灼熱のマグマはひどく冷たい ※モブ目線 ※このページのみモブへの過激な暴力描写有 注意 「私に手を出したのが運の尽きだ。とびきり優秀なグラエナが地の果てまで追ってくる。行けるところまで逃げだしてみるといい、最期まで見守っていてあげよう」 ********** その男は人畜無害と聞いていた。 マグマ団の首魁マツブサ。 依頼主が宣うに、切れ者、凄腕、犬狂い、神がかった人誑し。されど腕力はからきしで、人をも殺める凶猛な飼い犬さえ撒いてしまえば、そいつ自体に脅威なし、と。 それでも入念に慎重に万全を期し、男の命を奪いに向かった。非力な男の始末など、常と変わらぬ楽な仕事のはずだった。 けれど違った。無防備に背を向ける男に狙いを定めたその瞬間、凶牙立ち並ぶ狗の口腔に誘い込まれていたと気付いたときには、もう取り返しがつかなかった。 温かく親しみに満ちた声。人を惹き寄せ溺れさせる甘い眼差し。見るものすべてに至福をもたらす比類なき笑顔。 綺麗な薔薇だ。数多の男を雁字搦めに貫く茨、地獄の華だ。 それが、振り向きざま傍らのグラエナにはかいこうせんを放たせた、マツブサという男の印象だった。 ********** 脱兎のごとく夜を駆ける。遠くへ、もっと遠くへ、燃え盛る赤毛の手から逃れるように。 痛みに火照る身体を氷雨が叩く。追手の気配はなかった。それでも少しも安堵などできなかった。 入り組んだ道をがむしゃらに走り続けて、そびえ立つビルの隙間に転がり込んだ。震える腕でボールを放る。宙に舞いでたオオスバメは、尋常ではない俺の様子にひどく怯えた顔を見せた。それでも、翼を広げる相棒の足をなんとか掴んで、ぬかるんだ地面を蹴る。地上から離れて数秒もしないうちに、足首を鋭利な何かに喰らいつかれて、泥溜まりの中に無様に引き倒された。 オオスバメがひとり虚空に逃げ去ってゆく。伸ばした手に応えるように、きらきらとした光の粉が、周囲をぶわりと取り囲んだ。まぶたが落ちる。 閉じゆく視界の端で、業火の赤を翻す、禍々しい黒角を生やした悪魔が、ゆっくりと飛沫を上げて歩み寄るのを捉えた気がする。 あとから思い返してみれば、人畜無害などとんだ笑い話だ。 飼い犬が人を殺めるのは、飼い主が命令を下すからだというのに。 暗転。 ********** こつ、こつ、と、遠くで耳障り良い音がする。 重いまぶたを持ち上げる。数度瞬くと、次第に霞がかった視界が晴れてきた。 見知らぬ空間だ。正面には、閉ざされた重厚な扉が見える。息苦しく周りを囲む黒い石壁には、ヘルガーの意匠が彫刻された燭台が等間隔に並んでおり、不気味に踊る焔の群れが、薄ぼんやりと空間を照らしている。 はっと意識が覚醒し、やにわに飛び起きた。実際に跳ね起きたのは気持ちだけで、体はなにかに阻まれ身じろぎすらできなかった。 唇を噛む。直立の姿勢で、腕が後手に固定されている。頭は……動く。見下ろすと、胸部からおそらくは足首に至るまで、光を反射する細糸──虫ポケモンの糸で幾重にも縛り付けられていた。背後に固定された手首をまわして探ると、どうやら体躯より細い柱に拘束されているようだった。 全身に浴びた泥が、乾いてこびりついている。体中が鈍痛と疲労を訴えている。あえなく捕まった事実に腹の底が重くなった。けれど、俺はまだ生きている。それも、五体満足で。 途方も無い安堵に、思わず瞳が潤んだ。 こつ、こつ、と途切れることなく近づいていた音が、足音が、すぐそこで止まった。 次いで、ギイイと軋んだ音をたて、いかにも重々しそうに扉が口を開けていく。心の準備は間に合おうはずもない。知らず息を潜めた。再び、こつ、と固い音が地を叩く。向こう側に広がる闇の中から、煮えたぎるマグマの権化が姿を現した。 ひっと息をのむ。滾る炎に巻かれて、めらめらと焼きつくされるさまを想起した。けれどその絶望とは裏腹に、静かにこちらへ歩を進めた悪の巨魁は、目を細めてふわりと微笑んだ。 「おかえり。たくさん走って疲れただろう。まだ眠っていてもよかったのだぞ」 「う、…………」 恐怖心に囚われた幼子を宥めて包み込むような、ぬくもりある炎だと思った。 ばくばくと高鳴る鼓動を抑えるように努めて、彼をじっと見つめ返す。焔色に包まれた恵まれた肢体、佇まいは気品に満ちている。やはり、人を統べるに相応しい、いかにも聡明そうな男であった。 先程まであれほど恐ろしかった存在が、尻尾を巻いて逃げた己を恥じ入ってしまうほど、希望を与える庇護の眼差しでこちらを見ている。 ぐっと恐れを飲み込んだ。語りかけることはせず、言葉を待つ。男の不興を買いたくなかった。命乞いというより、彼の心を曇らせたくないと思った。 「やはり私のグラエナは優秀だ。狩りに出したのは久方ぶりだったのに、すぐに獲物を咥えて帰ってきたから驚いたよ」 ひとりごち、くすくすと可笑しげに笑う。上機嫌な様子に肩の力が抜けていく。捕らえた罪人に言葉をかける姿に、この人なら、きっと生かして帰してくれる、と思った。今すぐ、両腕を上げて敵意がないのを示したかったが、縛られているため叶わない。だからせめて、上目遣いの視線で媚びた。 「ああ、本当にこんな仕事受けなきゃよかった。降参だよ。あんたには敵わない」 「おや、どういう心境の変化だね。私は今、見ての通り隙だらけだよ。今なら殺せると思わないか?」 「殺せない。抜け出せそうにないし……。それに、こんなに立派で綺麗な人だとは思わなかった」 「ありがとう。私もキミが気に入ったよ。数いる犬をくぐり抜け、マグマ団のリーダーまで辿り着いた手腕、褒めてやろう」 男が音を立てずに拍手をする。焔色と黒色の袖がさらりと衣擦れの音を立て、彼の腰に帰っていった。蝋燭の火が揺れる。赤毛は三メートルほどしか離れぬ先に立っている。 赤毛が口を閉ざすと、辺りはしんと静まり返って、首筋をひやりと冷気が撫でた。 彼には必ず目的があるはずだ。気まぐれで咎人のもとへ足を運んだわけではあるまい。狙いはおそらく依頼主についての情報……ええいもう、進んで口を割ってしまおうかと腹を決めかねていると、「ところで」と細腰に手をあてた赤毛が、ちょいと顎を上げて悪戯な笑みを浮かべた。 「私のグラエナには顔を合わせたか?」 「どいつだよ、あんたの犬はいっぱいいすぎて……」 「ふむ。マグマ団随一のグラエナだ。獲物に噛み付いたら最後、二度と離すことはない。骨まで噛み砕き、命尽きるまで食らいつく」 誇らしげな、いや、恍惚とした表情で、綺麗に整えられた爪をのせる指が、くちびるを撫でている。ちらりと覗いた真っ赤な舌が、蠱惑的に動いて唇を湿らせた。犬狂いと呼ばれるわけだ。殺害を示唆するような不穏な内容に震える背は無視して、おどけてみせた。 「見てないね。そんな躾のなってないグラエナは」 「逆だ。そういう風に躾けたのだよ。まったく惚れ惚れするほど優秀に育ってね。忠誠心の塊みたいなとびきり美しい雄で、骨の髄まで私のことがだぁい好き」 「ずいぶんと大事にしているんだな。アンタのつがいか」 虚勢を張る下卑た皮肉に、男は否定も肯定も返さなかった。静かに睫毛を上下させ、ただ、艷やかなくちびるに人差し指をあてている。 それを見てなぜだか、彼が男を咥え込む姿が脳裏に閃いた。抜けるような白い肌、滑らかで長い指、すがりつきたくなるほど魅力的な柳腰。この躰は『男を知って』いる、そういう確信が胸中に広がっていく。思わず、ごくりと喉が鳴った。 赤毛がこちらへ手のひらを差し出した。 「さて。