玄鳥の帰る家 古の隠れ里。 そこは今や帳の降りた山野にあって、中央にぽつんと佇む庵から漏れるわずかな光が、薄闇に紛れる来訪者を優しく手招いている。 家主の纏う闇色を思い描いて、アヤシシさえ追い抜く速度の心と身体が風を切る。 ここに来たのは知りたいことがあったからだ。口の中で、心のこもらぬ言葉を転がす。プレートのことでいち早く知りたいことがあって、云々。 本当は、ムラを追われてこのかた、横殴りの雨に晒されるキャンプで寝泊まりする日々が続いていて、心細くて人恋しかった。明かりの灯る家に、少しだけでいい、おれの居場所が欲しかった。彼女ならきっと優しく出迎えてくれると信じて、今日という夜を駆け抜けてきた。 目元を拭う。足早に橋の上を通過して、傍らの焚き火にテーブルに見事な畑に目をくれることもせず、まっすぐに扉へと向かう。心弾ませ辿り着いた先で、ドンドンと気の急くノックをして、ドキドキしながら応えを待った。しかし、思い描いていた声は返らずに、どさ、ばさ、とどこか慌てたような衣擦れの音と、軋むような音がした。返事はない。けれど、コギトさんは中にいるようだ。そのことにほっとして、返事も待たずに扉を開いてそうっと足を踏み入れた。 入ってすぐ、こんもりと布団を盛り上がらせたベッドが視界に飛び込んできた。足元には脱ぎ捨てられたのだろう衣服がわだかまっている。黒服の下にちらりとのぞく派手な色。とりどりのハーブの香りの影で、少しだけ空気がこもっている感じがした。 しまった、明かりはついているけれど、寝ていたのかもしれない。そう思ってもじもじと視線を彷徨わせていると、布団の2つの山のうち、ひとつがもぞりと動いて、銀糸ののった頭がぴょんと飛び出した。――コギトさんだ! 「コギトさん」 目が合うと、警戒するような目つきが途端にぱっと和らいで、彼女はもぞもぞと億劫そうに身を起こした。するりと布団が肩から落ちる。次第にあらわになっていくコギトさんの姿に、おれのまなざしは縫い止められた。 「なんじゃ、テルか……よく来たのう」 「……あ、…………」 いつもは黒襟に隠されている細首が、夢のように生白く照らされている。生唾飲み込み見つめる先で、結われることなく下ろされた寝乱れ髪のくるくると踊る隙間から、虫刺されのような赤い点がいくつも姿を覗かせていた。そして、胸元に抱き寄せられた毛布からこぼれる二つの膨らみや、存外ふっくらとした二の腕、その影が落ちる脇のくぼみまで、おれはしっかり、まざまざと、目の当たりにしてしまった。 ……大人の女の人の裸だ……! 目をそらさなければと気は逸るのに、繊細な陰影を形取る鎖骨から、なだらかな丸いラインを描く裸の肩までうっすらと珊瑚色に染まっていることに気がついて、ますます釘付けになってしまった。息が上がっているのか、わずかに上下している双丘にも、普段は白手袋に守られているほっそりとした指先にさえドギマギしてしまって、言葉が喉につかえてうまく出てこない。 「こんな夜更けにどうしたのじゃ。あたしに何か用かのう」 「あ、あのう……」 いつにも増して気怠げな、それでいて甘く掠れた声が、淀んだ空気にじんわり溶けた。流れる銀髪をゆっくりかきあげて耳にかけたその人の、長いまつ毛の影からのぞく魔女めいた瞳に見つめられて、頭からぱくりと食べられたみたいに動けない。 交差する視線、非難の色の見えない温かいまなざし、しっとりと汗ばむ白肌……あ、目尻が少し、赤くなってる……。 おれはブンブンと頭を振った。 「あっ、えっとその、ご、ごめんなさい……。おれ、あの……」 「ふむ。