おやすみ 星の降る静かな夜を、俊馬のように駆ける愛車が切り裂いていく。 木々の隙間からこぼれる星屑は限りなく、冴え冴えとした光の群生は幻想的ですらある。 地に足の着いたまなこでは天の国など見出せず、そのようなところが実在せずとも構わなかった。 確かなことは、ホムラは今こじんまりとした新居への帰路を急いでいるのであって、一刻も早く会いたい相手は空の向こうにはおらず、地続きのそこで待っているということだけだ。 山道を行き、木々の間を走り抜け、真っ向から浴びる風は春の気配を含んでいる。 ヘッドライトと星光だけが頼りの道のりもずいぶん慣れてきた。シャワーを浴びた紫髪も突っ切る夜風ですっかり乾いて、踊る毛先が宙に残像の糸を引いている。 ――もうすぐ会える。そう思うと、浮足立って口端は緩み、スピードはぐんぐん加速する。 そうして流星よろしく飛ばしていたら、とつぜん空高く伸びる木立が途切れて、開けた空間いっぱいに満天の星が広がった。 幾星霜の明滅に覆われて、星明かりに浮かぶ建物を認めてじわりと減速、急ぎ足で停車する。見事な夜景も待ち人の前では霞むほど、はやる気持ちが体を追い越し玄関へと走り出す。ああ、口酸っぱく言われているスタンドパッドを忘れずに。 夜露に濡れた雑草を踏み分けて、性急にドアノブへと手をかける。もちろんチャイムは鳴らさない。なぜならホムラは、いつでも自由にあの人のもとへ帰る権利を手に入れている。 家主は二人。片割れそのいち、ホムラ様のお帰りだ。 ――惚れ抜いた末に差し伸べた手がいくら届かぬものであろうと、マツブサはホムラのしるべであった。 そも、彼がまだホムラの世界の頂点であった頃、その背中は雲間からもれる光線のように神々しく、彼方を照らす希望であった。夢も野望も大義さえ打ち砕かれた今、正面切って向き合った彼から輝きが失われたかというと、実のところそうでもない。むしろ、ホムラにとっては長い夜を明かしてようやく兆した曙のようにも見えるのだ。遥かあまねく世を射抜く光芒ではなく、優しく明けの陽光をこちらに導く、そんな大切な存在に。 そして、美しい東雲は今宵もまた、ホムラの恋慕を素知らぬ顔で受け止める。 闇夜に沈んだ室内に、薄く開いた扉から仄かな光が差し込んだ。滲む人影が足音も立てずに忍びこみ、扉を閉めて真っ暗闇を取り戻す。 ――『ただいまは必ず言うこと。そうでないと、寂しいからな』。愛しい笑顔と共に思い浮かんだ決まり事、ホムラは律儀に守りぬいている。 迷いない足取りでベッドサイドへと近寄ると、こんもりと膨らんだ布団をついと撫で、面映い囁き声をそうっと落とした。 「ただいま帰りました、マツブサ様」 「…………んン」 「ふふ。ぽかぽかしていますね」 「う」 長い四肢を折りたたんだ男がくるまる布団に、断りもなく潜り込む。クイーンサイズのベッドは軋んで、美しい人の唸り声をかき消した。 シーツの上に散らばる寝乱れ髪を指で梳く。咎めるつもりで伸ばされたのであろう手のひらは、ホムラの頬をゆるりと撫でて力尽き、重力に従いぱたりと落ちた。思わず笑えば、むにゃむにゃと小言のような呪文のような、やはり寝言に近いそれが布団の中で二人の間にわだかまる。 「マツブサ様、もっと寄ってもよろしいですか?」 「んや……んんう」 「はは、なんでしょうかそのお返事は」 ゆるくかぶりを振る気配があって、温もりの中でこもった衣擦れの音がした。けれど嫌がる素振りは建前で、存外寒がりな彼は人肌に寄り添って寝るのがお気に入りだと、ホムラはとうの昔に知っている。 ホムラは忍び笑いもほどほどに、ぐずる年上の彼にそうっと寄り添った。薄く柔らかい胸に優しく顔を埋める。抱きしめているともすがりついているともとれる絶妙な引っ付き加減は、子どもの頃に夜ごと繰り返していたもので、こればかりは彼も無碍に扱えないということをわかった上で、やっている。 その証拠に、美しい人の右手はうろうろと彷徨って、終いには大きな子どもの背中をそうっと抱きしめ返し、早く寝なさいとばかりにぽんぽんと穏やかにリズムを刻んだ。夢と現実の狭間をたゆたう今の彼からすれば、腕の中のホムラは幼く庇護すべき男の子なのであろうが、ホムラ自身も親愛の情もあれから優に育ちに育って、健全な肉体には歳相応に邪な想いも満ち満ちている。 「はー……マツブサ様」 「ん」 「疲れました……」 「ム」 大きく息を吸い込むと、彼の胸部からはほのかに石鹸の香りがした。