No.21, No.20, No.19, No.17, No.16, No.15, No.14[7件]
くるぶし
※モブ目線
おまえは、うやうやしく持ち上げられる白いくるぶしを見たことがあるか。
普段はしかめつらしく振る舞って、最低限しか肌を晒すことのない麗人の、ひらりと舞って男を誘うくるぶしを。
──違う違う。誘惑の相手はオレじゃあないさ。高嶺の花は路傍の石を愛でたりしない。ただ、石だからこそ手のひらで転がしてはいただけた。
オレはなによりあの方の、すらりと魅せつけておきながら隠れんぼしてる脚が好きでさ。裾をめくって、靴下を脱がせて、裸んぼのおみ足を一目見られたらと夢想するほど……。まあ、だから、衝撃的だったわけよ。
あの方の脚は拝むことができたけど、なまじ見ることができたばかりに、目に焼き付いて離れない。一度だって味わえず、二度と見ることもできやしない、こうも残酷な仕打ちがあるか。
ちくしょう、オレがもっと見目よく才もあったなら、あのくるぶしをものにできたのかなあ。
……気になるか? 高貴なるお方の爛れた情事、聞きたいか? へへっ。そうこなくっちゃなあ。
潜伏任務中、近くの屋敷にあの方が逗留なさるってんで、こりゃあとびきり運がいい、お顔だけでも拝めれば、いいやあわよくばお褒め頂きたい、なんて下心を抱えてご報告に上がったんだよ。そうしたら、いたのさあの人も。あの方と夜中に二人っきりで。誰ってそりゃ、尊いお方に触れることを許された男といやあ、わかるだろ。あの人さ。
そう急くなって。あのおみ足に手の届かない者同士、よぅく語ってしんぜよう。宵の肴にでも夜のオカズにでもするがいい……。
*****
月の明るい夜だった。町外れに佇む屋敷は閑寂として、赤松林の影に荘厳な姿を忍ばせていた。
オレは堅苦しい数奇屋門をくぐり抜け、長廊下を急いでいた。床板の軋みは背後の薄闇に吸い込まれていき、足裏を季節外れの冷気がなめた。
火急の用であれば遠慮は無用と聞いてはいたが、プライベートな空間を侵しているという実感が不安を掻き立てて、同時に胸を高鳴らせた。前のめりな気持ちを追って足を動かし、ようやく辿り着いた最奥の部屋の前で、深呼吸をひとつ。就寝されているかもしれないと案じていたが、どうやら杞憂だったようだ。ひたと閉められた障子の格子からは灯りが漏れて、足元に優しく落ちていた。
一枚隔てたあちら側に、リーダー……マツブサ様がいらっしゃる。きっと無防備にくつろぐ彼は、少しの驚きとともに、優しくオレを出迎えてくださるはずだ。
緊張を期待と興奮が上回り、騒ぎ立てる鼓動をおさえてこぼした声は上ずった。
「夜分に失礼します。リーダー、少々よろしいでしょうか」
障子の向こうで、人の動く気配があった。
高鳴る心音が障子紙を突き破りそうな気がした。そうして数秒、十数秒、いくら待ったかわからない。
「こんな夜更けに何の用だ」
「……!」
くぐもった声が響いた。明らかにリーダーとは別の男の、冷淡で不機嫌そうな低い声。ここはリーダーの屋敷のはずだ。困惑し、返答に窮していると、障子がざっと開いて大きな人影が現れた。
「っ……ホムラ隊長!?」
動転し、敬礼も忘れて仰ぎ見る。
紫色の髪、凛々しい垂れ目、獣のように引き締まった身体。リーダー同様滅多とお目にかかれぬ雲の上のお方だが、こうも印象的な行動隊長その人を見紛うはずはない。
ご挨拶をしなければ、と唇を開きかけて、彼の格好にぎょっとして後ずさった。はだけたというより、かろうじて身にまとったという様相の浴衣姿で、雄々しく匂い立つ胸板がさらけ出されている。目をそらすこともかなわず見つめる先で、盛り上がった筋肉を汗が伝った。唇が震える。縦框に寄りかかって腕を組みこちらを見下ろす立ち姿は、傲慢なまでに美しかった。
「用件は」
「あっ、り、リーダーにご報告がありまして……」
「マツブサ様はお休みになられている。報告があるなら私に」
底冷えのする美貌が顎を上げる。否が応でも意識させられる体格差、威圧的な態度に、身も心もすくみあがった。こんな深夜に何故リーダーの私室に、と疑問を呈することはおろか、逃げを打つことすら許されない物々しさだ。
……だというのに、オレときたら取り繕うこともできずに、震える舌に正直な欲望をのせてしまった。
「う、その、できれば直接リーダーのお耳に入れたく……」
「私には聞かせられない『報告』か? 面白い冗談だ」
くっと口端が上げられた。いよいよ縮み上がったオレの頭上へ、しなやかな上体が覆いかぶさるように伸ばされた。
「とっとと失せろ」
苛烈な瞳に射抜かれて、ぐうと喉から恐怖が漏れた。がくがくと頷いて踵を返そうとした瞬間、隊長の背後から生白い腕がにゅるりと伸びてきたのを見て飛び上がった。
──悲鳴すら出なかった。シミひとつない白蛇のような腕。隊長の脇腹に巻き付いた幽艶な細指が、男の肌をなよやかに伝っていって、むき出しの胸板にするりととまった。おどろおどろしい腕に絡みつかれながらも、隊長はまるで動じていない。眼光鋭くオレを睨んだまま立っている。
生気の感じられない手が、ぽん、と窘めるように厚い胸を叩いた。
「こらホムラ。あまりしたっぱ君をいじめるんじゃない」
「はっ。申し訳ありません」
「あっ! りっ、り、リーダー……!?」
居住まいを正して振り向いた隊長の肩越しに、リーダーの微笑が覗いた。幽霊と見紛うのも無理のないほど、生活感の浮かばぬ白肌だ。ほっと息をつく。しかし、隊長の眉間の皺に気圧されて、安堵の気持ちは引っ込んだ。
緊張に手汗がにじむ。どうしてお二人が揃っているのだろう。今すぐ引き返せと、脳内でけたたましく警鐘が鳴りだした。
「報告があると言ったね。おいで。聞かせてもらおうじゃないか」
「う、はっ、はい……」
直々にお声がけいただいてしまっては、固辞できようはずもない。
こちらを手招いたリーダーが、小鳥が羽を休めるような気軽さで、隊長の首根っこに細顎を寄せた。隆々と盛り上がった男の肌に華奢なおとがいがぺとりとくっつき、美しいかんばせが白百合のような笑みを浮かべた。
口を開けて立ち尽くす自分をよそに、あるじの媚態を当然のように享受した隊長が、柳腰に手をまわして部屋の中に引っ込んだ。伴われた痩躯も浴衣を身に着けている。それもまた着崩れていて、貴婦人をエスコートするような恭しさも、そろいの乱れた浴衣姿とくれば淫猥な仕草に見えた。
──ホムラ隊長はリーダーのご寵愛を受けている。いくらでも替えのきく我々と違って、格別有能な偉丈夫は可愛がられて当然だ。
それでも、それにしたって、さすがにこれは。
頭を振る。詮索する気持ちを唾ごと飲み下し、ええいままよと敷居をまたいだ。
「散らかっているが気にするな。ホムラと一杯やっていたのだ」
「は、い、いえ……。し、失礼いたします」
広々として品の良い和室だった。向かいの障子は開け放たれており、月を載せる薄雲に抱かれたえんとつやま、そこからなだらかに続く庭園の眺望も見事なものだったが、それよりも部屋の中央に敷かれた一組の布団が激しく目を引いた。
くしゃりとめくられた掛け布団、気怠げな皺を寄せた敷布団、そして、脇に転がった二つの枕……。夜の名残が色濃く立ち込めるそこからとっさに視線を逸らしたものの、生々しい光景は脳裏にこびりついてしまった。
そわそわと尻込みしながら、勧められるまま奥のテーブルにつく。椅子は2つきり、見回せば柱にもたれ掛かる冷ややかな面持ちの隊長と目があって、慌てて視線を伏せた。
ちょんとすねに刺激を感じた。見下ろすと、桜色の爪をのせた爪先がオレを戯れに突っついていた。真白い裸足……、リーダーの素足。瞠目し、生唾を飲む。
すべらかな足の甲、ぷくりと愛らしい血管をのせたくるぶし、ほっそりと美しい足首。一連の完璧な調和に見惚れていたら、もったいぶったように脚が持ち上げられて、すらりとしたふくらはぎが大胆に浴衣の裾からお目見えした。しらじらとしてきめ細やかな、麗しいおみ足。息を乱して食い入るように見つめていたら、組まれた足先がそっぽを向いた。
熱に浮かされた視線を上げる。脚の持ち主は頬杖をつき、蠱惑的な微笑みを浮かべてこちらを見ていた。不躾に見過ぎたことを咎めるでもなく、己の脚が視姦されるのを面白がっているかのように。
そしてまた、オレのすねをちょいと蹴った。マッチ棒のように、やわらかい裸の指の腹が男の芯を擦って火をつけたのだと思った。リーダーの背後に立ち控える隊長のくちびるが、恐ろしげな弧を描いた。
背筋が凍った。
向かいの柔和なくちびるが開かれた。
「それで」
「……あ、は、はっ! ええと。ご、ご報告します。ソライシの動向ですが、奴に仕掛けた盗聴器から言質をとりました。本日落下した隕石を採取するため、明後日の朝えんとつやまに向かうようです。い、急ぎご報告をと思い、馳せ参じました」
「ほう。隕石の存在は確かか」
「は、はい。奴は探知機で大まかな場所も把握しているようです」
「よく知らせてくれた。助かるよ」
「……! はっ、あ、ありがとうございます……!」
おひさまみたいに優しい笑顔だった。天にも昇る心地になれればよかったが、上機嫌な上司の背後から漂う不穏な気配に肝が冷えた。全身から脂汗がにじみ出る。
早急に辞そうとする心算をよそに、リーダーがついと顎を上げ、隊長が机上の瓶とグラスを手にとった。ラベルに木の実の絵が描かれた瓶がゆっくりと傾けられる。隊長に酌をさせるなど、と腰を上げたオレをリーダーの片手が制した。その柔らかな指の腹、手のひらには、ほのかに赤みがさしている。
背筋を正し、細面に視線を這わす。血の気のないように思えたが、明かりのもと改めて観察すれば、目元や頬は紅潮し、うなじなんて湯上がりのようにつやつやと火照ってさえいた。憧れのリーダーの汗ばむ素肌を目の当たりにして、まるで情事の余韻じゃないか、と下腹をくすぐった下品な考えはすぐに打ち消した。酒精に赤らんでいるだけに違いない。着衣の乱れも一組の布団も、そもそも隊長が同席していることだって、深く考えてはいけないことだ。
芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。隊長の大きな手が無言でグラスを差し出していた。蔑むような凍てつく視線に耐えかねて、受け取る両手も感謝の言葉も惨めに震えた。
「ふふ、ナゾの実のワインだよ。晩酌でこいつをやるとぐっすり眠れる」
「は、はっ……。で、では、遠慮無く。いっ……いただきます」
「よく味わうといい。とっておきだからね」
冷たいガラスの縁に口をつける。たゆたう水面に舌先が触れても、のんきに一献とはいかなかった。向かい合う切れ長の目が、傍に控える隊長のおもてをとらえた。
「それにしても、えんとつやまか。思い出すなあ。いっとうかわいいグラエナを手に入れた日のことを……。ふ、お手製のひみつきちなんて慣れぬものを作った。まだ残っているかな」
「は、またいつかご招待いただけますか」
「もちろん。かわいいかわいいグラエナの凱旋だ」
たおやかな指が持ち上げられて、身を寄せる隊長の腹のくぼみをつうとなぞった。ころころと愛らしい笑い声が鼓膜を撫でる。生きた心地がしなかった。恐る恐る窺うと、精悍なおもてにどろりと愛を垂らしたまなこが、熱っぽくリーダーのかんばせを見つめていた。
──アクア団の奴らが隊長を『マツブサの忠犬』と嘲るのを聞いたことがある。なにを馬鹿なと聞き流していたが、今ならわかる。これは正しく忠犬だ。ポチエナやグラエナなんて可愛いものじゃない。獰猛で、牙に劣らず鋭い瞳をギラギラと輝かせ、大きく膨らむ身体をあるじにひたと擦り寄せて、「待て」が解かれるのを今か今かと待つ獣だ。
オレは、そんな恐ろしい忠犬がよだれを垂らして辛抱している目の前で、いたずらな裸足が仕掛けたちょっかいを、鼻の下を伸ばして受けとめた。そして、現在進行形で、あるじの笑顔を享受している。
喉奥へ一気に滑らせた酒は、まるで味がしなかった。血の気が引いて、震えながら置いたグラスが神経質な音を立てた。
「ソライシに隕石を拾わせたら直ちに奪取しなさい。手荒なことをしても構わん。そのまま現地でボルケーノシステムを試してやろうじゃないか。アクア団の妨害があるやもしれぬから、ホムラ、お前が指揮をとってあげなさい」
「は。必ずや最良の結果を捧げます」
隊長が恭しく頭を垂れる。慌てて追従し、「そっ、そろそろ失礼します、ごちそうさまでしたッ」と立ち上がりざまテーブルに腿をぶつけたが、もはやかまってはいられなかった。きょとんと瞬いたリーダーが「そうか。ご苦労だった」と言い終わるのを待たずに、ざりざりと畳の上を滑るように退室した。
凭れるようにして障子を開き、おぼつかない足取りで数歩進んだところで、障子を閉め忘れたことに気がついた。動悸がする。引き返そうにも、この身はすでに彼らの密やかな空間からぷつりと途切れて、薄闇にぽつねんと包まれている。
影が縫われて動けやしない。振り返ることがどうにも怖くて、ただ呼気を乱していたら。
「ん……いい子で待てたな。おいでホムラ」
「マツブサ様……」
……蜜のようにとろけた応酬が背筋を舐めた。
視界が揺れる。振り返ってはならない。ただちにここを立ち去らなければ。心臓がばくばくと暴れている。けれど、男を惹き寄せる甘い蜜に抗えるはずもなく、緩慢に振り返った。振り返ってしまった。
──あちら側、中央の布団の上で、たくましい背中がリーダーに覆いかぶさっていた。淫靡に溶けた吐息が耳に届いて、どろりとした予感が肌にまとわりつく。続く甘やかな水音に、ほむら、と愛撫するような嬌声が混ざった。くちびる同士がつながりを深めて、恍惚とひとつに蕩けあう。理性が溶けて、足が震えた。
赤い襟足が敷布に乱れて、細腕が広い背にすがりついた。くちびるや舌どころではない、二人の全身が絡みあってうごめく度に、衣擦れの音が濃密にわだかまっていく。隊長の背を掻き抱いてはだけた浴衣の裾から、長いおみ足がつるりと生えて、生白い太ももまでもがあらわになった。
下半身に血が集まる。清潔さが過ぎて、不埒なまでに艶やかな脚だった。
隊長の手が絹肌をつたって、気品に満ちたくるぶしがそうっと持ち上げられていく。爪先がピンと伸ばされて、情欲を掻き立てるようにうっとりと宙を掻いた。さっきオレのすねを確かにつついた指の腹が、ずっと手の届かぬ彼方でみだりがわしい愛欲に濡れている。艶々と潤う肌のおもてに明かりを浴びて、苛烈で生々しい色気を放つ脚が、股ぐらに誘い込んだ男をむしゃぶり尽くそうと舌なめずりをした。
目眩がした。気がつけば、あるじの媚態にどっぷりと甘やかされる男の黒い瞳が、食い殺すようにこちらを見ていた。
オレは弾かれたように逃げ出した。
──それから、ほうほうの体で小屋へ帰った。
布団に入り目をつぶっても、楚々としたくるぶしがまなうらでいやらしく身をくねらせて、眠るどころか身体はますます昂ぶるばかりで、強烈に迸って弾けるその熱を数時間は夢中で反芻していた。
もう一度見たい、触れてみたい、あの清らかな脚にきつく抱擁されたい。美しく整えられた爪先に翻弄されたい。いたずらなそれを捕まえたなら、指先で舌先で存分に味わいくすぐって、なよやかな足裏までもみだりに穢して、可愛がって可愛がられて……。
そんな爛れた欲望で頭がいっぱいだった。……だから、忍び寄る影に気づかなかった。
覚えているのは、そこまでだ。
*****
……どうした? 顔色が真っ青だぜ。
ああ、今頃気がついたのか。オレ、どんどん透けてきてるよなあ。足なんかとっくになくなっちゃって。化けて出ても、こうやってなくなっちまうのかと思うとさ、やっぱり美しいおみ足は生きてるうちに見せびらかしてほしいもんだよな。
待て待て、気を失う前に忠告! 隊長な、涼しい顔しておっそろしいほど悋気の鬼だぜ。最期に見た人影は、きっとあの人だったと思うんだ。リーダーの色っぽいくるぶしは命に変えても見る価値があるけどな。なんせ、こうして誰かに話したくってたまらなかったほどだから。
ま、大それた下心は抱いちゃならねえってことだ。おまえもせいぜい気をつけろよ。……聞いてくれてありがとな。
それじゃあ、おやすみ。良い夢を。
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※モブ目線
おまえは、うやうやしく持ち上げられる白いくるぶしを見たことがあるか。
普段はしかめつらしく振る舞って、最低限しか肌を晒すことのない麗人の、ひらりと舞って男を誘うくるぶしを。
──違う違う。誘惑の相手はオレじゃあないさ。高嶺の花は路傍の石を愛でたりしない。ただ、石だからこそ手のひらで転がしてはいただけた。
オレはなによりあの方の、すらりと魅せつけておきながら隠れんぼしてる脚が好きでさ。裾をめくって、靴下を脱がせて、裸んぼのおみ足を一目見られたらと夢想するほど……。まあ、だから、衝撃的だったわけよ。
あの方の脚は拝むことができたけど、なまじ見ることができたばかりに、目に焼き付いて離れない。一度だって味わえず、二度と見ることもできやしない、こうも残酷な仕打ちがあるか。
ちくしょう、オレがもっと見目よく才もあったなら、あのくるぶしをものにできたのかなあ。
……気になるか? 高貴なるお方の爛れた情事、聞きたいか? へへっ。そうこなくっちゃなあ。
潜伏任務中、近くの屋敷にあの方が逗留なさるってんで、こりゃあとびきり運がいい、お顔だけでも拝めれば、いいやあわよくばお褒め頂きたい、なんて下心を抱えてご報告に上がったんだよ。そうしたら、いたのさあの人も。あの方と夜中に二人っきりで。誰ってそりゃ、尊いお方に触れることを許された男といやあ、わかるだろ。あの人さ。
そう急くなって。あのおみ足に手の届かない者同士、よぅく語ってしんぜよう。宵の肴にでも夜のオカズにでもするがいい……。
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月の明るい夜だった。町外れに佇む屋敷は閑寂として、赤松林の影に荘厳な姿を忍ばせていた。
オレは堅苦しい数奇屋門をくぐり抜け、長廊下を急いでいた。床板の軋みは背後の薄闇に吸い込まれていき、足裏を季節外れの冷気がなめた。
火急の用であれば遠慮は無用と聞いてはいたが、プライベートな空間を侵しているという実感が不安を掻き立てて、同時に胸を高鳴らせた。前のめりな気持ちを追って足を動かし、ようやく辿り着いた最奥の部屋の前で、深呼吸をひとつ。就寝されているかもしれないと案じていたが、どうやら杞憂だったようだ。ひたと閉められた障子の格子からは灯りが漏れて、足元に優しく落ちていた。
一枚隔てたあちら側に、リーダー……マツブサ様がいらっしゃる。きっと無防備にくつろぐ彼は、少しの驚きとともに、優しくオレを出迎えてくださるはずだ。
緊張を期待と興奮が上回り、騒ぎ立てる鼓動をおさえてこぼした声は上ずった。
「夜分に失礼します。リーダー、少々よろしいでしょうか」
障子の向こうで、人の動く気配があった。
高鳴る心音が障子紙を突き破りそうな気がした。そうして数秒、十数秒、いくら待ったかわからない。
「こんな夜更けに何の用だ」
「……!」
くぐもった声が響いた。明らかにリーダーとは別の男の、冷淡で不機嫌そうな低い声。ここはリーダーの屋敷のはずだ。困惑し、返答に窮していると、障子がざっと開いて大きな人影が現れた。
「っ……ホムラ隊長!?」
動転し、敬礼も忘れて仰ぎ見る。
紫色の髪、凛々しい垂れ目、獣のように引き締まった身体。リーダー同様滅多とお目にかかれぬ雲の上のお方だが、こうも印象的な行動隊長その人を見紛うはずはない。
ご挨拶をしなければ、と唇を開きかけて、彼の格好にぎょっとして後ずさった。はだけたというより、かろうじて身にまとったという様相の浴衣姿で、雄々しく匂い立つ胸板がさらけ出されている。目をそらすこともかなわず見つめる先で、盛り上がった筋肉を汗が伝った。唇が震える。縦框に寄りかかって腕を組みこちらを見下ろす立ち姿は、傲慢なまでに美しかった。
「用件は」
「あっ、り、リーダーにご報告がありまして……」
「マツブサ様はお休みになられている。報告があるなら私に」
底冷えのする美貌が顎を上げる。否が応でも意識させられる体格差、威圧的な態度に、身も心もすくみあがった。こんな深夜に何故リーダーの私室に、と疑問を呈することはおろか、逃げを打つことすら許されない物々しさだ。
