う。思わず見蕩れていると、彼の長衣の裾が風に煽られて大きくはためき、細い足がたたらを踏んでぐらりとよろけた。

「危ない!」

 考えるより先に体が動いた。とっさに駆け寄り、正面から強く抱きとめる。ぎゅうと両腕にしまいこんだ痩躯は見た目よりはるかに華奢で、ホムラは内心大いにたじろいだ。このまま手を離せばすぐさま風にさらわれてしまいそうで、恐ろしさが額の火照りを少し冷ました。

「助かった、礼を言う」
「……いえ」

 威厳を感じさせる物言いで、ホムラにすがりつく腕は幼子のようにか弱い。人を、ましてや男性を儚いと感じるのは初めてだった。こんな細腕でトレーナーが務まるのか、という逡巡より強く、守って差し上げたいと、本能が囁いた。ホムラは、急に芽生えた己の気持ちに困惑した。ただ、未だ風がびょうびょうと吹きすさぶなか、この人を手離すわけにはいかない。それだけは確かだった。
 ふと、背に柔らかなものが置かれたのを感じた。彼が背中に腕をまわしたのだろう。感謝の意でも込めているのか、ひとつ、ふたつ、するすると優しく撫ぜられる。今更になって、ホムラは自分が汗だくに濡れそぼっていることを恥ずかしく感じた。薄手のシャツはすっかり背中に張り付いている。不快だろうに、麗人の手のひらは何の惑いも見せず、濡れた背の上をゆっくりと往復している。
 所在なく彼の顔を見返すと、赤髪の男はおよそ庇護されるべき弱さの感じられない顔つきで、よくできましたと愛おしむように、ホムラだけをその瞳に映して微笑んでいた。

「君はいい子だ。過ちを詫びることができ、人を助けることもできる。私はそういう人間が大好きだ」
「は……」

 どくんと鼓動が高鳴った。思わず、抱きとめる腕に力が入る。男は抗わず、それどころかホムラの汗みどろの首筋にくちびるをすり寄せて、あえかな吐息で若い雄をくすぐった。

「ふふ、すっかり心奪われてしまった。きみ、名はなんと言う?」
「……ホムラ、です」
「そうか。よい名前だね。私はマツブサ」
「マツブサさま……」

 爆発的に暴れる鼓動はきっととうに伝わっている。それでも、極上の彼は腕の中、隙間なく密着したままだ。吐息の触れたところから血潮がガンガンと燃え上がり、逸る気持ちを抑えられずに呼吸が荒くなっていく。
 そんな興奮する若者の濡れた首筋に、マツブサはやわいくちびるをぺとりとくっつけて、ちろ、と、熱い熱い小さな舌で、すくうように舐めあげた。

「っ……!!!」
「ん? しょっぱくない」
「なっ、い、いきなり、なにをなさって……!」
「ふむ。滴るほどだから、どんなものかと思ったが……」

 うちゅ。首筋を食まれる。一回では飽きたらず、彼の舌が大胆にホムラの首筋をねぶりだした。全身がビリリと麻痺したように動けない。楚々としたくちびるが、鎖骨から、赤く染まった耳の下まで優しくなぞり上げていく。太陽が、空気が、彼に舐められた素肌が、轟々と燃えている。
 震える手をマツブサの後頭部にまわすも、撫でるような弱々しさで御髪をくしゃりと掴むことしかできなかった。

「親愛の証に。ポチエナがよくやるだろう。知らないかね」

 ポチエナがこんないやらしい舐め方をするものか!
 声にならぬ声を上げたホムラの耳の付け根に、ちゅうと軽いリップ音を立てて唇が吸い付いた。肩が跳ねる。ご丁寧に背伸びしてまですがりついてきたマツブサが「こんなふうに」と呟いて、それはそれは熱く甘ぁく耳朶に噛みついた。

 きゅうしょにあたった!こうかはばつぐんだ!

 変態だ!!と騒ぎ立てる心と、遊び心がお強い方なのだ!!と庇い立てる心がぶつかりあって、とにかくエッチだ万歳!!!という万雷の勝ち鬨がホムラの脳裏いっぱいに轟いた。

「マツブサさま!!」
「んぅ」

 好き勝手にあぐあぐと耳を食む彼を引っぺがす。きょとんとした表情に毒気を抜かれる前に、襟から生える細いうなじにかじりついた。

「わっ……こら」
「グラエナの親愛の証をお返しします」

 頬をくすぐる襟足をかき分けて、うなじから耳の裏まで、一切の遠慮なくねぶって味わう。仄かに感じた石鹸の香りは甘露めいて、ますますホムラを昂ぶらせた。自分から仕掛けてきたくせに、マツブサは戸惑った様子でホムラの背をぎゅうと握って息を詰めている。逃げを打たれないよう両腕で柳腰を引き寄せて、真白いうなじに歯型が残るほど強く噛みついた。「んっ」とかすかな嬌声があがる。白い肌が淫靡に紅潮していくさまにホムラは笑みを深くして、打って変わって優しくついばむように何度も何度も口付けた。

「っあ、くすぐったい、ホムラ……」
「マツブサさま……」

 しっぺ返しを食らわすように、執拗に肌理細かな素肌を堪能する。親愛などという言い訳が立たぬほど口づけを降らせ、強く吸い上げ痕をつけても、マツブサは喘ぎ声をあげて身動ぐだけで、ろくな抵抗を見せなかった。それどころか首を大きく傾けて喉元を晒すさまは、もっともっとと男を誘っているかのようだ。

「あ、ホムラっ……、も、もういい……っ」

 今にもとろけてしまいそうな吐息が耳をくすぐった。抱きすくめた躰は羞恥に震えており、けれど両腕は広い背に縋り付いたままで、やめないでと請われているようにしか思えない。

「いけません。まだです、マツブサさま」
「んっ……、も、しつこいっ……!」
「ご存知でしょう。それがグラエナのいいところです」

 ボールの中のグラエナは、きっとホムラの突然の求愛行動に呆れ返っていることだろう。
 ホムラはきつく首筋に吸い付き、一旦唇を離してマツブサの痴態を眺めてみることにした。ひどく恥じ入った様子で閉ざされた瞼に反して、薄く開いた唇からはとても美味しそうにぬかるんだ赤色がのぞいている。指を突っ込んでみたらわけもわからずしゃぶってくれそうだ。
 そんなことを考えていたら、攻勢がやんだと思ったのか、そろりそろりと彼のまつ毛が持ち上がった。徐々に姿をあらわす潤んだ瞳に、可愛い人だな、と思って、微かに兆した己のものを彼の股間に押し付ける。途端にマツブサの目がぎょっと見開かれて、視線が交差したのを合図にホムラは彼の唇を奪った。

