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アニホムマツ工場
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No.17

竜の光明


 創世阻む陽炎ひらめき、天を光の矢が穿つ。
 宙に浮く禍々しき結晶が、人の世へと降り注ぐ。

 テランスは、傷だらけの最愛の人とそのさまを見た。

 重々しく立ち込めていた暗雲が舞台を降りて、無垢な星星が夜空へと舞い戻る。
 ヴァリスゼアに光落とす望月を遥かに眺めていたディオンは、傍らのテランスに一瞥もくれることはなかった。
 打ち寄せる波が岬にくだけて、崖下で白白と波打った。風がうなって、濡れた長衣は重くはためき、崩れた金髪が頬を打つ。拳だけが強く握りしめられて、表情に険はない。
 ビリッと耳慣れた音がした。無理を通した彼の右腕、矜持満ちたそこを仄白い閃光が取り巻いて、弱々しく月夜に散った。それが、ドミナントたる彼の最後の発露だった。

 とても静かな幕引きだった。

 ディオン・ルサージュは、ザンブレクの英雄だった。民草を護り、救い、導き賜う聖なる光。──それが、かつての彼だった。
 今、テランスの瞳に映るのは、途方も無い虚ろを抱きしめる人間の姿だった。
 目を離せば二度と会えなくなるような、危うい淵に立つ人間の。

「フェニックス、イフリート……。終わった、すべてが……」

 かぼそい呟きをその場に残し、ディオンの靴底が土を擦った。おぼつかない足取りが月影へと吸い寄せられていく。その先に待つのは断崖だ。けれど、一歩、また一歩と彼は歩みを止めることなく、白い背中が悠久の闇にとけていく。
 テランスは、幼い頃からその背に憧れ、敬愛し、必死で守り抜いてきた。それが今やぽつんと遠のいて、とてもさびしく、この世のものと思えないほど幽艶に揺らめいている。ぞっと血の気が引いて、咄嗟に声を張り上げた。

「ディオン様! 終わりではありません、これからです!」

 応えはない。必死の遠吠えは愛しい背中に跳ね返されて、足元にほろほろと落ち重なった。ともすれば縋り付くような励ましも、今の彼には抱えきれないだろうことも承知で、けれど諦めるつもりはなかった。

「我々はまた、ここから出発するのです! ディオン様は、我々の……私にとっての、唯一のしるべです。どうか、どうか……」

 本当は、テランスにとって民も国も二の次だった。ディオンの望みを叶え、彼が幸せでいてくれさえすれば、それでよかった。その齟齬が二人を隔てていることも、重々承知した上で。
 よき理解者たりえなかった、黄泉の道連れにも選ばれなかった。けれど、彼の支えとなるのは、この世の楔となれるのは、きっとテランスの他にない。そう思うのに、ようやく絞り出せたのは、弱々しい懇願だった。

「……置いて行かないで……ディオン……」

 テランスの大切な人は、ゆっくりと断崖へつま先をかけた。その先は、と目を見張れば、土埃に輝きを奪われた彼の靴が、動きを止めた。
 瞬く。まさか、と思って、ごくりとつばを飲む。
 ああ果たして、そのまさか。
 ディオンの手のひらが、テランスを手招いた。顔は向こうへ向いたまま。来い、とでも言いたげな、不釣り合いな気軽さで。
 あ、と唇を震わせたテランスの方へ、澄ました横顔が振り返った。
 ひときわ強い風が吹き、鼓膜が震えた。穴の開くほど見つめる先で、金髪をゆっくりとかき上げたディオンが、小さく笑った。

「仕方のない奴だ。そう悲壮な声で鳴かれては、おちおち物思いに耽ってもいられない」
「……っ! ディオン様……!」

 たまらず彼のもとへ駆け寄る。彼の中にはまだ自分の居場所がある、その事実だけで、身体が羽のように軽く感じられた。
 月華を背負う愛しい人が、ぎゅうと目を細めてテランスを見つめた。遠く、まばゆいものを見るような眼差しで。浮足立った心がすとんと地に足つけて、テランスは彼の目の前で立ち止まった。
 静かに佇むディオンを、じっと見つめる。闇夜に翳る彼の笑顔は、とても朗らかとは言いがたかった。
 ──取り繕うこともできないほど傷ついて、それでいながら無理にくちびるを歪ませて、どうしてこの人はこうなのだろう。
 だからテランスは、強がりの彼を大事に大事に腕の中にしまいこむことにした。めいっぱい捧げた愛に寄りかかってもらえずとも、別にいい。傷も悲しみもひた隠して、それでもこわごわとテランスに寄り添う彼の優しさを知っている。
 ディオンはほうっと息をついて、ぎこちなくテランスの首筋に鼻を埋めた。それだけで十分だった。