……だというのに、オレときたら取り繕うこともできずに、震える舌に正直な欲望をのせてしまった。
「う、その、できれば直接リーダーのお耳に入れたく……」
「私には聞かせられない『報告』か? 面白い冗談だ」
くっと口端が上げられた。いよいよ縮み上がったオレの頭上へ、しなやかな上体が覆いかぶさるように伸ばされた。
「とっとと失せろ」
苛烈な瞳に射抜かれて、ぐうと喉から恐怖が漏れた。がくがくと頷いて踵を返そうとした瞬間、隊長の背後から生白い腕がにゅるりと伸びてきたのを見て飛び上がった。
──悲鳴すら出なかった。シミひとつない白蛇のような腕。隊長の脇腹に巻き付いた幽艶な細指が、男の肌をなよやかに伝っていって、むき出しの胸板にするりととまった。おどろおどろしい腕に絡みつかれながらも、隊長はまるで動じていない。眼光鋭くオレを睨んだまま立っている。
生気の感じられない手が、ぽん、と窘めるように厚い胸を叩いた。
「こらホムラ。あまりしたっぱ君をいじめるんじゃない」
「はっ。申し訳ありません」
「あっ! りっ、り、リーダー……!?」
居住まいを正して振り向いた隊長の肩越しに、リーダーの微笑が覗いた。幽霊と見紛うのも無理のないほど、生活感の浮かばぬ白肌だ。ほっと息をつく。しかし、隊長の眉間の皺に気圧されて、安堵の気持ちは引っ込んだ。
緊張に手汗がにじむ。どうしてお二人が揃っているのだろう。今すぐ引き返せと、脳内でけたたましく警鐘が鳴りだした。
「報告があると言ったね。おいで。聞かせてもらおうじゃないか」
「う、はっ、はい……」
直々にお声がけいただいてしまっては、固辞できようはずもない。
こちらを手招いたリーダーが、小鳥が羽を休めるような気軽さで、隊長の首根っこに細顎を寄せた。隆々と盛り上がった男の肌に華奢なおとがいがぺとりとくっつき、美しいかんばせが白百合のような笑みを浮かべた。
口を開けて立ち尽くす自分をよそに、あるじの媚態を当然のように享受した隊長が、柳腰に手をまわして部屋の中に引っ込んだ。伴われた痩躯も浴衣を身に着けている。それもまた着崩れていて、貴婦人をエスコートするような恭しさも、そろいの乱れた浴衣姿とくれば淫猥な仕草に見えた。
──ホムラ隊長はリーダーのご寵愛を受けている。いくらでも替えのきく我々と違って、格別有能な偉丈夫は可愛がられて当然だ。
それでも、それにしたって、さすがにこれは。
頭を振る。詮索する気持ちを唾ごと飲み下し、ええいままよと敷居をまたいだ。
「散らかっているが気にするな。ホムラと一杯やっていたのだ」
「は、い、いえ……。し、失礼いたします」
広々として品の良い和室だった。向かいの障子は開け放たれており、月を載せる薄雲に抱かれたえんとつやま、そこからなだらかに続く庭園の眺望も見事なものだったが、それよりも部屋の中央に敷かれた一組の布団が激しく目を引いた。
くしゃりとめくられた掛け布団、気怠げな皺を寄せた敷布団、そして、脇に転がった二つの枕……。夜の名残が色濃く立ち込めるそこからとっさに視線を逸らしたものの、生々しい光景は脳裏にこびりついてしまった。
そわそわと尻込みしながら、勧められるまま奥のテーブルにつく。椅子は2つきり、見回せば柱にもたれ掛かる冷ややかな面持ちの隊長と目があって、慌てて視線を伏せた。
ちょんとすねに刺激を感じた。見下ろすと、桜色の爪をのせた爪先がオレを戯れに突っついていた。真白い裸足……、リーダーの素足。瞠目し、生唾を飲む。
すべらかな足の甲、ぷくりと愛らしい血管をのせたくるぶし、ほっそりと美しい足首。一連の完璧な調和に見惚れていたら、もったいぶったように脚が持ち上げられて、すらりとしたふくらはぎが大胆に浴衣の裾からお目見えした。しらじらとしてきめ細やかな、麗しいおみ足。息を乱して食い入るように見つめていたら、組まれた足先がそっぽを向いた。
熱に浮かされた視線を上げる。脚の持ち主は頬杖をつき、蠱惑的な微笑みを浮かべてこちらを見ていた。不躾に見過ぎたことを咎めるでもなく、己の脚が視姦されるのを面白がっているかのように。
そしてまた、オレのすねをちょいと蹴った。マッチ棒のように、やわらかい裸の指の腹が男の芯を擦って火をつけたのだと思った。リーダーの背後に立ち控える隊長のくちびるが、恐ろしげな弧を描いた。
背筋が凍った。
向かいの柔和なくちびるが開かれた。
「それで」
「……あ、は、はっ! ええと。ご、ご報告します。ソライシの動向ですが、奴に仕掛けた盗聴器から言質をとりました。本日落下した隕石を採取するため、明後日の朝えんとつやまに向かうようです。い、急ぎご報告をと思い、馳せ参じました」
「ほう。隕石の存在は確かか」
「は、はい。奴は探知機で大まかな場所も把握しているようです」
「よく知らせてくれた。助かるよ」
「……! はっ、あ、ありがとうございます……!」
おひさまみたいに優しい笑顔だった。天にも昇る心地になれればよかったが、上機嫌な上司の背後から漂う不穏な気配に肝が冷えた。全身から脂汗がにじみ出る。
早急に辞そうとする心算をよそに、リーダーがついと顎を上げ、隊長が机上の瓶とグラスを手にとった。ラベルに木の実の絵が描かれた瓶がゆっくりと傾けられる。隊長に酌をさせるなど、と腰を上げたオレをリーダーの片手が制した。その柔らかな指の腹、手のひらには、ほのかに赤みがさしている。
背筋を正し、細面に視線を這わす。血の気のないように思えたが、明かりのもと改めて観察すれば、目元や頬は紅潮し、うなじなんて湯上がりのようにつやつやと火照ってさえいた。憧れのリーダーの汗ばむ素肌を目の当たりにして、まるで情事の余韻じゃないか、と下腹をくすぐった下品な考えはすぐに打ち消した。酒精に赤らんでいるだけに違いない。着衣の乱れも一組の布団も、そもそも隊長が同席していることだって、深く考えてはいけないことだ。
芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。隊長の大きな手が無言でグラスを差し出していた。蔑むような凍てつく視線に耐えかねて、受け取る両手も感謝の言葉も惨めに震えた。
「ふふ、ナゾの実のワインだよ。晩酌でこいつをやるとぐっすり眠れる」
「は、はっ……。で、では、遠慮無く。いっ……いただきます」
「よく味わうといい。とっておきだからね」
冷たいガラスの縁に口をつける。たゆたう水面に舌先が触れても、のんきに一献とはいかなかった。向かい合う切れ長の目が、傍に控える隊長のおもてをとらえた。
「それにしても、えんとつやまか。思い出すなあ。いっとうかわいいグラエナを手に入れた日のことを……。ふ、お手製のひみつきちなんて慣れぬものを作った。まだ残っているかな」
「は、またいつかご招待いただけますか」
「もちろん。かわいいかわいいグラエナの凱旋だ」
たおやかな指が持ち上げられて、身を寄せる隊長の腹のくぼみをつうとなぞった。ころころと愛らしい笑い声が鼓膜を撫でる。生きた心地がしなかった。恐る恐る窺うと、精悍なおもてにどろりと愛を垂らしたまなこが、熱っぽくリーダーのかんばせを見つめていた。
──アクア団の奴らが隊長を『マツブサの忠犬』と嘲るのを聞いたことがある。なにを馬鹿なと聞き流していたが、今ならわかる。これは正しく忠犬だ。ポチエナやグラエナなんて可愛いものじゃない。獰猛で、牙に劣らず鋭い瞳をギラギラと輝かせ、大きく膨らむ身体をあるじにひたと擦り寄せて、「待て」が解かれるのを今か今かと待つ獣だ。
オレは、そんな恐ろしい忠犬がよだれを垂らして辛抱している目の前で、いたずらな裸足が仕掛けたちょっかいを、鼻の下を伸ばして受けとめた。そして、現在進行形で、あるじの笑顔を享受している。
喉奥へ一気に滑らせた酒は、まるで味がしなかった。血の気が引いて、震えながら置いたグラスが神経質な音を立てた。
「ソライシに隕石を拾わせたら直ちに奪取しなさい。手荒なことをしても構わん。そのまま現地でボルケーノシステムを試してやろうじゃないか。アクア団の妨害があるやもしれぬから、ホムラ、お前が指揮をとってあげなさい」
「は。必ずや最良の結果を捧げます」
隊長が恭しく頭を垂れる。慌てて追従し、「そっ、そろそろ失礼します、ごちそうさまでしたッ」と立ち上がりざまテーブルに腿をぶつけたが、もはやかまってはいられなかった。きょとんと瞬いたリーダーが「そうか。ご苦労だった」と言い終わるのを待たずに、ざりざりと畳の上を滑るように退室した。
凭れるようにして障子を開き、おぼつかない足取りで数歩進んだところで、障子を閉め忘れたことに気がついた。動悸がする。引き返そうにも、この身はすでに彼らの密やかな空間からぷつりと途切れて、薄闇にぽつねんと包まれている。
影が縫われて動けやしない。振り返ることがどうにも怖くて、ただ呼気を乱していたら。
「ん……いい子で待てたな。おいでホムラ」
「マツブサ様……」
……蜜のようにとろけた応酬が背筋を舐めた。
視界が揺れる。振り返ってはならない。ただちにここを立ち去らなければ。心臓がばくばくと暴れている。けれど、男を惹き寄せる甘い蜜に抗えるはずもなく、緩慢に振り返った。振り返ってしまった。
──あちら側、中央の布団の上で、たくましい背中がリーダーに覆いかぶさっていた。淫靡に溶けた吐息が耳に届いて、どろりとした予感が肌にまとわりつく。続く甘やかな水音に、ほむら、と愛撫するような嬌声が混ざった。くちびる同士がつながりを深めて、恍惚とひとつに蕩けあう。理性が溶けて、足が震えた。
赤い襟足が敷布に乱れて、細腕が広い背にすがりついた。くちびるや舌どころではない、二人の全身が絡みあってうごめく度に、衣擦れの音が濃密にわだかまっていく。隊長の背を掻き抱いてはだけた浴衣の裾から、長いおみ足がつるりと生えて、生白い太ももまでもがあらわになった。
下半身に血が集まる。清潔さが過ぎて、不埒なまでに艶やかな脚だった。
隊長の手が絹肌をつたって、気品に満ちたくるぶしがそうっと持ち上げられていく。爪先がピンと伸ばされて、情欲を掻き立てるようにうっとりと宙を掻いた。さっきオレのすねを確かにつついた指の腹が、ずっと手の届かぬ彼方でみだりがわしい愛欲に濡れている。艶々と潤う肌のおもてに明かりを浴びて、苛烈で生々しい色気を放つ脚が、股ぐらに誘い込んだ男をむしゃぶり尽くそうと舌なめずりをした。
目眩がした。気がつけば、あるじの媚態にどっぷりと甘やかされる男の黒い瞳が、食い殺すようにこちらを見ていた。
オレは弾かれたように逃げ出した。
──それから、ほうほうの体で小屋へ帰った。
布団に入り目をつぶっても、楚々としたくるぶしがまなうらでいやらしく身をくねらせて、眠るどころか身体はますます昂ぶるばかりで、強烈に迸って弾けるその熱を数時間は夢中で反芻していた。
もう一度見たい、触れてみたい、あの清らかな脚にきつく抱擁されたい。美しく整えられた爪先に翻弄されたい。いたずらなそれを捕まえたなら、指先で舌先で存分に味わいくすぐって、なよやかな足裏までもみだりに穢して、可愛がって可愛がられて……。
そんな爛れた欲望で頭がいっぱいだった。……だから、忍び寄る影に気づかなかった。
覚えているのは、そこまでだ。
*****
……どうした? 顔色が真っ青だぜ。
ああ、今頃気がついたのか。オレ、どんどん透けてきてるよなあ。足なんかとっくになくなっちゃって。化けて出ても、こうやってなくなっちまうのかと思うとさ、やっぱり美しいおみ足は生きてるうちに見せびらかしてほしいもんだよな。
待て待て、気を失う前に忠告! 隊長な、涼しい顔しておっそろしいほど悋気の鬼だぜ。最期に見た人影は、きっとあの人だったと思うんだ。リーダーの色っぽいくるぶしは命に変えても見る価値があるけどな。なんせ、こうして誰かに話したくってたまらなかったほどだから。
ま、大それた下心は抱いちゃならねえってことだ。おまえもせいぜい気をつけろよ。……聞いてくれてありがとな。
それじゃあ、おやすみ。良い夢を。
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義理の固さで釘が打てる
※リメイク版解散後
生きとし生けるものを灼き尽くさんとした太陽が夢幻の如く消え、まったくのんきな春波がちゃぷちゃぷとオレを手招くようになった頃。
まさに激動と呼ぶべき変化に取り巻かれて忙しなく過ごすうち、すっかり世間の賑わいから遠ざかっていたもんだから、うっかりバレンタインデーという一大イベントを素通りしてしまっていたのだった。
そう、疎遠になっていた相手と再びお近づきになれねえかなあなんて願望を叶えてくれそうな、なんでもかんでもこじつけるには格好の一日を。
……なんて、カレンダーを前に肩を落とす日々を送っていたのだが。
本日、3月14日、AM7:00。
突然の訪問にはちょいと非常識な時間のチャイムに起こされて、瞼をこすりながら開けた扉の先には、麗らかな春空に赤毛照らされ、仏頂面にメガネを乗せたかわいこちゃんが立っていた。
「ホワイトデーだ。受け取れアオギリ」
開口一番、そんな訳のわからんセリフを放ちながら。
いつもの団服に七三分けできっちりピッチリめかしこんで、お前それ押して歩いて来たの?と二度見するほど摩訶不思議な、コータスほどもあるダンボール箱を載せた台車を添えて。
見なかったことにして寝直していいかな、と思ったが、メガメガネの下のくろいまなざしに縫い止められては引っ込むわけにもいかず、しばし無言で見つめ合った。
頬をかく。間の抜けたキャモメの鳴き声が、頭上を通り過ぎていった。薄手のスウェットでも包み込まれるような春日和、ちっとも麗らかではない表情で、唇を引き結んだマツブサがじっとこちらを睨めつけている。
寝起きの頭をゆるゆる回す。
「ホワイトデーだ」、事実確認に違いない。しかしながら「受け取れアオギリ」、これがどうにもいただけない。だって前者のセリフとくっつけてしまえばまるで、「バレンタインデーのお返しですよ」と言ってるみたいじゃないか。
首を傾げる。正面でふんぞり返っているマツブサも、こてんと同じ方向に首を傾けた。
いくつになっても驚くほど可愛い男だが、今はときめいている場合じゃないのであった。
「……オレ、あげてねえけど」
「…………もらった」
「ええ……?」
誰かと勘違いされているのだろうか。
マツブサにバレンタインチョコをお見舞いし、なおかつ律儀にお返しを貰えるような果報者が、このホウエンにいるとでも。
長らく普通に対面することすら叶わなかった男が自ら会いに来てくれたというのに、青天の霹靂である。なんだか無性に悲しくなってきた。
取り繕うこともできずにじんわり顔を曇らせていたら、なぜだか大いにメガネをズラして慌てた様子のマツブサが口を開いた。
「た、確かにもらったのだ。…………昔。一緒に、勤めていた頃」
オレの機嫌をとるかのように、ことさら殊勝な口ぶりで。ここ数年の間、憎まれ口しか叩かなかったこの男が。
一度、二度、瞬く。すがるような眼差しだった。
「お前は覚えていないだろうが」、ぽつりと付け足しながら、レンズの下の睫毛がゆっくり伏せられていく。視線の先には、履きつぶしたサンダルに乗るオレのむくつけき足の甲があるだけだ。やましいことでもあるかのように、瞳はまつ毛の影に姿を隠したまま、穴の開くほどつま先を見つめている。
――霞んだ記憶が甦る。
いつのことだったろう。バレンタインだ!なんて同僚がはしゃいでいたもんだから、そういうもんかと思いつつ、ただなんとなく、そう、いたって何の気なしに、売店で買った百円かそこらのチョコアイスだった気がする、そんなものを「バレンタインデーだぜマツブサ!」なんてわたしてやったことがあった。
いいや、何の気もなかったなんてのは嘘だ。ほんの少しは浮ついていた。好きな奴を困らせない程度の、だけど少しくらいは意識してくれたらなって、ガキっぽさ極まるケチでしょっぱい打算があった、ような気がする。
「思い出した。確かにやったな。だがよお、どんだけ昔の話だよ」
言われて頭を捻りに捻って、ようやく思い出せた程度のちっぽけな出来事だ。それにその時のマツブサといったら、嬉しそうな素振りの一つもなしに、眉根を寄せてだんまりを決め込んでいたはずだ。
だというのに、そんな気の遠くなるほど昔の思い出を大事にとっておいたというのだろうか、こいつは。
一歩踏み出す。くたびれたサンダルの下で、砂が乾いた音を立てた。
「バレンタインに菓子を貰ったら、一ヶ月後に返すのがしきたりだろう。ちゃんと返そうと思っていたのだ。ただ、あの頃から互いに時間がなくなって、それから、……とてつもなく長い間、我々は別の道を歩んでいたから」
つま先から横へと逸れていった視線が、穏やかな海に向く。朝日を反射してきらきらと輝く青を眺めて、歳を重ねた双眸が眩しそうに細められた。
あれから幾年経っただろうか。恋煩う暇もなく、相手を思い遣るより出し抜くことばかり考えて、過ぎ去った過去はもう戻らないと思っていたのに。
クソ真面目で、ぶっきらぼうで、オレの心を惹き寄せてやまなかったこいつがあの頃とあまりに何も変わらないもんだから、一度は捨てたはずの気持ちがこうも胸を締め付ける。
「だからそれは妥当な品だ。受け取った義理に過ぎ去った分の利子を加えただけの、ただの義理返しなのだ。なにも言わずに受け取れ、アオギリ」
台車をガラリと押したそいつの唇が、ん、と尖ってまた閉じた。
目眩がした。義理なんてもんじゃないひたむきさにだ。そんな途方も無いスケールの人情を秘めたダンボールが、重々しく二人の間に鎮座している。
長閑な陽光さす地に根を生やしたまま、マツブサは照れるでもなく、いっそ真摯な眼差しで、オレが首を縦に振るのを待っている。
大きく息を吸い込んで、大仰に吐き出した。
重苦しいそいつを重荷に感じないほど、こちらだって長年拗らせては積もらせてきた想いがある。ハイそうですかと受け取ってやるのも癪で、つっけんどんに顎をしゃくった。
「……オレは義理なんて言った覚えはねえけど」
気の利いたセリフの一つも返せやしない、ううんオレの意気地なし。
けれど、ちらと盗み見たマツブサは、なんとまあやはりというか、オレのバツの悪さに微塵も気がついていない様子で、盛大にメガネをずり下げていた。
「は!? ブラック●ンブラン一本に真心を込めるのかキサマは!? 冗談だろう」
「なに貰ったかまで覚えてんのかよ! お前って奴は……」
「悪いか。キサマが忘れようとも、私は……。なんでもない」
台車の持ち手を、退こうとする掌ごと掴む。指先から伝わる熱は、なんでもなくはない温度でオレを末端から温めていった。じわり、回りこんで隣り合う。
逃れるタイミングを奪われたマツブサは、びくりと震わせた瞳をしばらくうろつかせ、そしてようやく観念したようにオレを見た。
威圧せぬよう、至って朗らかに見えるよう、意識してマツブサの黒い瞳をじいと見返す。
「なあ。あのアイス当たりつきだったろ。どうだった? 覚えてっか」
「ム。……1本分当たりだった」
思わず上体を揺らして笑っちまった。そんなことまで覚えてるなんざ、意識してもらえたどころの騒ぎじゃねえな。
奴の肩からも力が抜けて、ほっとしたように目つきが和らいでいく。
「よかったじゃねえか。交換しに行くか? なーんて……」
「そうだな。また会う時に持ってこよう」
「……マジでまだ棒持ってるのかよ」
「ん? ああそうか、有効期限が切れているかな」
「そういうことじゃなくて……まあいいや。いやよくねえな。全然よくねえわ」
鮮やかな赤の生え際を指でそうっとなぞる。マツブサはくすぐったそうに身を捩り、ちらとこちらを上目に見やった。
オレは今、数年前なら信じられないような近さでマツブサと寄り添っている。そう気付いたら、体の芯からぽかぽかと春がこみ上げてきた。
ごほんと咳払いをひとつ、お返しの品を注視する。
「開けていいか?」
「ここで開けるのか」
「ああ。待てねえや」
ニッと白い歯を見せる。メガネのつるをクイと持ち上げたマツブサが、「仕方のない奴だ」なんてこくんと頷いた。まんざらでもなさそうだ。上下した顎も、そいつにくっつく赤リブに包まれた首も、これがまあ細っこくて危うげだこと。
関係ねえことに気を取られながら、心をはずませテープを剥いでいく。そしてダン箱の中からこれまた外箱と思しきダン箱が現れて、満を持してご対面したそれにはどでかく「ウォーターオーブン」の文字がドン!