ホムラは誘われるままに、寝間着の上から乳房――この魅力的な部位はそう呼ぶに相応しい――の輪郭をくちびるでゆるやかに辿っていった。そこはぴくりとさざめいて、「ンぅ、」という鼻に抜けた声が聞こえたが、彼はホムラの際どい仕草を幼い所作として許容することに決めたようだった。保護者然とした手のひらが紫髪を二度三度撫で回し、ホムラの鼻先はますます魅惑の谷間に沈んでいった。 密着したところから、とくん、とくんと、鼓動がやわらかく染みこんでいく。まるで一つになったよう、と言うには少し、隔てる布地が邪魔をした。未だ「子ども」の枠に収められているホムラにとって、薄布一枚隔てた素肌はとても遠い存在だ。 しかし、男として意識されていない分、マツブサの油断、もとい付け入る隙は実に大きい。 この麗しい想い人を陥落させると心に誓ったその日から、ホムラの恋心は希望に満ちて、下心は夢に満ち満ちていた。 温かくて、華奢で、口に含めば溶けてしまいそうな彼の胸を、乳飲み子の手振りで揉みしだく。ふと、つむじにあえかな吐息を感じた。それはどうやら寝息ではなく、呆れと羞恥をのせた溜め息のようだった。 「ふ……」 「ん。きもちいです……」 「ほむ、ら」 滑らかな指先が頬をつねる。寝ぼけた仕草と掠れた声は男心を奮起させ、それでいて押しとどめるには十分な威力があった。 「ほむら……」 「はっ。すみません、もう寝ます」 心ゆくまで堪能したいところだが、彼の夢入りを台無しにするのは本意ではない。おとなしく平らな胸にくっついて、眠気が訪れるのを待つことにした。 伝わる心音に耳をそばだてる。熱い息をひとつ落として、ぬくもりにとぷんと身を浸していく。 「おやすみなさい、マツブサ様」 「おやすみ……ホムラ」 幾重もの鎧を脱ぎ去って、夢も目標も失って、けれどこちらを呼ぶ声はずっと昔から変わらずに、ホムラの心を真綿でくるむ。 美しい人が奏でるいのちのリズムはホムラを優しく包み込み、優しく絆して温かなまどろみへと導いていった。 favorite いいね THANK YOU!! THANK YOU!! とっても励みになります! back 2025.10.6(Mon)
星の降る静かな夜を、俊馬のように駆ける愛車が切り裂いていく。
木々の隙間からこぼれる星屑は限りなく、冴え冴えとした光の群生は幻想的ですらある。
地に足の着いたまなこでは天の国など見出せず、そのようなところが実在せずとも構わなかった。
確かなことは、ホムラは今こじんまりとした新居への帰路を急いでいるのであって、一刻も早く会いたい相手は空の向こうにはおらず、地続きのそこで待っているということだけだ。
山道を行き、木々の間を走り抜け、真っ向から浴びる風は春の気配を含んでいる。
ヘッドライトと星光だけが頼りの道のりもずいぶん慣れてきた。シャワーを浴びた紫髪も突っ切る夜風ですっかり乾いて、踊る毛先が宙に残像の糸を引いている。
――もうすぐ会える。そう思うと、浮足立って口端は緩み、スピードはぐんぐん加速する。
そうして流星よろしく飛ばしていたら、とつぜん空高く伸びる木立が途切れて、開けた空間いっぱいに満天の星が広がった。
幾星霜の明滅に覆われて、星明かりに浮かぶ建物を認めてじわりと減速、急ぎ足で停車する。見事な夜景も待ち人の前では霞むほど、はやる気持ちが体を追い越し玄関へと走り出す。ああ、口酸っぱく言われているスタンドパッドを忘れずに。
夜露に濡れた雑草を踏み分けて、性急にドアノブへと手をかける。もちろんチャイムは鳴らさない。なぜならホムラは、いつでも自由にあの人のもとへ帰る権利を手に入れている。
家主は二人。片割れそのいち、ホムラ様のお帰りだ。
――惚れ抜いた末に差し伸べた手がいくら届かぬものであろうと、マツブサはホムラのしるべであった。
そも、彼がまだホムラの世界の頂点であった頃、その背中は雲間からもれる光線のように神々しく、彼方を照らす希望であった。夢も野望も大義さえ打ち砕かれた今、正面切って向き合った彼から輝きが失われたかというと、実のところそうでもない。むしろ、ホムラにとっては長い夜を明かしてようやく兆した曙のようにも見えるのだ。遥かあまねく世を射抜く光芒ではなく、優しく明けの陽光をこちらに導く、そんな大切な存在に。
そして、美しい東雲は今宵もまた、ホムラの恋慕を素知らぬ顔で受け止める。