そんなグラエナの主人の命を愚かにも狙ってしまい、今も無礼を重ねているキミの処遇についてだが……」 「悪かった。なあお願いだ、見逃してくれよ」 「私に刃を向けた愚行が謝罪ひとつで済むとでも?」 「だけど、お上品に生きてるアンタのことだ。足がつくような真似もしたくねえだろう」 「まあ、それはそうだな。私は慎ましやかに過ごしているからね。人を殺すだなんてとてもとても」 大仰に肩をすくめる芝居がかった仕草も、この男にかかれば憎らしいほど様になる。ほうっと嘆息が漏れた。 殺し屋なんて稼業をしていても、死ぬのは怖い。身をすくみ上がらせるその恐怖を、赤毛はたやすく取り除いてくれた。聡明で、部下に慕われ、話のわかる男だ。俺が与えそびれた死を、惨たらしく返すような真似はしないだろう。 「それなのに、見ず知らずの人間に命を狙われるなんて。心外だ」 「ああ……俺が間違ってた。アンタはむしゃぶりつきたくなるくらいイイ男だ」 「ふふ。お褒めの言葉をありがとう」 「靴の裏だって股ぐらだって舐めてやる。だから……」 赤毛が人差し指を振る。口を慎みなさい、というサイン。不快そうな様子は見えない。だってあんなにも、心から愉快でたまらないというふうに、口角を吊り上げている。 「まだ気づかないのか? キミの喉元にはとっくに牙が突き立てられているのに」 刹那、後ろから勢いよく、なにかが耳をかすめて横切った。 呼吸が止まった。 驚愕に見開いた目に、ひとの腕……男の片腕、が、映っている。 唐突に背後の闇から生えて、顔の横に浮かぶ、凶器さながら隆々と鍛え抜かれた男の腕。手首から先を黒手袋に覆ったそれが、ゆっくりと俺の方に折れ曲がり、喉仏に覆いかぶさっていく。五指がぞろりと這って、俺の首は深淵に掴みあげられた。 固い指先が、冷たい革手袋から滲み出る殺意が、薄い皮膚を抉るように食い込んでいく。 「うっ……ヒ、ぐ」 出入り口は、赤毛を越えた向こうにある扉のみ。考えを巡らすまでもなく───その腕の持ち主は、今までずうっと、俺の背後に立っていたのだ。 ひっ、ひっ、と、醜い音が冷気を揺らした。自分の口から漏れている音だと気づいた時、赤毛の男がなまめかしく微笑んで、「大丈夫か?」と俺を案じた。 恐怖に全身がガクガクと震え出す。見開いた視界の真ん中で、悠然と佇む男はただ美しく笑んでいる。聞くに耐えない哀れな呼吸が次から次に溢れ出す。 力一杯絞めるでもなく、しかし苦痛を与えたくてたまらないというような、口ほどに物を言うてのひらが、俺の命を強く握りしめている。 それでも、腕の根本に人が存在するとは思えないほど、背後からは気配ひとつ感じられなかった。 「っひ、ひ、あ……」 真後ろにいるのは死神だ。根源的な恐怖に身が竦んだ。後ろの正面、殺意の塊、目の当たりになどしたくない。だのに、震える瞳が意思に反して、横に横にと滑っていく。 「キミ」 赤毛の男がこちらを呼んだ。ぱっと視線が彼に向く。目を細め、顎に手をあててくちびるを隠している。滑らかな指からはみ出た口端が赤く弧を描いている。 「振り返らない方がいい。目を潰されてしまうかも。キミの後ろにいる私の王子様は、たいそうご立腹のようだから」 物騒なことを愉快げに言い放つ。「お戯れを」と後頭部に声が降ってきた。指先にみなぎる殺意とは裏腹に、感情が窺えないひどく冷淡な声だった。 若い男だ。死神が血肉をもって、確かにそこに立っている。目眩がするほどぞっとした。呼吸が過ぎて、息が苦しい。赤毛の男は、死神に言葉も視線もくれてやらぬまま、俺の目をじっと見つめて言った。 「恐ろしいか? 大丈夫。好きなだけ私を見ていたまえ。ずっと笑っていてあげる。約束だ、他ならぬ君のためだから」 「……う、……っ!!」 張り巡らせた糸に絡まった虫を、女郎蜘蛛の嘘偽りなき優しい眼がなめる。心が抱き寄せられそうになる瞬間、思いきり首を握り潰された。 視界がかっと赤く染まる。息ができない。かっ開いた目に赤毛の苦笑が映る。骨が軋む、これ以上ないと思える剛力は際限なく力を増していく。窒息、いや、破裂する!早すぎる死を確信したとき、赤毛が薄く口を開いた。 「ホムラ」 凛とした、人を手玉に取る男の声だった。 「はっ。申し訳ありません」 「ハァッ! はっ、ぜぇっ、は、はあーっ! ハッ、はァっ、ひゅ、……ッ!! はぁっ」 ぱっと手が離されて、必死の思いで酸素をのむ。視界がちかちかと明滅する。 こつ、こつ、と革靴が再び音をたて、唾を垂らして喘ぐ俺の隣に立った。充血した横目で奴を追う。彼は、俺の背後──ホムラと呼ばれた男の方に腕を高く掲げて、ゆっくりと動かした。 聞き分けのない子犬を甘く叱るような緩んだ口元、しゃりしゃりと髪のかき混ぜられる音、もしかして、死神の頭を撫でている……? 「こら。私はまだ楽しませてもらってないぞ」 「快くご高覧いただくため、お好みの赤に染め上げました」 「斬新な気の利かせ方だな。……なにをちょっと誇らしげにしているのだ。よしよし」 「わふっ」 度肝を抜かれた。それは隣の赤毛も同じだったようで、目も口もまんまるに開いている。 「わあ可愛い! どうしたのだ」 「は、マツブサ様に王子様とお呼びいただいたので……」 「んっ……ふふ、ふっ、う、嬉しかったのか。か、かわいい、あはっ」 荒々しく肩を上下させ、死の気配にまとわりつかれたままの俺をよそに、男たちは笑い合っている。いや、ころころと笑っているのはマグマのトップ一人だ。死を司る男の声には、ひとつも浮かれたところがない。にも関わらず、ご主人様に首ったけなんだろうな、という雰囲気をひしひしと肌で感じた。 ひたひたと、足元から仄暗いものが這い寄ってくる。躊躇いなく人の首を絞めるような、己に心酔しきった番犬を罪人の背後に置く。それは、どういう意図だろう。彼らが睦まじく交わす熱が肉をなめ、言い知れぬ恐怖にじりじりと骨まで焦がされる。 「一曲踊っていただきたいほど舞い上がっています」 「そ、そんな真顔で。ふふっ、お腹がよじれる! あは、んふふ、ダメだぞ王子様。お前はまずこの子をエスコートしてやるのだ」 「…………」 「急に拗ねる! ふふふ」 俺に希望をもたらすはずの人が、活き活きと声を弾ませて死神の手を引いた。赤毛の男がゆっくりと俺の前方へ歩み戻る。繋いだ手に追従する地獄の番犬、殺意満ちる者の姿を、俺はようやくこの目にした。 一目見て、なんて美しいけだものだ、と思った。 俺をあらん限りの力でいたぶっておきながら、無頼漢とは似ても似つかぬ、礼節をわきまえた好青年のようでさえあった。精悍な顔つきの中ほどで甘やかに眦が垂れているが、凍りつくような無表情が優しい印象をごっそりと削り落としている。そして、そんな端正なおもてには不釣り合いなほど、はちきれんばかりに凶悪に盛り上がる筋肉が、水の滴る男振りを鰻登りに上げている。 赤毛が愛おしがるのも頷ける、恐ろしいほどに見目の整った青年だった。殺気をみなぎらせているという一点を除けば、きっと好印象を抱いただろう。 そんな男の黒い瞳が、無感情に俺を刺し貫いている。落ち着いたはずの息が、次第に荒くなっていく。嫌だ。怖い。忌避すべきものだ。すがるような視線を赤毛に向ける。それをあろうことか、赤毛は死神の背に手をそえて、えへんと胸を張った。 「なあキミ。すこぶるイイ男だろう、私のグラエナ。ほら自己紹介」 「マグマ団幹部兼行動隊長兼マツブサ様のグラエナ兼王子様のホムラだ。短い間だがよろしくな挽き肉」 どっと全身に脂汗が浮いた。 