……一目見ただけで、お高さが窺い知れるやつだった。
いや。いやいやいや。
なにこれ。なんだこれ?
「配送事故? 取り違えとかあるのな、実際」
「間違ってない。それがお返しだアオギリ」
「いやなんで? マジでなんで? ホワイトデーってこういうのだっけ」
3倍返しなんて次元じゃあない。さっき利子がどうとか言ってた気もするが、それにしたって百円そこらの棒アイスから十数万円の家電まで成長させる利子なんざ、オレは極悪非道の高利貸しかってんだ。
真顔を向ければ、マツブサは眉尻をへにょんと下げていた。いやいや、狼狽えたいのはこっちだぜ。
「カガリに相談したのだが、なかなか決まらなくてな。自分が貰って嬉しいものなら間違いないという結論に至ったのだが。……もしや不快だったか」
「快とか不快とか以前に仰天してんだよ。落ち着く時間くれ。タンマだタンマ」
「う、うむ……?」
顎鬚を撫でる。ざりざり、見据える先のマツブサが、所在なげに視線を彷徨わせている。
あいも変わらずズレてる奴だ。離れている間もまともな人付き合いをしていなかったことが窺えてなんだか寂しくなってくるが、まあ今回は相談相手が悪かった。ホムラがこのことを知れば止めてくれたに違いない、ああ無念。
けれども、明らかにやりすぎとはいえ、オレの喜ぶものを考えてうんうん頭を悩ませて、それでようやくこれならば!と目を輝かせて購入し、せっせとここまで運んできたのだろう姿を想像すると、なるほど最高の贈り物であると頷けなくもないのだった。
なにより、『自分が貰って嬉しいもの』ときたもんだ。
にやーっと口端が上がっていく。「オレんち来る?」なんてお誘いを繰り出すには、あまりにおあつらえ向きの口実を含んだお返しであった。
気付いてねえんだろうなあ。虎視眈々と己を狙う狼の住処に家電を置いてく、その意味に。
ニコニコと頬を緩ませるオレに何を思ったか、愛しい赤毛の男もまた、にやりと悪戯な笑みを浮かべた。
「嬉しいかアオギリ」
「ああ嬉しい、嬉しいぜマツブサよ」
「ふん。借りは返したからな。せいぜい冷えた油物をチンして元通り美味しく腹に収めたりなどするがいい」
「どんな気持ちで言ってんだそりゃ」
大の男が二人して、キャスターをごろごろ転がし歩く。玄関の段差にがつんと台車をぶつけて停止、大人しくしているマツブサの片手を惜しみながらも解放し、ダン箱の前にしゃがみこむ。
上目遣いに見上げてみれば、逆光に目を細めるオレに負けず劣らず細まった瞳と目があった。
「アイス、当たったんだよな」
「ああ。証拠なら家に……」
「つまりオレは2本あげたと言っても過言じゃねえ。ってことはよお、お返しも2倍にならなきゃおかしいんじゃねえの?」
どっこいせ、なんて掛け声と共に箱を持ち上げる。豪華なお値段に見合ったなかなかの重量だ。
あんぐりと口を開けて立ちすくむ男を置いて、サンダルを脱ぎ散らかしてすたすたと廊下を進む。
「は……?……、はっ!? いや、そっ……、暴論ではないか!?」
ようやく我に返った男の慌てっぷりが、実に耳に心地よい。くるりと見返りお顔を拝見。マツブサはドアの隙間に身を挟み、足を踏み入れてよいものだか逡巡しているようだった。
今更遠慮する仲でもあるまいに、と微笑ましく思う己を自覚しながら、顎で誘う。
「ってことで、寄ってけよ。朝一で来といて、捨てゼリフ吐いてハイ退場はねえだろ。アオギリ様特製アクアパッツァでもお見舞いしてやる。せいぜいオレがこいつを使いこなすところを指をくわえて見てるがいいぜ」
「ぐ、ぐぬぬ……。い、いやしかし、それでは施しを受ける一方……」
「ざまあみろ。一生返しきれねえ勢いで、義理には義理を重ねてやるさ」
「そ、そうか。……それは、困ったな」
ちっとも困ったように見えない男のかんばせが、ふわりと柔らかくほころんだ。
そよそよどころか、男の見栄もプライドも吹き飛ばす勢いの、真っ向から対峙するには勢力を増しすぎた春一番の笑顔であった。
思わず見惚れていると、そろりと玄関に身を滑り込ませたそいつが右手を壁につき、片足を曲げてブーツを脱いだ。初めて目にする幼い仕草に、そぞろ胸をくすぐられる。
毛を逆立ててばかりだった野良猫をうまいこと手懐けられたような、一段飛びに腹まで撫でさせてもらったような、そんな達成感に満ちた気分だ。遅れてぐわんと、心どころか身体までもが大きく戦慄いた。
参ったな。どんな荒波だって軽々制するオレさまが、一人の男にこんなにも酔わされちまうだなんて。
「そんじゃまあ、今日からこいつを使い倒してやるからな」
「いいから前を向け。つまづくぞ」
「ハッ、照れてんのか?お顔がゆるゆるだぜマツブサさんよお」
なあんてはしゃいでいたばかりに、案の定腕に抱えた義理の塊をぶち当て壁に大穴を開け一悶着を起こしたのだが、それはまた今度の話だ。
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※リメイク版解散後
生きとし生けるものを灼き尽くさんとした太陽が夢幻の如く消え、まったくのんきな春波がちゃぷちゃぷとオレを手招くようになった頃。
まさに激動と呼ぶべき変化に取り巻かれて忙しなく過ごすうち、すっかり世間の賑わいから遠ざかっていたもんだから、うっかりバレンタインデーという一大イベントを素通りしてしまっていたのだった。
そう、疎遠になっていた相手と再びお近づきになれねえかなあなんて願望を叶えてくれそうな、なんでもかんでもこじつけるには格好の一日を。
……なんて、カレンダーを前に肩を落とす日々を送っていたのだが。
本日、3月14日、AM7:00。
突然の訪問にはちょいと非常識な時間のチャイムに起こされて、瞼をこすりながら開けた扉の先には、麗らかな春空に赤毛照らされ、仏頂面にメガネを乗せたかわいこちゃんが立っていた。
「ホワイトデーだ。受け取れアオギリ」
開口一番、そんな訳のわからんセリフを放ちながら。
いつもの団服に七三分けできっちりピッチリめかしこんで、お前それ押して歩いて来たの?と二度見するほど摩訶不思議な、コータスほどもあるダンボール箱を載せた台車を添えて。
見なかったことにして寝直していいかな、と思ったが、メガメガネの下のくろいまなざしに縫い止められては引っ込むわけにもいかず、しばし無言で見つめ合った。
頬をかく。間の抜けたキャモメの鳴き声が、頭上を通り過ぎていった。薄手のスウェットでも包み込まれるような春日和、ちっとも麗らかではない表情で、唇を引き結んだマツブサがじっとこちらを睨めつけている。
寝起きの頭をゆるゆる回す。
「ホワイトデーだ」、事実確認に違いない。しかしながら「受け取れアオギリ」、これがどうにもいただけない。だって前者のセリフとくっつけてしまえばまるで、「バレンタインデーのお返しですよ」と言ってるみたいじゃないか。
首を傾げる。正面でふんぞり返っているマツブサも、こてんと同じ方向に首を傾けた。
いくつになっても驚くほど可愛い男だが、今はときめいている場合じゃないのであった。
「……オレ、あげてねえけど」
「…………もらった」
「ええ……?」
誰かと勘違いされているのだろうか。
マツブサにバレンタインチョコをお見舞いし、なおかつ律儀にお返しを貰えるような果報者が、このホウエンにいるとでも。
長らく普通に対面することすら叶わなかった男が自ら会いに来てくれたというのに、青天の霹靂である。なんだか無性に悲しくなってきた。
取り繕うこともできずにじんわり顔を曇らせていたら、なぜだか大いにメガネをズラして慌てた様子のマツブサが口を開いた。
「た、確かにもらったのだ。…………昔。一緒に、勤めていた頃」
オレの機嫌をとるかのように、ことさら殊勝な口ぶりで。ここ数年の間、憎まれ口しか叩かなかったこの男が。
一度、二度、瞬く。すがるような眼差しだった。
「お前は覚えていないだろうが」、ぽつりと付け足しながら、レンズの下の睫毛がゆっくり伏せられていく。視線の先には、履きつぶしたサンダルに乗るオレのむくつけき足の甲があるだけだ。やましいことでもあるかのように、瞳はまつ毛の影に姿を隠したまま、穴の開くほどつま先を見つめている。
――霞んだ記憶が甦る。
いつのことだったろう。バレンタインだ!なんて同僚がはしゃいでいたもんだから、そういうもんかと思いつつ、ただなんとなく、そう、いたって何の気なしに、売店で買った百円かそこらのチョコアイスだった気がする、そんなものを「バレンタインデーだぜマツブサ!」なんてわたしてやったことがあった。
いいや、何の気もなかったなんてのは嘘だ。ほんの少しは浮ついていた。好きな奴を困らせない程度の、だけど少しくらいは意識してくれたらなって、ガキっぽさ極まるケチでしょっぱい打算があった、ような気がする。
「思い出した。確かにやったな。だがよお、どんだけ昔の話だよ」
言われて頭を捻りに捻って、ようやく思い出せた程度のちっぽけな出来事だ。それにその時のマツブサといったら、嬉しそうな素振りの一つもなしに、眉根を寄せてだんまりを決め込んでいたはずだ。
だというのに、そんな気の遠くなるほど昔の思い出を大事にとっておいたというのだろうか、こいつは。
一歩踏み出す。くたびれたサンダルの下で、砂が乾いた音を立てた。
「バレンタインに菓子を貰ったら、一ヶ月後に返すのがしきたりだろう。ちゃんと返そうと思っていたのだ。ただ、あの頃から互いに時間がなくなって、それから、……とてつもなく長い間、我々は別の道を歩んでいたから」
つま先から横へと逸れていった視線が、穏やかな海に向く。朝日を反射してきらきらと輝く青を眺めて、歳を重ねた双眸が眩しそうに細められた。
あれから幾年経っただろうか。恋煩う暇もなく、相手を思い遣るより出し抜くことばかり考えて、過ぎ去った過去はもう戻らないと思っていたのに。
クソ真面目で、ぶっきらぼうで、オレの心を惹き寄せてやまなかったこいつがあの頃とあまりに何も変わらないもんだから、一度は捨てたはずの気持ちがこうも胸を締め付ける。
「だからそれは妥当な品だ。受け取った義理に過ぎ去った分の利子を加えただけの、ただの義理返しなのだ。なにも言わずに受け取れ、アオギリ」
台車をガラリと押したそいつの唇が、ん、と尖ってまた閉じた。
目眩がした。義理なんてもんじゃないひたむきさにだ。そんな途方も無いスケールの人情を秘めたダンボールが、重々しく二人の間に鎮座している。
長閑な陽光さす地に根を生やしたまま、マツブサは照れるでもなく、いっそ真摯な眼差しで、オレが首を縦に振るのを待っている。
大きく息を吸い込んで、大仰に吐き出した。
重苦しいそいつを重荷に感じないほど、こちらだって長年拗らせては積もらせてきた想いがある。ハイそうですかと受け取ってやるのも癪で、つっけんどんに顎をしゃくった。
「……オレは義理なんて言った覚えはねえけど」
気の利いたセリフの一つも返せやしない、ううんオレの意気地なし。
けれど、ちらと盗み見たマツブサは、なんとまあやはりというか、オレのバツの悪さに微塵も気がついていない様子で、盛大にメガネをずり下げていた。
「は!? ブラック●ンブラン一本に真心を込めるのかキサマは!? 冗談だろう」
「なに貰ったかまで覚えてんのかよ! お前って奴は……」
「悪いか。キサマが忘れようとも、私は……。なんでもない」
台車の持ち手を、退こうとする掌ごと掴む。指先から伝わる熱は、なんでもなくはない温度でオレを末端から温めていった。じわり、回りこんで隣り合う。
逃れるタイミングを奪われたマツブサは、びくりと震わせた瞳をしばらくうろつかせ、そしてようやく観念したようにオレを見た。
威圧せぬよう、至って朗らかに見えるよう、意識してマツブサの黒い瞳をじいと見返す。
「なあ。あのアイス当たりつきだったろ。どうだった? 覚えてっか」
「ム。……1本分当たりだった」
思わず上体を揺らして笑っちまった。そんなことまで覚えてるなんざ、意識してもらえたどころの騒ぎじゃねえな。
奴の肩からも力が抜けて、ほっとしたように目つきが和らいでいく。
「よかったじゃねえか。交換しに行くか? なーんて……」
「そうだな。また会う時に持ってこよう」
「……マジでまだ棒持ってるのかよ」
「ん? ああそうか、有効期限が切れているかな」
「そういうことじゃなくて……まあいいや。いやよくねえな。全然よくねえわ」
鮮やかな赤の生え際を指でそうっとなぞる。マツブサはくすぐったそうに身を捩り、ちらとこちらを上目に見やった。
オレは今、数年前なら信じられないような近さでマツブサと寄り添っている。そう気付いたら、体の芯からぽかぽかと春がこみ上げてきた。
ごほんと咳払いをひとつ、お返しの品を注視する。
「開けていいか?」
「ここで開けるのか」
「ああ。待てねえや」
ニッと白い歯を見せる。メガネのつるをクイと持ち上げたマツブサが、「仕方のない奴だ」なんてこくんと頷いた。まんざらでもなさそうだ。上下した顎も、そいつにくっつく赤リブに包まれた首も、これがまあ細っこくて危うげだこと。
関係ねえことに気を取られながら、心をはずませテープを剥いでいく。そしてダン箱の中からこれまた外箱と思しきダン箱が現れて、満を持してご対面したそれにはどでかく「ウォーターオーブン」の文字がドン!
……一目見ただけで、お高さが窺い知れるやつだった。
いや。いやいやいや。
なにこれ。なんだこれ?