「んぅ! ん!」
「ふ……」

 太い腕で彼をがっちり抱き寄せ密着する。身体はさすがに柔らかいとはいかないものの、あわせた唇は極上のくちどけでホムラの熱を抱きとめた。薄いがふにふにと柔らかい感触を楽しむように、ふたつみっつ啄むようなキスをする。マツブサが不慣れなのは一目瞭然だが、抗い方さえ知らないらしく、のけぞる頭を掴んでしまえば、この非力なひとは若い男の陵辱から逃れる術を持たないようだった。
 無防備にも目をつむったままの彼の下唇を己の唇で優しく食む。吐息とともに開いた隙間にそろりと舌で押し入って、ひときわ戦慄いた身体に拒む隙を与えぬうちに、一気にぬるりと侵入を果たした。

「ア、んふ、ぅっ!?」

 腕の中の身体がびくびくと震える。いとも容易くホムラの熱を迎え入れた口腔は負けず劣らず甘い熱に満ちており、うぶな舌がホムラの舌に絡んで濡れた音を立てた。こんらんしきって伸ばされた舌を優しく吸う。驚いたのかすぐに逃げ帰られてしまったが、そのまま裏側を辿って絡めあい、歯茎を撫でるように刺激する。

「んっ、ン、んむ! は、ァあ……っ!? ふぁ」

 腰を押し付け揺らしながら、マツブサの上顎を舌先でくすぐると、凄まじく感じ入った嬌声があがった。これほど気持ちよさそうに鳴かれると男冥利に尽きるな、と思う自分もまた、快楽を享受するマツブサに骨を抜かれかけている。
 一度口を離して唇を食むと、「ん、んっ……」と鼻にかかった声が漏れて、ホムラは改めてマツブサのなかに舌を差し入れた。燃える内側はホムラを歓迎するように濡れそぼり、若い雄はますます昂ぶりを増していく。

「ふぁ、あっ、あ、はぁっ……んむっ、」
「ん、……っは」

 鼻で呼吸することもままならないのか、マツブサは激しく息を荒げている。無我夢中で口内を堪能するホムラ以上に恍惚と悦に入っているようで、臀部をわし掴んで引き寄せた下半身が、ホムラの熱に甘えるように擦りつけられた。
 たかがキスひとつ、だのにこれほどまでにマグマがごとき熱を孕んだマツブサの身体に溶かされて、とろけて一つになりそうだった。可哀想なほどぜえぜえと上がった息が限界を訴えているけれど、上顎への刺激にたいそう弱いらしい彼の反応が可愛くて可愛くて、ホムラは意地悪に丁寧にマツブサの口内を犯し続けた。

「っあ、はぁ、はっ、ゃ、もっ……んぅ!」

 とん、と、ごく小さな振動が背を叩いた。マツブサの拳だ。あまりにか弱い抵抗に、唇がきつく弧を描く。これしきの力で男を止められると思っているのだこの人は。なんて慢心、なんて非力でおいたわしい、なんて可愛く愛おしいお方なのだろう!

「もっ、やめっ、なさい……! ん、はァっ、は……!」
「ふ……」

 自分から誘っておいて、淫らに腰まで押し付けあって、いまさら理性に立ち返ろうとは。けれどホムラはその懇願に応えてあげることにした。今いっときの我慢など易いもの、己は獲物を逃しはしない。

「マツブサ様」
「や、ン……ふ」

 ダメ押しに甘やかすようなキスをひとつ、わざと音を立てて解放した。細腰は抱き寄せたまま、吐息の触れる距離から紅潮した顔を覗き込む。マツブサは肌という肌を真っ赤に染め上げて、唾液にてらりと濡れたくちびるから、ハアハアと熱い息をこぼしている。ホムラの胸にそっと片手を置いて距離をとろうとしたようだが、追いかけるように覆いかぶさると、マツブサは快感に染まった表情を隠すようにふいと顔を反らして、それ以上の抵抗をやめた。
 上気した頬に思わず唇を寄せると、キッと眦を吊り上げた涙目の彼から「こらっ……!」とお叱りをいただいてしまった。ホムラの口を弱々しく手で突っぱねて威嚇する様子がまるでエネコのようで、この方はこんなに男を煽る質で大丈夫なのだろうかと思いながら、それはそれとして手のひらをべろりと舐め上げた。

「ひゃ!」
「親愛、感じ取っていただけたようで何よりです」
「うっ、はぁっ、は、くっ……この、おまえ」

 ぎゅっと握りしめて拳を避難させる姿はやはりエネコのようだ。薄い肩は呼吸とともに激しく上下して、こちらを睨めつける真っ赤な目元は威厳よりも初々しさが勝っており、弱り切った獲物さながらに愛らしい。
 頭から食ってしまいたい、と本能が囁いた。それだけじゃない。大切にしたい、押し倒したい、お守りしてさしあげたい、いますぐ俺のものにしたい……。次々に湧き上がる庇護欲と加虐心めく愛欲が、日照りより強烈に身を焦がしていく。
 茹だるような外気のなか、生々しく抱き合ってますます熱を上げて、けれど自分ばかりが欲に溺れているような、この目に彼の痴態はとても清らかに光って映る。
 ホムラは精悍な面差しで、マツブサの涙目を真摯に見つめた。彼はグゥと子犬のようにひとつ唸って、そっとくちびるを震える指でなぞって睫毛を伏せた。薄い唇がはくはくと開閉し、懸命に何か言わんとしている。
 落ち着くまでゆっくり待つつもりで、乱れた彼の赤髪を指で優しくすくって耳にかけると、それにさえ気持ちよさそうに目を細められてしまって、生殺しの今が非常に辛くなってきた。
 厚い胸に置かれた手が、ホムラの服をぎゅっと握りしめた。