「こら、失礼だぞ。まだ人の形をしているだろう。そんなにこの子が気に入ったか」 「それはもう。丁重にエスコートして差し上げます」 「好きにしろ。せっかく会食の予定が潰れたことだし、久々に二人きりで楽しもう」 男たちの言うことが、すぐには理解できなかった。 ひとのかたち、ふたりきり……。 俺、もう、人間として数えられていない!! ぐるぐると視界がまわって、希望の光をはるか遠くに見失った。ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返す。逃げなければとがむしゃらに暴れても、糸の拘束はびくともしない。 錯乱する俺を意にも介さず、二人は見つめ合っている。若い男が、手首を軽く振ってまわした。 「おや。いつものグラエナは使わないのか?」 「はい。本日は、マツブサ様のことが骨の髄までだぁい好きな、優秀で美しく忠誠心に満ちたグラエナがつとめます」 「ふふっ。頼もしいと愛おしいも追加してやろう」 「身に余る光栄です」 死神の手から救ってくれたはずの赤毛が、剥き出しの二の腕をうっそりと撫でてあげて、俺というおもちゃを犬の鼻先につきつける。呼吸がうるさい。殺される。このままでは。命を乞わなきゃ。だが何と。赤毛は温和に笑んでいる。「冗談だよ」と肩を叩いてくれそうな、気の置けない表情で。犬が一歩踏み出す。赤毛も俺へと距離を詰めた。底冷えのする美貌が、諌める視線を主人に送る。 「お召し物が汚れてしまいます」 「飛び散らないようにやれ」 「はっ」 猛犬の鎖が外された。 ──失禁した。濡れた感覚が、俺に人語を取り戻させた。 「やめろ! 助けてくれ!! 頼む、お願いだから!! あんたを殺すように言ってきた男はアクア団の幹部だ、奴らの情報を持っている、だから!」 絶叫が石壁に反響する。灯火がゆらゆら揺れる。赤毛が至って柔和に小首を傾げた。 「キミが二週間前に会った男は、幹部ではなくしたっぱだ」 「あっ? そ、そんなはず……ッ、ま、待て、なんで知って……」 「尾行にも気付かないしたっぱ君が、アオギリを思って愚かにも私を消そうと企んだのだろう。それがあの男の逆鱗に触れるとも知らずにね。今頃サメハダーの腹の中じゃないか、ふふふ」 赤毛の口がアオギリの名前をなぞった瞬間、犬はわずかに眉間をしわ寄せたが、たちまち無表情に戻って凍える視線を俺に放った。目の前に仁王立つ。拳は固く握られている。 「つまり、キミの持つ情報には価値がないということだ。だが安心したまえ。キミの身体には価値がある。さきほど言っていた、股がどうとか……なんだったかな? ホムラ」 「『股ぐらだって舐めてやる』」 「そう、そんな下品なことをさせる気はないが、私はよく鳴く犬が好きでね。楽しませてくれ。そうすれば少しは長く……」 「い、嫌だ!!! やめ、助けっ……!!」 「やかましい。マツブサ様のお言葉を遮るな」 容赦ない打撃が頬を襲った。あまりの勢いに拘束糸が引きちぎれ、側頭部から地面に激突する。ぐわんぐわんと世界が揺れる。地面に点々と、光を反射する白い粒が転がっているのが見えた。赤く濡れた白……。歯、俺の歯だ。 這いつくばりながら、拘束が解けて手足が自由になったことに気がついた。一も二もなく逃げなければならなかったが、すくみ上がって震える手をつき、首をわずかに持ち上げるだけで精一杯だった。 「ああ、そんな風に殴るだなんて。拳を痛めてしまうぞ」 「ご心配なく。“仕事”用のグローブです」 「なるほど。お利口さんだな」 箸よりも重いものを持ったことがなさそうな細指が、犬の血管の浮く太い手首を擦っている。男根にねっとりと絡みつく白蛇のようだった。抜けた腰は役に立たない。腹ばいに地を這う。ぶるぶると慄き定まらぬ腕で前へ前へと、未来待つ扉へ進む。 温かい声が俺の背中を縫い止めた。 「こら、私を見ていなさいと言っただろう」 焔と闇の色に包まれた両腕が降りてくる。きめ細やかな肌が、俺の涙を拭って、頬を優しくなぞる。こんな状況にもかかわらず、うっとりと顎をくすぐる指使いに、下腹に熱が溜まりそうだった。横から伸びてきた腕が俺の胸ぐらを掴みあげ、無理やり立ち上がらせる。相変わらず表情には悋気の欠片も浮かべぬ犬が、主人にひたと火焔の瞳を向けている。 「冥土の土産に笑顔を賜るなど、下郎には過ぎた褒美です」 「ふふ。そんなに好き? 私の笑顔」 「大好きですお慕いしています愛していますこの世の何より優れて麗しく慈悲深いマツブサ様のすべてを。一息にはとても表現しきれませんので、あと数日……いえ生涯をかけてお伝えさせていただきますが、まずはこのゴミを片付けないといけないのですよね」 「うんそう。キミ今の聞いたかね? こんな感じで私を好きになってくれたら、死ぬ間際まで満ち足りた気分でいさせてあげられると思うのだが。我ながらいい案じゃないか?そうだ、手でも繋いでいてあげようか」 「ご冗談を」 「そう目くじらを立てるな」 俺だってこれまでに何人かの命を奪ってきたんだ。奪う覚悟も、奪われる覚悟もできていたはずだった。それでも、今から命を奪う相手を前に、相好を崩して朗らかに会話を続けるなんて、こちらまでまともな神経を失ってしまいそうだった。人の皮を被ったおぞましい化け物ども、俺はそんな奴らに手を出して、返り討ちにされるのだ……。 「……しにたくない……」 ぽつりと悲嘆が口から落ちた。両膝が激しく笑う。だが立っている。一縷の望みが俺を宙から吊っている。ホムラと呼ばれた死神は、侮蔑さえこもらぬ冷めた双眸で俺を見下している。赤毛の男、マツブサは、誰を彼をも惹きずりこむ底なしの笑みを湛えて、地獄の釜の縁に立つ人間の行く末をただただじっと見据えていた。そのときになって、ようやく飲み込めた。 ああ、もう、たすからないのだ。 わかっても必死の叫びは腹の底から湧き上がって、自らの鼓膜をつんざいた。 「……っない、しにたく、しにたくないっ、死にたくないぃ!!! ころ、ころさないでッ、殺さないでころさないでころさないで!!!!」 「いいだろう。すぐには殺さない。私だったら一秒でも長くマツブサ様を感じていたいからな。ましてや最期まで笑ってお見送りいただけるなど、嗚呼、貴様はまたとない果報者だ……」 「あ、あっあっあっあああころっ、ころさないでころっ、ォア゛!!!」 目にも留まらぬ強力な一撃が脇腹を抉った。息もできずに激痛に身悶える。男は、背を丸めて転がる俺の頭を足蹴にし、赤毛の方に向かせて踏みにじった。顔中から様々な液体を垂れ流す俺を、穢れとは無縁の慈しみに満ちた笑顔が出迎える。後光さす救いの化身、けれどその手はひとすじの蜘蛛糸を垂らす慈悲もない。 髪を引っ掴まれて上体を持ち上げられる。隣に顔を並べた美丈夫の甘く垂れた双眸が、赤毛の躰にうっとりと孕ませるような視線を捧げて、返す瞳で路傍のゴミでも見るかのようにこちらを一瞥、掴んだ頭部を地に叩きつける。また蹴り転がされて、赤毛の姿を目の当たりにさせられる。 容赦なく振るわれる暴力、笑顔の拝謁を赦される恩寵、繰り返される、死ぬまでずっと。 意味を成さないうめき声が、ぼろぼろと落ちて崩れた。赤毛は、それにすら耳を傾けてくれている。 男が、片足をゆっくりと後ろに引いた。 「光栄に思え、そして出来うる限り生きてその身に刻むといい」 びょうと風をきる音。目の前が真っ赤に染まった。 ********** 犬が拳を振るうたび、俺というちっぽけな人間から、人の尊厳が剥がれ落ちていく。 