「配送事故? 取り違えとかあるのな、実際」
「間違ってない。それがお返しだアオギリ」
「いやなんで? マジでなんで? ホワイトデーってこういうのだっけ」
3倍返しなんて次元じゃあない。さっき利子がどうとか言ってた気もするが、それにしたって百円そこらの棒アイスから十数万円の家電まで成長させる利子なんざ、オレは極悪非道の高利貸しかってんだ。
真顔を向ければ、マツブサは眉尻をへにょんと下げていた。いやいや、狼狽えたいのはこっちだぜ。
「カガリに相談したのだが、なかなか決まらなくてな。自分が貰って嬉しいものなら間違いないという結論に至ったのだが。……もしや不快だったか」
「快とか不快とか以前に仰天してんだよ。落ち着く時間くれ。タンマだタンマ」
「う、うむ……?」
顎鬚を撫でる。ざりざり、見据える先のマツブサが、所在なげに視線を彷徨わせている。
あいも変わらずズレてる奴だ。離れている間もまともな人付き合いをしていなかったことが窺えてなんだか寂しくなってくるが、まあ今回は相談相手が悪かった。ホムラがこのことを知れば止めてくれたに違いない、ああ無念。
けれども、明らかにやりすぎとはいえ、オレの喜ぶものを考えてうんうん頭を悩ませて、それでようやくこれならば!と目を輝かせて購入し、せっせとここまで運んできたのだろう姿を想像すると、なるほど最高の贈り物であると頷けなくもないのだった。
なにより、『自分が貰って嬉しいもの』ときたもんだ。
にやーっと口端が上がっていく。「オレんち来る?」なんてお誘いを繰り出すには、あまりにおあつらえ向きの口実を含んだお返しであった。
気付いてねえんだろうなあ。虎視眈々と己を狙う狼の住処に家電を置いてく、その意味に。
ニコニコと頬を緩ませるオレに何を思ったか、愛しい赤毛の男もまた、にやりと悪戯な笑みを浮かべた。
「嬉しいかアオギリ」
「ああ嬉しい、嬉しいぜマツブサよ」
「ふん。借りは返したからな。せいぜい冷えた油物をチンして元通り美味しく腹に収めたりなどするがいい」
「どんな気持ちで言ってんだそりゃ」
大の男が二人して、キャスターをごろごろ転がし歩く。玄関の段差にがつんと台車をぶつけて停止、大人しくしているマツブサの片手を惜しみながらも解放し、ダン箱の前にしゃがみこむ。
上目遣いに見上げてみれば、逆光に目を細めるオレに負けず劣らず細まった瞳と目があった。
「アイス、当たったんだよな」
「ああ。証拠なら家に……」
「つまりオレは2本あげたと言っても過言じゃねえ。ってことはよお、お返しも2倍にならなきゃおかしいんじゃねえの?」
どっこいせ、なんて掛け声と共に箱を持ち上げる。豪華なお値段に見合ったなかなかの重量だ。
あんぐりと口を開けて立ちすくむ男を置いて、サンダルを脱ぎ散らかしてすたすたと廊下を進む。
「は……?……、はっ!? いや、そっ……、暴論ではないか!?」
ようやく我に返った男の慌てっぷりが、実に耳に心地よい。くるりと見返りお顔を拝見。マツブサはドアの隙間に身を挟み、足を踏み入れてよいものだか逡巡しているようだった。
今更遠慮する仲でもあるまいに、と微笑ましく思う己を自覚しながら、顎で誘う。
「ってことで、寄ってけよ。朝一で来といて、捨てゼリフ吐いてハイ退場はねえだろ。アオギリ様特製アクアパッツァでもお見舞いしてやる。せいぜいオレがこいつを使いこなすところを指をくわえて見てるがいいぜ」
「ぐ、ぐぬぬ……。い、いやしかし、それでは施しを受ける一方……」
「ざまあみろ。一生返しきれねえ勢いで、義理には義理を重ねてやるさ」
「そ、そうか。……それは、困ったな」
ちっとも困ったように見えない男のかんばせが、ふわりと柔らかくほころんだ。
そよそよどころか、男の見栄もプライドも吹き飛ばす勢いの、真っ向から対峙するには勢力を増しすぎた春一番の笑顔であった。
思わず見惚れていると、そろりと玄関に身を滑り込ませたそいつが右手を壁につき、片足を曲げてブーツを脱いだ。初めて目にする幼い仕草に、そぞろ胸をくすぐられる。
毛を逆立ててばかりだった野良猫をうまいこと手懐けられたような、一段飛びに腹まで撫でさせてもらったような、そんな達成感に満ちた気分だ。遅れてぐわんと、心どころか身体までもが大きく戦慄いた。
参ったな。どんな荒波だって軽々制するオレさまが、一人の男にこんなにも酔わされちまうだなんて。
「そんじゃまあ、今日からこいつを使い倒してやるからな」
「いいから前を向け。つまづくぞ」
「ハッ、照れてんのか?お顔がゆるゆるだぜマツブサさんよお」
なあんてはしゃいでいたばかりに、案の定腕に抱えた義理の塊をぶち当て壁に大穴を開け一悶着を起こしたのだが、それはまた今度の話だ。
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竜の光明
創世阻む陽炎ひらめき、天を光の矢が穿つ。
宙に浮く禍々しき結晶が、人の世へと降り注ぐ。
テランスは、傷だらけの最愛の人とそのさまを見た。
重々しく立ち込めていた暗雲が舞台を降りて、無垢な星星が夜空へと舞い戻る。
ヴァリスゼアに光落とす望月を遥かに眺めていたディオンは、傍らのテランスに一瞥もくれることはなかった。
打ち寄せる波が岬にくだけて、崖下で白白と波打った。風がうなって、濡れた長衣は重くはためき、崩れた金髪が頬を打つ。拳だけが強く握りしめられて、表情に険はない。
ビリッと耳慣れた音がした。無理を通した彼の右腕、矜持満ちたそこを仄白い閃光が取り巻いて、弱々しく月夜に散った。それが、ドミナントたる彼の最後の発露だった。
とても静かな幕引きだった。
ディオン・ルサージュは、ザンブレクの英雄だった。民草を護り、救い、導き賜う聖なる光。──それが、かつての彼だった。
今、テランスの瞳に映るのは、途方も無い虚ろを抱きしめる人間の姿だった。
目を離せば二度と会えなくなるような、危うい淵に立つ人間の。
「フェニックス、イフリート……。終わった、すべてが……」
かぼそい呟きをその場に残し、ディオンの靴底が土を擦った。おぼつかない足取りが月影へと吸い寄せられていく。その先に待つのは断崖だ。けれど、一歩、また一歩と彼は歩みを止めることなく、白い背中が悠久の闇にとけていく。
テランスは、幼い頃からその背に憧れ、敬愛し、必死で守り抜いてきた。それが今やぽつんと遠のいて、とてもさびしく、この世のものと思えないほど幽艶に揺らめいている。ぞっと血の気が引いて、咄嗟に声を張り上げた。
「ディオン様! 終わりではありません、これからです!」
応えはない。必死の遠吠えは愛しい背中に跳ね返されて、足元にほろほろと落ち重なった。ともすれば縋り付くような励ましも、今の彼には抱えきれないだろうことも承知で、けれど諦めるつもりはなかった。
「我々はまた、ここから出発するのです! ディオン様は、我々の……私にとっての、唯一のしるべです。どうか、どうか……」
本当は、テランスにとって民も国も二の次だった。ディオンの望みを叶え、彼が幸せでいてくれさえすれば、それでよかった。その齟齬が二人を隔てていることも、重々承知した上で。
よき理解者たりえなかった、黄泉の道連れにも選ばれなかった。けれど、彼の支えとなるのは、この世の楔となれるのは、きっとテランスの他にない。そう思うのに、ようやく絞り出せたのは、弱々しい懇願だった。
「……置いて行かないで……ディオン……」
テランスの大切な人は、ゆっくりと断崖へつま先をかけた。その先は、と目を見張れば、土埃に輝きを奪われた彼の靴が、動きを止めた。
瞬く。まさか、と思って、ごくりとつばを飲む。
ああ果たして、そのまさか。
ディオンの手のひらが、テランスを手招いた。顔は向こうへ向いたまま。来い、とでも言いたげな、不釣り合いな気軽さで。
あ、と唇を震わせたテランスの方へ、澄ました横顔が振り返った。
ひときわ強い風が吹き、鼓膜が震えた。穴の開くほど見つめる先で、金髪をゆっくりとかき上げたディオンが、小さく笑った。
「仕方のない奴だ。そう悲壮な声で鳴かれては、おちおち物思いに耽ってもいられない」
「……っ! ディオン様……!」
たまらず彼のもとへ駆け寄る。彼の中にはまだ自分の居場所がある、その事実だけで、身体が羽のように軽く感じられた。
月華を背負う愛しい人が、ぎゅうと目を細めてテランスを見つめた。遠く、まばゆいものを見るような眼差しで。浮足立った心がすとんと地に足つけて、テランスは彼の目の前で立ち止まった。
静かに佇むディオンを、じっと見つめる。闇夜に翳る彼の笑顔は、とても朗らかとは言いがたかった。
──取り繕うこともできないほど傷ついて、それでいながら無理にくちびるを歪ませて、どうしてこの人はこうなのだろう。
だからテランスは、強がりの彼を大事に大事に腕の中にしまいこむことにした。めいっぱい捧げた愛に寄りかかってもらえずとも、別にいい。傷も悲しみもひた隠して、それでもこわごわとテランスに寄り添う彼の優しさを知っている。
ディオンはほうっと息をついて、ぎこちなくテランスの首筋に鼻を埋めた。それだけで十分だった。
「帰りましょう、ディオン様」
「…………」
俯く彼の髪をそうっと撫でる。返事はない。脇腹のあたりに指が縋り付くのを感じて、常になく寄る辺ない温もりに、胸を締め付けられた。
無骨な指先が何度か髪を梳いたころ、物憂い吐息が素肌をなぞった。
「……余にはもう、帰る場所など……」
「私がいます。貴方の安寧は私がつくる」
「……安寧……余が奪った、父上から、民から……」
「ディオン……」
「アルテマは斃れたが、余の罪が消えたわけではない。こうして長らえた命さえ、正しいのかどうかさえ……。それでも、それでも余は……お前と共に……」
「っは……!」
押し殺した声に、短く返す。
贖罪に命を賭そうとしていた彼が、わずかでも希望に手を伸ばそうとしている。それがなにより嬉しくて、二人の間に光明が差したようだった。
世界が一変したとて、テランスは揺らがない。ディオンと共にある限り、テランスが折れることはない。それはまた、彼にとってもそうであればいいと願っている。いいや、願いなんてものでは足りない。
今度こそ、己がディオンにとっての光となろう。
強く抱きしめた腕の中、愛しい身体がふるりと身じろいだ。
「……お前はどうしたい」
「ディオン様のお側に」
「もう主従ではないと言っても……」
「はっ。永劫あなたと共に」
もう一度、彼の身が戦慄いた。腰を抱いて、つむじにくちづける。今度はくすぐったそうに震えたディオンがゆっくりと顔を上げ、熱い視線が交差した。痛々しい笑顔がほどけて、愛しいかんばせが、ぎこちなくとも安堵に頬を緩ませている。心にふつふつと喜びが灯されて、テランスはつられて微笑んだ。
「……余から離れる最後のチャンスを逃したな。お前は馬鹿だ。救いようのない馬鹿だ」
「一途だとおっしゃってください。どこまでだってお供いたします」
「うん、もう手放したりするものか」
あどけなくつぶやいたくちびるに、とっておきの愛を返す。少し荒れてしまった、けれど変わらず瑞々しくて柔らかなそこは、ふわりとテランスを受け入れた。別離の時を取り戻すような口づけではなく、末端でさえこれほど愛おしい彼を慈しむようについばんで、ふやけてひとつに融け合ってしまうほど、魅惑のくちびるを味わい、満たす。
滑らかなうなじに手を這わせて、ぞくぞくと身を震わせる彼をより引き寄せる。薄く開いたそこに招かれた舌でディオンの好きなところを丹念に可愛がったら、んぅ、と切なくあえかな吐息を漏らした彼が、うっとりと長い睫毛を上げて美しく微笑んだ。くちびるを離して、かわりに額をこつんと合わせ、甘やかなディオンの表情に陶酔する。
「ディオン……」
「ん、はぁ……。お前はいつだって余の欲しいものをくれる。ふふ。『永劫共に』……か」
花も恥じらう極上の笑み、心を蕩かす口ぶりで、ディオンはテランスの左手をそっとすくい上げた。見開いた視界の中で、彼の指が丁重に、かけがえのないものを扱うかのような優しさで、テランスの薬指に柔らかいくちびるを押し付けた。瞬いて、また瞬いて、彼の整った鼻梁を呆然と見やっても、夢幻に消えることなく、彼はテランスにぴたりと愛を寄せている。
そうしてゆっくり離れていったかんばせが、テランスを見つめてふわりとはにかんだ。
「テランス。余の永遠もお前にやろう」
──その、言葉以上に燦々と注がれる、愛にあふれたまなざしに。
己のすべてが、報われた、と思った。
目頭と喉が熱くひりつく。くちづけられたところから温もりに蕩けてしまいそうで、ぐっとこみ上げた嗚咽を飲み込み、それでもこらえきれずにこぼれた雫が、はたはたと頬を伝った。
「……ディオン、ディオンっ……!」
「すまない。ずいぶん待たせたな」
目からたくさんの想いが溢れては零れ落ちていく。
視界が滲んで、テランスは大急ぎで目元を拭った。もはや彼からいっときも目を離さないと誓った心が、喜びの雨に彼の姿を隠してしまう。
凛々しくて、強がりで、決して涙を見せないこの人に、己ばかりが頼りない姿を見られて情けないような、弱みさえ受けとめてもらえるのが喜ばしいような、矛盾した想いが喉奥を焼いた。
「……そうこすっては腫れてしまうぞ」
拳にするりと静止の指がかかって、瞼に、目尻に、濡れた頬に、淡いくちづけが降ってくる。それがまた雫を溢れさせると知らずに、ディオンは途方もない想いをのせたまなざしでテランスをじっと見つめている。
「ほら、楽しいことを考えてみろ。帰ったら何がしたい? なんでもしてやろう」
「っ、う、なんでも、」
「なんでもだ。愛しいテランス」
その言葉だけで十分なのに、ディオンはそれ以上をくれると言う。いじらしい人の愛情にこたえるべく頭をひねるが、貴方の側にいられるだけで……とくちびるを震わせることしかできなかった。
ふと、優しく首を傾げたディオンの耳飾りに視線がいった。無垢な耳たぶを抱きしめているそいつは、できることなら己の指で外してあげたいものだと、いつだって朝まで褥を共にできない我が身に溜息を吐かせる代物だったはずだ。
そう、人目を避けねばならず、時間をかけて睦み合うこともできなかったあの頃、抱いていた夢があったじゃないか。冗談みたいにささやかで、けれども、口にすることさえ憚られた叶わぬ夢が。
頬を吸うくちびるに誘われて、テランスはぽつりと願いを零した。
「……ディオンと、一日中ベッドの上で、自堕落に過ごしてみたい……」
「んっ……ふ、ティーンのようなことを」
「な、なんでもとおっしゃるから……!」
「はは、すまない。柄にもなく照れているのだ、あんまりお前が愛おしくって」
口を尖らせたテランスの後ろ首に、するりと両腕が巻き付いた。どきりと高鳴る胸に、ぶ厚い胸がすがりつく。星月の霞むほどきらきらとまばゆい彼の、ふわりとほころぶくちびるが、テランスのそれに重なった。
「今日から伴侶だ。余のプロポーズを受けたからには、お前をとびきりの幸せ者にしてやる。お前も余を満たしてくれ。なあ、テランス……」
「ディオン……」
テランスの下唇を甘美に食んだその人が、熱を乞うて身を揺らす。
男を求める舌を優しく吸って、両腕にとらえた彼の背筋を淫猥に撫でおろす。とびきりの嬌声、こぼれる吐息のひとひらさえ口腔に招き入れ、テランスはディオンに甘えるように腰を押し付けた。
それからテランスは、宝箱にしまいたいほど素晴らしいディオンの痴態──テランスのシャツの下に滑り込み、広い背をまさぐる手のひら、愛する男を敷いて前後に揺れるまろい尻、口では恥じらいながらも、大きく広げられてテランスを迎え入れる両足、……。そのすべてを心に刻んだ。
二人はじっくりと時間をかけて互いを与え合い、もはや分かたれぬひとつの心をくまなく確かめ、慈しみ、果てなき愛情に浸って長い夜を明かした。
***
──がらりと色を変えた世界にも、変わらず朝はやってくる。
聖なる翼はおろか、あらゆる魔法が姿を消して、社会の有り様や人々の営みに至るまで、様変わりした生活に戸惑う毎日だったが……ああ、テランスとディオンの在り方に比べれば、それらは実に瑣末な変化だ。
フェニックス、イフリート、皆で守り抜いた人の世を、ディオンとずっと一緒に守っていく。傍らに控える従者としてではなく、隣り合って苦楽を分かち合う伴侶として……。
テランスは分厚いカーテンを開け放ち、古めかしく軋む窓を全開にして、部屋に新鮮な空気と光を取り入れた。薄く引かれたレースカーテンを揺らす風が、小鳥のさえずりをシーツの上に運びこむ。
ベッドの上、半身を起こしてはいるものの、差し込む朝日にぽやぽやと微睡んでいる可愛い伴侶の額にくちづけて「おはよう」と笑いかければ、「んぅ。……う」と、返事なのだか寝言なのだかわからない鳴き声があがって、テランスは破顔してもうひとつくちづけた。
かつて欠けたるところのなかった皇子様は、今や無防備な姿を晒してくれるようになった。愛されたがりなディオンが、素のままで十分に愛してもらえるともっと自信を抱けるようになるまで、テランスはべたべたに甘やかすつもりでいる。
テランスは、子猫のように擦り寄ってきたくちびるへお望みのままくちづけて、「まだ寝る?」と蕩けた声で問いかけた。ふにゃふにゃと何か(否定だろう、たぶん)を口の中で転がしたディオンが、裸足のつま先をゆらゆらと彷徨わせ、ぺたりと床を踏みしめた。
スリッパを履かせてあげたくなるけれど、ぐっとこらえる。『従者のような真似』は彼の頬をふくらませる要因だ。こちらとしては『ベタ惚れ伴侶の仕草』に違いないのだが、線引きの難しいところであるし、それに、口喧嘩で勝てた試しがなかった。
「おはようテランス」
眠り姫のお目覚めだ。寝ぐせがついていようと、着崩れたリネンシャツから柔らかな胸がこぼれていようと、丸見えの滑らかな脚が目に毒だろうと、ディオンは今日も麗しい。
「おはようディオン。いい朝だ」
「うん。……下着がどこかにいってしまった」
「ええと……昨日、廊下で脱がせたかも……ごめん」
「ふふ……そういえば寝室まで点々と脱ぎ捨てていったな。面白いからそのままにしておこうか」
「そうだね。今日はロズフィールド卿しか来客予定がないし」
「ロズフィールド卿が来るんじゃないか!」
──地に堕ち、贖えぬ罪を背負っても、ディオンは折れずにまっすぐ立っていた。
愛する父に従順な英雄たらんとするのをやめて、人々のためにより心を砕き、助力を惜しまず泥をかぶって邁進するその姿は、余計に男の魅力を引き立たせた。
もとより見目麗しい男の全身に、清廉かつ気高い美しさが生々しく息づいているのだ。幼い頃から憧憬に懸想の念をけぶらせていた一人の雄が、惚れ直さないわけがない。
ほうと息をついてディオンを見つめる。テランスの熱視線を『いつものこと』として享受した彼が、意気揚々と廊下に向かった。
「卿も多忙だな。こたびは野獣退治の件だったか……。支度をするぞ。行こうテランス」
「ああ。無理はするなよ、ディオン」
「誰に物を言っている? お前の伴侶がそれしきで音を上げたりするものか」
にっといたずらな少年のように上がった口端。以前にまして愛らしいかんばせに見惚れていたら、ちゅうと頬にくちづけが降ってきた。あっと驚いて手を伸ばすも、ひらりと逃げられて、おまけに向けられた満面の笑みにとどめを刺されて、とうに骨抜きのテランスは幸せに溺れてしまいそうだった。
「そもそも、余の身を案じるなら夜は少しくらい手加減しろ」
「それは無理だ。もう誰憚ることないと思うと、可愛い君を前に我慢できるはずがない」
「お前は可愛げがなくなった。前は余の言うことならなんでも叶えてくれたのに……」
「でも今のほうが好きだろ?」
「自分で言うな。恥ずかしい奴……。大好きだテランス!」
「わっ、もう、ディオン、君は本当に……!」
振り向きざまに飛びつかれて、二人して床に転がり笑い合う。テランスを下敷きにし慣れた身体が胸板に手をついて起き上がったと思ったら、また勢い良く倒れこんできてテランスはぺしゃんこに押しつぶされた。
ぺったり身を寄せたディオンが、耳元でころころ笑う。くっついたところから伝わる振動が心地いい。背中を抱いて声を上げて笑っていたら、遠く階下で「おおい、邪魔するぞー! おらんのかー!?」という大声と無遠慮な足音が響き渡った。がばりと跳ね起きたディオンが、脱兎のごとく駆けていく。
「下着!!!!」
「あっ待ってディオン! 私が……」
「うわああああああああ」
「うおおおおなんじゃあ!! 見とらん! ワシは見とらん!!」
「ああ……ははは……」
最強の翼を失おうと、その手に輝き灯すことがなくなろうと、ディオンは、どんな光よりまばゆく温かく愛おしい。
──あの日墜ちた英雄は、今もこれからも人として、ずっとテランスと共にある。
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創世阻む陽炎ひらめき、天を光の矢が穿つ。
宙に浮く禍々しき結晶が、人の世へと降り注ぐ。
テランスは、傷だらけの最愛の人とそのさまを見た。
重々しく立ち込めていた暗雲が舞台を降りて、無垢な星星が夜空へと舞い戻る。