すまぬが、少し待ってくれぬか。今はちと都合が悪くてな」 繊細な爪をのせた細指が唇をなぞる。無防備なそのさまに、不安が胸のうちに湧き上がってきた。夜中に突然訪ねるのは非常識だってこと、もっと早く気付けばよかった。 おれの眉毛がどんどん八の字になっていくのを見て、気遣いの滲む困ったような表情が、「そうじゃな。……少し、外で待っていてくれれば」と呟いた。 コギトさんの横、不自然に膨らんだままの布団を、ぽんとたおやかな手が叩く。しぼむ気配はなく、固い何かがそこに潜んでいる――コギトさんもポケモンと一緒に寝るのだろうか。想像しかけて、もう一度頭を振った。 「はい。急に来てごめんなさい……。プレートのことで、聞きたいことがあったんです。庭で待ってますね」 うむ、と頷いたのを認めて、頭を下げながら扉を振り返る寸前、視界の端でコギトさんの隣の塊がグンと動いた。すわポケモンかと身構えたが、不自然に盛り上がっていたそこ、勢いよく跳ね除けられた毛布の下から姿を現したのは――男、彫刻のように美しく隆起した上半身に、見慣れた美貌をのせたウォロだった。 「プレートのことなら火急の用件ですね。テルさん、何が知りたいんです?」 「えっ!! う、ウォロさん……!?」 あんぐりと空いた口がふさがらない。泳ぎまくる視線の先で、隆々とした二の腕が、コギトさんの柔らかそうな素肌にぴとりとくっついているのが見えた。お馴染みのポーズで指振り笑顔振りまくその男が、どうしてこれまた一糸まとわぬ姿でこんなところにいるのだろう。一方のコギトさんは額に手をあてて、なぜだかため息をついている。華奢な彼女と並ぶとますます互いの魅力が匂い立つような、いや、そんなことよりも……。 ――裸の男女がひとつの布団から生えているこの状況、もしかして、もしかしなくても、自分はとんでもない現場に闖入してしまったのでは? 「すアッッすすみませっ! おれその急ぎじゃないんでえ!! じゃあッ!!!」 「ええっ、プレート集めは急務かと……あ、ちょっと、テルさん!」 心臓が飛び出てしまいそうだ。とんぼがえりする心についていけないもつれる足で、大いにこけてめちゃくちゃに転がりながら走り出したおれの背後で、呆れた声音が遠く聞こえた。 「なんで出てくるかのう……。そなたは本当に思いやりのない男じゃ」 「ンン? 心外ですね。ジブンは今夜も優しかったでしょう。さあ、それよりも早く続きを」 「はあ。デリカシーもない男じゃ……」 虫刺されかと思ったあれ、あれってつまり、アレだったのか!!なんて大騒ぎする鼓動をおさえて、軒先からすぐのところでまたつんのめって転がって、大の字に倒れて空を見た。ああ、裂け目が広がって禍々しい赤色に燃えていようとも、夜空が壮大で綺麗なことにかわりはない……。 気づけば、傍らのケーシィがじっとおれを見下ろしていた。這いずって足元まで寄って行くと、うわ、と言わんばかりに身体を跳ねさせたが、逃げ出すことはなかった。隊長に似て、優しい子なんだ。ああ、早く皆のところに帰りたいなあ……。 と、そんなことがあったのが、小一時間前のことである。 「……こんばんはウォロさん」 「まだいたのかよ!!!! いや、まだいたんですか。ビックリしました」 ケーシィにすがりついて返答のないお悩み相談をしていたら、薄着のウォロさんがひょっこり出てきて見つかってしまった。一瞬崩れたものの、相変わらずのにこにこ笑顔がそこにある。対して仰ぎ見たケーシィはいつも通りの無表情だったが、心なしかゲッソリしてしまった気がする。