急所を外されて、殴られ、蹴られ、赤毛の方を向かされる。永遠に続く責め苦の中を、赤毛に見守られるなか、生かされ続ける。信じ難いことに、犬はそれを、これから死にゆく者へのせめてもの手向けと、心からそう捉えているようだった。もしかすると、悪行の合間に善行を積んでいるとさえ思っていたかもしれない。そもそも、悪行だと思っている素振りはなかったが。 気が付くと、黒い革靴が目前にあった。赤毛の足だ。暴力の嵐がすいと止む。ずっと傍観を決め込んでいた赤毛が、屈みこんで俺の両頬を手のひらで包み込んだ。甘やかな笑顔が近づいてくる。この人も俺を殴るんだと絶望に目を瞑ったら、天国のように柔らかい感触が、切れてぼろぼろの唇に重なった。恐る恐る瞼を開く。至近距離で、赤毛がはにかんでいる。「キスしちゃった。ホムラ以外の子と、はじめて」そう言って、淫猥な処女のように頬を染めて、愛する犬に熱い眼差しを注いでいる。もはや怖いものなどない俺も、その視線の先を追いかけてみた。すると。 犬の口元が、激しく引き攣っていた。 初めて表情を崩したなと、なぜだかとても愉快な気持ちになった。 それもすぐに、早く殺して欲しいと縋る心地にとってかわった。 こんなにも執拗に徹底的に、憎悪と殺意のこもった拳を振るわれているというのに、決定打というものは、なかなか与えられないものだ。 ********** 何度目の意識喪失で、何度目の覚醒だったろう。 目の前で、冥府の犬どもがひとつになって蠢いている。 ──死体の横でおっぱじめるなよ。急にすっきりと晴れ渡った意識で、ふと思ったのはそんなことだった。自分という存在が床にでろりと、汚泥のように広がっている。しかし、まだ生きていた。死に体と表現するにふさわしい有様でも、かろうじて機能しているらしかった。 どうにもまったくついてない。地獄の責め苦は終わりを迎えたようだというのに、走馬灯さえ過ぎることなく、おぞましい野郎どものセックス(それも騎乗位!)が人生の見納めになるなんて。 獣たちの交尾を見つめる。尻の穴にぶっとい逸物を突っ込まれて揺さぶられているにも関わらず、赤毛の男は恍惚と蕩けた表情で、つんと尖りの主張する胸をなまめかしく反らして快楽を貪っている。横たわる若い男は、身に乗せた痩躯……とはいえ長身の赤毛の腰をがっつり掴んで、下からがんがんに突き上げて雄々しい唸り声をあげている。瑞々しい肉体を玉の汗が伝い落ちるのが見えた。ちょっとしたお散歩ぐらいの感覚で、ご主人様の下からの眺めを満喫しているのだろうか。どんな膂力をした化け物だ。さすが、いちばんに可愛がられる犬の体力は無尽蔵だと、しみじみ思った。 美しい獣の鉄面皮もご主人様の痴態の前には剥がれ落ち、蹂躙しているように見えて、めいっぱい可愛がられてずぶずぶに溺れきっている。それでもなお、もっともっとと際限なく愛をねだって、千切れんばかりに尾を振るグラエナ。それを当然のごとく受け入れて、致死量の愛を注いで可愛がる赤毛のご主人様。 あんな風に己の全てを受け入れられてしまうのは、すべてを奪われるのと変わらない。 心酔、陶酔、手綱を締められて主人になにもかもを捧げるけだもの。俺はそんなやつの、ぴかぴかに輝くご主人様に手を出したのだ。ころされるのも、むりはない……。 震えが止まらない。 痛くて寒くて、残り少ない歯の根があわない。 凍えそうに寒いのに、冷や汗が止まらない。べっとりと水分を含んだ服が重く張り付いている。一衣纏わぬ赤毛の肌は艶やかに紅潮して、しっとりと汗ばみ輝いている。人肌が恋しい。しなやかにくねる美味そうな腰、手を伸ばせば届きそうなのに、腕はちっとも上がりやしない。もはや四肢の感覚すらなかった。いたい。息が苦しい。いたい。いたい? いたいってなんだったろう。 骨の砕けてひしゃげた身から、ひゅうひゅうとか細い息が出る。もはや咽び泣く気力さえなかった。内側からじわじわと終わりに蝕まれていく。 生きた血を全身にほとばしらせる激しい交尾を見せつけられて、淀んだ血を吐き出して冷たい地面に横たわる俺。惨めで、みっともなくて、寂しかった。まぶたを瞑っても、そこにあるのは底なしの暗闇だ。そんな侘びしいものよりは、愛しあう彼らの姿を見ていたかった。 あえかな吐息に喘ぎ、悩ましげに犬の名前を紡ぎながらも、赤毛はかわらず極楽浄土の微笑みをそのおもてにのせている。ずっと、笑ってくれている。 約束、ちゃんと守ってくれるんだ。 俺のこと、幸せにしてくれるんだ……。 ぽろぽろと目から感涙が零れて伝った。篝火のような赤毛が闇を舞う。それはきっと温かいに違いないのに、情熱的に燃える赤糸の隙間から、一千度の愛を失った漆黒の溶岩がぎょろりと俺を射抜いた。 「ホムラ、待て」 いっとう忠実で利口な犬は、ぴたりと腰の動きを止めた。白いうなじをつるりと汗が滑り落ちていく。赤毛が、己を掴む男の手に自らの手のひらを重ねて、ゆっくりと腰を下ろしていく。じれったく前後に揺すってあやし、最奥まで犬を咥え込んだとき、ひときわ艶やかに笑んだ。ずっと、俺に、目を向けたまま。 「驚いた、まだ生きてるぞ。ンっ、ふ、ほむら、お前は、おもちゃで遊ぶのがうまい……ッ、楽しめたか、なあ? っあ、いいっ……」 「は、マツブサ様と睦み合うひとときに、勝るものなどございません」 「ふ、ぁハっ、与え甲斐のない犬だ」 「お情けをかけていただいたあの日から、しゃぶりつくす骨はひとつと決めています」 「っあ、ン……いい子だ。おいで、思う存分味わいなさい」 「っ、マツブサ様っ……」 若い男の胸に、赤毛が蕩けるようにしなだれかかる。性急に腹の上の赤毛ごと身を起こした犬が、放り投げた外套の上に主人を押し倒してのしかかった。余裕も理性も飛ばしたケダモノ、けれどご主人様に触れる手だけは、人を殴り嬲り蹂躙し尽くしたものだとはとても思えないほどに、恭しく慮りに満ちていた。 冷たい石床に、赤髪が乱れ散らばる。脚を掴まれ大きく開かされた男が、重機のような雄にめちゃくちゃに穿たれて、善がりきった嬌声を響き渡らせる。白いうなじがぐっとのけぞる。仰向けに揺さぶられている赤毛の首が、ゆっくりとこちらを向いて、にんまりと嗤った。最期の最期で、これまで見せた優しさを裏切るような、直視するだけで全身が爛れるような笑みだった。 俺のために笑ってくれるんじゃなかったのかよ。そうか、愛犬を見せびらかしたいだけだったんだな……。 地獄の業火、灼熱のマグマは、ひどく冷たい。 人生初の知見を得て、そこで俺の輝かしい人生というやつは、綺麗さっぱり幕を下ろした。 favorite いいね THANK YOU!! THANK YOU!! とっても励みになります! back 2025.10.5(Sun)
※モブ目線
※このページのみモブへの過激な暴力描写有 注意
「私に手を出したのが運の尽きだ。とびきり優秀なグラエナが地の果てまで追ってくる。行けるところまで逃げだしてみるといい、最期まで見守っていてあげよう」
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その男は人畜無害と聞いていた。
マグマ団の首魁マツブサ。
依頼主が宣うに、切れ者、凄腕、犬狂い、神がかった人誑し。されど腕力はからきしで、人をも殺める凶猛な飼い犬さえ撒いてしまえば、そいつ自体に脅威なし、と。