ヴァリスゼアに光落とす望月を遥かに眺めていたディオンは、傍らのテランスに一瞥もくれることはなかった。
打ち寄せる波が岬にくだけて、崖下で白白と波打った。風がうなって、濡れた長衣は重くはためき、崩れた金髪が頬を打つ。拳だけが強く握りしめられて、表情に険はない。
ビリッと耳慣れた音がした。無理を通した彼の右腕、矜持満ちたそこを仄白い閃光が取り巻いて、弱々しく月夜に散った。それが、ドミナントたる彼の最後の発露だった。
とても静かな幕引きだった。
ディオン・ルサージュは、ザンブレクの英雄だった。民草を護り、救い、導き賜う聖なる光。──それが、かつての彼だった。
今、テランスの瞳に映るのは、途方も無い虚ろを抱きしめる人間の姿だった。
目を離せば二度と会えなくなるような、危うい淵に立つ人間の。
「フェニックス、イフリート……。終わった、すべてが……」
かぼそい呟きをその場に残し、ディオンの靴底が土を擦った。おぼつかない足取りが月影へと吸い寄せられていく。その先に待つのは断崖だ。けれど、一歩、また一歩と彼は歩みを止めることなく、白い背中が悠久の闇にとけていく。
テランスは、幼い頃からその背に憧れ、敬愛し、必死で守り抜いてきた。それが今やぽつんと遠のいて、とてもさびしく、この世のものと思えないほど幽艶に揺らめいている。ぞっと血の気が引いて、咄嗟に声を張り上げた。
「ディオン様! 終わりではありません、これからです!」
応えはない。必死の遠吠えは愛しい背中に跳ね返されて、足元にほろほろと落ち重なった。ともすれば縋り付くような励ましも、今の彼には抱えきれないだろうことも承知で、けれど諦めるつもりはなかった。
「我々はまた、ここから出発するのです! ディオン様は、我々の……私にとっての、唯一のしるべです。どうか、どうか……」
本当は、テランスにとって民も国も二の次だった。ディオンの望みを叶え、彼が幸せでいてくれさえすれば、それでよかった。その齟齬が二人を隔てていることも、重々承知した上で。
よき理解者たりえなかった、黄泉の道連れにも選ばれなかった。けれど、彼の支えとなるのは、この世の楔となれるのは、きっとテランスの他にない。そう思うのに、ようやく絞り出せたのは、弱々しい懇願だった。
「……置いて行かないで……ディオン……」
テランスの大切な人は、ゆっくりと断崖へつま先をかけた。その先は、と目を見張れば、土埃に輝きを奪われた彼の靴が、動きを止めた。
瞬く。まさか、と思って、ごくりとつばを飲む。
ああ果たして、そのまさか。
ディオンの手のひらが、テランスを手招いた。顔は向こうへ向いたまま。来い、とでも言いたげな、不釣り合いな気軽さで。
あ、と唇を震わせたテランスの方へ、澄ました横顔が振り返った。
ひときわ強い風が吹き、鼓膜が震えた。穴の開くほど見つめる先で、金髪をゆっくりとかき上げたディオンが、小さく笑った。
「仕方のない奴だ。そう悲壮な声で鳴かれては、おちおち物思いに耽ってもいられない」
「……っ! ディオン様……!」
たまらず彼のもとへ駆け寄る。彼の中にはまだ自分の居場所がある、その事実だけで、身体が羽のように軽く感じられた。
月華を背負う愛しい人が、ぎゅうと目を細めてテランスを見つめた。遠く、まばゆいものを見るような眼差しで。浮足立った心がすとんと地に足つけて、テランスは彼の目の前で立ち止まった。
静かに佇むディオンを、じっと見つめる。闇夜に翳る彼の笑顔は、とても朗らかとは言いがたかった。
──取り繕うこともできないほど傷ついて、それでいながら無理にくちびるを歪ませて、どうしてこの人はこうなのだろう。
だからテランスは、強がりの彼を大事に大事に腕の中にしまいこむことにした。めいっぱい捧げた愛に寄りかかってもらえずとも、別にいい。傷も悲しみもひた隠して、それでもこわごわとテランスに寄り添う彼の優しさを知っている。
ディオンはほうっと息をついて、ぎこちなくテランスの首筋に鼻を埋めた。それだけで十分だった。
「帰りましょう、ディオン様」
「…………」
俯く彼の髪をそうっと撫でる。返事はない。脇腹のあたりに指が縋り付くのを感じて、常になく寄る辺ない温もりに、胸を締め付けられた。
無骨な指先が何度か髪を梳いたころ、物憂い吐息が素肌をなぞった。
「……余にはもう、帰る場所など……」
「私がいます。貴方の安寧は私がつくる」
「……安寧……余が奪った、父上から、民から……」
「ディオン……」
「アルテマは斃れたが、余の罪が消えたわけではない。こうして長らえた命さえ、正しいのかどうかさえ……。それでも、それでも余は……お前と共に……」
「っは……!」
押し殺した声に、短く返す。
贖罪に命を賭そうとしていた彼が、わずかでも希望に手を伸ばそうとしている。それがなにより嬉しくて、二人の間に光明が差したようだった。
世界が一変したとて、テランスは揺らがない。ディオンと共にある限り、テランスが折れることはない。それはまた、彼にとってもそうであればいいと願っている。いいや、願いなんてものでは足りない。
今度こそ、己がディオンにとっての光となろう。
強く抱きしめた腕の中、愛しい身体がふるりと身じろいだ。
「……お前はどうしたい」
「ディオン様のお側に」
「もう主従ではないと言っても……」
「はっ。永劫あなたと共に」
もう一度、彼の身が戦慄いた。腰を抱いて、つむじにくちづける。今度はくすぐったそうに震えたディオンがゆっくりと顔を上げ、熱い視線が交差した。痛々しい笑顔がほどけて、愛しいかんばせが、ぎこちなくとも安堵に頬を緩ませている。心にふつふつと喜びが灯されて、テランスはつられて微笑んだ。
「……余から離れる最後のチャンスを逃したな。お前は馬鹿だ。救いようのない馬鹿だ」
「一途だとおっしゃってください。どこまでだってお供いたします」
「うん、もう手放したりするものか」
あどけなくつぶやいたくちびるに、とっておきの愛を返す。少し荒れてしまった、けれど変わらず瑞々しくて柔らかなそこは、ふわりとテランスを受け入れた。別離の時を取り戻すような口づけではなく、末端でさえこれほど愛おしい彼を慈しむようについばんで、ふやけてひとつに融け合ってしまうほど、魅惑のくちびるを味わい、満たす。
滑らかなうなじに手を這わせて、ぞくぞくと身を震わせる彼をより引き寄せる。薄く開いたそこに招かれた舌でディオンの好きなところを丹念に可愛がったら、んぅ、と切なくあえかな吐息を漏らした彼が、うっとりと長い睫毛を上げて美しく微笑んだ。くちびるを離して、かわりに額をこつんと合わせ、甘やかなディオンの表情に陶酔する。
「ディオン……」
「ん、はぁ……。お前はいつだって余の欲しいものをくれる。ふふ。『永劫共に』……か」
花も恥じらう極上の笑み、心を蕩かす口ぶりで、ディオンはテランスの左手をそっとすくい上げた。見開いた視界の中で、彼の指が丁重に、かけがえのないものを扱うかのような優しさで、テランスの薬指に柔らかいくちびるを押し付けた。瞬いて、また瞬いて、彼の整った鼻梁を呆然と見やっても、夢幻に消えることなく、彼はテランスにぴたりと愛を寄せている。
そうしてゆっくり離れていったかんばせが、テランスを見つめてふわりとはにかんだ。
「テランス。余の永遠もお前にやろう」
──その、言葉以上に燦々と注がれる、愛にあふれたまなざしに。
己のすべてが、報われた、と思った。
目頭と喉が熱くひりつく。くちづけられたところから温もりに蕩けてしまいそうで、ぐっとこみ上げた嗚咽を飲み込み、それでもこらえきれずにこぼれた雫が、はたはたと頬を伝った。
「……ディオン、ディオンっ……!」
「すまない。ずいぶん待たせたな」
目からたくさんの想いが溢れては零れ落ちていく。
視界が滲んで、テランスは大急ぎで目元を拭った。もはや彼からいっときも目を離さないと誓った心が、喜びの雨に彼の姿を隠してしまう。
凛々しくて、強がりで、決して涙を見せないこの人に、己ばかりが頼りない姿を見られて情けないような、弱みさえ受けとめてもらえるのが喜ばしいような、矛盾した想いが喉奥を焼いた。
「……そうこすっては腫れてしまうぞ」
拳にするりと静止の指がかかって、瞼に、目尻に、濡れた頬に、淡いくちづけが降ってくる。それがまた雫を溢れさせると知らずに、ディオンは途方もない想いをのせたまなざしでテランスをじっと見つめている。
「ほら、楽しいことを考えてみろ。帰ったら何がしたい? なんでもしてやろう」
「っ、う、なんでも、」
「なんでもだ。愛しいテランス」
その言葉だけで十分なのに、ディオンはそれ以上をくれると言う。いじらしい人の愛情にこたえるべく頭をひねるが、貴方の側にいられるだけで……とくちびるを震わせることしかできなかった。
ふと、優しく首を傾げたディオンの耳飾りに視線がいった。無垢な耳たぶを抱きしめているそいつは、できることなら己の指で外してあげたいものだと、いつだって朝まで褥を共にできない我が身に溜息を吐かせる代物だったはずだ。
そう、人目を避けねばならず、時間をかけて睦み合うこともできなかったあの頃、抱いていた夢があったじゃないか。冗談みたいにささやかで、けれども、口にすることさえ憚られた叶わぬ夢が。
頬を吸うくちびるに誘われて、テランスはぽつりと願いを零した。
「……ディオンと、一日中ベッドの上で、自堕落に過ごしてみたい……」
「んっ……ふ、ティーンのようなことを」
「な、なんでもとおっしゃるから……!」
「はは、すまない。柄にもなく照れているのだ、あんまりお前が愛おしくって」
口を尖らせたテランスの後ろ首に、するりと両腕が巻き付いた。どきりと高鳴る胸に、ぶ厚い胸がすがりつく。星月の霞むほどきらきらとまばゆい彼の、ふわりとほころぶくちびるが、テランスのそれに重なった。
「今日から伴侶だ。余のプロポーズを受けたからには、お前をとびきりの幸せ者にしてやる。お前も余を満たしてくれ。なあ、テランス……」
「ディオン……」
テランスの下唇を甘美に食んだその人が、熱を乞うて身を揺らす。
男を求める舌を優しく吸って、両腕にとらえた彼の背筋を淫猥に撫でおろす。とびきりの嬌声、こぼれる吐息のひとひらさえ口腔に招き入れ、テランスはディオンに甘えるように腰を押し付けた。
それからテランスは、宝箱にしまいたいほど素晴らしいディオンの痴態──テランスのシャツの下に滑り込み、広い背をまさぐる手のひら、愛する男を敷いて前後に揺れるまろい尻、口では恥じらいながらも、大きく広げられてテランスを迎え入れる両足、……。そのすべてを心に刻んだ。
二人はじっくりと時間をかけて互いを与え合い、もはや分かたれぬひとつの心をくまなく確かめ、慈しみ、果てなき愛情に浸って長い夜を明かした。
***
──がらりと色を変えた世界にも、変わらず朝はやってくる。
聖なる翼はおろか、あらゆる魔法が姿を消して、社会の有り様や人々の営みに至るまで、様変わりした生活に戸惑う毎日だったが……ああ、テランスとディオンの在り方に比べれば、それらは実に瑣末な変化だ。
フェニックス、イフリート、皆で守り抜いた人の世を、ディオンとずっと一緒に守っていく。傍らに控える従者としてではなく、隣り合って苦楽を分かち合う伴侶として……。
テランスは分厚いカーテンを開け放ち、古めかしく軋む窓を全開にして、部屋に新鮮な空気と光を取り入れた。薄く引かれたレースカーテンを揺らす風が、小鳥のさえずりをシーツの上に運びこむ。
ベッドの上、半身を起こしてはいるものの、差し込む朝日にぽやぽやと微睡んでいる可愛い伴侶の額にくちづけて「おはよう」と笑いかければ、「んぅ。……う」と、返事なのだか寝言なのだかわからない鳴き声があがって、テランスは破顔してもうひとつくちづけた。
かつて欠けたるところのなかった皇子様は、今や無防備な姿を晒してくれるようになった。愛されたがりなディオンが、素のままで十分に愛してもらえるともっと自信を抱けるようになるまで、テランスはべたべたに甘やかすつもりでいる。
テランスは、子猫のように擦り寄ってきたくちびるへお望みのままくちづけて、「まだ寝る?」と蕩けた声で問いかけた。ふにゃふにゃと何か(否定だろう、たぶん)を口の中で転がしたディオンが、裸足のつま先をゆらゆらと彷徨わせ、ぺたりと床を踏みしめた。
スリッパを履かせてあげたくなるけれど、ぐっとこらえる。『従者のような真似』は彼の頬をふくらませる要因だ。こちらとしては『ベタ惚れ伴侶の仕草』に違いないのだが、線引きの難しいところであるし、それに、口喧嘩で勝てた試しがなかった。
「おはようテランス」
眠り姫のお目覚めだ。寝ぐせがついていようと、着崩れたリネンシャツから柔らかな胸がこぼれていようと、丸見えの滑らかな脚が目に毒だろうと、ディオンは今日も麗しい。
「おはようディオン。いい朝だ」
「うん。……下着がどこかにいってしまった」
「ええと……昨日、廊下で脱がせたかも……ごめん」
「ふふ……そういえば寝室まで点々と脱ぎ捨てていったな。面白いからそのままにしておこうか」
「そうだね。今日はロズフィールド卿しか来客予定がないし」
「ロズフィールド卿が来るんじゃないか!」
──地に堕ち、贖えぬ罪を背負っても、ディオンは折れずにまっすぐ立っていた。
愛する父に従順な英雄たらんとするのをやめて、人々のためにより心を砕き、助力を惜しまず泥をかぶって邁進するその姿は、余計に男の魅力を引き立たせた。
もとより見目麗しい男の全身に、清廉かつ気高い美しさが生々しく息づいているのだ。幼い頃から憧憬に懸想の念をけぶらせていた一人の雄が、惚れ直さないわけがない。
ほうと息をついてディオンを見つめる。テランスの熱視線を『いつものこと』として享受した彼が、意気揚々と廊下に向かった。
「卿も多忙だな。こたびは野獣退治の件だったか……。支度をするぞ。行こうテランス」
「ああ。無理はするなよ、ディオン」
「誰に物を言っている? お前の伴侶がそれしきで音を上げたりするものか」
にっといたずらな少年のように上がった口端。以前にまして愛らしいかんばせに見惚れていたら、ちゅうと頬にくちづけが降ってきた。あっと驚いて手を伸ばすも、ひらりと逃げられて、おまけに向けられた満面の笑みにとどめを刺されて、とうに骨抜きのテランスは幸せに溺れてしまいそうだった。
「そもそも、余の身を案じるなら夜は少しくらい手加減しろ」
「それは無理だ。もう誰憚ることないと思うと、可愛い君を前に我慢できるはずがない」
「お前は可愛げがなくなった。前は余の言うことならなんでも叶えてくれたのに……」
「でも今のほうが好きだろ?」
「自分で言うな。恥ずかしい奴……。大好きだテランス!」
「わっ、もう、ディオン、君は本当に……!」
振り向きざまに飛びつかれて、二人して床に転がり笑い合う。テランスを下敷きにし慣れた身体が胸板に手をついて起き上がったと思ったら、また勢い良く倒れこんできてテランスはぺしゃんこに押しつぶされた。
ぺったり身を寄せたディオンが、耳元でころころ笑う。くっついたところから伝わる振動が心地いい。背中を抱いて声を上げて笑っていたら、遠く階下で「おおい、邪魔するぞー! おらんのかー!?」という大声と無遠慮な足音が響き渡った。がばりと跳ね起きたディオンが、脱兎のごとく駆けていく。
「下着!!!!」
「あっ待ってディオン! 私が……」
「うわああああああああ」
「うおおおおなんじゃあ!! 見とらん! ワシは見とらん!!」
「ああ……ははは……」
最強の翼を失おうと、その手に輝き灯すことがなくなろうと、ディオンは、どんな光よりまばゆく温かく愛おしい。
──あの日墜ちた英雄は、今もこれからも人として、ずっとテランスと共にある。
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玄鳥の帰る家
古の隠れ里。
そこは今や帳の降りた山野にあって、中央にぽつんと佇む庵から漏れるわずかな光が、薄闇に紛れる来訪者を優しく手招いている。
家主の纏う闇色を思い描いて、アヤシシさえ追い抜く速度の心と身体が風を切る。
ここに来たのは知りたいことがあったからだ。口の中で、心のこもらぬ言葉を転がす。プレートのことでいち早く知りたいことがあって、云々。
本当は、ムラを追われてこのかた、横殴りの雨に晒されるキャンプで寝泊まりする日々が続いていて、心細くて人恋しかった。明かりの灯る家に、少しだけでいい、おれの居場所が欲しかった。彼女ならきっと優しく出迎えてくれると信じて、今日という夜を駆け抜けてきた。
目元を拭う。足早に橋の上を通過して、傍らの焚き火にテーブルに見事な畑に目をくれることもせず、まっすぐに扉へと向かう。心弾ませ辿り着いた先で、ドンドンと気の急くノックをして、ドキドキしながら応えを待った。しかし、思い描いていた声は返らずに、どさ、ばさ、とどこか慌てたような衣擦れの音と、軋むような音がした。返事はない。けれど、コギトさんは中にいるようだ。そのことにほっとして、返事も待たずに扉を開いてそうっと足を踏み入れた。
入ってすぐ、こんもりと布団を盛り上がらせたベッドが視界に飛び込んできた。足元には脱ぎ捨てられたのだろう衣服がわだかまっている。黒服の下にちらりとのぞく派手な色。とりどりのハーブの香りの影で、少しだけ空気がこもっている感じがした。
しまった、明かりはついているけれど、寝ていたのかもしれない。そう思ってもじもじと視線を彷徨わせていると、布団の2つの山のうち、ひとつがもぞりと動いて、銀糸ののった頭がぴょんと飛び出した。――コギトさんだ!
「コギトさん」
目が合うと、警戒するような目つきが途端にぱっと和らいで、彼女はもぞもぞと億劫そうに身を起こした。するりと布団が肩から落ちる。次第にあらわになっていくコギトさんの姿に、おれのまなざしは縫い止められた。
「なんじゃ、テルか……よく来たのう」
「……あ、…………」
いつもは黒襟に隠されている細首が、夢のように生白く照らされている。生唾飲み込み見つめる先で、結われることなく下ろされた寝乱れ髪のくるくると踊る隙間から、虫刺されのような赤い点がいくつも姿を覗かせていた。そして、胸元に抱き寄せられた毛布からこぼれる二つの膨らみや、存外ふっくらとした二の腕、その影が落ちる脇のくぼみまで、おれはしっかり、まざまざと、目の当たりにしてしまった。
……大人の女の人の裸だ……!
目をそらさなければと気は逸るのに、繊細な陰影を形取る鎖骨から、なだらかな丸いラインを描く裸の肩までうっすらと珊瑚色に染まっていることに気がついて、ますます釘付けになってしまった。息が上がっているのか、わずかに上下している双丘にも、普段は白手袋に守られているほっそりとした指先にさえドギマギしてしまって、言葉が喉につかえてうまく出てこない。
「こんな夜更けにどうしたのじゃ。あたしに何か用かのう」
「あ、あのう……」
いつにも増して気怠げな、それでいて甘く掠れた声が、淀んだ空気にじんわり溶けた。流れる銀髪をゆっくりかきあげて耳にかけたその人の、長いまつ毛の影からのぞく魔女めいた瞳に見つめられて、頭からぱくりと食べられたみたいに動けない。
交差する視線、非難の色の見えない温かいまなざし、しっとりと汗ばむ白肌……あ、目尻が少し、赤くなってる……。
おれはブンブンと頭を振った。
「あっ、えっとその、ご、ごめんなさい……。おれ、あの……」
「ふむ。すまぬが、少し待ってくれぬか。今はちと都合が悪くてな」
繊細な爪をのせた細指が唇をなぞる。無防備なそのさまに、不安が胸のうちに湧き上がってきた。夜中に突然訪ねるのは非常識だってこと、もっと早く気付けばよかった。
おれの眉毛がどんどん八の字になっていくのを見て、気遣いの滲む困ったような表情が、「そうじゃな。……少し、外で待っていてくれれば」と呟いた。
コギトさんの横、不自然に膨らんだままの布団を、ぽんとたおやかな手が叩く。しぼむ気配はなく、固い何かがそこに潜んでいる――コギトさんもポケモンと一緒に寝るのだろうか。想像しかけて、もう一度頭を振った。
「はい。急に来てごめんなさい……。プレートのことで、聞きたいことがあったんです。庭で待ってますね」
うむ、と頷いたのを認めて、頭を下げながら扉を振り返る寸前、視界の端でコギトさんの隣の塊がグンと動いた。すわポケモンかと身構えたが、不自然に盛り上がっていたそこ、勢いよく跳ね除けられた毛布の下から姿を現したのは――男、彫刻のように美しく隆起した上半身に、見慣れた美貌をのせたウォロだった。
「プレートのことなら火急の用件ですね。テルさん、何が知りたいんです?」
「えっ!! う、ウォロさん……!?」
あんぐりと空いた口がふさがらない。泳ぎまくる視線の先で、隆々とした二の腕が、コギトさんの柔らかそうな素肌にぴとりとくっついているのが見えた。お馴染みのポーズで指振り笑顔振りまくその男が、どうしてこれまた一糸まとわぬ姿でこんなところにいるのだろう。一方のコギトさんは額に手をあてて、なぜだかため息をついている。華奢な彼女と並ぶとますます互いの魅力が匂い立つような、いや、そんなことよりも……。
――裸の男女がひとつの布団から生えているこの状況、もしかして、もしかしなくても、自分はとんでもない現場に闖入してしまったのでは?
