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アニホムマツ工場
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No.21

悋気ほどいて踊る爪先


「明日、アオギリと海に行くぞ」
「なんち?」

 梅雨らしからぬ五月晴れ、うだる暑さもなんのその、燦々たるお天道様に負けじと輝く満面の笑み。
 ……を浮かべたマツブサ様から放たれた衝撃的な一言は、忠実なるしもべことわたし、ホムラから敬語と標準語を吹っ飛ばし、鍛えた体躯をも見事にひっくり返した。
 尻餅をついたまま、しばし呆然。咲き誇るぴかぴか笑顔をまばゆく仰ぐ。そこにおわすは常と変わらぬ見目麗しきマツブサ様で、海などいう野蛮な場所とは縁遠いお方であるはずが、今ばかりはそのお姿も蜃気楼のごとく遥かに見える。
 海。アオギリと海。……アオギリと海?
 すわご乱心かと疑うも、マツブサ様にお間違いなどあるはずもない。真意を図りかねているうちに、いたくご機嫌な想い人が、しょうがないなという風にひとつ笑って腰を屈めた。差し伸べられた手に、ひたむきな視線を這わす。
 滑らかで、たおやかで、わたしに惜しみない愛情を注いでくれる白い手のひら……。
 ついに思考を放棄して、愛しいそれにそっと縋った。やおら起きあがろうとして、当然、わたしの体重を支えられようはずもない痩躯が倒れ込んできた。慌てて抱き止め、床に倒れ込む。腕の中でくすくすと可憐な声が上がった。
 わたしを下敷きにした人の、清らかで、かろやかで、喜色溢れるかんばせが、口づけんばかりの距離にある。

「すまないホムラ、ビックリさせたな」
「いえ、失礼しました。海、海とおっしゃいましたか。アオギリの野郎と。アオギリの野郎と海。楽しみですねそれは」
「そうだろうそうだろう!」

 晴れやかな笑顔とは対照的に、わたしの心は大荒れ模様だ。海、ならず者の長、忌避すべき名を二つも並べて、どうしてこうも声を弾ませていらっしゃるのか……。
 心もとない気持ちになって、羽のように軽い柳腰を抱きしめた。贅を尽くした衣装は手のひらに心地よく、胸板の上で無邪気にくねる御身の描く曲線は奇跡みたいに美しい。うっとりと撫でさするも、胸の内にわだかまる黒い靄は消えそうになかった。

「んん、日焼け対策を万全にしておかなくてはな。明日はしばらく滞在するつもりだから」
「は、…………」
「ふふふ。アオギリの奴、二つ返事で快諾しおって。めいっぱい楽しんでやろう」
「…………」

 なんということだ。マツブサ様の方から、あの男にお誘いを……?
 お星様のようにきらめく人の跳ねる声音が、目の前を真っ暗に染めてゆく。マツブサ様は、愛しさと不安でわたしをぺしゃんこにしてしまうおつもりなのだ。ぐるぐる唸って、華奢な胴体に縋り付く。
 あの男の元へ行かせたくない。あの男に限らず、明日といわず、いつまでだってマツブサ様を独り占めしていたかった。強靭な腕の檻に閉じ込めたって、わたしのものにはなってくれないマツブサ様の唯一無二の愛情を、この身一つに賜ることができたなら。それはどんなに幸せなことだろう。
 欲をかいて追い縋るなどみっともないとわかっていても、とても手放せそうになく──
 ふと、頬をやわく突かれているのに気がついた。はっと目を見張る。楚々とした指先が、ツン、ツン、とわたしの柔らかな肉をつついている。お考えの読めない微笑とともに向けられた無垢な爪先が、ツン、ともう一つ頬をつついて、わたしの暗澹たる思いをひといきに蹴散らした。

「この私を腕に収めて、なにを不安がることがある?」
「マツブサ様……」

 視界いっぱいに映るマツブサ様の双眸が、甘やかに、いっとう優しげに細められて、恍惚と見惚れているうちに──ちゅっ。なんて、天使みたいにとろけるくちづけが降ってきた。
 鼓動が跳ねる。平常心に着地する暇もなく、ちゅ、ちう、むちゅ、……数秒くっついて、愛らしく食まれて、柔らかな手のひらに頬を包まれて、……ちゅう。と、艶やかなくちびるが繰り出す連続攻撃に見舞われた。
 瞬いて、また瞬いて、わたしをとろとろに蕩かすそれが──6回当たった、こうかはばつぐんだ!──どうやらおしまいのようだと気付いたら、可憐なおくちに、とどめに首筋を齧られた。びりりと全身にときめきが駆け巡る。

