home palette
chat
アニホムマツ工場
アニホムマツ工場

No.10

一生私だけのグラエナ


 煮えつくような夏の日、ホムラは畢生の主君に出会った。

 青雲は足早に流れゆき、熱風が肌を撫でていく。
 大小の石にとられる歩みは遅く、未だ遠い山頂を背にして振り返った麓の町並みは、さほど彼方へ離れていなかった。
 太陽照りつける活火山、それもロープーウェイの張られた山など、徒歩で登り始めるものではない。
 ホムラは深い溜息をついた。
 えんとつ山には元来さほど興味もない。好き好んで登ろうはずもなく、背に重くのしかかる遺恨を断ち切るために、お天道様へ伸びる道をひたすらに歩き続けていたのだった。
 ふと、腰に下げたホルダー上でモンスターボールが揺れた。透ける赤色越しに、相棒のグラエナが何か言いたそうにこちらを見上げている。この暑さだ、他にトレーナーの影もなく、ボールに入れたまま数時間は経っただろうか。彼がポチエナの頃からずっと一緒にいる仲だ、隣り合って進めばきっと楽しい旅路になった。けれど、自慢の毛皮に覆われた彼を、灼熱地獄に道連れにはしたくなかった。
 顎を大粒の汗が流れていった。再びボールが揺れる。暑さに参っているホムラを案じているのかと思い、安心させるように笑いかけたが、とうのグラエナは目もくれず、前方に向かって牙をむいていた。
 視界の端に黄色が映える。首を巡らすと、そこには――のんびり寝そべるドンメルがいた。
 沈んだ気持ちがほのかに上向く。こちらに気づいた様子はなく、ぐっすりと寝入っているようだった。手持ちが増えれば気分も晴れようと、片手に空のボールを構える。弱らせるまでもないこの無防備さ、一発で捕まえられれば万々歳だ。
 意気揚々と振りかぶった、その瞬間。
 低く涼やかな声が、真昼の空気を凛と覚ました。

「待ちなさい。その子は私のものだ」
「!?」

 ――空振った!
 慌てて振り返る。果たしてホムラの手元を狂わせた何者かは、十数メートルほど離れた所に立っていた。
腰に手を添え、こちらを見据える細身の男。一見して、とても派手な出で立ちだった。
 肌をさす陽射しのもと、いかにも暑苦しい焔色の長衣を見につけて、汗ひとつ浮かべていない。服の上からなだらかな線を描く細腰を視線でなぞりあげると、きちりと上まで詰められた襟の上、几帳面に整えられた燃えるような赤毛が鮮やかに目に映った。そして、ひたとこちらを貫く強いまなざしに見惚れて、ホムラはその場に縫い止められた。
 自信あふれる、人の上に立つ者の佇まいだ。美しい、と思った。出会ったばかりにも関わらず、男の気品に満ちた眩さに、心までくらんでしまう心地がした。
 この人を捕まえたい。ドンメルを見つけた時の高揚と比ぶべくもない衝動が口まで出かかったいよいよそのとき、まぶたを伝い落ちた汗が美しい男の姿を滲ませて、ホムラを正気に立ち返らせた。
 頭を振って睨めつける。とても横取りなぞする無法者には見えないが、不躾にも相手は先ほどドンメルを自分の獲物と宣った。見つけたのは己が先だ。いちトレーナーの誇りにかけて、譲るわけにはいかなかった。

「わたしません!」
「……ふむ」

 相棒の入ったボールを手に、じりと両足を開いて構える。
 雰囲気だけみれば、赤い男は手練に見える。どんなポケモンを繰り出すだろう、果たして自分に勝機はあるか……。
 手のひらがじとりと湿った。静かに佇んでいた男が、無言のまま脚を踏み出した。
 じゃり、ざり、山道に不似合いな磨きぬかれた革靴が、こちらに一歩、また一歩と近づいてくる。敵意を感じさせない足取りで、けれど眼差しはホムラを呑んでしまうほどに燃えている。
 ふと、彼の美しい瞳が細められ、くちびるが涼やかに弧を描いた。王者のしるしとはかくあるべしというような、相対する若者を怯ませるには過ぎた仕草だった。
 ひときわ大きな足音が間近に響いて我に返れば、相手の端正な顔つきがつぶさに観察できるほど、距離を詰められていた。息もできずに心奪われる。
 ボールごとホムラの手を包むように、細い指がそっと覆いかぶさった。

「人のものをとったら泥棒。君は、悪い子かな?」
「……は?」
「大切な子だ。捕まえられたら困ってしまう」

 くすくすと甘い声が耳に届いた。笑い方まで優雅な方だ、と余韻に浸る間もなく、言葉の意味を理解して一気に血の気が引いた。
 男と一匹を交互に見やる。この状況でなおくつろぐ鈍感ポケモン、こいつはまさか野生ではなく……。

「こ、このドンメルは、もしかしてあなたの……」
「うん? そうだとも。言ったろう、私の子だよ」
「し、失礼しました! 野生と勘違いを……!」
「おや、そうだったのか」

 勢いよく上半身を折り曲げる。ボタボタと地に落ちたのは冷や汗だろうか、それほどまでに底冷えした心地で、それでもうっとりとなぞられた五指は熱を持つようだった。たおやかな指は宙をなぞって、彼の腰元へ帰って……いかずに、口元に運ばれたようにも見えたが、謝意を示す最中に確かめるべくもない。

「外に出していたのが紛らわしかったかな。こちらこそすまないね」
「いえ! 本当に、とんだ失礼を」
「そう畏まらないでいい。顔を上げたまえ」

 深々と下げた頭にかかる声はどこまでも温かい。あまりの失態に頭を垂れたまま彼の靴先を見つめていると、長衣の裾を食んでいるドンメルと目があった。いつの間に目を覚ましたのか、無表情に裾をもぐもぐと咀嚼して、男もそれを止めることなく遊ばせている。ドンメルの堂々たる立ち振る舞いがある意味では男そっくりで、緊張が少しだけ和らいだ。