それでも入念に慎重に万全を期し、男の命を奪いに向かった。非力な男の始末など、常と変わらぬ楽な仕事のはずだった。
けれど違った。無防備に背を向ける男に狙いを定めたその瞬間、凶牙立ち並ぶ狗の口腔に誘い込まれていたと気付いたときには、もう取り返しがつかなかった。
温かく親しみに満ちた声。人を惹き寄せ溺れさせる甘い眼差し。見るものすべてに至福をもたらす比類なき笑顔。
綺麗な薔薇だ。数多の男を雁字搦めに貫く茨、地獄の華だ。
それが、振り向きざま傍らのグラエナにはかいこうせんを放たせた、マツブサという男の印象だった。
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脱兎のごとく夜を駆ける。遠くへ、もっと遠くへ、燃え盛る赤毛の手から逃れるように。
痛みに火照る身体を氷雨が叩く。追手の気配はなかった。それでも少しも安堵などできなかった。
入り組んだ道をがむしゃらに走り続けて、そびえ立つビルの隙間に転がり込んだ。震える腕でボールを放る。宙に舞いでたオオスバメは、尋常ではない俺の様子にひどく怯えた顔を見せた。それでも、翼を広げる相棒の足をなんとか掴んで、ぬかるんだ地面を蹴る。地上から離れて数秒もしないうちに、足首を鋭利な何かに喰らいつかれて、泥溜まりの中に無様に引き倒された。
オオスバメがひとり虚空に逃げ去ってゆく。伸ばした手に応えるように、きらきらとした光の粉が、周囲をぶわりと取り囲んだ。まぶたが落ちる。
閉じゆく視界の端で、業火の赤を翻す、禍々しい黒角を生やした悪魔が、ゆっくりと飛沫を上げて歩み寄るのを捉えた気がする。
あとから思い返してみれば、人畜無害などとんだ笑い話だ。
飼い犬が人を殺めるのは、飼い主が命令を下すからだというのに。
暗転。
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こつ、こつ、と、遠くで耳障り良い音がする。
重いまぶたを持ち上げる。数度瞬くと、次第に霞がかった視界が晴れてきた。
見知らぬ空間だ。正面には、閉ざされた重厚な扉が見える。息苦しく周りを囲む黒い石壁には、ヘルガーの意匠が彫刻された燭台が等間隔に並んでおり、不気味に踊る焔の群れが、薄ぼんやりと空間を照らしている。
はっと意識が覚醒し、やにわに飛び起きた。実際に跳ね起きたのは気持ちだけで、体はなにかに阻まれ身じろぎすらできなかった。
唇を噛む。直立の姿勢で、腕が後手に固定されている。頭は……動く。見下ろすと、胸部からおそらくは足首に至るまで、光を反射する細糸──虫ポケモンの糸で幾重にも縛り付けられていた。背後に固定された手首をまわして探ると、どうやら体躯より細い柱に拘束されているようだった。
全身に浴びた泥が、乾いてこびりついている。体中が鈍痛と疲労を訴えている。あえなく捕まった事実に腹の底が重くなった。けれど、俺はまだ生きている。それも、五体満足で。
途方も無い安堵に、思わず瞳が潤んだ。
こつ、こつ、と途切れることなく近づいていた音が、足音が、すぐそこで止まった。
次いで、ギイイと軋んだ音をたて、いかにも重々しそうに扉が口を開けていく。心の準備は間に合おうはずもない。知らず息を潜めた。再び、こつ、と固い音が地を叩く。向こう側に広がる闇の中から、煮えたぎるマグマの権化が姿を現した。
ひっと息をのむ。滾る炎に巻かれて、めらめらと焼きつくされるさまを想起した。けれどその絶望とは裏腹に、静かにこちらへ歩を進めた悪の巨魁は、目を細めてふわりと微笑んだ。
「おかえり。たくさん走って疲れただろう。まだ眠っていてもよかったのだぞ」
「う、…………」
恐怖心に囚われた幼子を宥めて包み込むような、ぬくもりある炎だと思った。
ばくばくと高鳴る鼓動を抑えるように努めて、彼をじっと見つめ返す。焔色に包まれた恵まれた肢体、佇まいは気品に満ちている。やはり、人を統べるに相応しい、いかにも聡明そうな男であった。
先程まであれほど恐ろしかった存在が、尻尾を巻いて逃げた己を恥じ入ってしまうほど、希望を与える庇護の眼差しでこちらを見ている。
ぐっと恐れを飲み込んだ。語りかけることはせず、言葉を待つ。男の不興を買いたくなかった。命乞いというより、彼の心を曇らせたくないと思った。
「やはり私のグラエナは優秀だ。狩りに出したのは久方ぶりだったのに、すぐに獲物を咥えて帰ってきたから驚いたよ」
ひとりごち、くすくすと可笑しげに笑う。上機嫌な様子に肩の力が抜けていく。捕らえた罪人に言葉をかける姿に、この人なら、きっと生かして帰してくれる、と思った。今すぐ、両腕を上げて敵意がないのを示したかったが、縛られているため叶わない。だからせめて、上目遣いの視線で媚びた。
「ああ、本当にこんな仕事受けなきゃよかった。降参だよ。あんたには敵わない」
「おや、どういう心境の変化だね。私は今、見ての通り隙だらけだよ。今なら殺せると思わないか?」
「殺せない。抜け出せそうにないし……。それに、こんなに立派で綺麗な人だとは思わなかった」
「ありがとう。私もキミが気に入ったよ。数いる犬をくぐり抜け、マグマ団のリーダーまで辿り着いた手腕、褒めてやろう」
男が音を立てずに拍手をする。焔色と黒色の袖がさらりと衣擦れの音を立て、彼の腰に帰っていった。蝋燭の火が揺れる。赤毛は三メートルほどしか離れぬ先に立っている。
赤毛が口を閉ざすと、辺りはしんと静まり返って、首筋をひやりと冷気が撫でた。
彼には必ず目的があるはずだ。気まぐれで咎人のもとへ足を運んだわけではあるまい。狙いはおそらく依頼主についての情報……ええいもう、進んで口を割ってしまおうかと腹を決めかねていると、「ところで」と細腰に手をあてた赤毛が、ちょいと顎を上げて悪戯な笑みを浮かべた。
「私のグラエナには顔を合わせたか?」
「どいつだよ、あんたの犬はいっぱいいすぎて……」
「ふむ。マグマ団随一のグラエナだ。獲物に噛み付いたら最後、二度と離すことはない。骨まで噛み砕き、命尽きるまで食らいつく」
誇らしげな、いや、恍惚とした表情で、綺麗に整えられた爪をのせる指が、くちびるを撫でている。ちらりと覗いた真っ赤な舌が、蠱惑的に動いて唇を湿らせた。犬狂いと呼ばれるわけだ。殺害を示唆するような不穏な内容に震える背は無視して、おどけてみせた。
「見てないね。そんな躾のなってないグラエナは」
「逆だ。そういう風に躾けたのだよ。まったく惚れ惚れするほど優秀に育ってね。忠誠心の塊みたいなとびきり美しい雄で、骨の髄まで私のことがだぁい好き」
「ずいぶんと大事にしているんだな。アンタのつがいか」
虚勢を張る下卑た皮肉に、男は否定も肯定も返さなかった。静かに睫毛を上下させ、ただ、艷やかなくちびるに人差し指をあてている。
それを見てなぜだか、彼が男を咥え込む姿が脳裏に閃いた。抜けるような白い肌、滑らかで長い指、すがりつきたくなるほど魅力的な柳腰。この躰は『男を知って』いる、そういう確信が胸中に広がっていく。思わず、ごくりと喉が鳴った。
赤毛がこちらへ手のひらを差し出した。
「さて。そんなグラエナの主人の命を愚かにも狙ってしまい、今も無礼を重ねているキミの処遇についてだが……」
「悪かった。なあお願いだ、見逃してくれよ」
「私に刃を向けた愚行が謝罪ひとつで済むとでも?」
「だけど、お上品に生きてるアンタのことだ。足がつくような真似もしたくねえだろう」
「まあ、それはそうだな。私は慎ましやかに過ごしているからね。人を殺すだなんてとてもとても」