「すアッッすすみませっ! おれその急ぎじゃないんでえ!! じゃあッ!!!」
「ええっ、プレート集めは急務かと……あ、ちょっと、テルさん!」
心臓が飛び出てしまいそうだ。とんぼがえりする心についていけないもつれる足で、大いにこけてめちゃくちゃに転がりながら走り出したおれの背後で、呆れた声音が遠く聞こえた。
「なんで出てくるかのう……。そなたは本当に思いやりのない男じゃ」
「ンン? 心外ですね。ジブンは今夜も優しかったでしょう。さあ、それよりも早く続きを」
「はあ。デリカシーもない男じゃ……」
虫刺されかと思ったあれ、あれってつまり、アレだったのか!!なんて大騒ぎする鼓動をおさえて、軒先からすぐのところでまたつんのめって転がって、大の字に倒れて空を見た。ああ、裂け目が広がって禍々しい赤色に燃えていようとも、夜空が壮大で綺麗なことにかわりはない……。
気づけば、傍らのケーシィがじっとおれを見下ろしていた。這いずって足元まで寄って行くと、うわ、と言わんばかりに身体を跳ねさせたが、逃げ出すことはなかった。隊長に似て、優しい子なんだ。ああ、早く皆のところに帰りたいなあ……。
と、そんなことがあったのが、小一時間前のことである。
「……こんばんはウォロさん」
「まだいたのかよ!!!! いや、まだいたんですか。ビックリしました」
ケーシィにすがりついて返答のないお悩み相談をしていたら、薄着のウォロさんがひょっこり出てきて見つかってしまった。一瞬崩れたものの、相変わらずのにこにこ笑顔がそこにある。対して仰ぎ見たケーシィはいつも通りの無表情だったが、心なしかゲッソリしてしまった気がする。無理やり付きあわせてしまって、ちょっと悪いことをしたかもしれない。バツの悪い思いで膝を抱える。
「何か物音がすると思ったらまだいらっしゃるとは。普通帰りません? ジブンが言うことではないんですが」
「帰るところがないんですぅ……」
「おっと失礼、そうでした。アナタをここに匿ったのはジブンでしたね。ではどうですか、一緒に寝ます?」
「…………」
冗談めかしたウォロさんの言葉に、視線をそらして唇を尖らせる。幼い仕草だとわかっていても、だんまりを決めるほかなかった。だって、一緒にという言葉が、たとえ冗談だとしても本当に嬉しかったから。
ともすれば涙をこぼしてしまいそうなおれに気づかないフリで、手招きをしたウォロさんが踵を返した。
「さあ、外は冷えます。プレートの話は中でゆっくり聞きましょうか」
「で、でも、二人は……いや、コギトさんが、えっと……都合が悪いんじゃ」
「よいぞ。お色直ししてあたしはすっかり元通りじゃ。ほれ、なんでも聞いてやろう」
バアンと音を立てて開いた扉から、えへんとふんぞり返ったコギトさんが姿を現した。万全のアピールなのか、薄手の黒いキャミソール一枚を纏った姿で、腕を広げてゆっくり一回転なんてしている。惜しみなく晒された白い脚、わずかな面積の黒い布からのぞく谷間に、つんと上を向いている胸が、裸でいるよりよっぽど目の毒だった。とどめに、首元を隠すように巻かれた色鮮やかなファー、そいつはどう見てもウォロさんのものだった。人の物を我が物顔で身にまとう女性が、これほどいやらしく目に映るなんて思ってもみなかった。
かっぴらいた目でしっかり脳裏に焼き付けていたら、唇を弧に描いた野性的な美貌が耳元に寄ってきて、いたずらに囁いた。
「コギトさんもああ言っていることですし、思う存分甘えるといいですよ。あの人、若者を甘やかすのが大好きなので」
横目で見やる。爽やかを通り越して胡散臭い笑み、やっぱり何を考えているんだかわからない人だ。男の顔をして、それでいて保護者然に振る舞って、でも今は、絶対におれをからかって面白がっている。
そっちがその気なら遠慮しませんからねと、鼻を鳴らしてずんずん庵に舞い戻る。心底可笑しそうにかみ殺された笑い声が耳に届いても、開き直って心を決めたおれは今度こそコギトさんに真っ向から対峙することができた。オクタンみたいに赤くなっている自覚はあるが、若いんだもの、しょうがない。
すると、喜色を浮かべた麗人が、これまた嬉しそうに手を叩いておれを見た。
「テル、お腹は空いておらんか? オヤツはいくらでもあるでな。これなんかどうじゃ。スイートトリュフにきらきらミツをかけただけじゃが、中々いい塩梅になっての。そうじゃ、イモモチも焼いてやろう。こんな時間じゃが、若いからどれだけ食べても平気じゃろ。ウォロが持ってきたまふぃんとかいうのもあるぞ。そなたの時代の甘味には劣るかもしれんが、ごりごりミネラルをかけるとあら不思議、ますます美味しくなるのじゃ」
てきぱき、生き生き、もりもりと、テーブルの上にありとあらゆる食べ物が並べられていく。すべすべの肌に見劣りしない、とっても美味しそうなおやつたち。素材そのままみたいなものから、コギトさんの手作りらしきおやつ、コトブキムラ新名物のマフィンだってある。
ぽかんと眺めていたら、ウォロさんが横からすいっと手を伸ばして、行儀悪くオヤツをつまんで口に放り込んだ。
「こら、一人だけ先に食べるでない。そなたは早く外から椅子を持ってこんか」
「ベッドに座って食べればいいじゃないですか。その方が楽しいですよ」
「まったく……まあ一理あるのう。おいで、テルも遠慮しなくていいんじゃぞ」
そう言って微笑んだその人は、魅惑的な格好だとか、女と男のあれやこれやの気まずさだとか、何もかもが吹っ飛ぶくらい、ただただ安心感に満ち溢れたおばあちゃんのようだった。
山盛りのお菓子を振る舞うコギトおばあちゃんと、ぷらぷらしてちょっかいをかけてくるウォロお兄ちゃん。見目麗しい二人はお似合いなようでいて、恋人と呼ぶにはなんだか違う気がする。けれど耳年増なおれは知っている。こういうのを、若いスバメと呼ぶのだと。
そしてどうやら、ひとりきりだったおれの居場所を、二人は作ってくれている。どうしようもなく嬉しくって、泣き虫な心を振り切るように、弾んだ声で切り出した。
「ありがとうウォロさん。おかげで田舎ができました。スバメつきの」
「えっ? すばめ? どういうことです?」
「プレートのことを教えてもらったら、すぐに向かいますから! 今はたくさん食べて力をつけますね。ありがとうコギトさん」
「うむうむ。その意気じゃ」
「そういえばジブン、マフィン2個しか買ってきてな……あっもう残ってねえ!!」
「すばやさが足らんのじゃ」
「そうなのじゃ」
「はあ!? ちょっと、いつの間に仲良くなってるんですか!」
「イモモチ食べたい人~」
「は~い」
「ちょっと! はい!! ジブンも!!」
はいはいはいと挙手をするウォロさんに、「では手伝え」と素気ないお達しが下った。「テルは今日は食べる係じゃからの」と、気持ちの良い依怙贔屓つきで。いつも飄々としている男が大仰に肩を落として、「今日だけは係をかえたい気分です」なんて甘ったれたことを言って頭をはたかれている。これからもおれはここにいていいんだと、驚くほどすうっと心に沁みて、久しぶりに、腹の底から笑えた気がした。
そうして夜明けまではしゃぎ倒した結果、いつの間にか三人で折り重なって昼下がりまで惰眠を貪っていたのだが、その後向かった湖でセキさんに「遅い!!」とウォロさんともども怒鳴られて、巻きでプレートを回収するハメになった。それさえも楽しくってしょうがなくって、この日のことは一生忘れないだろうなと笑っていたら、口をへの字に結んだセキさんにほっぺをつねられた。いひゃいですと見上げれば男前が吹き出して、側に立つウォロさんまでにんまり笑うものだから、釣られたおれもにまにま笑んで、男三人で肩を並べて不気味に笑いあったまま、隠れ里への帰路を歩んだ。
居場所というのは、場所じゃなくって、人なんだ。
彼らがくれるそれは時として増えたり減ったりするけれど、温かくって、居心地がよくって、宝物とも呼べるくらいどれも大切なものである。
一番はもちろんギンガ団の皆と過ごす居場所だけれども、彼と彼女の思い出がつまったおれの田舎も、同じくらい大好きで、かけがえのない居場所となっている。
------------------------------------------
ところで、図鑑が242匹とずいぶん分厚くなった頃。
遠いところへ旅立ったかと思いきや、スバメは今日もおれの田舎に羽を休めに舞い戻る。
「いやちょっと! もう会うことはないでしょうとか言ってませんでした!? なんでいるんですかウォロさん!!」
「なんでって、ここはワタクシの家ですから」
「そなたの家ではないのう……」
「アナタこそなんでいるんです? もうここに用はないでしょう」
「ハァそりゃもちろん、ここはおれの田舎ですから!?」
「いつの間に田舎になったのかのう……」
「クラフト台だってあるし! おれはいつ来たっていいんです! 歓迎されてます!」
「残念、そのクラフト台は昔コギトさんがワタクシのために用意してくれたものですよ。そうワタクシのためにね! はい以後テルさんは使わないでください~」
「残念、今となってはもうおれだけのものです~」
「幼児の喧嘩じゃのう」
「はあウォロさんめ、いなくなったと思ったらコギトさんの前には抜け抜けと現れるなんて。くそう、おれのアルセウスを見せてやる!! いけアルセぼん!!」
「あー!! 格好わるいニックネームをつけられているアルセウスの分身なんて心の底から見たくありません!! ガブリアス、打破せよ! ……いや打破もしたくありません!!」
「仲良しだのう。さて、イモモチ食べる人~」
「は~い」
「はい!! ワタクシも!!!」
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古の隠れ里。
そこは今や帳の降りた山野にあって、中央にぽつんと佇む庵から漏れるわずかな光が、薄闇に紛れる来訪者を優しく手招いている。
家主の纏う闇色を思い描いて、アヤシシさえ追い抜く速度の心と身体が風を切る。
ここに来たのは知りたいことがあったからだ。口の中で、心のこもらぬ言葉を転がす。プレートのことでいち早く知りたいことがあって、云々。
本当は、ムラを追われてこのかた、横殴りの雨に晒されるキャンプで寝泊まりする日々が続いていて、心細くて人恋しかった。明かりの灯る家に、少しだけでいい、おれの居場所が欲しかった。彼女ならきっと優しく出迎えてくれると信じて、今日という夜を駆け抜けてきた。
目元を拭う。足早に橋の上を通過して、傍らの焚き火にテーブルに見事な畑に目をくれることもせず、まっすぐに扉へと向かう。心弾ませ辿り着いた先で、ドンドンと気の急くノックをして、ドキドキしながら応えを待った。しかし、思い描いていた声は返らずに、どさ、ばさ、とどこか慌てたような衣擦れの音と、軋むような音がした。返事はない。けれど、コギトさんは中にいるようだ。そのことにほっとして、返事も待たずに扉を開いてそうっと足を踏み入れた。
入ってすぐ、こんもりと布団を盛り上がらせたベッドが視界に飛び込んできた。足元には脱ぎ捨てられたのだろう衣服がわだかまっている。黒服の下にちらりとのぞく派手な色。とりどりのハーブの香りの影で、少しだけ空気がこもっている感じがした。
しまった、明かりはついているけれど、寝ていたのかもしれない。そう思ってもじもじと視線を彷徨わせていると、布団の2つの山のうち、ひとつがもぞりと動いて、銀糸ののった頭がぴょんと飛び出した。――コギトさんだ!
「コギトさん」
目が合うと、警戒するような目つきが途端にぱっと和らいで、彼女はもぞもぞと億劫そうに身を起こした。するりと布団が肩から落ちる。次第にあらわになっていくコギトさんの姿に、おれのまなざしは縫い止められた。
「なんじゃ、テルか……よく来たのう」
「……あ、…………」
いつもは黒襟に隠されている細首が、夢のように生白く照らされている。生唾飲み込み見つめる先で、結われることなく下ろされた寝乱れ髪のくるくると踊る隙間から、虫刺されのような赤い点がいくつも姿を覗かせていた。そして、胸元に抱き寄せられた毛布からこぼれる二つの膨らみや、存外ふっくらとした二の腕、その影が落ちる脇のくぼみまで、おれはしっかり、まざまざと、目の当たりにしてしまった。
……大人の女の人の裸だ……!
目をそらさなければと気は逸るのに、繊細な陰影を形取る鎖骨から、なだらかな丸いラインを描く裸の肩までうっすらと珊瑚色に染まっていることに気がついて、ますます釘付けになってしまった。息が上がっているのか、わずかに上下している双丘にも、普段は白手袋に守られているほっそりとした指先にさえドギマギしてしまって、言葉が喉につかえてうまく出てこない。
「こんな夜更けにどうしたのじゃ。あたしに何か用かのう」
「あ、あのう……」
いつにも増して気怠げな、それでいて甘く掠れた声が、淀んだ空気にじんわり溶けた。流れる銀髪をゆっくりかきあげて耳にかけたその人の、長いまつ毛の影からのぞく魔女めいた瞳に見つめられて、頭からぱくりと食べられたみたいに動けない。
交差する視線、非難の色の見えない温かいまなざし、しっとりと汗ばむ白肌……あ、目尻が少し、赤くなってる……。
おれはブンブンと頭を振った。
「あっ、えっとその、ご、ごめんなさい……。おれ、あの……」
「ふむ。すまぬが、少し待ってくれぬか。今はちと都合が悪くてな」
繊細な爪をのせた細指が唇をなぞる。無防備なそのさまに、不安が胸のうちに湧き上がってきた。夜中に突然訪ねるのは非常識だってこと、もっと早く気付けばよかった。
おれの眉毛がどんどん八の字になっていくのを見て、気遣いの滲む困ったような表情が、「そうじゃな。……少し、外で待っていてくれれば」と呟いた。
コギトさんの横、不自然に膨らんだままの布団を、ぽんとたおやかな手が叩く。しぼむ気配はなく、固い何かがそこに潜んでいる――コギトさんもポケモンと一緒に寝るのだろうか。想像しかけて、もう一度頭を振った。
「はい。急に来てごめんなさい……。プレートのことで、聞きたいことがあったんです。庭で待ってますね」
うむ、と頷いたのを認めて、頭を下げながら扉を振り返る寸前、視界の端でコギトさんの隣の塊がグンと動いた。すわポケモンかと身構えたが、不自然に盛り上がっていたそこ、勢いよく跳ね除けられた毛布の下から姿を現したのは――男、彫刻のように美しく隆起した上半身に、見慣れた美貌をのせたウォロだった。
「プレートのことなら火急の用件ですね。テルさん、何が知りたいんです?」
「えっ!! う、ウォロさん……!?」
あんぐりと空いた口がふさがらない。泳ぎまくる視線の先で、隆々とした二の腕が、コギトさんの柔らかそうな素肌にぴとりとくっついているのが見えた。お馴染みのポーズで指振り笑顔振りまくその男が、どうしてこれまた一糸まとわぬ姿でこんなところにいるのだろう。一方のコギトさんは額に手をあてて、なぜだかため息をついている。華奢な彼女と並ぶとますます互いの魅力が匂い立つような、いや、そんなことよりも……。
――裸の男女がひとつの布団から生えているこの状況、もしかして、もしかしなくても、自分はとんでもない現場に闖入してしまったのでは?