「ふふ、もう気にするな。勘違いならしかたがない。だろう?」
「は……申し訳ありません」

 恐る恐る顔を上げると、にっこりと花咲く笑顔が視界に飛び込んだ。ちょいと小首を傾げて、上目遣いにホムラを見ている。

 ……可憐だ……。

 心臓に深手を負った。無礼を働いたトレーナーに対して怒気のかけらもなく、燃ゆる瞳にはいまや慮りの色さえ浮かべて、なんと寛大で愛らしい人だろう。
 手にしたボールを腰のホルダーに戻す。さきほど中のグラエナが見えたのだろう、「美しい子だ」と、それこそ美しく在る彼が慈しむように呟いた。

「グラエナを連れているトレーナーに悪人はいない。私の持論だ」
「そ、れは……いえ、ありがとうございます」
「そうだ、君の自慢の子とポケモンバトル! ……といきたいところだが、今の手持ちはこの子だけでね。むやみに弱らせたくはない」

 照れた風に頬をかく様もまた麗しい。緊張をほぐそうと配慮してくれているのに気が付いて、ますます心打たれたホムラはすっかりこの人に参ってしまった。

「手持ち一匹でこんなところまで?」
「ゴールドスプレーをたくさん撒いてきた。効果覿面だ」
「どうりで野生のポケモンを見かけないと……。それは周囲に撒くものではなく、ご自身の身体にかけるものですよ」
「そうなのか。物知りなんだな、君は」
「いえ……」

 トレーナーなら知っていて当然だ、と返そうとして、湧き上がった不自然さを飲み下せずに言い淀んだ。
 そんなことも知らないトレーナーが、ロープーウェイも利用せず、わざわざ危険な山道を登るものだろうか。人っ子一人見ぬ炎天下、登山に縁遠い革靴で、そもそもホムラを諌めた時だって、この人は突然現れたように見えた……。
 口をつぐんだホムラをよそに、彼はすらりと高い背をかがめてドンメルの頭を撫ではじめた。優しくポケモンを愛でる手つきに、なんだかいけないものを見ているような気になって、けれど桜色の爪をのせたたおやかな指に惹きつけられて、視線をそらすことも能わない。所作ひとつとっても幽艶だ。そんな人が荒々しい火山道にひとり佇む姿は、いっそ薄気味悪ささえ感じるようだった。

「こんなところで、何をなさっていたのですか」
「君の方こそ。……と言いたいところだが、まあいい」

 怪しいのはお互い様だ、と続いた言葉にドキリとする。いぶかしむ気持ちがお見通しだったことにも、素性を探るような返しにも、咄嗟に言葉を返せなかった。けれど彼は相も変わらず気にした様子を見せないで、ドンメルに向けていた微笑みをそのままこちらへ投げて寄越した。

「ひみつきち」
「え」
「掘ってみたのだ。君にもあるだろう、ひみつきち」

 ひみつきち……。
 高貴さを漂わせる男にはまるで似合わない代物だが、幼い頃ぬいぐるみやらを持ち込んでは遊んでいた、あれのことだろうか。上品な唇が紡いだ幼稚な響きがかえって淫猥な印象を抱かせて、なんだか尻の座りが悪い。

「はあ、昔木の上に作ったような気もしますが……こんな山の中に?」
「こんな山の中にだ。うまくできたのだが、このままでは君に見つかってしまいそうだなぁ」
「このあたりですか」
「どうだろう」
「あ。……もしかして、あそこの隙間」

 男の肩越しに臨む積み重なった巨岩群、そこにバクーダが通れそうな程の大穴を見つけた。奥の様子は窺い知れないが、周囲を見るに中はそこそこの広さがありそうだ。

「もう見つけたのか? 目がいいのだね」
「うーん。いえ、あれ隠す気ありますか?」
「あんまりないよ」

 明け透けな様子に肩透かしをくらった気持ちで視線を向けると、にこりと笑みを返された。邪気も裏表もなさそうで、それがかえって、どうにも怪しい。
 見つけてくれと言わんばかりに空いた穴。男の「ひみつ」に食いついて足を踏み入れた途端、ウツボットのようにぱくりとひとのみにされるのだろうか。物盗りには見えないが、なんにしたって弱者を狙えばいいものの、自分より体格の優れた男を誘い込む意味、そんなの、そんなのは……。
 ひみつきち、暴いてしまって、よいのだろうか。
 ちらと誘うような流し目を受けて、好奇心が膨れ上がった。ごくりとつばを飲む音に、男の柔らかな声音が被さった。

「よかったら招待しよう。ついておいで」
「ぜひ」

 外面もなく即答した。彼は目を瞬かせて、そうか、と嬉しそうにひとつ頷いた。ドンメルが胡乱げな顔でホムラを見上げている。誘ってくれたのは君のおやなのだから、何らやましいところはない。……はずだ、と、目配せしてみたが、通じているのだかどうだか。そいつは新たに仲間に加わったホムラに鼻を鳴らして、自らのおやを先導するようにぽてぽてと歩き出した。
 行こう、と男が言って、赤衣をひるがえす。しゃんと伸びた背筋が、相変わらず場違いに涼しげだった。
 ゆっくりとした足取りに着いていく。怪しすぎる誘いだが、この人に迎え入れてもらいたいという気持ちが勝った。
 男の名前を、男のことをもっと知りたい。逸る心が踊りに踊って、ホムラの足を進ませる。

「あの、あなたは」

 言いかけて、前を歩く男がこちらを振り返ったとき、突風が身体を打った。
 丁寧にくしけずられた赤い髪が、風にすくわれ宙を舞う。思わず見蕩れていると、彼の長衣の裾が風に煽られて大きくはためき、細い足がたたらを踏んでぐらりとよろけた。

「危ない!」

 考えるより先に体が動いた。とっさに駆け寄り、正面から強く抱きとめる。ぎゅうと両腕にしまいこんだ痩躯は見た目よりはるかに華奢で、ホムラは内心大いにたじろいだ。このまま手を離せばすぐさま風にさらわれてしまいそうで、恐ろしさが額の火照りを少し冷ました。