大仰に肩をすくめる芝居がかった仕草も、この男にかかれば憎らしいほど様になる。ほうっと嘆息が漏れた。
殺し屋なんて稼業をしていても、死ぬのは怖い。身をすくみ上がらせるその恐怖を、赤毛はたやすく取り除いてくれた。聡明で、部下に慕われ、話のわかる男だ。俺が与えそびれた死を、惨たらしく返すような真似はしないだろう。
「それなのに、見ず知らずの人間に命を狙われるなんて。心外だ」
「ああ……俺が間違ってた。アンタはむしゃぶりつきたくなるくらいイイ男だ」
「ふふ。お褒めの言葉をありがとう」
「靴の裏だって股ぐらだって舐めてやる。だから……」
赤毛が人差し指を振る。口を慎みなさい、というサイン。不快そうな様子は見えない。だってあんなにも、心から愉快でたまらないというふうに、口角を吊り上げている。
「まだ気づかないのか? キミの喉元にはとっくに牙が突き立てられているのに」
刹那、後ろから勢いよく、なにかが耳をかすめて横切った。
呼吸が止まった。
驚愕に見開いた目に、ひとの腕……男の片腕、が、映っている。
唐突に背後の闇から生えて、顔の横に浮かぶ、凶器さながら隆々と鍛え抜かれた男の腕。手首から先を黒手袋に覆ったそれが、ゆっくりと俺の方に折れ曲がり、喉仏に覆いかぶさっていく。五指がぞろりと這って、俺の首は深淵に掴みあげられた。
固い指先が、冷たい革手袋から滲み出る殺意が、薄い皮膚を抉るように食い込んでいく。
「うっ……ヒ、ぐ」
出入り口は、赤毛を越えた向こうにある扉のみ。考えを巡らすまでもなく───その腕の持ち主は、今までずうっと、俺の背後に立っていたのだ。
ひっ、ひっ、と、醜い音が冷気を揺らした。自分の口から漏れている音だと気づいた時、赤毛の男がなまめかしく微笑んで、「大丈夫か?」と俺を案じた。
恐怖に全身がガクガクと震え出す。見開いた視界の真ん中で、悠然と佇む男はただ美しく笑んでいる。聞くに耐えない哀れな呼吸が次から次に溢れ出す。
力一杯絞めるでもなく、しかし苦痛を与えたくてたまらないというような、口ほどに物を言うてのひらが、俺の命を強く握りしめている。
それでも、腕の根本に人が存在するとは思えないほど、背後からは気配ひとつ感じられなかった。
「っひ、ひ、あ……」
真後ろにいるのは死神だ。根源的な恐怖に身が竦んだ。後ろの正面、殺意の塊、目の当たりになどしたくない。だのに、震える瞳が意思に反して、横に横にと滑っていく。
「キミ」
赤毛の男がこちらを呼んだ。ぱっと視線が彼に向く。目を細め、顎に手をあててくちびるを隠している。滑らかな指からはみ出た口端が赤く弧を描いている。
「振り返らない方がいい。目を潰されてしまうかも。キミの後ろにいる私の王子様は、たいそうご立腹のようだから」
物騒なことを愉快げに言い放つ。「お戯れを」と後頭部に声が降ってきた。指先にみなぎる殺意とは裏腹に、感情が窺えないひどく冷淡な声だった。
若い男だ。死神が血肉をもって、確かにそこに立っている。目眩がするほどぞっとした。呼吸が過ぎて、息が苦しい。赤毛の男は、死神に言葉も視線もくれてやらぬまま、俺の目をじっと見つめて言った。
「恐ろしいか? 大丈夫。好きなだけ私を見ていたまえ。ずっと笑っていてあげる。約束だ、他ならぬ君のためだから」
「……う、……っ!!」
張り巡らせた糸に絡まった虫を、女郎蜘蛛の嘘偽りなき優しい眼がなめる。心が抱き寄せられそうになる瞬間、思いきり首を握り潰された。
視界がかっと赤く染まる。息ができない。かっ開いた目に赤毛の苦笑が映る。骨が軋む、これ以上ないと思える剛力は際限なく力を増していく。窒息、いや、破裂する!早すぎる死を確信したとき、赤毛が薄く口を開いた。
「ホムラ」
凛とした、人を手玉に取る男の声だった。
「はっ。申し訳ありません」
「ハァッ! はっ、ぜぇっ、は、はあーっ! ハッ、はァっ、ひゅ、……ッ!! はぁっ」
ぱっと手が離されて、必死の思いで酸素をのむ。視界がちかちかと明滅する。
こつ、こつ、と革靴が再び音をたて、唾を垂らして喘ぐ俺の隣に立った。充血した横目で奴を追う。彼は、俺の背後──ホムラと呼ばれた男の方に腕を高く掲げて、ゆっくりと動かした。
聞き分けのない子犬を甘く叱るような緩んだ口元、しゃりしゃりと髪のかき混ぜられる音、もしかして、死神の頭を撫でている……?
「こら。私はまだ楽しませてもらってないぞ」
「快くご高覧いただくため、お好みの赤に染め上げました」
「斬新な気の利かせ方だな。……なにをちょっと誇らしげにしているのだ。よしよし」
「わふっ」
度肝を抜かれた。それは隣の赤毛も同じだったようで、目も口もまんまるに開いている。
「わあ可愛い! どうしたのだ」
「は、マツブサ様に王子様とお呼びいただいたので……」
「んっ……ふふ、ふっ、う、嬉しかったのか。か、かわいい、あはっ」
荒々しく肩を上下させ、死の気配にまとわりつかれたままの俺をよそに、男たちは笑い合っている。いや、ころころと笑っているのはマグマのトップ一人だ。死を司る男の声には、ひとつも浮かれたところがない。にも関わらず、ご主人様に首ったけなんだろうな、という雰囲気をひしひしと肌で感じた。
ひたひたと、足元から仄暗いものが這い寄ってくる。躊躇いなく人の首を絞めるような、己に心酔しきった番犬を罪人の背後に置く。それは、どういう意図だろう。彼らが睦まじく交わす熱が肉をなめ、言い知れぬ恐怖にじりじりと骨まで焦がされる。
「一曲踊っていただきたいほど舞い上がっています」
「そ、そんな真顔で。ふふっ、お腹がよじれる! あは、んふふ、ダメだぞ王子様。お前はまずこの子をエスコートしてやるのだ」
「…………」
「急に拗ねる! ふふふ」
俺に希望をもたらすはずの人が、活き活きと声を弾ませて死神の手を引いた。赤毛の男がゆっくりと俺の前方へ歩み戻る。繋いだ手に追従する地獄の番犬、殺意満ちる者の姿を、俺はようやくこの目にした。
一目見て、なんて美しいけだものだ、と思った。
俺をあらん限りの力でいたぶっておきながら、無頼漢とは似ても似つかぬ、礼節をわきまえた好青年のようでさえあった。精悍な顔つきの中ほどで甘やかに眦が垂れているが、凍りつくような無表情が優しい印象をごっそりと削り落としている。そして、そんな端正なおもてには不釣り合いなほど、はちきれんばかりに凶悪に盛り上がる筋肉が、水の滴る男振りを鰻登りに上げている。
赤毛が愛おしがるのも頷ける、恐ろしいほどに見目の整った青年だった。殺気をみなぎらせているという一点を除けば、きっと好印象を抱いただろう。
そんな男の黒い瞳が、無感情に俺を刺し貫いている。落ち着いたはずの息が、次第に荒くなっていく。嫌だ。怖い。忌避すべきものだ。すがるような視線を赤毛に向ける。それをあろうことか、赤毛は死神の背に手をそえて、えへんと胸を張った。
「なあキミ。すこぶるイイ男だろう、私のグラエナ。ほら自己紹介」
「マグマ団幹部兼行動隊長兼マツブサ様のグラエナ兼王子様のホムラだ。短い間だがよろしくな挽き肉」
どっと全身に脂汗が浮いた。
「こら、失礼だぞ。まだ人の形をしているだろう。そんなにこの子が気に入ったか」
「それはもう。丁重にエスコートして差し上げます」
「好きにしろ。せっかく会食の予定が潰れたことだし、久々に二人きりで楽しもう」
男たちの言うことが、すぐには理解できなかった。
ひとのかたち、ふたりきり……。
俺、もう、人間として数えられていない!!