無理やり付きあわせてしまって、ちょっと悪いことをしたかもしれない。バツの悪い思いで膝を抱える。 「何か物音がすると思ったらまだいらっしゃるとは。普通帰りません? ジブンが言うことではないんですが」 「帰るところがないんですぅ……」 「おっと失礼、そうでした。アナタをここに匿ったのはジブンでしたね。ではどうですか、一緒に寝ます?」 「…………」 冗談めかしたウォロさんの言葉に、視線をそらして唇を尖らせる。幼い仕草だとわかっていても、だんまりを決めるほかなかった。だって、一緒にという言葉が、たとえ冗談だとしても本当に嬉しかったから。 ともすれば涙をこぼしてしまいそうなおれに気づかないフリで、手招きをしたウォロさんが踵を返した。 「さあ、外は冷えます。プレートの話は中でゆっくり聞きましょうか」 「で、でも、二人は……いや、コギトさんが、えっと……都合が悪いんじゃ」 「よいぞ。お色直ししてあたしはすっかり元通りじゃ。ほれ、なんでも聞いてやろう」 バアンと音を立てて開いた扉から、えへんとふんぞり返ったコギトさんが姿を現した。万全のアピールなのか、薄手の黒いキャミソール一枚を纏った姿で、腕を広げてゆっくり一回転なんてしている。惜しみなく晒された白い脚、わずかな面積の黒い布からのぞく谷間に、つんと上を向いている胸が、裸でいるよりよっぽど目の毒だった。とどめに、首元を隠すように巻かれた色鮮やかなファー、そいつはどう見てもウォロさんのものだった。人の物を我が物顔で身にまとう女性が、これほどいやらしく目に映るなんて思ってもみなかった。 かっぴらいた目でしっかり脳裏に焼き付けていたら、唇を弧に描いた野性的な美貌が耳元に寄ってきて、いたずらに囁いた。 「コギトさんもああ言っていることですし、思う存分甘えるといいですよ。あの人、若者を甘やかすのが大好きなので」 横目で見やる。爽やかを通り越して胡散臭い笑み、やっぱり何を考えているんだかわからない人だ。男の顔をして、それでいて保護者然に振る舞って、でも今は、絶対におれをからかって面白がっている。 そっちがその気なら遠慮しませんからねと、鼻を鳴らしてずんずん庵に舞い戻る。心底可笑しそうにかみ殺された笑い声が耳に届いても、開き直って心を決めたおれは今度こそコギトさんに真っ向から対峙することができた。オクタンみたいに赤くなっている自覚はあるが、若いんだもの、しょうがない。 すると、喜色を浮かべた麗人が、これまた嬉しそうに手を叩いておれを見た。 「テル、お腹は空いておらんか? オヤツはいくらでもあるでな。これなんかどうじゃ。スイートトリュフにきらきらミツをかけただけじゃが、中々いい塩梅になっての。そうじゃ、イモモチも焼いてやろう。こんな時間じゃが、若いからどれだけ食べても平気じゃろ。ウォロが持ってきたまふぃんとかいうのもあるぞ。そなたの時代の甘味には劣るかもしれんが、ごりごりミネラルをかけるとあら不思議、ますます美味しくなるのじゃ」 てきぱき、生き生き、もりもりと、テーブルの上にありとあらゆる食べ物が並べられていく。すべすべの肌に見劣りしない、とっても美味しそうなおやつたち。素材そのままみたいなものから、コギトさんの手作りらしきおやつ、コトブキムラ新名物のマフィンだってある。 ぽかんと眺めていたら、ウォロさんが横からすいっと手を伸ばして、行儀悪くオヤツをつまんで口に放り込んだ。 「こら、一人だけ先に食べるでない。そなたは早く外から椅子を持ってこんか」 「ベッドに座って食べればいいじゃないですか。