「……し、親愛、どころじゃ……なかった、ろう、っふ……いま、の」
「はい」
「……こ、こんなの……は、はじめて……でっ……」
「はい」
「こんな、いっ、いけな、のにっ……く、」
「マツブサさま……」

 荒い呼気に混ざってたどたどしく繰り出される言葉が、ホムラの心臓を貫いていく。互いの鼓動が混ざり合って、押し上げる熱がはちきれそうだ。
 はぁ、と熱い吐息が素肌を撫でた。マツブサは眉間に少ししわを寄せ、けれど口角を持ち上げて微笑むと、うっとりと呟いた。

「……き、きもちよかった……」
「……!! っは…………!!!」

 おあずけ食らわしておいてなんだこの人は!
 密着する身体をさらに掻き抱いて、ホムラはマツブサの唇に再び食らいついた。びくんと跳ね上がる身体は正直で、張り詰めた熱が太ももにあたる。キスだけで達してしまうのではと思うほどマツブサはとろとろに蕩けていたが、ホムラは小さく形良い尻を両の手で掴んで揉みしだきながら、股ぐらに差し入れた脚を強くこすりつけるように揺り動かして、互いの快楽を追い求めた。
 ――声が聞きたい。彼の楚々としてみだりがわしい嬌声に溺れたい。名残惜しくも離した唇を強く首筋に押し付けると、願ったとおりマツブサの口から溢れんばかりの嬌声が飛び出した。

「あっ、ぁ、ほむら、だっ、だめ、ア、ァ、も……」

 もどかしい、肌に張り付く服を取っ払って直接愛し合いたいと焦れるホムラに反して、マツブサはたどたどしく腰を揺らしながら、悦に入った声をひっきりなしにあげている。限界の近さを確信し、ホムラは真っ赤な耳に直接熱い吐息を吹き込んでやった。

「いいですよ。ほら、マツブサ様……」
「あ……! ほむ、ァっ、あぁっ……~~~~~~っ!!!!」

 押し殺せない嬌声がホムラの耳を悦ばせる。マツブサはびくびくといっそう激しく身震いして、絶頂を迎えたようだった。必死にホムラに縋りつく彼の下肢ががくがくと揺れて崩れ落ちそうだったので、臀部を揉む手はそのままに力強く抱きしめ直す。汗やらなんやらで二人ともぐちゃぐちゃだ。己は未だ射精に至っていないが、それでも、やりきった気持ちに気分が満ち足りていくようで、自然と笑みが浮かんだ。

「っく……っは! はぁ、はっ、っあ、あっ……ぐ、うぅ~っ……」

 腕の中ではふはふと整わぬ息をこぼしているマツブサを見つめていると、これ以上を求めるのは酷だなと思って、ホムラは自分自身に二度目の我慢を強いた。よし、来るべき時にぺろりと美味しくいただこう。
 マツブサの扇情的に紅潮しきったかんばせを、ほろりと一筋の雫が伝い落ちた。ぐすんと鼻を鳴らして、叱られている時のポチエナのようなきまり悪そうな表情をしているから、大変お可愛らしかったですよと慈しむつもりで頬を撫でると、彼はぼすんとホムラの胸に顔を埋めてぐるぐると唸りだした。

 ……かわいい。かわいい!かわいい!!!

 なんだろうこの生き物は。全身が煮えたぎり、胸にぴとりとくっつく悪い人を今すぐモノにしたい衝動が身を焦がす。初対面でこの威力、この人にかかれば、どんな休火山だって大噴火イチコロだろう。
 そうだ、初対面だ、と今更ながらに思い出した。見知らぬ若造にこんなことまで許してしまって、あまつさえバツの悪さを漂わせつつもなんだか嬉しそうに胸板に頬ずりをしている始末で、大丈夫なのだろうかこの方は。心配でたまらなくなってきた。
 徐々に呼吸が落ち着いてきた様子のマツブサは、胸板に額をくっつけたまま、もごもごとなにやらか細い声で囁いた。よく聞こえなかったので、至極丁寧に顎をすくって顔をあげさせる。お目見えした美しい瞳はあっちへこっちへ泳ぎまわって、一度ぎゅっと瞑られた瞼の下に姿を隠したが、再びまみえた時にはしっかりとホムラに熱視線を浴びせてくれた。
 引き結ばれた唇がしどけなく開いて、恥じらいに染まった言葉がこぼれだす。

「す、すまないホムラ、醜態を晒した……」
「ご満足いただけたなら光栄です」
「いや、だがその、君はまだ」
「お気になさらず。我慢できますから」
「うぐ。む……す、すまない……」

 自分だけ気持ちよくなってしまった、なんて罪悪感を抱いているのであろうその表情を見つめながら抜いてもいいですか、と喉まで出かかったが、格好悪いにも程があるので飲み込んだ。代わりに、負い目の分だけ付け入る隙をくださってありがとうございます、と心のなかでほくそ笑む。
 びょうと一際ぬるい風が吹いた。ふうと一息ついて、彼の乱れた御髪を指ですいて整える。綺麗な赤髪は何度撫で付けても毛先がぴょんと外に跳ね、こんな末端までお可愛らしいのだな、と愛おしさが際限なく湧き上がる。
 ぽつりと「そ、そろそろ離れないか……」なんて呟きが聞こえたが、ホムラの汗濡れの肉体が不快だという意味ではなさそうだし、なによりまだいつ強風が吹くかわからないので「早計ですよ」と進言した。
 そうして数秒、両者無言で見つめ合う。するとマツブサは、またしてもいやいやするエネコのように両腕を突っ張って距離をとろうと身動ぎしだした。もちろん手放すつもりはないし、なにより胸板を押す腕がか弱すぎるので、ホムラはびくともしなかったが。
 無言のまま微笑んでいると、マツブサもまた押し黙ったまま眉尻をへにょんと下げて、潔く脱出を諦めた。
 涼やかな彼の頬にやっと伝い落ちてきた一筋の汗を、ちゅうと口付けた唇でぬぐう。「うぁ」とあがった悲鳴に心和ませつつ、向かい合っていた身体をやにわに離して真隣に並び立った。エスコートするように腰にまわした腕の強さは変わらず、引き寄せた身体は大人しくこちらに寄りかかっている。
 目前のひみつきちを見やると、二人とそちらの中間地点をドンメルがのそのそと進んでいるところだった。