ぐるぐると視界がまわって、希望の光をはるか遠くに見失った。ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返す。逃げなければとがむしゃらに暴れても、糸の拘束はびくともしない。
錯乱する俺を意にも介さず、二人は見つめ合っている。若い男が、手首を軽く振ってまわした。
「おや。いつものグラエナは使わないのか?」
「はい。本日は、マツブサ様のことが骨の髄までだぁい好きな、優秀で美しく忠誠心に満ちたグラエナがつとめます」
「ふふっ。頼もしいと愛おしいも追加してやろう」
「身に余る光栄です」
死神の手から救ってくれたはずの赤毛が、剥き出しの二の腕をうっそりと撫でてあげて、俺というおもちゃを犬の鼻先につきつける。呼吸がうるさい。殺される。このままでは。命を乞わなきゃ。だが何と。赤毛は温和に笑んでいる。「冗談だよ」と肩を叩いてくれそうな、気の置けない表情で。犬が一歩踏み出す。赤毛も俺へと距離を詰めた。底冷えのする美貌が、諌める視線を主人に送る。
「お召し物が汚れてしまいます」
「飛び散らないようにやれ」
「はっ」
猛犬の鎖が外された。
──失禁した。濡れた感覚が、俺に人語を取り戻させた。
「やめろ! 助けてくれ!! 頼む、お願いだから!! あんたを殺すように言ってきた男はアクア団の幹部だ、奴らの情報を持っている、だから!」
絶叫が石壁に反響する。灯火がゆらゆら揺れる。赤毛が至って柔和に小首を傾げた。
「キミが二週間前に会った男は、幹部ではなくしたっぱだ」
「あっ? そ、そんなはず……ッ、ま、待て、なんで知って……」
「尾行にも気付かないしたっぱ君が、アオギリを思って愚かにも私を消そうと企んだのだろう。それがあの男の逆鱗に触れるとも知らずにね。今頃サメハダーの腹の中じゃないか、ふふふ」
赤毛の口がアオギリの名前をなぞった瞬間、犬はわずかに眉間をしわ寄せたが、たちまち無表情に戻って凍える視線を俺に放った。目の前に仁王立つ。拳は固く握られている。
「つまり、キミの持つ情報には価値がないということだ。だが安心したまえ。キミの身体には価値がある。さきほど言っていた、股がどうとか……なんだったかな? ホムラ」
「『股ぐらだって舐めてやる』」
「そう、そんな下品なことをさせる気はないが、私はよく鳴く犬が好きでね。楽しませてくれ。そうすれば少しは長く……」
「い、嫌だ!!! やめ、助けっ……!!」
「やかましい。マツブサ様のお言葉を遮るな」
容赦ない打撃が頬を襲った。あまりの勢いに拘束糸が引きちぎれ、側頭部から地面に激突する。ぐわんぐわんと世界が揺れる。地面に点々と、光を反射する白い粒が転がっているのが見えた。赤く濡れた白……。歯、俺の歯だ。
這いつくばりながら、拘束が解けて手足が自由になったことに気がついた。一も二もなく逃げなければならなかったが、すくみ上がって震える手をつき、首をわずかに持ち上げるだけで精一杯だった。
「ああ、そんな風に殴るだなんて。拳を痛めてしまうぞ」
「ご心配なく。“仕事”用のグローブです」
「なるほど。お利口さんだな」
箸よりも重いものを持ったことがなさそうな細指が、犬の血管の浮く太い手首を擦っている。男根にねっとりと絡みつく白蛇のようだった。抜けた腰は役に立たない。腹ばいに地を這う。ぶるぶると慄き定まらぬ腕で前へ前へと、未来待つ扉へ進む。
温かい声が俺の背中を縫い止めた。
「こら、私を見ていなさいと言っただろう」
焔と闇の色に包まれた両腕が降りてくる。きめ細やかな肌が、俺の涙を拭って、頬を優しくなぞる。こんな状況にもかかわらず、うっとりと顎をくすぐる指使いに、下腹に熱が溜まりそうだった。横から伸びてきた腕が俺の胸ぐらを掴みあげ、無理やり立ち上がらせる。相変わらず表情には悋気の欠片も浮かべぬ犬が、主人にひたと火焔の瞳を向けている。
「冥土の土産に笑顔を賜るなど、下郎には過ぎた褒美です」
「ふふ。そんなに好き? 私の笑顔」
「大好きですお慕いしています愛していますこの世の何より優れて麗しく慈悲深いマツブサ様のすべてを。一息にはとても表現しきれませんので、あと数日……いえ生涯をかけてお伝えさせていただきますが、まずはこのゴミを片付けないといけないのですよね」
「うんそう。キミ今の聞いたかね? こんな感じで私を好きになってくれたら、死ぬ間際まで満ち足りた気分でいさせてあげられると思うのだが。我ながらいい案じゃないか?そうだ、手でも繋いでいてあげようか」
「ご冗談を」
「そう目くじらを立てるな」
俺だってこれまでに何人かの命を奪ってきたんだ。奪う覚悟も、奪われる覚悟もできていたはずだった。それでも、今から命を奪う相手を前に、相好を崩して朗らかに会話を続けるなんて、こちらまでまともな神経を失ってしまいそうだった。人の皮を被ったおぞましい化け物ども、俺はそんな奴らに手を出して、返り討ちにされるのだ……。
「……しにたくない……」
ぽつりと悲嘆が口から落ちた。両膝が激しく笑う。だが立っている。一縷の望みが俺を宙から吊っている。ホムラと呼ばれた死神は、侮蔑さえこもらぬ冷めた双眸で俺を見下している。赤毛の男、マツブサは、誰を彼をも惹きずりこむ底なしの笑みを湛えて、地獄の釜の縁に立つ人間の行く末をただただじっと見据えていた。そのときになって、ようやく飲み込めた。
ああ、もう、たすからないのだ。
わかっても必死の叫びは腹の底から湧き上がって、自らの鼓膜をつんざいた。
「……っない、しにたく、しにたくないっ、死にたくないぃ!!! ころ、ころさないでッ、殺さないでころさないでころさないで!!!!」
「いいだろう。すぐには殺さない。私だったら一秒でも長くマツブサ様を感じていたいからな。ましてや最期まで笑ってお見送りいただけるなど、嗚呼、貴様はまたとない果報者だ……」
「あ、あっあっあっあああころっ、ころさないでころっ、ォア゛!!!」
目にも留まらぬ強力な一撃が脇腹を抉った。息もできずに激痛に身悶える。男は、背を丸めて転がる俺の頭を足蹴にし、赤毛の方に向かせて踏みにじった。顔中から様々な液体を垂れ流す俺を、穢れとは無縁の慈しみに満ちた笑顔が出迎える。後光さす救いの化身、けれどその手はひとすじの蜘蛛糸を垂らす慈悲もない。
髪を引っ掴まれて上体を持ち上げられる。隣に顔を並べた美丈夫の甘く垂れた双眸が、赤毛の躰にうっとりと孕ませるような視線を捧げて、返す瞳で路傍のゴミでも見るかのようにこちらを一瞥、掴んだ頭部を地に叩きつける。また蹴り転がされて、赤毛の姿を目の当たりにさせられる。
容赦なく振るわれる暴力、笑顔の拝謁を赦される恩寵、繰り返される、死ぬまでずっと。
意味を成さないうめき声が、ぼろぼろと落ちて崩れた。赤毛は、それにすら耳を傾けてくれている。
男が、片足をゆっくりと後ろに引いた。
「光栄に思え、そして出来うる限り生きてその身に刻むといい」
びょうと風をきる音。目の前が真っ赤に染まった。