「ま、まつ、まつぶさ様」
「ふふ。さては勘違いしているな? アオギリと遊びに行くわけではないのだよ」
「! それは、どういう──」

 極めてゆっくり丁重に、胸に抱いたマツブサ様ごと上半身を起こす。憐れに鼻を鳴らした忠犬に寄り添う得意げなくちぶりが、耳元を熱く撫で上げた。

「奴のプライベートビーチにプルリルやベトベターを大量放流してやろうと思ってな。その下見だよ。そうとは知らぬ奴自身に隅々まで案内させてやるのだ」
「……!!」

 ぱあと口端が安堵にゆるむ。威光溢るるマツブサ様が、いつにも増して世界を照らす光に見えた。
 奸計を口にした罪深いくちびるが、わたしの耳元からうなじへと伝いおりてゆく。くすぐったさに息を漏らせば、マツブサ様が小さく肩を揺らして笑った。とくんと胸が高鳴って、首筋がじんと熱を持つ。
 何もかもを捧げてやまない男の肌に、なお愛を吸うやどりぎを植え付ける悪い人が、首元に埋めていたお顔を上げた。艶やかな額にかかる赤い髪房をすくい上げる。感謝を口にしようとすると、ふっと寂しそうに眉尻が落とされた。切実な表情に心が乱れて惑う。

「マツブサ様?」
「はあ……それにしてもだ。こうして好きなだけ側に侍って、特別を許されておきながら、それでもやきもちを妬いてしまうのか?」
「も、申し訳ありません……。あなたはあらゆる衆生を惹き寄せます。その輝きは日々増すばかりで、マツブサ様のことを想えば想うほど、わたしの悋気はおさまらず……」
「ふうん。信用されていないのだな……」
「そんな! 滅相もございません!」

 弱々しく伏せられた睫毛の下、視線はふいと逸らされて、尖るくちびるにこぼれる吐息、すべてがあざとく胸を打つ。からかわれているとわかっていても、それらはわたしの心をひどくかき乱し、庇護欲を煽り立ててやまないものだ。
 ひとつになるほどぎゅうと抱きしめ頬ずりすれば、忍び笑いをした人がこつんとわたしに額を寄せた。

「こんなにもお前を可愛がっているのにな? それでも足りないと言うつもりかね」
「はっ、足り……足っ……足りません」

 お茶目な戯れに乗ったつもりが、上目遣いに媚びるポチエナのごとき響きを帯びた。低音の求愛を受けた御身がくすぐったそうにちょいとよじれて、白肌がほのかに赤みさす。

「しょうがない子だ。満たしてやらねば立つ瀬がないな。なんでも叶えてあげるから、なんでもわがままを言ってごらん」
「はっ……! では、明日の下見にお供してもよろしいですか……?」
「うむ。よかよ♡」
「マツブサ様っ……!」

 わたしの背を抱く爪先が、つうと淫らに背筋を伝った。まだ日も落ちぬうちから情事を思い起こさせるようなそれ。昨晩できた傷跡をなぞるように、甘い指先が背中で踊った。

 ──底なしに男を溺れさせてやまないお方を前にして、慢心などできようはずもない。
 けれど、懐き縋る犬を甘やかしてふやかすマツブサ様の無常の愛は、わたしだけに向けられた、わたしだけを手招き受け入れ溺れさせる、まこと比類なき真心である。
 ……と、背中に名誉の傷跡を残していただけるうちは、こうして堂々胸を張っての我が物顔を許していただこう。


 そうして、いざ明くる朝。

 わたしの杞憂をよそに、「いや水着持ってこいや水着ィ!! てめえが『泳ぎたいな、お前のプライベートビーチで』って抜かしたんだろうが!! 農作業レベルの厚着して来てんじゃねえよ! しかも!! そいつは!!! 招待してねえ!!!!!」などと、のっけからがなり立てる水着の男を前に愛嬌溢るるウインクを飛ばしたマツブサ様がめっぽう極めて愛らしく、自然と笑顔溢れる楽しい1日となったのだった。




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