「助かった、礼を言う」
「……いえ」

 威厳を感じさせる物言いで、ホムラにすがりつく腕は幼子のようにか弱い。人を、ましてや男性を儚いと感じるのは初めてだった。こんな細腕でトレーナーが務まるのか、という逡巡より強く、守って差し上げたいと、本能が囁いた。ホムラは、急に芽生えた己の気持ちに困惑した。ただ、未だ風がびょうびょうと吹きすさぶなか、この人を手離すわけにはいかない。それだけは確かだった。
 ふと、背に柔らかなものが置かれたのを感じた。彼が背中に腕をまわしたのだろう。感謝の意でも込めているのか、ひとつ、ふたつ、するすると優しく撫ぜられる。今更になって、ホムラは自分が汗だくに濡れそぼっていることを恥ずかしく感じた。薄手のシャツはすっかり背中に張り付いている。不快だろうに、麗人の手のひらは何の惑いも見せず、濡れた背の上をゆっくりと往復している。
 所在なく彼の顔を見返すと、赤髪の男はおよそ庇護されるべき弱さの感じられない顔つきで、よくできましたと愛おしむように、ホムラだけをその瞳に映して微笑んでいた。

「君はいい子だ。過ちを詫びることができ、人を助けることもできる。私はそういう人間が大好きだ」
「は……」

 どくんと鼓動が高鳴った。思わず、抱きとめる腕に力が入る。男は抗わず、それどころかホムラの汗みどろの首筋にくちびるをすり寄せて、あえかな吐息で若い雄をくすぐった。

「ふふ、すっかり心奪われてしまった。きみ、名はなんと言う?」
「……ホムラ、です」
「そうか。よい名前だね。私はマツブサ」
「マツブサさま……」

 爆発的に暴れる鼓動はきっととうに伝わっている。それでも、極上の彼は腕の中、隙間なく密着したままだ。吐息の触れたところから血潮がガンガンと燃え上がり、逸る気持ちを抑えられずに呼吸が荒くなっていく。
 そんな興奮する若者の濡れた首筋に、マツブサはやわいくちびるをぺとりとくっつけて、ちろ、と、熱い熱い小さな舌で、すくうように舐めあげた。

「っ……!!!」
「ん? しょっぱくない」
「なっ、い、いきなり、なにをなさって……!」
「ふむ。滴るほどだから、どんなものかと思ったが……」

 うちゅ。首筋を食まれる。一回では飽きたらず、彼の舌が大胆にホムラの首筋をねぶりだした。全身がビリリと麻痺したように動けない。楚々としたくちびるが、鎖骨から、赤く染まった耳の下まで優しくなぞり上げていく。太陽が、空気が、彼に舐められた素肌が、轟々と燃えている。
 震える手をマツブサの後頭部にまわすも、撫でるような弱々しさで御髪をくしゃりと掴むことしかできなかった。

「親愛の証に。ポチエナがよくやるだろう。知らないかね」

 ポチエナがこんないやらしい舐め方をするものか!
 声にならぬ声を上げたホムラの耳の付け根に、ちゅうと軽いリップ音を立てて唇が吸い付いた。肩が跳ねる。ご丁寧に背伸びしてまですがりついてきたマツブサが「こんなふうに」と呟いて、それはそれは熱く甘ぁく耳朶に噛みついた。

 きゅうしょにあたった!こうかはばつぐんだ!

 変態だ!!と騒ぎ立てる心と、遊び心がお強い方なのだ!!と庇い立てる心がぶつかりあって、とにかくエッチだ万歳!!!という万雷の勝ち鬨がホムラの脳裏いっぱいに轟いた。

「マツブサさま!!」
「んぅ」

 好き勝手にあぐあぐと耳を食む彼を引っぺがす。きょとんとした表情に毒気を抜かれる前に、襟から生える細いうなじにかじりついた。

「わっ……こら」
「グラエナの親愛の証をお返しします」

 頬をくすぐる襟足をかき分けて、うなじから耳の裏まで、一切の遠慮なくねぶって味わう。仄かに感じた石鹸の香りは甘露めいて、ますますホムラを昂ぶらせた。自分から仕掛けてきたくせに、マツブサは戸惑った様子でホムラの背をぎゅうと握って息を詰めている。逃げを打たれないよう両腕で柳腰を引き寄せて、真白いうなじに歯型が残るほど強く噛みついた。「んっ」とかすかな嬌声があがる。白い肌が淫靡に紅潮していくさまにホムラは笑みを深くして、打って変わって優しくついばむように何度も何度も口付けた。

「っあ、くすぐったい、ホムラ……」
「マツブサさま……」

 しっぺ返しを食らわすように、執拗に肌理細かな素肌を堪能する。親愛などという言い訳が立たぬほど口づけを降らせ、強く吸い上げ痕をつけても、マツブサは喘ぎ声をあげて身動ぐだけで、ろくな抵抗を見せなかった。それどころか首を大きく傾けて喉元を晒すさまは、もっともっとと男を誘っているかのようだ。

「あ、ホムラっ……、も、もういい……っ」

 今にもとろけてしまいそうな吐息が耳をくすぐった。抱きすくめた躰は羞恥に震えており、けれど両腕は広い背に縋り付いたままで、やめないでと請われているようにしか思えない。

「いけません。まだです、マツブサさま」
「んっ……、も、しつこいっ……!」
「ご存知でしょう。それがグラエナのいいところです」

 ボールの中のグラエナは、きっとホムラの突然の求愛行動に呆れ返っていることだろう。
 ホムラはきつく首筋に吸い付き、一旦唇を離してマツブサの痴態を眺めてみることにした。ひどく恥じ入った様子で閉ざされた瞼に反して、薄く開いた唇からはとても美味しそうにぬかるんだ赤色がのぞいている。指を突っ込んでみたらわけもわからずしゃぶってくれそうだ。
 そんなことを考えていたら、攻勢がやんだと思ったのか、そろりそろりと彼のまつ毛が持ち上がった。徐々に姿をあらわす潤んだ瞳に、可愛い人だな、と思って、微かに兆した己のものを彼の股間に押し付ける。途端にマツブサの目がぎょっと見開かれて、視線が交差したのを合図にホムラは彼の唇を奪った。