その方が楽しいですよ」 「まったく……まあ一理あるのう。おいで、テルも遠慮しなくていいんじゃぞ」 そう言って微笑んだその人は、魅惑的な格好だとか、女と男のあれやこれやの気まずさだとか、何もかもが吹っ飛ぶくらい、ただただ安心感に満ち溢れたおばあちゃんのようだった。 山盛りのお菓子を振る舞うコギトおばあちゃんと、ぷらぷらしてちょっかいをかけてくるウォロお兄ちゃん。見目麗しい二人はお似合いなようでいて、恋人と呼ぶにはなんだか違う気がする。けれど耳年増なおれは知っている。こういうのを、若いスバメと呼ぶのだと。 そしてどうやら、ひとりきりだったおれの居場所を、二人は作ってくれている。どうしようもなく嬉しくって、泣き虫な心を振り切るように、弾んだ声で切り出した。 「ありがとうウォロさん。おかげで田舎ができました。スバメつきの」 「えっ? すばめ? どういうことです?」 「プレートのことを教えてもらったら、すぐに向かいますから! 今はたくさん食べて力をつけますね。ありがとうコギトさん」 「うむうむ。その意気じゃ」 「そういえばジブン、マフィン2個しか買ってきてな……あっもう残ってねえ!!」 「すばやさが足らんのじゃ」 「そうなのじゃ」 「はあ!? ちょっと、いつの間に仲良くなってるんですか!」 「イモモチ食べたい人~」 「は~い」 「ちょっと! はい!! ジブンも!!」 はいはいはいと挙手をするウォロさんに、「では手伝え」と素気ないお達しが下った。「テルは今日は食べる係じゃからの」と、気持ちの良い依怙贔屓つきで。いつも飄々としている男が大仰に肩を落として、「今日だけは係をかえたい気分です」なんて甘ったれたことを言って頭をはたかれている。これからもおれはここにいていいんだと、驚くほどすうっと心に沁みて、久しぶりに、腹の底から笑えた気がした。 そうして夜明けまではしゃぎ倒した結果、いつの間にか三人で折り重なって昼下がりまで惰眠を貪っていたのだが、その後向かった湖でセキさんに「遅い!!」とウォロさんともども怒鳴られて、巻きでプレートを回収するハメになった。それさえも楽しくってしょうがなくって、この日のことは一生忘れないだろうなと笑っていたら、口をへの字に結んだセキさんにほっぺをつねられた。いひゃいですと見上げれば男前が吹き出して、側に立つウォロさんまでにんまり笑うものだから、釣られたおれもにまにま笑んで、男三人で肩を並べて不気味に笑いあったまま、隠れ里への帰路を歩んだ。 居場所というのは、場所じゃなくって、人なんだ。 彼らがくれるそれは時として増えたり減ったりするけれど、温かくって、居心地がよくって、宝物とも呼べるくらいどれも大切なものである。 一番はもちろんギンガ団の皆と過ごす居場所だけれども、彼と彼女の思い出がつまったおれの田舎も、同じくらい大好きで、かけがえのない居場所となっている。 ------------------------------------------ ところで、図鑑が242匹とずいぶん分厚くなった頃。 遠いところへ旅立ったかと思いきや、スバメは今日もおれの田舎に羽を休めに舞い戻る。 「いやちょっと! もう会うことはないでしょうとか言ってませんでした!? なんでいるんですかウォロさん!!」 「なんでって、ここはワタクシの家ですから」 「そなたの家ではないのう……」 「アナタこそなんでいるんです? もうここに用はないでしょう」 「ハァそりゃもちろん、ここはおれの田舎ですから!?」 「いつの間に田舎になったのかのう……」 「クラフト台だってあるし! おれはいつ来たっていいんです! 