「帰りましょう、ディオン様」
「…………」

 俯く彼の髪をそうっと撫でる。返事はない。脇腹のあたりに指が縋り付くのを感じて、常になく寄る辺ない温もりに、胸を締め付けられた。
 無骨な指先が何度か髪を梳いたころ、物憂い吐息が素肌をなぞった。

「……余にはもう、帰る場所など……」
「私がいます。貴方の安寧は私がつくる」
「……安寧……余が奪った、父上から、民から……」
「ディオン……」
「アルテマは斃れたが、余の罪が消えたわけではない。こうして長らえた命さえ、正しいのかどうかさえ……。それでも、それでも余は……お前と共に……」
「っは……!」

 押し殺した声に、短く返す。
 贖罪に命を賭そうとしていた彼が、わずかでも希望に手を伸ばそうとしている。それがなにより嬉しくて、二人の間に光明が差したようだった。
 世界が一変したとて、テランスは揺らがない。ディオンと共にある限り、テランスが折れることはない。それはまた、彼にとってもそうであればいいと願っている。いいや、願いなんてものでは足りない。
 今度こそ、己がディオンにとっての光となろう。
 強く抱きしめた腕の中、愛しい身体がふるりと身じろいだ。

「……お前はどうしたい」
「ディオン様のお側に」
「もう主従ではないと言っても……」
「はっ。永劫あなたと共に」

 もう一度、彼の身が戦慄いた。腰を抱いて、つむじにくちづける。今度はくすぐったそうに震えたディオンがゆっくりと顔を上げ、熱い視線が交差した。痛々しい笑顔がほどけて、愛しいかんばせが、ぎこちなくとも安堵に頬を緩ませている。心にふつふつと喜びが灯されて、テランスはつられて微笑んだ。

「……余から離れる最後のチャンスを逃したな。お前は馬鹿だ。救いようのない馬鹿だ」
「一途だとおっしゃってください。どこまでだってお供いたします」
「うん、もう手放したりするものか」

 あどけなくつぶやいたくちびるに、とっておきの愛を返す。少し荒れてしまった、けれど変わらず瑞々しくて柔らかなそこは、ふわりとテランスを受け入れた。別離の時を取り戻すような口づけではなく、末端でさえこれほど愛おしい彼を慈しむようについばんで、ふやけてひとつに融け合ってしまうほど、魅惑のくちびるを味わい、満たす。
 滑らかなうなじに手を這わせて、ぞくぞくと身を震わせる彼をより引き寄せる。薄く開いたそこに招かれた舌でディオンの好きなところを丹念に可愛がったら、んぅ、と切なくあえかな吐息を漏らした彼が、うっとりと長い睫毛を上げて美しく微笑んだ。くちびるを離して、かわりに額をこつんと合わせ、甘やかなディオンの表情に陶酔する。

「ディオン……」
「ん、はぁ……。お前はいつだって余の欲しいものをくれる。ふふ。『永劫共に』……か」

 花も恥じらう極上の笑み、心を蕩かす口ぶりで、ディオンはテランスの左手をそっとすくい上げた。見開いた視界の中で、彼の指が丁重に、かけがえのないものを扱うかのような優しさで、テランスの薬指に柔らかいくちびるを押し付けた。瞬いて、また瞬いて、彼の整った鼻梁を呆然と見やっても、夢幻に消えることなく、彼はテランスにぴたりと愛を寄せている。
 そうしてゆっくり離れていったかんばせが、テランスを見つめてふわりとはにかんだ。

「テランス。余の永遠もお前にやろう」

 ──その、言葉以上に燦々と注がれる、愛にあふれたまなざしに。
 己のすべてが、報われた、と思った。
 目頭と喉が熱くひりつく。くちづけられたところから温もりに蕩けてしまいそうで、ぐっとこみ上げた嗚咽を飲み込み、それでもこらえきれずにこぼれた雫が、はたはたと頬を伝った。