「あ。すっかり忘れてました、ドンメル……」
「我々を待っていたのだ。気を使ってくれたんだろうな」
「いい奴ですね」
「そう。いい子なんだ、私のドンメルは」

 いいなあ、私のホムラと呼んでほしいなあ、とぼんやり思った。
 どうやら一部始終をそばで見守っていたらしいドンメルは、こちらを振り返ることなく大穴に向かって歩を進めていった。砂埃が舞い、地面にドンメルの足跡が続いていく。丸いそれの合間に、三本指の小さな軌跡が続いているのが見えた。ひみつきちに侵入した野生ポケモンでもいるのだろうか。

「……?」
「さあ、早くひみつきちに避難して涼もう。着替えもある」
「この期に及んでお招きくださって大丈夫ですか。さては私に惚れましたね?」
「さっきから言っている、君みたいな子は大好きだよって」
「……………………」

 叩いた軽口に、そんな答えが返ってくるとは思わなかった。無防備な急所を4倍弱点で突かれた気分だ。

「なんでこれで照れるんだ! あんなにすごいことをしておいて!」
「その……嬉しくて」
「き、君なあ……。私まで恥ずかしくなってきた」

 きっといま、自分は耳まで真っ赤になっている。片腕に抱きおさめた人の頬も、熟れて美味しそうな色に染まっていた。それにさえ胸が締め付けられて、もはや冷静に振る舞える自信がなかった。この暑さ、いや、マツブサの甘い体温に頭がやられたに違いない。
 がっちり支えた腰を引き寄せ、二人して照れ照れと、言葉少なにひみつきちへと歩を進める。ドンメルが消えていった闇の中を壁伝いに進んでいると、フラッシュでも使ったのか、ぱっと眩い光に視界をとられ、彼の腰にまわした腕を離して顔に掲げた。光に慣れるまで待つこと数秒、マツブサはやんわり身体を離して、とことこと出入り口付近に歩み戻ったようだった。
 次第に戻ってきた視界で、基地内をぐるりと眺める。彼が「うまくできた」とのたまったそこは、どう見てもただの岩窟だった。
 掘りっぱなしの様相で、荒削りの岩がごろごろと転がっており、落ちているとしか言いようのないクッションがふたつ、それ以外に家具は見当たらない。彼のものだろう鞄が隅に放られているだけで、急ごしらえなのは明らかだった。
 ひみつ基地とは名ばかりで、とても人を招こうと思えるような場所ではない。育ちのよい男なら、きっとなおさら。
 野生の勘が訴える。やはりこの男、めっぽう怪しい。魅力的な人だと思ったが、これ以上の深入りは危ないかもしれない。
 ちらと相手を盗み見る。マツブサは、ホムラから数歩離れたところ、出入り口との間に何の気なしに立っていた。「まあ座りたまえ」と朗らかな声がかけられる。袖振り合うも多生の縁、たまたま招待されただけだと思い込みたくても、彼がわざわざ逃げ道を塞ぐ形で陣取った事実が、日和る思考を打ち消した。
 何が狙いか知らないが、いつでも逃げ出せるようにとクッションの上に浅く座り込む。動きを追うように意外と頓着なく座した彼と顔を見合わせた。やはり表情に邪気はない。
 深呼吸を一つ、ホムラは静かに切り出した。

「私を待ち伏せしていましたね?」
「おや。気づいていたのか」

 さらりと認めたマツブサは顔色一つ変わらない。それどころか、唇は愉快そうに弧を描いて、目尻に皺を寄せさえしている。こちらの手持ちは6匹、対する相手はドンメル1匹。トレーナー自身の体格差も一目瞭然だというのに、ぞっとするほど優位を伺わせる笑みだった。

「登山道にあなたは不似合いですからね。色々と不自然極まりない」
「そうかね。うまくいったと思うが」
「……なにがでしょう」
「まあ、そう急くな。そうだな、あの子たち」

 マツブサがすいと指差した先に目をやると、宙にボールホルダーがぽつんと浮いていた。驚いて注視すると、いきなりぐんにゃりと空間が揺れて、ホルダーを手にした緑色のポケモンが姿を現した。

「カクレオン……!?」
「そう。さすがに知っているか」

 突如現れたそいつに心中で仰天していたが、それよりも大変なことに気がついた。カクレオンが握りしめているそれ、計6つのモンスターボールを装着したホルダー。色といい形といい、いやに見覚えがありすぎる。
 腰に手をやって己のボールホルダーを確かめた。指先が感じるのは布地の感触ばかりで、つけていたはずのそれがない。……やられた!
 背筋にざっと悪寒が走る。いつの間に盗られた?ホムラが彼の躰を夢中で貪っていたとき?彼はずっと翻弄されていたはずだ――いいや、その時しかない。男を煽って自分の躰に集中させて、まんまとホルダーを手に入れたのだ。近くに控えたカクレオンにそれを投げ渡して――あの足跡はこいつか!
 ホムラが獲物だと思っていたその人は、いまや捕食者の余裕を湛えた笑顔で愚かな若者をじいと眺めている。滑らかな手を顎に当て、面白くて仕方がないといった笑みは戯れではない。臨戦態勢をとっているドンメルたちがその証拠だ。
 ぐわんと頭が揺れる。とっさに腰をあげようと動いたホムラを彼の一言が押し留めた。

「おっと、血迷うんじゃないぞ。私が3匹も出している意味、わかるだろう?」
「くっ……さん、びき?」
「ああ、言ってしまったな。もう1匹潜んでいるよ、私のカクレオン」

 洞穴にくすくすと上品な笑い声が響き渡った。今となっては威圧的でしかないその態度、そしてあえて開示された情報は、ホムラにゆっくりと両手を挙げさせるのに十分な代物だった。
 小首を傾げてこちらを見つめるマツブサの表情は、先と変わらず麗しい。こういった状況に慣れているのだと思い知って、背筋にびりりと震えが走る。怪しすぎるどころではない、手を出してよい人ではなかったのだと、間抜けにも釣られてしまった己を恨んだ。少し前まで情欲に鳴り響いていた心臓が、今は緊張感にどくんどくんと高鳴っている。

