home palette
chat
アニホムマツ工場
アニホムマツ工場

No.14

あまいゆめ


 伏せられた睫毛が、ぱち、ぱち、ぱちりと、大義そうに瞬いている。
 おねむですか、なんて意地悪を言えば、愛らしいくちびるがちょんと尖った。

 若葉匂い立つ昼下がり、日光浴をしようと言い出したのはマツブサだった。
 「いいですね」と返したホムラの声はすっかり弾んで、たっぷり作っていたカイスの実のジャムでサンドウィッチでもこしらえようと腰を浮かすと、「今日くらい、私に付き合ってだらだらしなさい」と愛くるしいウインクに止められた。
 そうして、どこに隠していたのだか、きのみが山程入ったバスケットを平らな胸に抱き込んで、そのうち一つをつまんでホムラの厚いくちびるに押し付けたりなんてする。
 「ナゾの実だよ。星の力を持っているのだ」とお顔を輝かせて簡単に言うけれど、ナゾの実といえばホウエンでは滅多とお目にかかれぬ珍品であり、そも、おそらくこれはマツブサ自ら育てたものに違いない。背筋を伸ばし、心して味わおう……と咀嚼するものの、口触りのよさや芳醇な風味より、視界に飛び込んでくる可愛い人のわくわくとこちらを見やる笑顔の方がよほど心に染みこんで、「好きです」と飲み下せない告白をこぼしたら、「そうだろう!とっておきなのだ」なんてますます愛らしく胸を張る。

 そんな一幕があって、青い芝生に二人腰を下ろして自然の恵みをつまみつまみ、澄んだ大空を頂く牧歌的な風景を眺めていたのだが、ぽかぽかとした日差しに彼の身体がゆっくりと傾いていって、しまいにこてんと、大地と一体になってしまった。
 地べたに直接寝転ばれるなんて、と以前なら慌てていただろうホムラも、マツブサが自然や自由や、なにより「肩肘張らない生活」を謳歌しているのだとわかっているので、ただ穏やかに見守っている。
 薫風そよいで、チルットの群れが青空に溶けて流れていった。
 目下の彼はくにゃりと伸びきっている。華奢な胸板がゆっくりと上下しているのを見つめながら、のんびりナゾの実をかじっていると、物欲しげな上目遣いに捕まった。バスケットへ手を伸ばす。違う、と言いたげな真白い指に太ももをつねられた。ひとつ笑って、彼の薄く開いたくちびるのあわいに、一口大の齧りかけを献上する。柔らかなそれをむにゅ、と食んで、つるっと吸い込んだかんばせが、それはもう満足そうにほころぶものだから、ホムラは思わず気の抜けた笑い声を上げた。

 ──マツブサは、あれからすっかり気を張るのをやめてしまった。

 例えば、風に遊ばれてきらきらと輝く赤髪。以前は丁寧にくしけずられていたそれが乱れて顔にかかっても、彼はちっとも気に留める素振りを見せやしないで、その都度ホムラが指でそっとすくって額をなぞり、形良い耳に優しくかけておまけに手櫛で整えたらば、目を細めて「お利口」なんてうっとりと微笑んでみせるのだ。
 『この子はどこまで私に尽くすのだろう』と興味本位で泳がされている気がしないでもないが、薄く染まる目元に作為的なものは見当たらない。なにくれと世話を焼きたがる男のために理由をくれているのだと思って、ホムラも好きにやっている。
 甘やかしているのだか、甘やかされているのだか。……と、まあ、近頃はもっぱらそんな様子で、現にいまのマツブサは、いとけない子どもみたいに、うつらうつらと夢うつつなのを隠しもしない。

「諸々のことを片付けたら、アルトマーレに行きましょう。ゴンドラでゆっくり街を巡って、海沿いのホテルに泊まって、朝から晩までずーっとお天道様を浴びて過ごすんです」
「水の都か……うん、いいな」

 返事はないかと思ったが、むにゃむにゃとぬくもった声が律儀に返した。

「はい。あちらにも守護神とされるポケモンがいるそうですから、もしかしたら会えるかもしれませんね」
「よく知ってるな」
「マツブサ様と色んなことを経験したくて、たくさん調べているのです」
「ふふ……そうか」
「のんびりした街のようなので、腰を据えて過ごしましょう。気ままに美味しいものを楽しんだり、好きなだけ惰眠を貪ったり……。時間に追われることがないと、むしろやれることが多くて大変かもしれませんね。これからは思い切り羽を伸ばして、……、マツブサ様?」