歓迎されてます!」 「残念、そのクラフト台は昔コギトさんがワタクシのために用意してくれたものですよ。そうワタクシのためにね! はい以後テルさんは使わないでください~」 「残念、今となってはもうおれだけのものです~」 「幼児の喧嘩じゃのう」 「はあウォロさんめ、いなくなったと思ったらコギトさんの前には抜け抜けと現れるなんて。くそう、おれのアルセウスを見せてやる!! いけアルセぼん!!」 「あー!! 格好わるいニックネームをつけられているアルセウスの分身なんて心の底から見たくありません!! ガブリアス、打破せよ! ……いや打破もしたくありません!!」 「仲良しだのう。さて、イモモチ食べる人~」 「は~い」 「はい!! ワタクシも!!!」 ▶︎ 他ジャンル小説一覧へ戻る favorite いいね THANK YOU!! THANK YOU!! とっても励みになります! back 2025.10.6(Mon)
古の隠れ里。
そこは今や帳の降りた山野にあって、中央にぽつんと佇む庵から漏れるわずかな光が、薄闇に紛れる来訪者を優しく手招いている。
家主の纏う闇色を思い描いて、アヤシシさえ追い抜く速度の心と身体が風を切る。
ここに来たのは知りたいことがあったからだ。口の中で、心のこもらぬ言葉を転がす。プレートのことでいち早く知りたいことがあって、云々。
本当は、ムラを追われてこのかた、横殴りの雨に晒されるキャンプで寝泊まりする日々が続いていて、心細くて人恋しかった。明かりの灯る家に、少しだけでいい、おれの居場所が欲しかった。彼女ならきっと優しく出迎えてくれると信じて、今日という夜を駆け抜けてきた。
目元を拭う。足早に橋の上を通過して、傍らの焚き火にテーブルに見事な畑に目をくれることもせず、まっすぐに扉へと向かう。心弾ませ辿り着いた先で、ドンドンと気の急くノックをして、ドキドキしながら応えを待った。しかし、思い描いていた声は返らずに、どさ、ばさ、とどこか慌てたような衣擦れの音と、軋むような音がした。返事はない。けれど、コギトさんは中にいるようだ。そのことにほっとして、返事も待たずに扉を開いてそうっと足を踏み入れた。
入ってすぐ、こんもりと布団を盛り上がらせたベッドが視界に飛び込んできた。足元には脱ぎ捨てられたのだろう衣服がわだかまっている。黒服の下にちらりとのぞく派手な色。とりどりのハーブの香りの影で、少しだけ空気がこもっている感じがした。
しまった、明かりはついているけれど、寝ていたのかもしれない。そう思ってもじもじと視線を彷徨わせていると、布団の2つの山のうち、ひとつがもぞりと動いて、銀糸ののった頭がぴょんと飛び出した。――コギトさんだ!
「コギトさん」
目が合うと、警戒するような目つきが途端にぱっと和らいで、彼女はもぞもぞと億劫そうに身を起こした。するりと布団が肩から落ちる。次第にあらわになっていくコギトさんの姿に、おれのまなざしは縫い止められた。
「なんじゃ、テルか……よく来たのう」
「……あ、…………」
いつもは黒襟に隠されている細首が、夢のように生白く照らされている。生唾飲み込み見つめる先で、結われることなく下ろされた寝乱れ髪のくるくると踊る隙間から、虫刺されのような赤い点がいくつも姿を覗かせていた。そして、胸元に抱き寄せられた毛布からこぼれる二つの膨らみや、存外ふっくらとした二の腕、その影が落ちる脇のくぼみまで、おれはしっかり、まざまざと、目の当たりにしてしまった。
……大人の女の人の裸だ……!