「……マツブサ様」
「そう怖い顔をするな。なに、とって食おうというわけじゃない」

 マツブサはゆっくりと立ち上がり、走り寄ったカクレオンの手元から、勿体ぶった手つきでボールをひとつ手にとった。彼が選んだそれは、ホムラにとって特別な意味をもつものだった。人に言えない経緯で手に入れたばかりの、そしてわざわざ人目を忍んで山頂を目指す理由そのものの、特別なポケモンだ。
 全身から血の気が引いて、冷や汗がダラダラと流れ出す。

「まんまと私に引っかかってくれてありがとう。嬉しくてついマーキングしてしまったが、それ以上を返してくれて嬉しいよ」

 彼が軽くボールを放る。ボン、と音を立てて、二人の間にポケモンが繰り出された。まず目につくのは凶悪なツノ、それから、攻撃的な目つきに黒い短毛、しなやかな体つきを誇るそいつが、ぐるると喉を鳴らしてマツブサの足元に擦り寄った。ここホウエンではとても珍しいポケモン、ヘルガーだ。

「密猟者ホムラ、私のヘルガーに手を出したのが運の尽きだ」
「…………!」

 そのヘルガーは宵闇の中、冴えない男から奪い取ったポケモンだった。どこかの金持ちの手下であろう男が、いつも決まった時間、決まったルートで散歩をしていた珍しいポケモンだ。男の手持ちは相棒のグラエナたちが軽々下して、顔を見られた記憶もヘマをした覚えもない、いつもと同じ、けれど特別記憶に残る夜だった。
 その証拠に今もなお、対峙した男の言葉がはっきりと蘇る。
 「こいつに何かあってみろ、俺もお前も命はないぞ。ご主人様は末恐ろしい人なんだ」……。
 そして、バトルに圧勝しヘルガーを奪ったホムラに向かって、顔中を涙と鼻水まみれに汚した大の大人が、地面に額をこすりつけて懇願したのだ。「死にたくない!お願いだから、そいつを連れて行かないでくれぇ」なんて、絶叫に近い嗚咽を上げて。必死だな、と一笑に付してその場を去った覚えがある。
 それが、これほど早く、笑えない形で己の身に返ってくるとは。

「私のドンメルは奪おうとしないのに、使用人に預けたヘルガーは安々と奪ってくれて。君、相手を選んでやってるな? まったく、グラエナみたいじゃないか。優れた相手に絶対服従……私は君の目に優れて見えるか」
「は、…………」

 彼の長い脚になつくヘルガーをたおやかな手が撫でる。愛おしそうに嬉しそうに配下を撫でるその指一つに、ホムラの生死は握られている。優雅に、圧倒的に君臨する支配者は、かざした手でヘルガーを後ろに下がらせると、悠々とこちらへ歩み寄ってきた。
 がんがんと流れる血潮が耳を打つ。ホムラにゆっくりと黒い影が覆い被さった。正面に立つマツブサが、ホムラの両頬をなみなみならぬ優しい手つきで包み込み、どろどろの熱を湛えた視線で瞳を覗き込んでくる。あの時の手下の尋常でない怯えようが、今になって身に沁みた。

「山頂に取引相手がいるな。そうはさせない。君の旅はここで終わりだ」
「……殺し、ますか、私を……」
「ころす? ……ふふっ、ははは!」

 額にこつん、とマツブサの額が合わさった。ぎらぎらと燃える瞳に呑まれて瞬き一つできやしない。耳をすりと撫ぜられて、快感とも恐怖ともつかぬものがぞくぞくと体の芯を震わせた。
 にっこりと、マツブサの唇がいっとう慈愛深い笑みをかたどった。

「殺したりなどするものか。君を手放すつもりはないよ」

 言い終わるやいなや、唇を塞がれる。ひとたび触れ合うだけの軽いキス、けれどホムラは食われる、と思った。おさまったはずの熱が、いつの間にか強烈に勃起しているのを自覚した。言葉なく息を乱すホムラを、視界いっぱいに映るその人の聖母にも処刑人にも思える苛烈な視線が火炙りに煽り立てていく。

「録画を見たが、君たちの動きは素晴らしかった。しばらく動悸がおさまらなくなるほど興奮したのは初めてだ。あれほど見事にグラエナたちを複数同時に操る者は見たことがない」
「……?」

 急な話についていけずに数度瞬く。心臓がバクバクとうるさくて、なにを言われているのだかてんで頭に入ってこない。吐息のかかる距離、興奮冷めやらぬ様子で続けるマツブサは、押し黙ったままのホムラの輪郭を艶やかな手つきで撫で続けている。

「一糸乱れぬ包囲網、一切の躊躇も隙もない連携攻撃! 彼らが統率のとれた優れた集団足りえるのは、絶大な信頼をおける優秀なトレーナーがいてこそだ」
「…………?」

 さきほどまであんなに恐ろしく燃えていた瞳が、なんだか夢を見る少年少女のようにきらきらと輝いている。……もしやこれは、褒められている、のだろうか。ホムラは太ももに置いた手で皮膚をつねってみた。普通に痛い。どうやら死の恐怖から白昼夢を見だしたわけでもないようだ。けれども、それならばこの流れは一体なんだ。

「ふふ。呆けているな? ホムラ、君のことだよ」
「…………???」

 ぽかんと薄く開いたままのホムラの唇を、あざとい指先がひとなでして去っていく。打って変わって、末恐ろしいご主人様と称された男らしからぬ穏やかな微笑みは、ホムラの反応を待っているようだった。しかし、一体何を言いたいのだか、やはりどうにもわからない。ぐっと息をのむ。ふ、と彼の笑みが音をこぼした。

「私は君が欲しくてわざわざ先回りまでしたのだ」
「……? 殺されると、思って……違う、のですか」
「殺しに来たわけじゃない。手に入れるために来た」
「……!」

 両頬からゆるやかに離れていった手のひらが、薄い胸にホムラの頭を抱き込んだ。華奢なそこからとくんとくんと鳴る心音が、若者の緊張しきった身体を解きほぐしていく。

「ホムラ、お前はこれから一生私のグラエナだ。逃がしはしないから、今ここで腹を括りなさい」
「一生、マツブサ様のグラエナ……」

 心臓を直に握られたようだった。潰されて血みどろになったかと思うほど心音は暴れたて、全身を多幸感と灼熱が巡り満たして溶けていく。彼とくっついたところから受け入れられて一つになってしまいそうな、そんなすさまじい威力の、抗いがたい命令だった。
 ずっとそうしていたいと思えたが、マツブサはそっと身体を離してホムラの両肩に手を置くと、拒否されるとは微塵も思ってないような、プレゼントの箱を開ける寸前の子どものような表情で、じっとホムラの答えを待っている。その瞳は幾千の輝きに満ちていて、滴り落ちてしまいそうだ、と見惚れた若者は、ほうとため息をこぼして微かに震える唇を動かした。