「んぅ! ん!」
「ふ……」

 太い腕で彼をがっちり抱き寄せ密着する。身体はさすがに柔らかいとはいかないものの、あわせた唇は極上のくちどけでホムラの熱を抱きとめた。薄いがふにふにと柔らかい感触を楽しむように、ふたつみっつ啄むようなキスをする。マツブサが不慣れなのは一目瞭然だが、抗い方さえ知らないらしく、のけぞる頭を掴んでしまえば、この非力なひとは若い男の陵辱から逃れる術を持たないようだった。
 無防備にも目をつむったままの彼の下唇を己の唇で優しく食む。吐息とともに開いた隙間にそろりと舌で押し入って、ひときわ戦慄いた身体に拒む隙を与えぬうちに、一気にぬるりと侵入を果たした。

「ア、んふ、ぅっ!?」

 腕の中の身体がびくびくと震える。いとも容易くホムラの熱を迎え入れた口腔は負けず劣らず甘い熱に満ちており、うぶな舌がホムラの舌に絡んで濡れた音を立てた。こんらんしきって伸ばされた舌を優しく吸う。驚いたのかすぐに逃げ帰られてしまったが、そのまま裏側を辿って絡めあい、歯茎を撫でるように刺激する。

「んっ、ン、んむ! は、ァあ……っ!? ふぁ」

 腰を押し付け揺らしながら、マツブサの上顎を舌先でくすぐると、凄まじく感じ入った嬌声があがった。これほど気持ちよさそうに鳴かれると男冥利に尽きるな、と思う自分もまた、快楽を享受するマツブサに骨を抜かれかけている。
 一度口を離して唇を食むと、「ん、んっ……」と鼻にかかった声が漏れて、ホムラは改めてマツブサのなかに舌を差し入れた。燃える内側はホムラを歓迎するように濡れそぼり、若い雄はますます昂ぶりを増していく。

「ふぁ、あっ、あ、はぁっ……んむっ、」
「ん、……っは」

 鼻で呼吸することもままならないのか、マツブサは激しく息を荒げている。無我夢中で口内を堪能するホムラ以上に恍惚と悦に入っているようで、臀部をわし掴んで引き寄せた下半身が、ホムラの熱に甘えるように擦りつけられた。
 たかがキスひとつ、だのにこれほどまでにマグマがごとき熱を孕んだマツブサの身体に溶かされて、とろけて一つになりそうだった。可哀想なほどぜえぜえと上がった息が限界を訴えているけれど、上顎への刺激にたいそう弱いらしい彼の反応が可愛くて可愛くて、ホムラは意地悪に丁寧にマツブサの口内を犯し続けた。

「っあ、はぁ、はっ、ゃ、もっ……んぅ!」

 とん、と、ごく小さな振動が背を叩いた。マツブサの拳だ。あまりにか弱い抵抗に、唇がきつく弧を描く。これしきの力で男を止められると思っているのだこの人は。なんて慢心、なんて非力でおいたわしい、なんて可愛く愛おしいお方なのだろう!

「もっ、やめっ、なさい……! ん、はァっ、は……!」
「ふ……」

 自分から誘っておいて、淫らに腰まで押し付けあって、いまさら理性に立ち返ろうとは。けれどホムラはその懇願に応えてあげることにした。今いっときの我慢など易いもの、己は獲物を逃しはしない。

「マツブサ様」
「や、ン……ふ」

 ダメ押しに甘やかすようなキスをひとつ、わざと音を立てて解放した。細腰は抱き寄せたまま、吐息の触れる距離から紅潮した顔を覗き込む。マツブサは肌という肌を真っ赤に染め上げて、唾液にてらりと濡れたくちびるから、ハアハアと熱い息をこぼしている。ホムラの胸にそっと片手を置いて距離をとろうとしたようだが、追いかけるように覆いかぶさると、マツブサは快感に染まった表情を隠すようにふいと顔を反らして、それ以上の抵抗をやめた。
 上気した頬に思わず唇を寄せると、キッと眦を吊り上げた涙目の彼から「こらっ……!」とお叱りをいただいてしまった。ホムラの口を弱々しく手で突っぱねて威嚇する様子がまるでエネコのようで、この方はこんなに男を煽る質で大丈夫なのだろうかと思いながら、それはそれとして手のひらをべろりと舐め上げた。

「ひゃ!」
「親愛、感じ取っていただけたようで何よりです」
「うっ、はぁっ、は、くっ……この、おまえ」

 ぎゅっと握りしめて拳を避難させる姿はやはりエネコのようだ。薄い肩は呼吸とともに激しく上下して、こちらを睨めつける真っ赤な目元は威厳よりも初々しさが勝っており、弱り切った獲物さながらに愛らしい。
 頭から食ってしまいたい、と本能が囁いた。それだけじゃない。大切にしたい、押し倒したい、お守りしてさしあげたい、いますぐ俺のものにしたい……。次々に湧き上がる庇護欲と加虐心めく愛欲が、日照りより強烈に身を焦がしていく。
 茹だるような外気のなか、生々しく抱き合ってますます熱を上げて、けれど自分ばかりが欲に溺れているような、この目に彼の痴態はとても清らかに光って映る。
 ホムラは精悍な面差しで、マツブサの涙目を真摯に見つめた。彼はグゥと子犬のようにひとつ唸って、そっとくちびるを震える指でなぞって睫毛を伏せた。薄い唇がはくはくと開閉し、懸命に何か言わんとしている。
 落ち着くまでゆっくり待つつもりで、乱れた彼の赤髪を指で優しくすくって耳にかけると、それにさえ気持ちよさそうに目を細められてしまって、生殺しの今が非常に辛くなってきた。
 厚い胸に置かれた手が、ホムラの服をぎゅっと握りしめた。

「……し、親愛、どころじゃ……なかった、ろう、っふ……いま、の」
「はい」
「……こ、こんなの……は、はじめて……でっ……」
「はい」
「こんな、いっ、いけな、のにっ……く、」
「マツブサさま……」

 荒い呼気に混ざってたどたどしく繰り出される言葉が、ホムラの心臓を貫いていく。互いの鼓動が混ざり合って、押し上げる熱がはちきれそうだ。
 はぁ、と熱い吐息が素肌を撫でた。マツブサは眉間に少ししわを寄せ、けれど口角を持ち上げて微笑むと、うっとりと呟いた。