「すアッッすすみませっ! おれその急ぎじゃないんでえ!! じゃあッ!!!」
「ええっ、プレート集めは急務かと……あ、ちょっと、テルさん!」
心臓が飛び出てしまいそうだ。とんぼがえりする心についていけないもつれる足で、大いにこけてめちゃくちゃに転がりながら走り出したおれの背後で、呆れた声音が遠く聞こえた。
「なんで出てくるかのう……。そなたは本当に思いやりのない男じゃ」
「ンン? 心外ですね。ジブンは今夜も優しかったでしょう。さあ、それよりも早く続きを」
「はあ。デリカシーもない男じゃ……」
虫刺されかと思ったあれ、あれってつまり、アレだったのか!!なんて大騒ぎする鼓動をおさえて、軒先からすぐのところでまたつんのめって転がって、大の字に倒れて空を見た。ああ、裂け目が広がって禍々しい赤色に燃えていようとも、夜空が壮大で綺麗なことにかわりはない……。
気づけば、傍らのケーシィがじっとおれを見下ろしていた。這いずって足元まで寄って行くと、うわ、と言わんばかりに身体を跳ねさせたが、逃げ出すことはなかった。隊長に似て、優しい子なんだ。ああ、早く皆のところに帰りたいなあ……。
と、そんなことがあったのが、小一時間前のことである。
「……こんばんはウォロさん」
「まだいたのかよ!!!! いや、まだいたんですか。ビックリしました」
ケーシィにすがりついて返答のないお悩み相談をしていたら、薄着のウォロさんがひょっこり出てきて見つかってしまった。一瞬崩れたものの、相変わらずのにこにこ笑顔がそこにある。対して仰ぎ見たケーシィはいつも通りの無表情だったが、心なしかゲッソリしてしまった気がする。無理やり付きあわせてしまって、ちょっと悪いことをしたかもしれない。バツの悪い思いで膝を抱える。
「何か物音がすると思ったらまだいらっしゃるとは。普通帰りません? ジブンが言うことではないんですが」
「帰るところがないんですぅ……」
「おっと失礼、そうでした。アナタをここに匿ったのはジブンでしたね。ではどうですか、一緒に寝ます?」
「…………」
冗談めかしたウォロさんの言葉に、視線をそらして唇を尖らせる。幼い仕草だとわかっていても、だんまりを決めるほかなかった。だって、一緒にという言葉が、たとえ冗談だとしても本当に嬉しかったから。
ともすれば涙をこぼしてしまいそうなおれに気づかないフリで、手招きをしたウォロさんが踵を返した。
「さあ、外は冷えます。プレートの話は中でゆっくり聞きましょうか」
「で、でも、二人は……いや、コギトさんが、えっと……都合が悪いんじゃ」
「よいぞ。お色直ししてあたしはすっかり元通りじゃ。ほれ、なんでも聞いてやろう」
バアンと音を立てて開いた扉から、えへんとふんぞり返ったコギトさんが姿を現した。万全のアピールなのか、薄手の黒いキャミソール一枚を纏った姿で、腕を広げてゆっくり一回転なんてしている。惜しみなく晒された白い脚、わずかな面積の黒い布からのぞく谷間に、つんと上を向いている胸が、裸でいるよりよっぽど目の毒だった。とどめに、首元を隠すように巻かれた色鮮やかなファー、そいつはどう見てもウォロさんのものだった。人の物を我が物顔で身にまとう女性が、これほどいやらしく目に映るなんて思ってもみなかった。
かっぴらいた目でしっかり脳裏に焼き付けていたら、唇を弧に描いた野性的な美貌が耳元に寄ってきて、いたずらに囁いた。
「コギトさんもああ言っていることですし、思う存分甘えるといいですよ。あの人、若者を甘やかすのが大好きなので」
横目で見やる。爽やかを通り越して胡散臭い笑み、やっぱり何を考えているんだかわからない人だ。男の顔をして、それでいて保護者然に振る舞って、でも今は、絶対におれをからかって面白がっている。
そっちがその気なら遠慮しませんからねと、鼻を鳴らしてずんずん庵に舞い戻る。心底可笑しそうにかみ殺された笑い声が耳に届いても、開き直って心を決めたおれは今度こそコギトさんに真っ向から対峙することができた。オクタンみたいに赤くなっている自覚はあるが、若いんだもの、しょうがない。
すると、喜色を浮かべた麗人が、これまた嬉しそうに手を叩いておれを見た。
「テル、お腹は空いておらんか? オヤツはいくらでもあるでな。これなんかどうじゃ。スイートトリュフにきらきらミツをかけただけじゃが、中々いい塩梅になっての。そうじゃ、イモモチも焼いてやろう。こんな時間じゃが、若いからどれだけ食べても平気じゃろ。ウォロが持ってきたまふぃんとかいうのもあるぞ。そなたの時代の甘味には劣るかもしれんが、ごりごりミネラルをかけるとあら不思議、ますます美味しくなるのじゃ」
てきぱき、生き生き、もりもりと、テーブルの上にありとあらゆる食べ物が並べられていく。すべすべの肌に見劣りしない、とっても美味しそうなおやつたち。素材そのままみたいなものから、コギトさんの手作りらしきおやつ、コトブキムラ新名物のマフィンだってある。
ぽかんと眺めていたら、ウォロさんが横からすいっと手を伸ばして、行儀悪くオヤツをつまんで口に放り込んだ。
「こら、一人だけ先に食べるでない。そなたは早く外から椅子を持ってこんか」
「ベッドに座って食べればいいじゃないですか。その方が楽しいですよ」
「まったく……まあ一理あるのう。おいで、テルも遠慮しなくていいんじゃぞ」
そう言って微笑んだその人は、魅惑的な格好だとか、女と男のあれやこれやの気まずさだとか、何もかもが吹っ飛ぶくらい、ただただ安心感に満ち溢れたおばあちゃんのようだった。
山盛りのお菓子を振る舞うコギトおばあちゃんと、ぷらぷらしてちょっかいをかけてくるウォロお兄ちゃん。見目麗しい二人はお似合いなようでいて、恋人と呼ぶにはなんだか違う気がする。けれど耳年増なおれは知っている。こういうのを、若いスバメと呼ぶのだと。
そしてどうやら、ひとりきりだったおれの居場所を、二人は作ってくれている。どうしようもなく嬉しくって、泣き虫な心を振り切るように、弾んだ声で切り出した。
「ありがとうウォロさん。おかげで田舎ができました。スバメつきの」
「えっ? すばめ? どういうことです?」
「プレートのことを教えてもらったら、すぐに向かいますから! 今はたくさん食べて力をつけますね。ありがとうコギトさん」
「うむうむ。その意気じゃ」
「そういえばジブン、マフィン2個しか買ってきてな……あっもう残ってねえ!!」
「すばやさが足らんのじゃ」
「そうなのじゃ」
「はあ!? ちょっと、いつの間に仲良くなってるんですか!」
「イモモチ食べたい人~」
「は~い」
「ちょっと! はい!! ジブンも!!」
はいはいはいと挙手をするウォロさんに、「では手伝え」と素気ないお達しが下った。「テルは今日は食べる係じゃからの」と、気持ちの良い依怙贔屓つきで。いつも飄々としている男が大仰に肩を落として、「今日だけは係をかえたい気分です」なんて甘ったれたことを言って頭をはたかれている。これからもおれはここにいていいんだと、驚くほどすうっと心に沁みて、久しぶりに、腹の底から笑えた気がした。
そうして夜明けまではしゃぎ倒した結果、いつの間にか三人で折り重なって昼下がりまで惰眠を貪っていたのだが、その後向かった湖でセキさんに「遅い!!」とウォロさんともども怒鳴られて、巻きでプレートを回収するハメになった。それさえも楽しくってしょうがなくって、この日のことは一生忘れないだろうなと笑っていたら、口をへの字に結んだセキさんにほっぺをつねられた。いひゃいですと見上げれば男前が吹き出して、側に立つウォロさんまでにんまり笑うものだから、釣られたおれもにまにま笑んで、男三人で肩を並べて不気味に笑いあったまま、隠れ里への帰路を歩んだ。
居場所というのは、場所じゃなくって、人なんだ。
彼らがくれるそれは時として増えたり減ったりするけれど、温かくって、居心地がよくって、宝物とも呼べるくらいどれも大切なものである。
一番はもちろんギンガ団の皆と過ごす居場所だけれども、彼と彼女の思い出がつまったおれの田舎も、同じくらい大好きで、かけがえのない居場所となっている。
------------------------------------------
ところで、図鑑が242匹とずいぶん分厚くなった頃。
遠いところへ旅立ったかと思いきや、スバメは今日もおれの田舎に羽を休めに舞い戻る。
「いやちょっと! もう会うことはないでしょうとか言ってませんでした!? なんでいるんですかウォロさん!!」
「なんでって、ここはワタクシの家ですから」
「そなたの家ではないのう……」
「アナタこそなんでいるんです? もうここに用はないでしょう」
「ハァそりゃもちろん、ここはおれの田舎ですから!?」
「いつの間に田舎になったのかのう……」
「クラフト台だってあるし! おれはいつ来たっていいんです! 歓迎されてます!」
「残念、そのクラフト台は昔コギトさんがワタクシのために用意してくれたものですよ。そうワタクシのためにね! はい以後テルさんは使わないでください~」
「残念、今となってはもうおれだけのものです~」
「幼児の喧嘩じゃのう」
「はあウォロさんめ、いなくなったと思ったらコギトさんの前には抜け抜けと現れるなんて。くそう、おれのアルセウスを見せてやる!! いけアルセぼん!!」
「あー!! 格好わるいニックネームをつけられているアルセウスの分身なんて心の底から見たくありません!! ガブリアス、打破せよ! ……いや打破もしたくありません!!」
「仲良しだのう。さて、イモモチ食べる人~」
「は~い」
「はい!! ワタクシも!!!」
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6V最強こじらせフェアリー
「抱けません」
「えっ」
「抱けません。マツブサ様は童貞がお好きでしょう」
「えっ?」
「私はマツブサ様のご寵愛を失いたくないのです。ですから、抱けません」
「ええっ!?」
マツブサは激怒した。必ず、かの初心童貞の操をいただかねばならぬと決意した。
──時は少しばかり遡る。
夢見る世界はほど近く、大地の化身も鼻の先。
お天道様が燦々輝く真っ昼間、磨きぬかれた廊下をるんるん道行くマツブサは、盛大に足を滑らせた。あわや転倒、華麗に宙舞う痩躯はしかし、おとぎ話の姫君よろしく軽やかにすくわれた。
「むっ?」
「お気をつけください、マツブサ様」
マツブサはぱちぱちと瞬いた。
突然世界が回転したと思ったら、厚い胸板に抱き込まれ、天を向いた鼻先で、恋知らぬ処女さえ蕩かしそうな美貌がこちらを覗き込んでいた。ちかちかと目の眩むなか、すっかりお馴染みの固い手のひらを背中に感じて、もしかして私、転んだ……? とようやく気付いたマツブサは、己を抱き寄せる力強い腕にどきりとし、甘やかに垂れる眼差しのひたむきさに面食らった。
その男、間一髪でマツブサを救った王子様もといホムラは、瞬くばかりのあるじに向けて「大丈夫ですよ私がお守りしてますからね」と言わんばかりの微笑を浮かべて、実際に「大丈夫ですよ私がお守りしてますからね」とズケズケと言い放った。マツブサはつい唇を尖らせた。
しばし見つめ合う。長い睫毛に縁取られた精悍な瞳が「ずっとこうしていましょうね」なんて言い出しそうな危うい熱を帯びはじめた。慌てて身をよじる。片腕にやすやすと支えられている上半身がより不安定な角度をとったため、マツブサの身体はひょいと姫抱きにされてしまった。
異論を挟む隙もなく、整った鼻梁が間近に迫る。思わず目を瞑って身構えると、頬に柔らかいものがくっついた。もちもち、むにむにと、滑らかな頬を大胆に味わう不届き者は、どうやらホムラのほっぺただ。なんとまさか、ポチエナもびっくりの愛くるしい頬ずり攻撃を受けている。……マツブサは目をまんまるに見開いて、しばしのすりすりを享受した。
ところで往来である。数人のしたっぱが、ジブンは何も見てませんからッ……! という必死の形相で、蜘蛛の子を散らすように駆け抜けていった。
くっついた頬が、しっとりと別れを告げた。
「う……うむ。いつもすまないな、ホムラ」
「はっ。ご無事で何よりです。ところでマツブサ様のおみあしを狂わせたこの下衆な床材を選んだ業者への処遇についてですが」
「待て待て、私が勝手に転んだのだ。そういうのはよしなさい」
「お咎め無し、現状維持ということで。ではこれ以上の危険に見舞われぬよう、お部屋までお運びさせていただきます」
「またかぁ……」
今日もホムラは元気ハツラツだった。このおせっかいな側近が蝶よ花よマツブサ様よと甘やかしてくれるものだから、己の足腰は弱りゆく一方なのではないかと、マツブサは真剣に疑っている。
配慮に満ちた足取りが執務室へと歩みだした。思いがけず手持ち無沙汰どころか手荷物扱いとなったマツブサは、太ましくそそり立つ首筋へと戯れに鼻先を寄せてみた。愛くるしい部下の肌は温かくこれを歓迎した。いたずらに嗅ぎまわる上司を宝物のように運ぶ男は、時折くすぐったそうに身を震わせながら、お好きにどうぞとマツブサの勝手にさせている。
ふと首を傾げてみれば、赤い襟足がさらりと遊んだ。この後は書類決裁を残すのみで、特段重要な予定は入っていない。だから、ふむ……なんて意味ありげに呟いて、隆々とした胸板を手慰みに撫でながら、優雅に濡れる舌で戯れを転がした。
「ホムラは本当に私のことが大好きなのだな」
「はい。心よりお慕いしています」
「想ってもらえて嬉しいよ。だが、私は真っ白な童貞が好きだから……。お前ほどの器量良し、経験がないわけがあるまい?」
己を支える男の指を捕まえて、そのうち一つをきゅうと握る。恣意的であざとい上目遣いに、それとわかっていて可愛い部下は引っかかった。とっておきの内緒話をするように、ホムラのくちびるが降りてくる。ぽってりとしたそのあわいから伝わる熱がマツブサの耳朶を湿らせて、低い囁きが心を揺らした。
「是非ともお耳に入れたいことが。なんとわたくしホムラはですね、五つの頃から己を魅了してやまない人がこうして焦らしてくださるものですから、二十七歳童貞です」
「はぁ……ますます私好みじゃないか……♡」
蕩けるように呟いて、マツブサは熱い舌でくちびるをなぞった。ホムラの恭しいくちづけが手の甲に降ってきて、次いで白い歯が人差し指を優しく咥えた。
「このやり取り何回目ですか……? そろそろご慈悲をいただかないと、このままではフェアリータイプに進化してしまいます」
「あく/フェアリータイプ複合か。確かガラル地方にいたな? オーロンゲ……、ビルドアップポケモンだ。お前にぴったりじゃないか」
くすくすと肩を揺らせば、美しい狼は甘えているようにも恨めしげにもとれる唸り声でぐるぐると喉を震わせた。すっかり気を良くして笑ってると、「あまりいじわるを仰らないでください」と拗ねた声が降ってきて、ずり下がりつつあった身体を軽々と支えなおされた。一瞬ぴょんと宙に放り上げられたマツブサは、「ひゃうっ」などとこぼした口を慌てて閉じて、平静を装った。
再び歩み出した男の首にしっかと抱きつき、すがりついて身を任す。ほのおのからだから伝わる熱が、ぽかぽかとマツブサを温めた。
「いたずらごころも、おみとおしも、持ち合わせる余裕はないですよ」
「わるいてぐせで翻弄したらいいではないか。ふふ……」
「はっ。ではお言葉に甘えて」
「んんっ、やめなさい、ふ、くすぐったいぞ」
耳を食まれて身をよじる。幼子のように足をバタバタと動かしてじゃれあっているうちに、執務室が見えてきた。部屋の前に控えるしたっぱたちが姿勢を正して扉を開く。
「ご苦労、下がっていいぞ」と労うマツブサを抱えたホムラは部下へ一瞥もくれることなく、濃紫の絨毯が敷かれた部屋へと足を踏み入れた。重厚な音を立てて扉が閉まり、世界が二人だけに切り取られる。
しんと静まり返った空間で寄り添うも束の間、そうっと丁重に降ろされて靴底に柔らかな感触を感じたマツブサは、ホムラの体温や息遣いの離れゆくのが惜しくなり、逞しい胸に置いた手はそのままに彼へと向き直った。ホムラは、注がれる視線に首を傾げるでもなく、言葉を紡ぐでもなく、ただ同じだけ熱烈に、燃えるまなざしを返している。
マツブサは唐突に、『今だ』と閃いた。
──マグマ団の勝利は目前だ。なれば、今こそ満を持してホムラと契る時である!
マツブサははしゃぐ気持ちを押し隠し、ふわりと長衣を揺らして愛しい男に顔を近づけた。あるじのご機嫌な仕草を前にして、ホムラは真顔でありながらも嬉しそうに尾を振っている。硝子窓から射す陽光が、愛らしい部下を祝福とばかりに照らしだした。
瑞々しく光を弾く二の腕、隆々とはち切れんばかりに熟した体躯、マツブサに焦がれる眼差しを向けるかんばせの、彫り深く芸術品のように整う雄雄しさといったら。本日も、水の滴る美丈夫っぷりは健在だ。
マツブサは艶やかにとろりと笑んだ。直視したホムラはさっと頬を赤らめた。
くすくすと期待が喉から漏れた。はしたない響きにならぬよう、努めて静かに男の名を呼ぶ。けれど、この愛おしい雄に許可をやろう、褒美をやろうとときめく心が、呼ばう声音に媚態ともとれる艶を与えた。
ホムラは夢見心地に口を開いて、短く応えた。
そうして、長い足を折りたたんで跪き、陶酔した上目遣いを捧げて言うことには。
「ああ、とうに虜である男をこうも誘惑なさるなんて、マツブサ様は本当にイケナイお方だ……。決して情を交わすことは許されないというのに」
「ふふ、…………えっ? なんて?」
「抱くわけには参りません」
「んっ?」
「抱けません」
「えっ」
──冒頭のそれであった。
愕然としたマツブサは、咄嗟に胸ぐらを掴んで恫喝しそうになったが、ぐっとこらえて『いや、こやつほどの男が据え膳食わぬはずがあるまい。きっと照れているのだ』と気を持ち直した。初心で可愛い私の仔犬が、何よりも私を大切にするこの男が、まさか私を拒むはずがないという確固たる自信があった。
ホムラはとうにマツブサのものである。マツブサが欲し、また相手もマツブサを欲してやまぬ存在である。けれど、その男は立ち上がりざまにマツブサの両肩を掴んで、熱に浮かされた身を優しく残酷に引き離した。
「初物でなくなったら、歓心を失ってしまわれる。そうですね?」
誠意に満ちた面差しが、ちらと白い歯を覗かせて微笑んでいる。それは、マツブサの目に寂寥を滲ませる仔犬と映った。マツブサは、己のしでかした過ちに気がついた。
──このよく出来た側近には、降り注ぐ流星群さえ霞むほど、無上の愛を注いできた。寵愛の蜜にとっぷり浸して、「お前は私抜きには生きていけない、そうして私もお前抜きには生きていけないよ」と、精神の深いところをぐちゃぐちゃにかき乱し、煮え立たせ、マントルを抱く猛き男に育ててやったつもりである。
けれども、身体を許さぬまま猫かわいがりし続けてきたせいで、「マツブサ様は『決して手を出さない私』を愛している」という思い込みを植え付けてしまっていたらしい。
マツブサは青ざめた。失策を悟っても、とうに後の祭りである。
「そんなわけあるか! 大体お前、『ご慈悲を』なんて言っていたではないか!?」
「はい。愛していますマツブサ様。狂おしいほどにあなたが欲しい……。ああ、ひとつに融け合うことができたらどんなにか! 私はあなたに恋い焦がれる誠実な雄であり続けます。ですので、劣情に身をやつすことはございません」
「すこぶるつきの良い男が童貞をこじらせるんじゃない!」
「はっ、ありがとうございます」
「褒めてない!!」
黒手袋をするりと脱いだ指先が、マツブサの震えるかんばせを愛情に満ちた手つきでなぞった。眼前に立つホムラの凛々しいくちびるは、マツブサをぺろりとたいらげそうな狼の風情に歪んでいる。けれどその指先は狼藉を働かず、ゆっくりとマツブサの稜線を清らかな愛情でふやかした。憔悴する心と裏腹に、耳の付け根から首筋へと辿られるこそばゆさは好ましく、知らず固くなっていた身体から恍惚と力が抜けていく。マツブサはぞくりと身を震わせて、恥じらいに濡れた吐息をこぼした。
「んっ、ぁ……、ホムラ……」
「では、お仕事に戻りましょう。どうぞ」
「………………」
マツブサは丁重にエスコートされ着席した。
火照った身体は置いてきぼり、「あなたの相手はこいつですよ」と言わんばかりに積まれた書類。マツブサは仰天して、斜め後ろに立つ男を見やった。後手に腕を組んだホムラが、いっそ清々しいまでの表情できょとんと瞬いた。
「どうなさいました? 先にお食事にいたしますか」
「こっ……この童貞!!」
「はっ。お側に」
「呼んでない!!」
「ええ……?」
年甲斐もなく頬を膨らませたマツブサのうなじを、無遠慮に、けれど紳士的な指の腹がちょいとなぞった。なんとも憎らしく愛らしいご機嫌伺いだ。身体は正直に快感を拾ってぞくぞくと震えたが、懐柔されてたまるかと顔を背けて抵抗を貫いた。
「マツブサ様」
「…………」
「マツブサ様……」
「………………」
「お気に召しませんでしたら、一休みいたしましょう。ベッドまでお連れいたします」
マツブサの耳元に、弱りきったくちぶりの誘い文句が飛び込んだ。固い指先がうなじを離れて、弾力のある厚いくちびるが、白肌にちうと吸い付いて慈悲を乞う。
そら来た! マツブサは目を輝かせて安堵した。ああは言っても若い雄、やはり手を出さずにはいられまい。執着の滲むくちづけ、情欲にけぶる吐息を漏らしてうなじを味わう狼のくちびるがその証左だ。
マツブサは胸を高鳴らせ、勝利の予感に酔いしれた。仕方のない奴めと余裕ぶって澄ました声が、上ずった。
「ふっ。ベッドに連れ込んで何をするつもりだ……? このスケベ」
「何もいたしません」
「………………」
「誓って」
「ぐうーっ、誓うな!!」
マツブサは激怒した。必ず、かの童貞を貪り喰ろうてやらねばならぬと決意した。
***
その晩、童貞事件の早期解決に臨むマツブサは、思い詰めた面持ちで受話器を握りしめていた。テーブルランプの仄明かりに沈む中、ディスプレイの青白い光に目は冴えて、無機質に鼓膜を叩く呼び出し音が、マツブサにごくりと唾を飲ませた。
伏せられた睫毛の下で、瞳は欲に燃えていた。長年ホムラにおあずけを強いてきたのはマツブサだったが、いざ自分がおあずけをくらう立場になると、一刻も早くあのとっておきのご馳走をいただきたくて堪らなかった。
もはやなりふり構ってはいられない。マツブサは決して人には言えない手段をとった。
そう、つまるところ電話の相手は──
「……もしもし」
「アオギリか。聞きたいことがある、手短に頼む」
宿敵、アクア団のリーダー、アオギリであった。
「はァ~? のんきに電話なんかかけてんじゃねえよ、マグマ団のリーダーさんよぉ」
「では切る」
かけたはいいが、いざ巻き舌で煽られたら腹が立った。
「早ぇよ! なんだよ気になるだろうが! チッ、しゃあねえ。話くらいは聞いてやる。で? アクア団に叩き潰されてぴーぴー泣く予定のマツブサちゃんが、なにを聞きてえんだって?」
「くっ、相変わらず無礼な男め……! まあいい。それがな、ホム……いや、私とホムラはまったくの無関係で、とある知人の話なのだが」
「ぜってえお前らの話じゃん。嫌な予感するわ。聞きたくねえんだけど」
「長年焦らしすぎたせいか、抱いてもらえないのだ。どうしたらいい?」
「聞きたくねえんだけど!!」
突然のがなり声に眉をひそめて、マツブサは受話器から耳を離した。海に傾倒する男はこれだからいけない。ならず者め、と舌打ちしたい気持ちをこらえて、「それで? 貴様には解決策がわかるか、わからないか、どちらだ」と仏頂面に続けた。
悲しいかな、マツブサにはアオギリと当事者のホムラ以外にこんな話を打ち明けられる相手がいなかった。下手に出ることは矜持が許さないものの、藁にもすがる思いで返答を待つ。深々とした溜息が聞こえて、次いで、そっけない声が耳を打った。
「そりゃ、色仕掛けでもすりゃ一発だろうが……お前、色気ねえもんなぁ」
「ぶ……無礼な!!」
陸の力を知らぬ者はこれだからいけない!! マツブサは歯ぎしりをした。
しかし、悔しいが相手はさすが別世界を生きる無法者の長である。思ってもみない着眼点だ。考えてみれば、なるほどアオギリの指摘は的を射ているように思えてきた。
色気、色気とは……と首をひねっていると、受話器の向こう側で、ならず者が水を得た魚のようにピチピチとはしゃぎだした。
「ねんねちゃんだからなァ! マツブサちゃんはなァー!!」
「ぐ。き、極めつけの無礼者め! 色気など……っ、どうしたらいい、言ってみろ」
「はん、偉そうに。それが人に教えを請う態度かあ?」
「ぐうっ、貴様覚えておけ……! 教えて下さい。ほら言え、すぐ言え、さっさと言え」
早口にまくし立てる。ホムラとの共寝のためならこれしきの屈辱安いもの、とくちびるを引き結んだものの、耳元で品のない笑い声が炸裂したせいで、脳裏に思い浮かべたホムラの表情が「マツブサ様……」と悲しげに歪んでしまい、とっさに受話器を叩きつけそうになったがすんでのところで耐え切った。
「ハァ~おっもしれえ! んなの知るかよ、経験でも積みゃいいんじゃねえの」
「経験……? ふむ。そうとわかれば善は急げだ! 感謝するぞアオギリ。ではな」
「はあっ? ちょっ、待て、もし浮気なんざしたらあの野郎にお前……」
まだなにか喚いている気配があったが、マツブサはガチャンと受話器を下ろした。
ふっと鼻で笑ってほくそ笑む。あの男、バイバイのあとも延々と電話を切れない寂しがりだと見える。髭面のならず者にも、可愛いところはあるものだ。
それにしても……。
経験、経験、経験ねえ。口の中で実態のない単語を転がしてみる。それはどんな味だか露とも知れぬ。けれど、手に入れる方法はすぐにピンと来た。
身も蓋もない言い方をすれば、今は出口たる尻穴を魅惑の入り口へと改造すべく、身体を慣らせということだろう。他の男など論外、となれば、アダルティなグッズを購入して挑むべし! そしてその道は開かれている。
なんと、マツブサはネット通販を使えるのである!!