「……マツブサ様」
「うん。なんだ?」
「今をときめく雄なので、いちばん愛していただけると光栄です……」
「そういう図々しいところ、なかなか好ましいぞ」

 喜色満面、わくわくといった表現が相応しい声音が洞窟の中を跳ねまわる。どっと緊張感が抜けたことでむしろ指先が細かく震えだし、みっともないと思う間もなく、目前のマツブサがそっと腕を広げて言った。

「怖がらせて悪かったね。絶対に逃したくなかったのだ。ほら、おいで」
「は、はい……」
「よしよし、もう大丈夫。ボールも返してあげる」

 格好悪いだなんて今更だ。甘やかしてくれるのなら思う存分甘えてしまえと、ホムラはマツブサに縋り付くように抱きついて、勢い余って地に押し倒した。快活な笑い声が響きわたる。固い地面にこの人を横たわらせるなど本意ではないが、今の己は赤子同然なんにもできない存在だから、仕方がないと開き直った。
 ぽんぽんと幼子に対する手つきが背を叩く。ホムラをダメにしたのはこの人だけど、あやしてくれるのもこの人だ。ガチガチの熱が彼の太ももを圧迫して、「あっ……」と恥じらう声が耳をくすぐった。演技ではないこの二面性、叫びだしたくなるほど凶悪でたちが悪すぎる。

「……離れがたいです」
「わかった。好きなだけぎゅっとしておいてあげよう。そうだ、お互いずいぶん汚れたな。着替えたくはないか?」
「今、マツブサ様の脱衣を見たら、我慢できそうにないです」
「そうか。私も初めてはベッドの上がいいから、帰ったら着替えようね」
「…………」
「またそこで照れる! 本当に可愛いなあ、ホムラは」

 帰る先が一緒、初めてはベッドの上、考えれば考えるほど昂ぶりがおさまらなくなっていく。正真正銘、ホムラはこの人のモノになったのだと、じんと痺れる頭で自覚した。
 死の恐怖を味わうなど、人生で初めてのことだった。それ以上に、心から渇望した瞬間、己をモノにしてもらえるなど、こんな僥倖ほかにあるまい。たまらない心地でぐりぐりと彼の首筋に頭をなすりつけていたら、間近に寄ってきたヘルガーにずつきを食らった。ご主人様と戯れるなら俺も混ぜろと言うことらしい。鋭い目つきに負けじとガンを飛ばす。お前のご主人様は、俺を一番にしてくれたぞというマウントを込めて。……いや、返事はもらってないか?

「そういえば、マツブサ様はなぜ私を見つけられたのですか」
「ヘルガーには装飾品をつけている。発信機入りのね」
「ああ……なるほど」

 妙なデザインの、と言ったら気を悪くされそうなので言及しないが、今度はホムラを足蹴にしだしたヘルガーの首周りには確かに見慣れない装飾品がついている。せっかく徒歩で山道をこそこそ移動していたのに居場所がバレていたのだと思うと、少しばかり悔しくてヘルガーにデコピンを食らわせた。仕返しに指を噛まれたが。なんなら、カクレオン2匹とドンメルにさえ、寄ってたかってポコポコと蹴りつけられはじめたが。

「ホムラも私のものになったんだ。羨ましければつけてあげようか」
「いえ。探す手間がないくらい、お側に置いてください」
「やっぱり君、好きだなあ」

 いい加減己の筋肉で潰してしまいそうなので、よいしょとマツブサの身体を持ち上げ上下を入れ替えた。やはり仔エネコみたいに持ち上げられてもだらんとしているし、己の上に乗せても軽くて温かくてなにより可愛い。背中に刺さる石の痛みもこの愛くるしさの前には無に等しいと思えるほどで、俺はこの人のモノになったんだ!と万感の思いを込めてぎゅっと大事に抱きしめた。

「私にはやりたいことがあるのだよ。君にはそれに付き合ってもらう。ただ、最初の仕事は山頂で待つ君の取引相手……私のヘルガーを欲した愚か者を、可愛がってあげること、かな」
「はっ。待ち合わせは夜ですから、噴火口にでも追い立ててやります」
「私のグラエナはお利口さんだ。楽しみにしているよ」

 彼は厚い胸に顎を置き、あどけない顔でるんるんとホムラの唇を撫でている。ときおり若者の昂ぶる雄を腹で確かめるように身体を揺らしているのは、無意識なのか、意地悪なのか。どちらにせよ質の悪さは一級品で、まんまと手玉に取られたホムラはうっとりと囁いた。

「魔性のお方だ。こうして皆をたぶらかしていらっしゃるんですか」
「無礼な。私が口説くのは君だけだよ」

 返す刀の切れ味の鋭いこと。嘘か真か、ここまで言わせて応えないのは男にあらず。ホムラはマツブサの柳腰を掴んでずりずりと引き上げて、唇同士が触れ合う距離まで麗しい顔を持ってきた。落ちる赤髪をかきあげて、愛しいご主人様の頬を丁重にやんわりと手のひらで包み込む。

「責任、とっていただけますか」
「もちろん。ともに明るい未来を築こうね」
「……大切にします」
「うん。末永くよろしく頼むよ」

 頬にふわりとあたる唇の感触。心から喜んでいるのが伝わってくる弾ける笑顔。なんと罪作りな人だろう。けれど、諸手を上げて自ら甘い甘い毒の蜜に飛び込んでしまったホムラには、これから続く未来への期待に胸をときめかせることしかできなかった。
 気の利く一言を返そうとしたところ、ヘルガーに思い切り足を噛まれて顔をしかめる羽目になり、むしろそのおかげで一層甘やかしてもらえたので、こいつらともうまくやっていこうと苦笑ながらに新入りは心を決めた。