「……き、きもちよかった……」
「……!! っは…………!!!」

 おあずけ食らわしておいてなんだこの人は!
 密着する身体をさらに掻き抱いて、ホムラはマツブサの唇に再び食らいついた。びくんと跳ね上がる身体は正直で、張り詰めた熱が太ももにあたる。キスだけで達してしまうのではと思うほどマツブサはとろとろに蕩けていたが、ホムラは小さく形良い尻を両の手で掴んで揉みしだきながら、股ぐらに差し入れた脚を強くこすりつけるように揺り動かして、互いの快楽を追い求めた。
 ――声が聞きたい。彼の楚々としてみだりがわしい嬌声に溺れたい。名残惜しくも離した唇を強く首筋に押し付けると、願ったとおりマツブサの口から溢れんばかりの嬌声が飛び出した。

「あっ、ぁ、ほむら、だっ、だめ、ア、ァ、も……」

 もどかしい、肌に張り付く服を取っ払って直接愛し合いたいと焦れるホムラに反して、マツブサはたどたどしく腰を揺らしながら、悦に入った声をひっきりなしにあげている。限界の近さを確信し、ホムラは真っ赤な耳に直接熱い吐息を吹き込んでやった。

「いいですよ。ほら、マツブサ様……」
「あ……! ほむ、ァっ、あぁっ……~~~~~~っ!!!!」

 押し殺せない嬌声がホムラの耳を悦ばせる。マツブサはびくびくといっそう激しく身震いして、絶頂を迎えたようだった。必死にホムラに縋りつく彼の下肢ががくがくと揺れて崩れ落ちそうだったので、臀部を揉む手はそのままに力強く抱きしめ直す。汗やらなんやらで二人ともぐちゃぐちゃだ。己は未だ射精に至っていないが、それでも、やりきった気持ちに気分が満ち足りていくようで、自然と笑みが浮かんだ。

「っく……っは! はぁ、はっ、っあ、あっ……ぐ、うぅ~っ……」

 腕の中ではふはふと整わぬ息をこぼしているマツブサを見つめていると、これ以上を求めるのは酷だなと思って、ホムラは自分自身に二度目の我慢を強いた。よし、来るべき時にぺろりと美味しくいただこう。
 マツブサの扇情的に紅潮しきったかんばせを、ほろりと一筋の雫が伝い落ちた。ぐすんと鼻を鳴らして、叱られている時のポチエナのようなきまり悪そうな表情をしているから、大変お可愛らしかったですよと慈しむつもりで頬を撫でると、彼はぼすんとホムラの胸に顔を埋めてぐるぐると唸りだした。

 ……かわいい。かわいい!かわいい!!!

 なんだろうこの生き物は。全身が煮えたぎり、胸にぴとりとくっつく悪い人を今すぐモノにしたい衝動が身を焦がす。初対面でこの威力、この人にかかれば、どんな休火山だって大噴火イチコロだろう。
 そうだ、初対面だ、と今更ながらに思い出した。見知らぬ若造にこんなことまで許してしまって、あまつさえバツの悪さを漂わせつつもなんだか嬉しそうに胸板に頬ずりをしている始末で、大丈夫なのだろうかこの方は。心配でたまらなくなってきた。
 徐々に呼吸が落ち着いてきた様子のマツブサは、胸板に額をくっつけたまま、もごもごとなにやらか細い声で囁いた。よく聞こえなかったので、至極丁寧に顎をすくって顔をあげさせる。お目見えした美しい瞳はあっちへこっちへ泳ぎまわって、一度ぎゅっと瞑られた瞼の下に姿を隠したが、再びまみえた時にはしっかりとホムラに熱視線を浴びせてくれた。
 引き結ばれた唇がしどけなく開いて、恥じらいに染まった言葉がこぼれだす。

「す、すまないホムラ、醜態を晒した……」
「ご満足いただけたなら光栄です」
「いや、だがその、君はまだ」
「お気になさらず。我慢できますから」
「うぐ。む……す、すまない……」

 自分だけ気持ちよくなってしまった、なんて罪悪感を抱いているのであろうその表情を見つめながら抜いてもいいですか、と喉まで出かかったが、格好悪いにも程があるので飲み込んだ。代わりに、負い目の分だけ付け入る隙をくださってありがとうございます、と心のなかでほくそ笑む。
 びょうと一際ぬるい風が吹いた。ふうと一息ついて、彼の乱れた御髪を指ですいて整える。綺麗な赤髪は何度撫で付けても毛先がぴょんと外に跳ね、こんな末端までお可愛らしいのだな、と愛おしさが際限なく湧き上がる。
 ぽつりと「そ、そろそろ離れないか……」なんて呟きが聞こえたが、ホムラの汗濡れの肉体が不快だという意味ではなさそうだし、なによりまだいつ強風が吹くかわからないので「早計ですよ」と進言した。
 そうして数秒、両者無言で見つめ合う。するとマツブサは、またしてもいやいやするエネコのように両腕を突っ張って距離をとろうと身動ぎしだした。もちろん手放すつもりはないし、なにより胸板を押す腕がか弱すぎるので、ホムラはびくともしなかったが。
 無言のまま微笑んでいると、マツブサもまた押し黙ったまま眉尻をへにょんと下げて、潔く脱出を諦めた。
 涼やかな彼の頬にやっと伝い落ちてきた一筋の汗を、ちゅうと口付けた唇でぬぐう。「うぁ」とあがった悲鳴に心和ませつつ、向かい合っていた身体をやにわに離して真隣に並び立った。エスコートするように腰にまわした腕の強さは変わらず、引き寄せた身体は大人しくこちらに寄りかかっている。
 目前のひみつきちを見やると、二人とそちらの中間地点をドンメルがのそのそと進んでいるところだった。

「あ。すっかり忘れてました、ドンメル……」
「我々を待っていたのだ。気を使ってくれたんだろうな」
「いい奴ですね」
「そう。いい子なんだ、私のドンメルは」

 いいなあ、私のホムラと呼んでほしいなあ、とぼんやり思った。
 どうやら一部始終をそばで見守っていたらしいドンメルは、こちらを振り返ることなく大穴に向かって歩を進めていった。砂埃が舞い、地面にドンメルの足跡が続いていく。丸いそれの合間に、三本指の小さな軌跡が続いているのが見えた。ひみつきちに侵入した野生ポケモンでもいるのだろうか。