目をそらさなければと気は逸るのに、繊細な陰影を形取る鎖骨から、なだらかな丸いラインを描く裸の肩までうっすらと珊瑚色に染まっていることに気がついて、ますます釘付けになってしまった。息が上がっているのか、わずかに上下している双丘にも、普段は白手袋に守られているほっそりとした指先にさえドギマギしてしまって、言葉が喉につかえてうまく出てこない。
「こんな夜更けにどうしたのじゃ。あたしに何か用かのう」
「あ、あのう……」
いつにも増して気怠げな、それでいて甘く掠れた声が、淀んだ空気にじんわり溶けた。流れる銀髪をゆっくりかきあげて耳にかけたその人の、長いまつ毛の影からのぞく魔女めいた瞳に見つめられて、頭からぱくりと食べられたみたいに動けない。
交差する視線、非難の色の見えない温かいまなざし、しっとりと汗ばむ白肌……あ、目尻が少し、赤くなってる……。
おれはブンブンと頭を振った。
「あっ、えっとその、ご、ごめんなさい……。おれ、あの……」
「ふむ。すまぬが、少し待ってくれぬか。今はちと都合が悪くてな」
繊細な爪をのせた細指が唇をなぞる。無防備なそのさまに、不安が胸のうちに湧き上がってきた。夜中に突然訪ねるのは非常識だってこと、もっと早く気付けばよかった。
おれの眉毛がどんどん八の字になっていくのを見て、気遣いの滲む困ったような表情が、「そうじゃな。……少し、外で待っていてくれれば」と呟いた。
コギトさんの横、不自然に膨らんだままの布団を、ぽんとたおやかな手が叩く。しぼむ気配はなく、固い何かがそこに潜んでいる――コギトさんもポケモンと一緒に寝るのだろうか。想像しかけて、もう一度頭を振った。
「はい。急に来てごめんなさい……。プレートのことで、聞きたいことがあったんです。庭で待ってますね」
うむ、と頷いたのを認めて、頭を下げながら扉を振り返る寸前、視界の端でコギトさんの隣の塊がグンと動いた。すわポケモンかと身構えたが、不自然に盛り上がっていたそこ、勢いよく跳ね除けられた毛布の下から姿を現したのは――男、彫刻のように美しく隆起した上半身に、見慣れた美貌をのせたウォロだった。
「プレートのことなら火急の用件ですね。テルさん、何が知りたいんです?」
「えっ!! う、ウォロさん……!?」
あんぐりと空いた口がふさがらない。泳ぎまくる視線の先で、隆々とした二の腕が、コギトさんの柔らかそうな素肌にぴとりとくっついているのが見えた。お馴染みのポーズで指振り笑顔振りまくその男が、どうしてこれまた一糸まとわぬ姿でこんなところにいるのだろう。一方のコギトさんは額に手をあてて、なぜだかため息をついている。華奢な彼女と並ぶとますます互いの魅力が匂い立つような、いや、そんなことよりも……。
――裸の男女がひとつの布団から生えているこの状況、もしかして、もしかしなくても、自分はとんでもない現場に闖入してしまったのでは?
「すアッッすすみませっ! おれその急ぎじゃないんでえ!! じゃあッ!!!」
「ええっ、プレート集めは急務かと……あ、ちょっと、テルさん!」
心臓が飛び出てしまいそうだ。とんぼがえりする心についていけないもつれる足で、大いにこけてめちゃくちゃに転がりながら走り出したおれの背後で、呆れた声音が遠く聞こえた。
「なんで出てくるかのう……。そなたは本当に思いやりのない男じゃ」
「ンン? 心外ですね。ジブンは今夜も優しかったでしょう。さあ、それよりも早く続きを」
「はあ。デリカシーもない男じゃ……」
虫刺されかと思ったあれ、あれってつまり、アレだったのか!!なんて大騒ぎする鼓動をおさえて、軒先からすぐのところでまたつんのめって転がって、大の字に倒れて空を見た。ああ、裂け目が広がって禍々しい赤色に燃えていようとも、夜空が壮大で綺麗なことにかわりはない……。
気づけば、傍らのケーシィがじっとおれを見下ろしていた。這いずって足元まで寄って行くと、うわ、と言わんばかりに身体を跳ねさせたが、逃げ出すことはなかった。隊長に似て、優しい子なんだ。ああ、早く皆のところに帰りたいなあ……。
と、そんなことがあったのが、小一時間前のことである。
「……こんばんはウォロさん」
「まだいたのかよ!!!! いや、まだいたんですか。ビックリしました」