 ホムラが密猟なんて後ろ暗い生業から足を洗って、けれど堂々と大義ある悪事をはたらくようになるまで、あと数ヶ月。
 初めてのお仕事を終えて帰った先で、いきなり一緒にだだっ広い風呂に入ることになって嬉しい悲鳴を上げるまで、あと数時間。
 ちなみに「いい子だから一緒に寝ようか」とからかわれ、機を逃さない男はそれからずっと「私はいい子なので一緒に寝ます」を実現した。




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いい子にご褒美


「ホムラ、お誕生日おめでとう」

 良い子寝静まる子三つ刻。
 全ての針が十二を指してひとつ歳を重ねたわたしの寝室、音もなく現れたその人は、跳ね起きたわたしに覆い被さるようにベッド脇へ乗り上げて、甘い声でそう言った。

「っ……!? た、んじょうび」
「そう。おめでとう。今年も私が一番乗りだ。なんでも欲しいものを言いなさい」

 ふわふわの髪にちょいと寝癖をつけた可愛い人が、わたしのベッドの上にいる。
 ──夢、かと思ったが、重ねられた手のひらから伝わる温もりが現実だと告げている。瞬いて、もう一度瞬いて、恍惚と見つめていたら、「なんだかふにゃふにゃしているなあ」なんて仕方なさそうにこてんと首が傾いた。
 月明かりに浮かぶ最愛の人、マツブサ様は、誕生日を祝うには過分で目に毒な微笑みを浮かべて、もそもそと布団の中に潜り込んできた。ぎょっと目を見開いたわたしをよそに、シルクのパジャマがしゃらりと鳴って、冷えた裸足がわたしのくるぶしにぺたりとくっつく。慌てて布団をかけ直して差し上げると、にっこりと満足げな笑みが返った。
 お可愛らしい、いつにも増して。
 それにしたって、吐息の混ざるほど近しい距離で、喉から手が出るほど欲してたまらない存在に「欲しいもの」を問われたら、咄嗟に言葉は出ないものである。

「ま、つぶさ様……あ、あの」
「ふふ、あったかい。こうしていると昔みたいで懐かしいな」

 ちょいと手招かれては抗えず、ずるずると布団の中に舞い戻る。二人寄り添って横臥するなんて、もうどれだけ振りだろう。幼い頃は安心感に包まれていた胸が今はときめきに高鳴って、下心が布団の中に満ちていく。
 そんな男心の機微を知ってか知らずか、向き合った人の滑らかな手のひらが、わたしの脇腹をなぞって背に回された。親愛のお仕草だろうか、敏感なところを刺激したそれにぞくぞくと背筋が震えて、くちびるを噛み締める。
 誕生日を祝ってくださるのは嬉しいが、だからこそ、わたしがとうに幼い男の子ではないと認めてもらわなければ困る。己に執着を向ける男のたくましく育った身体とひとつ布団にくるまるなんて、無垢というには婀娜めいて、蠱惑的と呼ぶには無防備だ。

「ん……、それで? 去年は遊園地でデートをしたな。今年はなんだ? たまには思いきり我儘を言うといい」

 指の腹がつうと背の窪みをなぞる。
 心臓がばくんと高鳴り、急激に下腹へ血が集まるのを感じて、据え膳、なんて言葉が脳裏をよぎった。鮮烈な期待にごくりと喉が鳴る。

「……マツブサ様のぜんぶをください」

 ご命令なのだから、腹の底から思いきった我儘を。
 上目遣いのおねだりに愛しい瞳はきょとんと瞬き、くちびるが優雅に弧を描いた。

「待てない?」
「は、い……」

 保護者然としていた人が、ひといきに艶冶な空気を纏った。返した声は見事に掠れて、くすくすと愛らしく笑われる。余裕も体面も奪われて、丸裸にされた気分だ。マツブサ様の視界に映るわたしはきっと、浅ましい顔をしているに違いない。
 唾を飲む。火照った頬を、細指がちょんとつついた。

「どうしたい? 優しくしたい? それとも、乱暴にしたい……?」

 頬をつたった指先に顎を撫ぜられて、かっと身体が熱くなる。──どうしたいと聞かれても、ただ、マツブサ様とエッチなことをして、とろとろに蕩けて一つになりたい。
 くちびるが震えて、ちょっと迷ってから「優しく、めちゃくちゃにして差し上げたい、です」と答えた。それが正解なのかはわからない。けれど、マツブサ様は嬉しそうに破顔した。

「だーめ。二十歳になったらな」

 垂涎のご馳走をちらつかせ、ひょいと無慈悲に取り上げる。うっとりと頬を撫でながら、砂糖菓子みたいなくちぶりで。
 マツブサ様の意に反することなどしたくはないが、「ワガママ」を求めたのはマツブサ様だ。なにより、麗しいかんばせに拒絶の色は見られない。握った拳は震えたが、決意の声はすっと通った。

「わたしはもう立派な大人です。二十には足りませんが、マツブサ様をお守りするに足る膂力と実力は備えているつもりです」
「そうだな。お前は本当に、すこぶる良い男だよ」
「ならば、どうしてまだお許しいただけないのですか……?」

 二十歳になった自分なんて想像もつかないけれど、マツブサ様を想う気持ちなら、例え未来の自分であっても負ける気はしなかった。
 わたしの前髪をすくって遊ぶマツブサ様を視線でなぞる。愉快そうに小首を傾げる優雅なお顔、赤毛から覗く真白いうなじ、たおやかに滑る細い指、そして、布団に隠れて見えはせずとも、目に焼き付いて離れない、なだらかな流線を描く柳腰、すらりと伸びる美しきおみ足……。
 あと数年の辛抱なんて拷問だ。早くその御身の奥深くまで飲み込んでいただかないと、愛が溢れて溺れてしまう。
 ふと、胸元に縋りつかれて、耳元にくちびるが寄せられた。熱い吐息になぶられて、ぞくぞくと肌が粟立ち昂る。柔らかな肉のぴとりとくっついたそこ、わたしの耳の中へ、男を溶かす灼熱の告白が注がれた。