「……?」
「さあ、早くひみつきちに避難して涼もう。着替えもある」
「この期に及んでお招きくださって大丈夫ですか。さては私に惚れましたね?」
「さっきから言っている、君みたいな子は大好きだよって」
「……………………」

 叩いた軽口に、そんな答えが返ってくるとは思わなかった。無防備な急所を4倍弱点で突かれた気分だ。

「なんでこれで照れるんだ! あんなにすごいことをしておいて!」
「その……嬉しくて」
「き、君なあ……。私まで恥ずかしくなってきた」

 きっといま、自分は耳まで真っ赤になっている。片腕に抱きおさめた人の頬も、熟れて美味しそうな色に染まっていた。それにさえ胸が締め付けられて、もはや冷静に振る舞える自信がなかった。この暑さ、いや、マツブサの甘い体温に頭がやられたに違いない。
 がっちり支えた腰を引き寄せ、二人して照れ照れと、言葉少なにひみつきちへと歩を進める。ドンメルが消えていった闇の中を壁伝いに進んでいると、フラッシュでも使ったのか、ぱっと眩い光に視界をとられ、彼の腰にまわした腕を離して顔に掲げた。光に慣れるまで待つこと数秒、マツブサはやんわり身体を離して、とことこと出入り口付近に歩み戻ったようだった。
 次第に戻ってきた視界で、基地内をぐるりと眺める。彼が「うまくできた」とのたまったそこは、どう見てもただの岩窟だった。
 掘りっぱなしの様相で、荒削りの岩がごろごろと転がっており、落ちているとしか言いようのないクッションがふたつ、それ以外に家具は見当たらない。彼のものだろう鞄が隅に放られているだけで、急ごしらえなのは明らかだった。
 ひみつ基地とは名ばかりで、とても人を招こうと思えるような場所ではない。育ちのよい男なら、きっとなおさら。
 野生の勘が訴える。やはりこの男、めっぽう怪しい。魅力的な人だと思ったが、これ以上の深入りは危ないかもしれない。
 ちらと相手を盗み見る。マツブサは、ホムラから数歩離れたところ、出入り口との間に何の気なしに立っていた。「まあ座りたまえ」と朗らかな声がかけられる。袖振り合うも多生の縁、たまたま招待されただけだと思い込みたくても、彼がわざわざ逃げ道を塞ぐ形で陣取った事実が、日和る思考を打ち消した。
 何が狙いか知らないが、いつでも逃げ出せるようにとクッションの上に浅く座り込む。動きを追うように意外と頓着なく座した彼と顔を見合わせた。やはり表情に邪気はない。
 深呼吸を一つ、ホムラは静かに切り出した。

「私を待ち伏せしていましたね?」
「おや。気づいていたのか」

 さらりと認めたマツブサは顔色一つ変わらない。それどころか、唇は愉快そうに弧を描いて、目尻に皺を寄せさえしている。こちらの手持ちは6匹、対する相手はドンメル1匹。トレーナー自身の体格差も一目瞭然だというのに、ぞっとするほど優位を伺わせる笑みだった。

「登山道にあなたは不似合いですからね。色々と不自然極まりない」
「そうかね。うまくいったと思うが」
「……なにがでしょう」
「まあ、そう急くな。そうだな、あの子たち」

 マツブサがすいと指差した先に目をやると、宙にボールホルダーがぽつんと浮いていた。驚いて注視すると、いきなりぐんにゃりと空間が揺れて、ホルダーを手にした緑色のポケモンが姿を現した。

「カクレオン……!?」
「そう。さすがに知っているか」

 突如現れたそいつに心中で仰天していたが、それよりも大変なことに気がついた。カクレオンが握りしめているそれ、計6つのモンスターボールを装着したホルダー。色といい形といい、いやに見覚えがありすぎる。
 腰に手をやって己のボールホルダーを確かめた。指先が感じるのは布地の感触ばかりで、つけていたはずのそれがない。……やられた!
 背筋にざっと悪寒が走る。いつの間に盗られた?ホムラが彼の躰を夢中で貪っていたとき?彼はずっと翻弄されていたはずだ――いいや、その時しかない。男を煽って自分の躰に集中させて、まんまとホルダーを手に入れたのだ。近くに控えたカクレオンにそれを投げ渡して――あの足跡はこいつか!
 ホムラが獲物だと思っていたその人は、いまや捕食者の余裕を湛えた笑顔で愚かな若者をじいと眺めている。滑らかな手を顎に当て、面白くて仕方がないといった笑みは戯れではない。臨戦態勢をとっているドンメルたちがその証拠だ。
 ぐわんと頭が揺れる。とっさに腰をあげようと動いたホムラを彼の一言が押し留めた。

「おっと、血迷うんじゃないぞ。私が3匹も出している意味、わかるだろう?」
「くっ……さん、びき?」
「ああ、言ってしまったな。もう1匹潜んでいるよ、私のカクレオン」

 洞穴にくすくすと上品な笑い声が響き渡った。今となっては威圧的でしかないその態度、そしてあえて開示された情報は、ホムラにゆっくりと両手を挙げさせるのに十分な代物だった。
 小首を傾げてこちらを見つめるマツブサの表情は、先と変わらず麗しい。こういった状況に慣れているのだと思い知って、背筋にびりりと震えが走る。怪しすぎるどころではない、手を出してよい人ではなかったのだと、間抜けにも釣られてしまった己を恨んだ。少し前まで情欲に鳴り響いていた心臓が、今は緊張感にどくんどくんと高鳴っている。

「……マツブサ様」
「そう怖い顔をするな。なに、とって食おうというわけじゃない」

 マツブサはゆっくりと立ち上がり、走り寄ったカクレオンの手元から、勿体ぶった手つきでボールをひとつ手にとった。彼が選んだそれは、ホムラにとって特別な意味をもつものだった。人に言えない経緯で手に入れたばかりの、そしてわざわざ人目を忍んで山頂を目指す理由そのものの、特別なポケモンだ。
 全身から血の気が引いて、冷や汗がダラダラと流れ出す。