ケーシィにすがりついて返答のないお悩み相談をしていたら、薄着のウォロさんがひょっこり出てきて見つかってしまった。一瞬崩れたものの、相変わらずのにこにこ笑顔がそこにある。対して仰ぎ見たケーシィはいつも通りの無表情だったが、心なしかゲッソリしてしまった気がする。無理やり付きあわせてしまって、ちょっと悪いことをしたかもしれない。バツの悪い思いで膝を抱える。
「何か物音がすると思ったらまだいらっしゃるとは。普通帰りません? ジブンが言うことではないんですが」
「帰るところがないんですぅ……」
「おっと失礼、そうでした。アナタをここに匿ったのはジブンでしたね。ではどうですか、一緒に寝ます?」
「…………」
冗談めかしたウォロさんの言葉に、視線をそらして唇を尖らせる。幼い仕草だとわかっていても、だんまりを決めるほかなかった。だって、一緒にという言葉が、たとえ冗談だとしても本当に嬉しかったから。
ともすれば涙をこぼしてしまいそうなおれに気づかないフリで、手招きをしたウォロさんが踵を返した。
「さあ、外は冷えます。プレートの話は中でゆっくり聞きましょうか」
「で、でも、二人は……いや、コギトさんが、えっと……都合が悪いんじゃ」
「よいぞ。お色直ししてあたしはすっかり元通りじゃ。ほれ、なんでも聞いてやろう」
バアンと音を立てて開いた扉から、えへんとふんぞり返ったコギトさんが姿を現した。万全のアピールなのか、薄手の黒いキャミソール一枚を纏った姿で、腕を広げてゆっくり一回転なんてしている。惜しみなく晒された白い脚、わずかな面積の黒い布からのぞく谷間に、つんと上を向いている胸が、裸でいるよりよっぽど目の毒だった。とどめに、首元を隠すように巻かれた色鮮やかなファー、そいつはどう見てもウォロさんのものだった。人の物を我が物顔で身にまとう女性が、これほどいやらしく目に映るなんて思ってもみなかった。
かっぴらいた目でしっかり脳裏に焼き付けていたら、唇を弧に描いた野性的な美貌が耳元に寄ってきて、いたずらに囁いた。
「コギトさんもああ言っていることですし、思う存分甘えるといいですよ。あの人、若者を甘やかすのが大好きなので」
横目で見やる。爽やかを通り越して胡散臭い笑み、やっぱり何を考えているんだかわからない人だ。男の顔をして、それでいて保護者然に振る舞って、でも今は、絶対におれをからかって面白がっている。
そっちがその気なら遠慮しませんからねと、鼻を鳴らしてずんずん庵に舞い戻る。心底可笑しそうにかみ殺された笑い声が耳に届いても、開き直って心を決めたおれは今度こそコギトさんに真っ向から対峙することができた。オクタンみたいに赤くなっている自覚はあるが、若いんだもの、しょうがない。
すると、喜色を浮かべた麗人が、これまた嬉しそうに手を叩いておれを見た。
「テル、お腹は空いておらんか? オヤツはいくらでもあるでな。これなんかどうじゃ。スイートトリュフにきらきらミツをかけただけじゃが、中々いい塩梅になっての。そうじゃ、イモモチも焼いてやろう。こんな時間じゃが、若いからどれだけ食べても平気じゃろ。ウォロが持ってきたまふぃんとかいうのもあるぞ。そなたの時代の甘味には劣るかもしれんが、ごりごりミネラルをかけるとあら不思議、ますます美味しくなるのじゃ」
てきぱき、生き生き、もりもりと、テーブルの上にありとあらゆる食べ物が並べられていく。すべすべの肌に見劣りしない、とっても美味しそうなおやつたち。素材そのままみたいなものから、コギトさんの手作りらしきおやつ、コトブキムラ新名物のマフィンだってある。
ぽかんと眺めていたら、ウォロさんが横からすいっと手を伸ばして、行儀悪くオヤツをつまんで口に放り込んだ。
「こら、一人だけ先に食べるでない。そなたは早く外から椅子を持ってこんか」
「ベッドに座って食べればいいじゃないですか。その方が楽しいですよ」
「まったく……まあ一理あるのう。おいで、テルも遠慮しなくていいんじゃぞ」
そう言って微笑んだその人は、魅惑的な格好だとか、女と男のあれやこれやの気まずさだとか、何もかもが吹っ飛ぶくらい、ただただ安心感に満ち溢れたおばあちゃんのようだった。