「お前の特別になりたいのだよ」

 きゅうと細められた瞳と目が合った。とうにわたしのとっておきに君臨しておきながら、そうと知っている可愛いお顔で、そんな罪深いことを言う。
 『特別』の距離で見つめ合い、口づけすらくださらずにはにかむ人が愛おしくって憎らしくって、華奢な身体に覆い被さり抱きすくめた。ぎゅうと力強い腕の中、「んっ、」なんて鼻に抜ける甘い声を漏らしたマツブサ様は、わたしの背を両手で掻き抱いて、おまけに、いやらしく脚を絡ませたりなんてする。

「どうか、弄ばないでください、マツブサ様……」
「愛しいお前を弄んだりなどするものか。お預けだよ。いい子なら容易いな?」

 ──こんなお預けがあってたまるか!
 ぐるぐると喉が鳴る。マツブサ様の太ももにすり寄せた下半身が甘く痺れて、息が浅くなっていく。服越しにくっついているだけで、こんなにも気持ちがよくてたまらない。大きく息を吸う。清潔なソープの香りに隠れて、芳しいマツブサ様の匂いがする。押し付けたくちびるを迎えるうなじは、温かくて、すべすべで、男を誘う味がした。
 ああ、このままずぶずぶに合わさってひとつになることのできたなら、どんなにか素晴らしいことだろう……。

「ふふ、こーら。『待て』だぞ、悪い子だ」
「ふ、うう、マツブサ様っ……」

 マツブサ様のご命令が頭の中でぼんやり溶けて、腰が動くのを止められない。お預けもできずに身勝手な劣情を押しつけて、情けなくて恥ずかしくて、でも、マツブサ様は犬がお好きだから、盛りのついた雄犬もきっと愛してくださるはずで、だから……。
 みっともない言い訳が口をつきそうになって、魅惑の首筋をはむはむ、あむあむと甘く噛んで誤魔化すように閉じ込めた。食らいつかれてなお抵抗の兆しがない人は、心地よさそうに喉を鳴らして、あえかな吐息が漏れるのを隠そうともせず、わたしの頭を撫でている。

「ン、はぁ……。二十歳の記念すべき日にという他にも、私はロマンチックなのでね。『初めて』は満点の星空の下がいい、」
「わたしの部屋にはプラネタリウムがあります」
「…………」

 食い気味に返す。お返事はなかったが、マツブサ様が興味を持たれた気配がしたので、勢いづいて言い連ねた。

「お布団だって、この通りとってもふかふかです。マツブサ様が選んでくださった最高級の寝具です」
「……ん、ふ……」

 腕の中の身体がふるりと震えた。覗き込んだかんばせは、愛おしさを噛み締めるようにふにゃりと相好を崩している。
 口説き落としてみろ、ということか。
 合点して、闘志に心がぎらついた。

「もちろん朝ご飯もお作りします。マツブサ様が大好きな紅茶もご用意します」
「あは、……ふ、うん、……」
「この世の何より大切にします。わたし以上にあなたを慮れる者などおりません」
「そうだな、ふふ……」
「愛していますマツブサ様、お慕いしています、もっとぎゅってしてください」
「うんうん、ふっ、ふふふ……」

 可憐な笑い声を漏らしたマツブサ様が、雄を挑発するように腰を揺らした。交尾の真似事にふける下半身が灼熱に膨らんで、ますます息が荒くなる。焦らされているのだか、煽られているのだか、とにかく早くお許しが欲しかった。
 発情期の獣よろしく迫っておきながら、仔犬の素振りで鼻先をくっつけて慈悲を乞う。とても大人の男とは思えないような、甘えきった声が二人の間にとろりと溶けた。

「マツブサ様、意地悪をなさらないでください……。ちんちんが痛いです、可愛がっていただけますか……?」
「ははは! お前という奴は、愛らしい顔をして獲物に噛みついて離さない、まったくポチエナそっくりだ!」

 満面の笑みを咲かせたマツブサ様のくちびるが、ちうと天使みたいな音を立てて、わたしのくちびるに重なった。
 キス、夢にまでみた、額にでも頬にでもない、くちびるへのキス!
 柔らかくてふわふわで、信じられないほど気持ちがよくて、芯まで痺れて一気にのぼせた。すぐに離れてしまった魅惑のくちびるを夢中で追いかけると、にゅるりと蕩けるように熱いなにかをくちびるのあわいに差し込まれた。
 ──マツブサ様の舌だ! 清楚なマツブサ様の末端が、わたしの舌を、初心な粘膜を、ぬるぬると熱く淫らにあやしている。
 あまりの快感になすがまま身を任せていると、柔な手のひらに尻を掴まれて、思わずビクンと身体が跳ねた。絡み合っていた舌がゆるゆると引っ込められるのを、回らぬ頭で追いかける。可憐なくちびるに舌を吸われて、ビリリと全身に電流が走った。鼻息荒く見つめる先で、情欲に濡れた瞳に純情を射抜かれて、わたしはすっかり茹で上がってしまった。

「はぁっ、は、まつぶささまっ……! エッチです、うう、マツブサ様っ……」
「おや、エッチな私は嫌いかな……?」
「いえ、いいえ、でも……マツブサ様も、きもちい、ですか……?」
「ふふ、どうかな。ほら、触って、舐めて、好きにして……私が気持ちよくなっているか、じっくり確かめてごらん。おいで、ホムラ」
「マツブサ様っ……!」

 マツブサ様が身を委ねてくださる、マツブサ様が、わたしの、わたしだけのマツブサ様が!
 パンパンに膨らんだ欲望がまなざしひとつではち切れそうで、僅かに残る理性が「っ、ですが、ゴム、とか……じゅんび、なんにも……!」と待ったをかけたけれど、わたしの頭を抱き寄せた人の蕩けた声が、なにもかもをとろかした。

「してあるよ。いい子で我慢していたのだものな?」

 敵わない。きっと二十歳になったって、マツブサ様にとってわたしはいつまでも可愛い男の子なのだろう。
 とどめに「からかってすまない。お前があまりに愛おしくって」なんて頭をくしゃくしゃに撫でられたものだから、わたしはその夜、愛しい人に縋りついて求愛するのをやめられず、火にかけられたバターみたいにとろとろに甘やかされて、ベッドが壊れて笑い転げるなんて夢みたいに最高な誕生日を堪能させていただいたのだった。




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