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犬が拳を振るうたび、俺というちっぽけな人間から、人の尊厳が剥がれ落ちていく。
急所を外されて、殴られ、蹴られ、赤毛の方を向かされる。永遠に続く責め苦の中を、赤毛に見守られるなか、生かされ続ける。信じ難いことに、犬はそれを、これから死にゆく者へのせめてもの手向けと、心からそう捉えているようだった。もしかすると、悪行の合間に善行を積んでいるとさえ思っていたかもしれない。そもそも、悪行だと思っている素振りはなかったが。
気が付くと、黒い革靴が目前にあった。赤毛の足だ。暴力の嵐がすいと止む。ずっと傍観を決め込んでいた赤毛が、屈みこんで俺の両頬を手のひらで包み込んだ。甘やかな笑顔が近づいてくる。この人も俺を殴るんだと絶望に目を瞑ったら、天国のように柔らかい感触が、切れてぼろぼろの唇に重なった。恐る恐る瞼を開く。至近距離で、赤毛がはにかんでいる。「キスしちゃった。ホムラ以外の子と、はじめて」そう言って、淫猥な処女のように頬を染めて、愛する犬に熱い眼差しを注いでいる。もはや怖いものなどない俺も、その視線の先を追いかけてみた。すると。
犬の口元が、激しく引き攣っていた。
初めて表情を崩したなと、なぜだかとても愉快な気持ちになった。
それもすぐに、早く殺して欲しいと縋る心地にとってかわった。
こんなにも執拗に徹底的に、憎悪と殺意のこもった拳を振るわれているというのに、決定打というものは、なかなか与えられないものだ。
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何度目の意識喪失で、何度目の覚醒だったろう。
目の前で、冥府の犬どもがひとつになって蠢いている。
──死体の横でおっぱじめるなよ。急にすっきりと晴れ渡った意識で、ふと思ったのはそんなことだった。自分という存在が床にでろりと、汚泥のように広がっている。しかし、まだ生きていた。死に体と表現するにふさわしい有様でも、かろうじて機能しているらしかった。
どうにもまったくついてない。地獄の責め苦は終わりを迎えたようだというのに、走馬灯さえ過ぎることなく、おぞましい野郎どものセックス(それも騎乗位!)が人生の見納めになるなんて。
獣たちの交尾を見つめる。尻の穴にぶっとい逸物を突っ込まれて揺さぶられているにも関わらず、赤毛の男は恍惚と蕩けた表情で、つんと尖りの主張する胸をなまめかしく反らして快楽を貪っている。横たわる若い男は、身に乗せた痩躯……とはいえ長身の赤毛の腰をがっつり掴んで、下からがんがんに突き上げて雄々しい唸り声をあげている。瑞々しい肉体を玉の汗が伝い落ちるのが見えた。ちょっとしたお散歩ぐらいの感覚で、ご主人様の下からの眺めを満喫しているのだろうか。どんな膂力をした化け物だ。さすが、いちばんに可愛がられる犬の体力は無尽蔵だと、しみじみ思った。
美しい獣の鉄面皮もご主人様の痴態の前には剥がれ落ち、蹂躙しているように見えて、めいっぱい可愛がられてずぶずぶに溺れきっている。それでもなお、もっともっとと際限なく愛をねだって、千切れんばかりに尾を振るグラエナ。それを当然のごとく受け入れて、致死量の愛を注いで可愛がる赤毛のご主人様。
あんな風に己の全てを受け入れられてしまうのは、すべてを奪われるのと変わらない。
心酔、陶酔、手綱を締められて主人になにもかもを捧げるけだもの。俺はそんなやつの、ぴかぴかに輝くご主人様に手を出したのだ。ころされるのも、むりはない……。
震えが止まらない。
痛くて寒くて、残り少ない歯の根があわない。
凍えそうに寒いのに、冷や汗が止まらない。べっとりと水分を含んだ服が重く張り付いている。一衣纏わぬ赤毛の肌は艶やかに紅潮して、しっとりと汗ばみ輝いている。人肌が恋しい。しなやかにくねる美味そうな腰、手を伸ばせば届きそうなのに、腕はちっとも上がりやしない。もはや四肢の感覚すらなかった。いたい。息が苦しい。いたい。いたい? いたいってなんだったろう。
骨の砕けてひしゃげた身から、ひゅうひゅうとか細い息が出る。もはや咽び泣く気力さえなかった。内側からじわじわと終わりに蝕まれていく。
生きた血を全身にほとばしらせる激しい交尾を見せつけられて、淀んだ血を吐き出して冷たい地面に横たわる俺。惨めで、みっともなくて、寂しかった。まぶたを瞑っても、そこにあるのは底なしの暗闇だ。そんな侘びしいものよりは、愛しあう彼らの姿を見ていたかった。
あえかな吐息に喘ぎ、悩ましげに犬の名前を紡ぎながらも、赤毛はかわらず極楽浄土の微笑みをそのおもてにのせている。ずっと、笑ってくれている。
約束、ちゃんと守ってくれるんだ。
俺のこと、幸せにしてくれるんだ……。
ぽろぽろと目から感涙が零れて伝った。篝火のような赤毛が闇を舞う。それはきっと温かいに違いないのに、情熱的に燃える赤糸の隙間から、一千度の愛を失った漆黒の溶岩がぎょろりと俺を射抜いた。
「ホムラ、待て」
いっとう忠実で利口な犬は、ぴたりと腰の動きを止めた。白いうなじをつるりと汗が滑り落ちていく。赤毛が、己を掴む男の手に自らの手のひらを重ねて、ゆっくりと腰を下ろしていく。じれったく前後に揺すってあやし、最奥まで犬を咥え込んだとき、ひときわ艶やかに笑んだ。ずっと、俺に、目を向けたまま。
「驚いた、まだ生きてるぞ。ンっ、ふ、ほむら、お前は、おもちゃで遊ぶのがうまい……ッ、楽しめたか、なあ? っあ、いいっ……」
「は、マツブサ様と睦み合うひとときに、勝るものなどございません」
「ふ、ぁハっ、与え甲斐のない犬だ」
「お情けをかけていただいたあの日から、しゃぶりつくす骨はひとつと決めています」
「っあ、ン……いい子だ。おいで、思う存分味わいなさい」
「っ、マツブサ様っ……」
若い男の胸に、赤毛が蕩けるようにしなだれかかる。性急に腹の上の赤毛ごと身を起こした犬が、放り投げた外套の上に主人を押し倒してのしかかった。余裕も理性も飛ばしたケダモノ、けれどご主人様に触れる手だけは、人を殴り嬲り蹂躙し尽くしたものだとはとても思えないほどに、恭しく慮りに満ちていた。
冷たい石床に、赤髪が乱れ散らばる。脚を掴まれ大きく開かされた男が、重機のような雄にめちゃくちゃに穿たれて、善がりきった嬌声を響き渡らせる。白いうなじがぐっとのけぞる。仰向けに揺さぶられている赤毛の首が、ゆっくりとこちらを向いて、にんまりと嗤った。最期の最期で、これまで見せた優しさを裏切るような、直視するだけで全身が爛れるような笑みだった。
俺のために笑ってくれるんじゃなかったのかよ。そうか、愛犬を見せびらかしたいだけだったんだな……。
地獄の業火、灼熱のマグマは、ひどく冷たい。
人生初の知見を得て、そこで俺の輝かしい人生というやつは、綺麗さっぱり幕を下ろした。
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