闇夜に沈んだ室内に、薄く開いた扉から仄かな光が差し込んだ。滲む人影が足音も立てずに忍びこみ、扉を閉めて真っ暗闇を取り戻す。
――『ただいまは必ず言うこと。そうでないと、寂しいからな』。愛しい笑顔と共に思い浮かんだ決まり事、ホムラは律儀に守りぬいている。
迷いない足取りでベッドサイドへと近寄ると、こんもりと膨らんだ布団をついと撫で、面映い囁き声をそうっと落とした。
「ただいま帰りました、マツブサ様」
「…………んン」
「ふふ。ぽかぽかしていますね」
「う」
長い四肢を折りたたんだ男がくるまる布団に、断りもなく潜り込む。クイーンサイズのベッドは軋んで、美しい人の唸り声をかき消した。
シーツの上に散らばる寝乱れ髪を指で梳く。咎めるつもりで伸ばされたのであろう手のひらは、ホムラの頬をゆるりと撫でて力尽き、重力に従いぱたりと落ちた。思わず笑えば、むにゃむにゃと小言のような呪文のような、やはり寝言に近いそれが布団の中で二人の間にわだかまる。
「マツブサ様、もっと寄ってもよろしいですか?」
「んや……んんう」
「はは、なんでしょうかそのお返事は」
ゆるくかぶりを振る気配があって、温もりの中でこもった衣擦れの音がした。けれど嫌がる素振りは建前で、存外寒がりな彼は人肌に寄り添って寝るのがお気に入りだと、ホムラはとうの昔に知っている。
ホムラは忍び笑いもほどほどに、ぐずる年上の彼にそうっと寄り添った。薄く柔らかい胸に優しく顔を埋める。抱きしめているともすがりついているともとれる絶妙な引っ付き加減は、子どもの頃に夜ごと繰り返していたもので、こればかりは彼も無碍に扱えないということをわかった上で、やっている。
その証拠に、美しい人の右手はうろうろと彷徨って、終いには大きな子どもの背中をそうっと抱きしめ返し、早く寝なさいとばかりにぽんぽんと穏やかにリズムを刻んだ。夢と現実の狭間をたゆたう今の彼からすれば、腕の中のホムラは幼く庇護すべき男の子なのであろうが、ホムラ自身も親愛の情もあれから優に育ちに育って、健全な肉体には歳相応に邪な想いも満ち満ちている。
「はー……マツブサ様」
「ん」
「疲れました……」
「ム」
大きく息を吸い込むと、彼の胸部からはほのかに石鹸の香りがした。ホムラは誘われるままに、寝間着の上から乳房――この魅力的な部位はそう呼ぶに相応しい――の輪郭をくちびるでゆるやかに辿っていった。そこはぴくりとさざめいて、「ンぅ、」という鼻に抜けた声が聞こえたが、彼はホムラの際どい仕草を幼い所作として許容することに決めたようだった。保護者然とした手のひらが紫髪を二度三度撫で回し、ホムラの鼻先はますます魅惑の谷間に沈んでいった。
密着したところから、とくん、とくんと、鼓動がやわらかく染みこんでいく。まるで一つになったよう、と言うには少し、隔てる布地が邪魔をした。未だ「子ども」の枠に収められているホムラにとって、薄布一枚隔てた素肌はとても遠い存在だ。
しかし、男として意識されていない分、マツブサの油断、もとい付け入る隙は実に大きい。
この麗しい想い人を陥落させると心に誓ったその日から、ホムラの恋心は希望に満ちて、下心は夢に満ち満ちていた。
温かくて、華奢で、口に含めば溶けてしまいそうな彼の胸を、乳飲み子の手振りで揉みしだく。ふと、つむじにあえかな吐息を感じた。それはどうやら寝息ではなく、呆れと羞恥をのせた溜め息のようだった。
「ふ……」
「ん。きもちいです……」
「ほむ、ら」
滑らかな指先が頬をつねる。寝ぼけた仕草と掠れた声は男心を奮起させ、それでいて押しとどめるには十分な威力があった。
「ほむら……」
「はっ。すみません、もう寝ます」
心ゆくまで堪能したいところだが、彼の夢入りを台無しにするのは本意ではない。おとなしく平らな胸にくっついて、眠気が訪れるのを待つことにした。
伝わる心音に耳をそばだてる。熱い息をひとつ落として、ぬくもりにとぷんと身を浸していく。
「おやすみなさい、マツブサ様」
「おやすみ……ホムラ」
幾重もの鎧を脱ぎ去って、夢も目標も失って、けれどこちらを呼ぶ声はずっと昔から変わらずに、ホムラの心を真綿でくるむ。
美しい人が奏でるいのちのリズムはホムラを優しく包み込み、優しく絆して温かなまどろみへと導いていった。
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