「……ディオン、ディオンっ……!」
「すまない。ずいぶん待たせたな」

 目からたくさんの想いが溢れては零れ落ちていく。
 視界が滲んで、テランスは大急ぎで目元を拭った。もはや彼からいっときも目を離さないと誓った心が、喜びの雨に彼の姿を隠してしまう。
 凛々しくて、強がりで、決して涙を見せないこの人に、己ばかりが頼りない姿を見られて情けないような、弱みさえ受けとめてもらえるのが喜ばしいような、矛盾した想いが喉奥を焼いた。

「……そうこすっては腫れてしまうぞ」

 拳にするりと静止の指がかかって、瞼に、目尻に、濡れた頬に、淡いくちづけが降ってくる。それがまた雫を溢れさせると知らずに、ディオンは途方もない想いをのせたまなざしでテランスをじっと見つめている。

「ほら、楽しいことを考えてみろ。帰ったら何がしたい? なんでもしてやろう」
「っ、う、なんでも、」
「なんでもだ。愛しいテランス」

 その言葉だけで十分なのに、ディオンはそれ以上をくれると言う。いじらしい人の愛情にこたえるべく頭をひねるが、貴方の側にいられるだけで……とくちびるを震わせることしかできなかった。
 ふと、優しく首を傾げたディオンの耳飾りに視線がいった。無垢な耳たぶを抱きしめているそいつは、できることなら己の指で外してあげたいものだと、いつだって朝まで褥を共にできない我が身に溜息を吐かせる代物だったはずだ。
 そう、人目を避けねばならず、時間をかけて睦み合うこともできなかったあの頃、抱いていた夢があったじゃないか。冗談みたいにささやかで、けれども、口にすることさえ憚られた叶わぬ夢が。
 頬を吸うくちびるに誘われて、テランスはぽつりと願いを零した。

「……ディオンと、一日中ベッドの上で、自堕落に過ごしてみたい……」
「んっ……ふ、ティーンのようなことを」
「な、なんでもとおっしゃるから……!」
「はは、すまない。柄にもなく照れているのだ、あんまりお前が愛おしくって」

 口を尖らせたテランスの後ろ首に、するりと両腕が巻き付いた。どきりと高鳴る胸に、ぶ厚い胸がすがりつく。星月の霞むほどきらきらとまばゆい彼の、ふわりとほころぶくちびるが、テランスのそれに重なった。

「今日から伴侶だ。余のプロポーズを受けたからには、お前をとびきりの幸せ者にしてやる。お前も余を満たしてくれ。なあ、テランス……」
「ディオン……」

 テランスの下唇を甘美に食んだその人が、熱を乞うて身を揺らす。
 男を求める舌を優しく吸って、両腕にとらえた彼の背筋を淫猥に撫でおろす。とびきりの嬌声、こぼれる吐息のひとひらさえ口腔に招き入れ、テランスはディオンに甘えるように腰を押し付けた。
 それからテランスは、宝箱にしまいたいほど素晴らしいディオンの痴態──テランスのシャツの下に滑り込み、広い背をまさぐる手のひら、愛する男を敷いて前後に揺れるまろい尻、口では恥じらいながらも、大きく広げられてテランスを迎え入れる両足、……。そのすべてを心に刻んだ。
 二人はじっくりと時間をかけて互いを与え合い、もはや分かたれぬひとつの心をくまなく確かめ、慈しみ、果てなき愛情に浸って長い夜を明かした。


***


 ──がらりと色を変えた世界にも、変わらず朝はやってくる。
 聖なる翼はおろか、あらゆる魔法が姿を消して、社会の有り様や人々の営みに至るまで、様変わりした生活に戸惑う毎日だったが……ああ、テランスとディオンの在り方に比べれば、それらは実に瑣末な変化だ。
 フェニックス、イフリート、皆で守り抜いた人の世を、ディオンとずっと一緒に守っていく。傍らに控える従者としてではなく、隣り合って苦楽を分かち合う伴侶として……。