「まんまと私に引っかかってくれてありがとう。嬉しくてついマーキングしてしまったが、それ以上を返してくれて嬉しいよ」

 彼が軽くボールを放る。ボン、と音を立てて、二人の間にポケモンが繰り出された。まず目につくのは凶悪なツノ、それから、攻撃的な目つきに黒い短毛、しなやかな体つきを誇るそいつが、ぐるると喉を鳴らしてマツブサの足元に擦り寄った。ここホウエンではとても珍しいポケモン、ヘルガーだ。

「密猟者ホムラ、私のヘルガーに手を出したのが運の尽きだ」
「…………!」

 そのヘルガーは宵闇の中、冴えない男から奪い取ったポケモンだった。どこかの金持ちの手下であろう男が、いつも決まった時間、決まったルートで散歩をしていた珍しいポケモンだ。男の手持ちは相棒のグラエナたちが軽々下して、顔を見られた記憶もヘマをした覚えもない、いつもと同じ、けれど特別記憶に残る夜だった。
 その証拠に今もなお、対峙した男の言葉がはっきりと蘇る。
 「こいつに何かあってみろ、俺もお前も命はないぞ。ご主人様は末恐ろしい人なんだ」……。
 そして、バトルに圧勝しヘルガーを奪ったホムラに向かって、顔中を涙と鼻水まみれに汚した大の大人が、地面に額をこすりつけて懇願したのだ。「死にたくない!お願いだから、そいつを連れて行かないでくれぇ」なんて、絶叫に近い嗚咽を上げて。必死だな、と一笑に付してその場を去った覚えがある。
 それが、これほど早く、笑えない形で己の身に返ってくるとは。

「私のドンメルは奪おうとしないのに、使用人に預けたヘルガーは安々と奪ってくれて。君、相手を選んでやってるな? まったく、グラエナみたいじゃないか。優れた相手に絶対服従……私は君の目に優れて見えるか」
「は、…………」

 彼の長い脚になつくヘルガーをたおやかな手が撫でる。愛おしそうに嬉しそうに配下を撫でるその指一つに、ホムラの生死は握られている。優雅に、圧倒的に君臨する支配者は、かざした手でヘルガーを後ろに下がらせると、悠々とこちらへ歩み寄ってきた。
 がんがんと流れる血潮が耳を打つ。ホムラにゆっくりと黒い影が覆い被さった。正面に立つマツブサが、ホムラの両頬をなみなみならぬ優しい手つきで包み込み、どろどろの熱を湛えた視線で瞳を覗き込んでくる。あの時の手下の尋常でない怯えようが、今になって身に沁みた。

「山頂に取引相手がいるな。そうはさせない。君の旅はここで終わりだ」
「……殺し、ますか、私を……」
「ころす? ……ふふっ、ははは!」

 額にこつん、とマツブサの額が合わさった。ぎらぎらと燃える瞳に呑まれて瞬き一つできやしない。耳をすりと撫ぜられて、快感とも恐怖ともつかぬものがぞくぞくと体の芯を震わせた。
 にっこりと、マツブサの唇がいっとう慈愛深い笑みをかたどった。

「殺したりなどするものか。君を手放すつもりはないよ」

 言い終わるやいなや、唇を塞がれる。ひとたび触れ合うだけの軽いキス、けれどホムラは食われる、と思った。おさまったはずの熱が、いつの間にか強烈に勃起しているのを自覚した。言葉なく息を乱すホムラを、視界いっぱいに映るその人の聖母にも処刑人にも思える苛烈な視線が火炙りに煽り立てていく。

「録画を見たが、君たちの動きは素晴らしかった。しばらく動悸がおさまらなくなるほど興奮したのは初めてだ。あれほど見事にグラエナたちを複数同時に操る者は見たことがない」
「……?」

 急な話についていけずに数度瞬く。心臓がバクバクとうるさくて、なにを言われているのだかてんで頭に入ってこない。吐息のかかる距離、興奮冷めやらぬ様子で続けるマツブサは、押し黙ったままのホムラの輪郭を艶やかな手つきで撫で続けている。

「一糸乱れぬ包囲網、一切の躊躇も隙もない連携攻撃! 彼らが統率のとれた優れた集団足りえるのは、絶大な信頼をおける優秀なトレーナーがいてこそだ」
「…………?」

 さきほどまであんなに恐ろしく燃えていた瞳が、なんだか夢を見る少年少女のようにきらきらと輝いている。……もしやこれは、褒められている、のだろうか。ホムラは太ももに置いた手で皮膚をつねってみた。普通に痛い。どうやら死の恐怖から白昼夢を見だしたわけでもないようだ。けれども、それならばこの流れは一体なんだ。

「ふふ。呆けているな? ホムラ、君のことだよ」
「…………???」

 ぽかんと薄く開いたままのホムラの唇を、あざとい指先がひとなでして去っていく。打って変わって、末恐ろしいご主人様と称された男らしからぬ穏やかな微笑みは、ホムラの反応を待っているようだった。しかし、一体何を言いたいのだか、やはりどうにもわからない。ぐっと息をのむ。ふ、と彼の笑みが音をこぼした。

「私は君が欲しくてわざわざ先回りまでしたのだ」
「……? 殺されると、思って……違う、のですか」
「殺しに来たわけじゃない。手に入れるために来た」
「……!」

 両頬からゆるやかに離れていった手のひらが、薄い胸にホムラの頭を抱き込んだ。華奢なそこからとくんとくんと鳴る心音が、若者の緊張しきった身体を解きほぐしていく。

「ホムラ、お前はこれから一生私のグラエナだ。逃がしはしないから、今ここで腹を括りなさい」
「一生、マツブサ様のグラエナ……」

 心臓を直に握られたようだった。潰されて血みどろになったかと思うほど心音は暴れたて、全身を多幸感と灼熱が巡り満たして溶けていく。彼とくっついたところから受け入れられて一つになってしまいそうな、そんなすさまじい威力の、抗いがたい命令だった。
 ずっとそうしていたいと思えたが、マツブサはそっと身体を離してホムラの両肩に手を置くと、拒否されるとは微塵も思ってないような、プレゼントの箱を開ける寸前の子どものような表情で、じっとホムラの答えを待っている。その瞳は幾千の輝きに満ちていて、滴り落ちてしまいそうだ、と見惚れた若者は、ほうとため息をこぼして微かに震える唇を動かした。