 重厚な石橋の上をあちらこちらへ舞う痩躯、舌鼓を打つ彼の白い手につうと垂れるジェラート、青天よりも晴れやかに破顔して、私の手を引き心をくすぐる彼の喜ぶ姿……、とめどなく湧き上がる想像に夢中になっていたホムラは、いつしか相槌が途絶えていることに気がついた。
 ホムラはそっとくちびるを結んで、隣で横臥しているマツブサを見下ろした。
 そよそよと気持ちの良い風が、赤い前髪を揺らしている。いくぶん伸びた癖っ毛が、閉じられた目蓋の上で優しく舞った。無垢な細面に顔を近づけ見つめてみても、愛しい瞳は瞼の下に隠れたままで、マツブサは本当にまどろみにとらわれてしまったようだった。
 いっそ禁欲的なまでに無防備な寝姿だ。──ホムラは自らが夢見がちであることを重々承知しているが、現のマツブサは己の夢想など及ぶべくもないということも、こうしてよく知っている。
 堅苦しい詰襟から解き放たれた、鎖骨まであらわな生白い頸すじ。つるりと男を手招きするそこに指を伸ばしかけ、肌理細やかなその流線上に新緑の影が踊るのを見て、不埒な心と一緒に指を引っ込めた。
 ホムラはひとりぽつねんと静けさの中に取り残されて、一度、二度の瞬きののち、自分もごろんと寝転んだ。改めて彼の方に向き直る。くうくうと静かに寝息をもらす表情には険がなく、夢を追いかけていた頃の何倍も穏やかに見えた。

 ――「なにも無くなってしまった」。
 グラードンが彼方へ立ち去るのを見届けたあの時、マツブサはかすかにそう呟いて、すぐ後ろにホムラが立っているのに気が付くと、バツが悪そうに「冗談だよ」と美しく笑った。
 ホムラは、それが軽口だなどと信じていない。彼はあれきり失意も諦念もあらわにすることはなかったが、それでも、心にぽっかりと穴の空いているであろうことは、彼を恋い慕う男としてわかっているつもりだ。

 もしも願いが届くのならば、どうか温かい夢でありますように。

 安らぎを感じさせる寝顔は、ホムラの胸にぽかぽかと沁みこんだ。けれど同時に、夢の中でしか安寧を享受できない彼の不器用さを、少しばかり歯がゆくも感じた。
 ホムラはゆっくり目蓋を閉じた。薄い瞼の向こう側で、木漏れ日がちらりちらりと揺れている。
 なにも今、急いですべてを満たそうとする必要はないのだ。これまでも、これからも、マツブサはずっと手の届く場所にいる。ホムラにとって、共に過ごす未来は希望に満ちていて、終わりなどないように感じられた。
 目を閉じたまま、そっと指先を伸ばしてみる。触れた先の柔らかい感触は、マツブサの滑らかな手のひらだ。それは世界を沈める冷たさでもなく、星を飲み込む灼熱でもなく、実に心地よい温もりでホムラの指先と溶け合った。
 きゅうと握りしめてみる。いらえはない。けれど、ン、……と鼻に抜けた声が蜜のように甘く蕩けて落ちたものだから、たまらない心地になって、引き寄せた手の甲にくちびるを押し付けた。柔肌を伝って、指を優しく絡ませる。その仕草が幼子のようなのか、恋い焦がれる男のようなのか、自分ではとんとわからないけれど、きっと彼に聞いたって答えてはくれない気がした。
 とっぷりと睡魔に浸りゆく中、ホムラは『心に穴が空いたなら、私で満たしてしまえばよいのだ。アルトマーレだろうと、どこに行こうと、この人をめいっぱい幸せにして差し上げよう。そうして、何度だって忠誠を……いいや、これからはとこしえに愛を誓うのだ』と思いつき、ふにゃりと相好を崩して、マツブサを追いかけるように夢の世界へ誘われていった。




back