 テランスは分厚いカーテンを開け放ち、古めかしく軋む窓を全開にして、部屋に新鮮な空気と光を取り入れた。薄く引かれたレースカーテンを揺らす風が、小鳥のさえずりをシーツの上に運びこむ。
 ベッドの上、半身を起こしてはいるものの、差し込む朝日にぽやぽやと微睡んでいる可愛い伴侶の額にくちづけて「おはよう」と笑いかければ、「んぅ。……う」と、返事なのだか寝言なのだかわからない鳴き声があがって、テランスは破顔してもうひとつくちづけた。
 かつて欠けたるところのなかった皇子様は、今や無防備な姿を晒してくれるようになった。愛されたがりなディオンが、素のままで十分に愛してもらえるともっと自信を抱けるようになるまで、テランスはべたべたに甘やかすつもりでいる。
 テランスは、子猫のように擦り寄ってきたくちびるへお望みのままくちづけて、「まだ寝る?」と蕩けた声で問いかけた。ふにゃふにゃと何か(否定だろう、たぶん)を口の中で転がしたディオンが、裸足のつま先をゆらゆらと彷徨わせ、ぺたりと床を踏みしめた。
 スリッパを履かせてあげたくなるけれど、ぐっとこらえる。『従者のような真似』は彼の頬をふくらませる要因だ。こちらとしては『ベタ惚れ伴侶の仕草』に違いないのだが、線引きの難しいところであるし、それに、口喧嘩で勝てた試しがなかった。

「おはようテランス」

 眠り姫のお目覚めだ。寝ぐせがついていようと、着崩れたリネンシャツから柔らかな胸がこぼれていようと、丸見えの滑らかな脚が目に毒だろうと、ディオンは今日も麗しい。

「おはようディオン。いい朝だ」
「うん。……下着がどこかにいってしまった」
「ええと……昨日、廊下で脱がせたかも……ごめん」
「ふふ……そういえば寝室まで点々と脱ぎ捨てていったな。面白いからそのままにしておこうか」
「そうだね。今日はロズフィールド卿しか来客予定がないし」
「ロズフィールド卿が来るんじゃないか!」

 ──地に堕ち、贖えぬ罪を背負っても、ディオンは折れずにまっすぐ立っていた。
 愛する父に従順な英雄たらんとするのをやめて、人々のためにより心を砕き、助力を惜しまず泥をかぶって邁進するその姿は、余計に男の魅力を引き立たせた。
 もとより見目麗しい男の全身に、清廉かつ気高い美しさが生々しく息づいているのだ。幼い頃から憧憬に懸想の念をけぶらせていた一人の雄が、惚れ直さないわけがない。
 ほうと息をついてディオンを見つめる。テランスの熱視線を『いつものこと』として享受した彼が、意気揚々と廊下に向かった。

「卿も多忙だな。こたびは野獣退治の件だったか……。支度をするぞ。行こうテランス」
「ああ。無理はするなよ、ディオン」
「誰に物を言っている? お前の伴侶がそれしきで音を上げたりするものか」

 にっといたずらな少年のように上がった口端。以前にまして愛らしいかんばせに見惚れていたら、ちゅうと頬にくちづけが降ってきた。あっと驚いて手を伸ばすも、ひらりと逃げられて、おまけに向けられた満面の笑みにとどめを刺されて、とうに骨抜きのテランスは幸せに溺れてしまいそうだった。

「そもそも、余の身を案じるなら夜は少しくらい手加減しろ」
「それは無理だ。もう誰憚ることないと思うと、可愛い君を前に我慢できるはずがない」
「お前は可愛げがなくなった。前は余の言うことならなんでも叶えてくれたのに……」
「でも今のほうが好きだろ?」
「自分で言うな。恥ずかしい奴……。大好きだテランス!」
「わっ、もう、ディオン、君は本当に……!」

 振り向きざまに飛びつかれて、二人して床に転がり笑い合う。テランスを下敷きにし慣れた身体が胸板に手をついて起き上がったと思ったら、また勢い良く倒れこんできてテランスはぺしゃんこに押しつぶされた。
 ぺったり身を寄せたディオンが、耳元でころころ笑う。くっついたところから伝わる振動が心地いい。背中を抱いて声を上げて笑っていたら、遠く階下で「おおい、邪魔するぞー! おらんのかー!?」という大声と無遠慮な足音が響き渡った。がばりと跳ね起きたディオンが、脱兎のごとく駆けていく。

「下着!!!!」
「あっ待ってディオン! 私が……」
「うわああああああああ」
「うおおおおなんじゃあ!! 見とらん! ワシは見とらん!!」
「ああ……ははは……」

 最強の翼を失おうと、その手に輝き灯すことがなくなろうと、ディオンは、どんな光よりまばゆく温かく愛おしい。

 ──あの日墜ちた英雄は、今もこれからも人として、ずっとテランスと共にある。


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