「……マツブサ様」
「うん。なんだ?」
「今をときめく雄なので、いちばん愛していただけると光栄です……」
「そういう図々しいところ、なかなか好ましいぞ」

 喜色満面、わくわくといった表現が相応しい声音が洞窟の中を跳ねまわる。どっと緊張感が抜けたことでむしろ指先が細かく震えだし、みっともないと思う間もなく、目前のマツブサがそっと腕を広げて言った。

「怖がらせて悪かったね。絶対に逃したくなかったのだ。ほら、おいで」
「は、はい……」
「よしよし、もう大丈夫。ボールも返してあげる」

 格好悪いだなんて今更だ。甘やかしてくれるのなら思う存分甘えてしまえと、ホムラはマツブサに縋り付くように抱きついて、勢い余って地に押し倒した。快活な笑い声が響きわたる。固い地面にこの人を横たわらせるなど本意ではないが、今の己は赤子同然なんにもできない存在だから、仕方がないと開き直った。
 ぽんぽんと幼子に対する手つきが背を叩く。ホムラをダメにしたのはこの人だけど、あやしてくれるのもこの人だ。ガチガチの熱が彼の太ももを圧迫して、「あっ……」と恥じらう声が耳をくすぐった。演技ではないこの二面性、叫びだしたくなるほど凶悪でたちが悪すぎる。

「……離れがたいです」
「わかった。好きなだけぎゅっとしておいてあげよう。そうだ、お互いずいぶん汚れたな。着替えたくはないか?」
「今、マツブサ様の脱衣を見たら、我慢できそうにないです」
「そうか。私も初めてはベッドの上がいいから、帰ったら着替えようね」
「…………」
「またそこで照れる! 本当に可愛いなあ、ホムラは」

 帰る先が一緒、初めてはベッドの上、考えれば考えるほど昂ぶりがおさまらなくなっていく。正真正銘、ホムラはこの人のモノになったのだと、じんと痺れる頭で自覚した。
 死の恐怖を味わうなど、人生で初めてのことだった。それ以上に、心から渇望した瞬間、己をモノにしてもらえるなど、こんな僥倖ほかにあるまい。たまらない心地でぐりぐりと彼の首筋に頭をなすりつけていたら、間近に寄ってきたヘルガーにずつきを食らった。ご主人様と戯れるなら俺も混ぜろと言うことらしい。鋭い目つきに負けじとガンを飛ばす。お前のご主人様は、俺を一番にしてくれたぞというマウントを込めて。……いや、返事はもらってないか?

「そういえば、マツブサ様はなぜ私を見つけられたのですか」
「ヘルガーには装飾品をつけている。発信機入りのね」
「ああ……なるほど」

 妙なデザインの、と言ったら気を悪くされそうなので言及しないが、今度はホムラを足蹴にしだしたヘルガーの首周りには確かに見慣れない装飾品がついている。せっかく徒歩で山道をこそこそ移動していたのに居場所がバレていたのだと思うと、少しばかり悔しくてヘルガーにデコピンを食らわせた。仕返しに指を噛まれたが。なんなら、カクレオン2匹とドンメルにさえ、寄ってたかってポコポコと蹴りつけられはじめたが。

「ホムラも私のものになったんだ。羨ましければつけてあげようか」
「いえ。探す手間がないくらい、お側に置いてください」
「やっぱり君、好きだなあ」

 いい加減己の筋肉で潰してしまいそうなので、よいしょとマツブサの身体を持ち上げ上下を入れ替えた。やはり仔エネコみたいに持ち上げられてもだらんとしているし、己の上に乗せても軽くて温かくてなにより可愛い。背中に刺さる石の痛みもこの愛くるしさの前には無に等しいと思えるほどで、俺はこの人のモノになったんだ!と万感の思いを込めてぎゅっと大事に抱きしめた。

「私にはやりたいことがあるのだよ。君にはそれに付き合ってもらう。ただ、最初の仕事は山頂で待つ君の取引相手……私のヘルガーを欲した愚か者を、可愛がってあげること、かな」
「はっ。待ち合わせは夜ですから、噴火口にでも追い立ててやります」
「私のグラエナはお利口さんだ。楽しみにしているよ」

 彼は厚い胸に顎を置き、あどけない顔でるんるんとホムラの唇を撫でている。ときおり若者の昂ぶる雄を腹で確かめるように身体を揺らしているのは、無意識なのか、意地悪なのか。どちらにせよ質の悪さは一級品で、まんまと手玉に取られたホムラはうっとりと囁いた。

「魔性のお方だ。こうして皆をたぶらかしていらっしゃるんですか」
「無礼な。私が口説くのは君だけだよ」

 返す刀の切れ味の鋭いこと。嘘か真か、ここまで言わせて応えないのは男にあらず。ホムラはマツブサの柳腰を掴んでずりずりと引き上げて、唇同士が触れ合う距離まで麗しい顔を持ってきた。落ちる赤髪をかきあげて、愛しいご主人様の頬を丁重にやんわりと手のひらで包み込む。

「責任、とっていただけますか」
「もちろん。ともに明るい未来を築こうね」
「……大切にします」
「うん。末永くよろしく頼むよ」

 頬にふわりとあたる唇の感触。心から喜んでいるのが伝わってくる弾ける笑顔。なんと罪作りな人だろう。けれど、諸手を上げて自ら甘い甘い毒の蜜に飛び込んでしまったホムラには、これから続く未来への期待に胸をときめかせることしかできなかった。
 気の利く一言を返そうとしたところ、ヘルガーに思い切り足を噛まれて顔をしかめる羽目になり、むしろそのおかげで一層甘やかしてもらえたので、こいつらともうまくやっていこうと苦笑ながらに新入りは心を決めた。


 ホムラが密猟なんて後ろ暗い生業から足を洗って、けれど堂々と大義ある悪事をはたらくようになるまで、あと数ヶ月。
 初めてのお仕事を終えて帰った先で、いきなり一緒にだだっ広い風呂に入ることになって嬉しい悲鳴を上げるまで、あと数時間。
 ちなみに「いい子だから一緒に寝ようか」とからかわれ、機を逃さない男はそれからずっと「私はいい子なので一緒に寝ます」を実現した。




back