山盛りのお菓子を振る舞うコギトおばあちゃんと、ぷらぷらしてちょっかいをかけてくるウォロお兄ちゃん。見目麗しい二人はお似合いなようでいて、恋人と呼ぶにはなんだか違う気がする。けれど耳年増なおれは知っている。こういうのを、若いスバメと呼ぶのだと。
そしてどうやら、ひとりきりだったおれの居場所を、二人は作ってくれている。どうしようもなく嬉しくって、泣き虫な心を振り切るように、弾んだ声で切り出した。
「ありがとうウォロさん。おかげで田舎ができました。スバメつきの」
「えっ? すばめ? どういうことです?」
「プレートのことを教えてもらったら、すぐに向かいますから! 今はたくさん食べて力をつけますね。ありがとうコギトさん」
「うむうむ。その意気じゃ」
「そういえばジブン、マフィン2個しか買ってきてな……あっもう残ってねえ!!」
「すばやさが足らんのじゃ」
「そうなのじゃ」
「はあ!? ちょっと、いつの間に仲良くなってるんですか!」
「イモモチ食べたい人~」
「は~い」
「ちょっと! はい!! ジブンも!!」
はいはいはいと挙手をするウォロさんに、「では手伝え」と素気ないお達しが下った。「テルは今日は食べる係じゃからの」と、気持ちの良い依怙贔屓つきで。いつも飄々としている男が大仰に肩を落として、「今日だけは係をかえたい気分です」なんて甘ったれたことを言って頭をはたかれている。これからもおれはここにいていいんだと、驚くほどすうっと心に沁みて、久しぶりに、腹の底から笑えた気がした。
そうして夜明けまではしゃぎ倒した結果、いつの間にか三人で折り重なって昼下がりまで惰眠を貪っていたのだが、その後向かった湖でセキさんに「遅い!!」とウォロさんともども怒鳴られて、巻きでプレートを回収するハメになった。それさえも楽しくってしょうがなくって、この日のことは一生忘れないだろうなと笑っていたら、口をへの字に結んだセキさんにほっぺをつねられた。いひゃいですと見上げれば男前が吹き出して、側に立つウォロさんまでにんまり笑うものだから、釣られたおれもにまにま笑んで、男三人で肩を並べて不気味に笑いあったまま、隠れ里への帰路を歩んだ。
居場所というのは、場所じゃなくって、人なんだ。
彼らがくれるそれは時として増えたり減ったりするけれど、温かくって、居心地がよくって、宝物とも呼べるくらいどれも大切なものである。
一番はもちろんギンガ団の皆と過ごす居場所だけれども、彼と彼女の思い出がつまったおれの田舎も、同じくらい大好きで、かけがえのない居場所となっている。
------------------------------------------
ところで、図鑑が242匹とずいぶん分厚くなった頃。
遠いところへ旅立ったかと思いきや、スバメは今日もおれの田舎に羽を休めに舞い戻る。
「いやちょっと! もう会うことはないでしょうとか言ってませんでした!? なんでいるんですかウォロさん!!」
「なんでって、ここはワタクシの家ですから」
「そなたの家ではないのう……」
「アナタこそなんでいるんです? もうここに用はないでしょう」
「ハァそりゃもちろん、ここはおれの田舎ですから!?」
「いつの間に田舎になったのかのう……」
「クラフト台だってあるし! おれはいつ来たっていいんです! 歓迎されてます!」
「残念、そのクラフト台は昔コギトさんがワタクシのために用意してくれたものですよ。そうワタクシのためにね! はい以後テルさんは使わないでください~」
「残念、今となってはもうおれだけのものです~」
「幼児の喧嘩じゃのう」
「はあウォロさんめ、いなくなったと思ったらコギトさんの前には抜け抜けと現れるなんて。くそう、おれのアルセウスを見せてやる!! いけアルセぼん!!」
「あー!! 格好わるいニックネームをつけられているアルセウスの分身なんて心の底から見たくありません!! ガブリアス、打破せよ! ……いや打破もしたくありません!!」
「仲良しだのう。さて、イモモチ食べる人~」
「は~い」
「はい!! ワタクシも!!!」
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