できるリーダーは違うな、と口端を上げて襟足をファサッと払ったマツブサは、早速パソコンを立ち上げてぽちぽちとショッピングを始めた。実のところ、めぼしい通販サイトはブックマーク済である。マツブサも男の子なので、そういうことには俄然興味があった。
画面上では、多種多様なブツが屹立してギラギラとその身を主張していた。下品すぎて気が引けないでもなかったが、ええいままよと本腰を入れて吟味する。
──大人になったホムラの現物を目にしたことはないが、あれほどの男前だ、おそらくは悪タイプの王様みたいに立派に違いない。そうきっとこの一番えげつない見た目の商品みたいに!
大層逞しいそのイチモツがホムラの股間から生えているところ、そして天高くそそり立たせたソレを見せつけるようにしごくホムラを想像して、マツブサは肌を真っ赤に染め上げた。実践前からこんな調子でどうする、と、火照った身体を冷ますようにバスローブを脱ぎ捨てる。一糸まとわぬ姿になったマツブサは、激しく波打つ胸にそっと手を這わせて、今一度お目当ての商品写真をじっくり眺めた。
そのページには「※上級者向け」と記載されていたが、マツブサは大いなるマグマ団のリーダーである。初心者だが問題なかろうと英断を下し、それでもやっぱり恥じらいに頬を染め、もじもじと両足をすり合わせながら購入ボタンをクリックした。
そうして、そいつはご希望通りに明くる日届いた。
「マツブサ様ですね~。お荷物お間違いないスか?」
「うむ」
「はい~ではここにハンコくださぁい。……あざっしたー」
たまの休日、晴れ渡る空、えんとつ山を望む麓に根ざした、マツブサ所有の由緒正しい別荘地。自慢の数奇屋門を背にして遠ざかる配達員の姿を見送ったマツブサは、満面の笑みを浮かべてぎゅっと輸送箱を抱きしめた。
「ふふ……! 待っていたぞ。早く試さねば……!」
「何を待っていたのですかマツブサ様」
「ウワ!!」
不機嫌そうな声がして、背後からたくましい腕に抱きすくめられた。力強い顎が無遠慮に肩に乗り、マツブサの手元を覗き込む。密着した背中、薄手のシャツ越しに寝起きの温もりを感じて、後ろめたさに鼓動が跳ねた。
ちらと見たホムラのおもてには、『私に無断で』という不満がありありと浮かんでいたが、マツブサは毅然とした態度でツンと顎を上げた。いちいち部下にお伺いを立てねばならぬ道理はない。私だって一人でお買い物くらいするのだ、そもそも今日だって別荘に護衛など必要ないのだ一人でできるもんなのだ……!と湧き上がる反抗心はしかし、腹に回された手がさっと箱を奪い取り、なんの伺いもなく梱包を破き始めたものだから、瞬時に萎れた。
「わーっ! なにをするホムラ! 勝手に開けるな!」
「失敬、危険物が混ざっていないか確認を……、アァ?」
抵抗むなしく、段ボールが投げ捨てられてド派手な中身がお目見えした。乱暴に引っ掴まれた透明なプラ箱は少しひしゃげていたが、それでも、『ドドド淫乱ご満悦!衝撃爆震あなたの恋人♡』なんて文字を背負ってデカデカと佇むソレは、しっかりと二人の目に入った。
空気が凍った。
やましいことなど何もない。隠さねばならぬものでもない。
……はずなのだが、マツブサは心の中で「助けてグラードン……」と、まだ見ぬ彼に追いすがった。
プラ箱から取り出したブツを握りしめたホムラが、空いた腕で無遠慮にマツブサの腹を抱いた。まろやかな脇腹に指が食い込む。マツブサはビクンと肩を揺らした。
「なんですか、これは」
「……そ、ううん、なんのことかね……?」
「マツブサ様がしっかりと『お荷物お間違いない』ご確認をされて『早く試さねば』ともおっしゃられた、この『ドドド淫乱ご満悦衝撃爆震あなたの恋人』なる不埒なコレは、なんですか」
「あう……!!」
逃げられなかった!!
至近距離から威圧してくる冷ややかな美貌、マツブサを射抜く瞳は猛獣めいて、今にも喉笛を食いちぎらんとせんばかりに爛々と光り返事を待っている。
寵愛する部下から不遜な態度をとられた驚き、それから、不貞が発覚したかのような罪悪感、どさくさに紛れて男性器の形をしたソレでぐりぐりと服の上からへそをいじめられる羞恥心、下腹を撫でさする手に煽られる劣情……、一挙に押し寄せる感情に苛まれたマツブサはすっかり縮こまり、茹で上がって、ぷるぷると震えだした。
「う、あ、えっと、ほら、……いわゆるその、……ばいぶ……なのだ……?」
無防備な下腹を容赦ない手のひらが圧迫する。子犬のようにきゃんと鳴いたマツブサの耳に、怒気の滲む低い囁きが注ぎ込まれた。
「用途は」
「よ、用途!? うっ、……な、慣らすために……」
「慣らす? このような下品な棒で? なにを慣らすおつもりですか」
犯罪者を取り調べるおまわりよろしく、ホムラの顔つきがますます険しくなっていく。馴染みある形をしたソレがヘソのたもとで力強く握りしめられ、ミシミシと軋んだ音が肌を伝って、思わず股間がひゅっとした。転じて、己に忠誠を誓ったはずの男が重ねる度を越した蛮行に、堪忍袋の緒が切れた。
「ええい、わかりきったことを……! なぜ私が詰問されねばならんのだ!! そもそも、お前がさっさと手を出せばこんな策を弄せずとも済んだのだ!!」
「マツブサ様、」
突然逆上し、滅多とない大声で吠えたにも関わらず、怒れるあるじを抱えたホムラは身動ぎすらしなかった。それがかえって、マツブサの怒りを募らせた。
「ホムラのイケズ! すっとこどっこい!! なぁにが『ご寵愛を失いたくない』だ無礼者、一度抱かれたくらいで飽いたりするものか!! 死ぬまで抱け!!!!」
「マツブサ様……」
「ほらどうした! 私を満足させてみろ!!」
経験を積んで色気たっぷりにホムラを誘惑してみよう!……という企みだったはずが、色気はおろか、ムードのひとつも醸せずに、マツブサはいまや暴君と成り果てていた。
その気もないのに覆いかぶさる身体が癇に障って、マツブサは激しくもがいてホムラを振りほどこうとしたが、がっちりと抑えこまれて余計に密着されてしまった。ふうふうと息を荒げて、憎たらしい剥き出しの腕に爪を立てる。さすがはマグマ団きっての頼れる懐刀、こんな時まで誇らしく思えてしまうのが悔しいが、頑として抜け出せそうにない。
ええい腹の立つ!と暴れ子エネコのような抵抗を続けるうちに、へそからバイブが離れたのに気付いて、ぴくりと身体が戦慄いた。見下ろせば、握りしめられたそれがマツブサの上半身へノックを始めて、へそより上を目指すように、とん、とん、と上りはじめた。
断りなくやわな肌をつつきまわす暴挙、不快というより不気味な感触に眉根を寄せた刹那、「申し訳ありません」と頭越しに謝罪が降ってきて、故意か偶然か、固いそれの先が左胸の小粒を押し潰すように突き立てられた。とっさにくぐもった声が出て、マツブサは怒りとは違う感情で肌をかっと赤らめた。
「お許しください。私は貞操を守ることこそ最大の献身と思っておりました。しかし、それはとんだ誤りだったのですね。マツブサ様をこうも不安にさせてしまうなど……」
しおらしい声に反して、ホムラの操る不埒な棒が、胸の先端を押し上げ、つついて、こね回すようにいびり始めた。明確な意図を持って動かされるそれに、マツブサは耐えられず嬌声を上げた。羞恥心に勝る歓喜が、くちびるを笑みの形に歪ませる。マツブサは快感もあらわな息をこぼしながら、固いそれにそっと指を這わせた。
もたらされた刺激は喉から手が出るほど欲しいものだったが、だからこそ、無機物を通してではなく、ホムラ自身の指で与えられたかった。
「ホムラ……! わかってくれたか! そうだ、私はお前と……」
「はい。私と愛を育みたくて、先走ってしまわれたのですよね。もどかしかったでしょう。申し訳ありません、マツブサ様……。ですが、こんな手段はいただけません」
すい、とバイブを遠ざけられて、乳首への刺激が止んだ。あ、……と物足りなさに喉を鳴らしたマツブサのねだるようなまなざしが、底なしに愛を惹き寄せるホムラの瞳に絡め取られた。
溺れる、そう直感した瞬間、ホムラの指が、ぎゅうと胸の尖りをつまんだ。バイブ越しの快楽など比ではない電流が、胸の先から下腹部へと迸った。
「あぁっ! んっ、ほむらっ……!」
「マツブサ様を善がらせていいのは私だけだ!!!!!!!!!!」
「ヒッッッ」
あらん限りの膂力をもって投擲されたバイブが、見事な弧を描いて遥か彼方へ飛んでいった。解放された乳首の疼きも忘れて、あっけにとられる。
お、お前が勝手にグリグリしたくせに!? ……なんて突っ込む間もなく、マツブサは思いやりをかなぐり捨てた指先に顎を捕まれ、飢えた狼さながらぎらつく紅顔にくちびるを奪われた。
「んぅ、ン! っ、ふ……」
──全身が灼熱の欲に炙られる。
後頭部を掴まれて、下唇を食まれ、気持ち良いところを無遠慮な舌に嬲られて、『嬉しい』、『ホムラ』、そればかりが思考を占める。みだりがわしい水音に耳を犯されて、乱れた吐息も余さず味わうように、角度をかえて何度も何度も、互いの柔らかいところが押し合い、くっつき、形をかえて、ひとつになってはまた離れ、そうしてまたひとつに溶け合い絡みあう。
激しい口づけの合間、わずかに離れたくちびるが糸を引き、荒々しく肩で息をする二人の濡れたまなざしが交差した。技巧も手管もあったものではなかったが、衝動に逸る初心なキスは大いに情欲を煽りたて、マツブサを天にも昇る心地にさせた。
「っはあ、ん、ふ……! はっ、きもちい、ほむらっ……」
「はァっ……お可愛らしいです、マツブサ様……」
多幸感に背筋がじんと痺れて、己を包み込む広い胸郭にすがりつく。いやらしい真似だとわかっていて、マツブサは揺れる腰ごと身体を押し付け、男の顎先をくすぐるように甘く食んだ。上目遣いに窺えば、細められた垂れ目がいっそう蠱惑的に蕩けて見えた。
力の入らぬ指先で、引き締まった胴を掴む。「はやく……」と、マツブサのすべてを明け渡す呼ばい声、掠れた吐息に求められたホムラが、にぱっと笑った。
それは太陽よりもまばゆく輝いて、とても照れくさそうな、嬉しくて幸せでたまらないというような、マツブサが大好きな男の稀に見る最高の笑顔だった。
心臓をぐわりと捕まれ、身体がよろめく。とどめとばかりに、愛情に満ちた手つきで大事に大事に抱きしめられた。華奢な身体を抱く雄々しい腕、甘えるようにすり寄せられた熱い下半身、くちびるに、頬に、瞼に、首筋に、止むことなく降り注ぐ無上のキス……。
舞い上がって喜悦に蕩けたマツブサの頬に鼻先をちょんと寄せたホムラが、「愛しています、マツブサ様……」と真っ白な誠意に満ちた愛を囁いた。
「まずは交換日記からですね……」
「エ゛この期に及んで!?!?」
「晴れて恋人です、ふふ……!!」
「エッ付き合ってなかったのか!?!?!?」
驚愕に全身から力が抜けた。ホムラはいっそうあどけなくふにゃふにゃとはにかんでいる。
マツブサは怒髪天を衝く勢いで憤怒した。必ずやこの筋金入りの童貞を悩殺し、理性を失くした獣のように滅茶苦茶にしてやらねばならぬと決意した。
……つもりだったが、千切れんばかりに激しく尻尾をぶん回し、腹を見せて転がる大型犬のごとく愛くるしいホムラを前になすすべもなく絆されて、自らもめいっぱい相好を崩して、ホムラにぎゅーっと飛びついた。
***
「……ということがあってな。ゆっくり進もうと決めたのだ。ふふ。まさか清らかなお付き合いから始める羽目になろうとは! まあ、じっくりとろ火にかけられるというのも、これがなかなか悪くない。無論、私ではなく知人の話なのだが」
「だから聞きたくねえんだって!!!! ……いや待て、交換日記の件は気になる。まさかマジで始めた?」
「うむ。すごいぞ。業務日誌か? みたいな内容に、愛の言葉が数ページ挟まる。それも毎日」
「ウッワ………………」
「気になるか。見たいか。見せんぞ! ふふん」
「グゥ……!! 悔しいが正直見てえ」
マツブサは朗らかに笑った。
難攻不落の愛すべき男とのお付き合いは、まだ始まったばかりである。
back
「抱けません」
「えっ」
「抱けません。マツブサ様は童貞がお好きでしょう」
「えっ?」
「私はマツブサ様のご寵愛を失いたくないのです。ですから、抱けません」
「ええっ!?」
マツブサは激怒した。必ず、かの初心童貞の操をいただかねばならぬと決意した。
──時は少しばかり遡る。
夢見る世界はほど近く、大地の化身も鼻の先。
お天道様が燦々輝く真っ昼間、磨きぬかれた廊下をるんるん道行くマツブサは、盛大に足を滑らせた。あわや転倒、華麗に宙舞う痩躯はしかし、おとぎ話の姫君よろしく軽やかにすくわれた。
「むっ?」
「お気をつけください、マツブサ様」
マツブサはぱちぱちと瞬いた。
突然世界が回転したと思ったら、厚い胸板に抱き込まれ、天を向いた鼻先で、恋知らぬ処女さえ蕩かしそうな美貌がこちらを覗き込んでいた。ちかちかと目の眩むなか、すっかりお馴染みの固い手のひらを背中に感じて、もしかして私、転んだ……? とようやく気付いたマツブサは、己を抱き寄せる力強い腕にどきりとし、甘やかに垂れる眼差しのひたむきさに面食らった。
その男、間一髪でマツブサを救った王子様もといホムラは、瞬くばかりのあるじに向けて「大丈夫ですよ私がお守りしてますからね」と言わんばかりの微笑を浮かべて、実際に「大丈夫ですよ私がお守りしてますからね」とズケズケと言い放った。マツブサはつい唇を尖らせた。
しばし見つめ合う。長い睫毛に縁取られた精悍な瞳が「ずっとこうしていましょうね」なんて言い出しそうな危うい熱を帯びはじめた。慌てて身をよじる。片腕にやすやすと支えられている上半身がより不安定な角度をとったため、マツブサの身体はひょいと姫抱きにされてしまった。
異論を挟む隙もなく、整った鼻梁が間近に迫る。思わず目を瞑って身構えると、頬に柔らかいものがくっついた。もちもち、むにむにと、滑らかな頬を大胆に味わう不届き者は、どうやらホムラのほっぺただ。なんとまさか、ポチエナもびっくりの愛くるしい頬ずり攻撃を受けている。……マツブサは目をまんまるに見開いて、しばしのすりすりを享受した。
ところで往来である。数人のしたっぱが、ジブンは何も見てませんからッ……! という必死の形相で、蜘蛛の子を散らすように駆け抜けていった。
くっついた頬が、しっとりと別れを告げた。
「う……うむ。いつもすまないな、ホムラ」
「はっ。ご無事で何よりです。ところでマツブサ様のおみあしを狂わせたこの下衆な床材を選んだ業者への処遇についてですが」
「待て待て、私が勝手に転んだのだ。そういうのはよしなさい」
「お咎め無し、現状維持ということで。ではこれ以上の危険に見舞われぬよう、お部屋までお運びさせていただきます」
「またかぁ……」
今日もホムラは元気ハツラツだった。このおせっかいな側近が蝶よ花よマツブサ様よと甘やかしてくれるものだから、己の足腰は弱りゆく一方なのではないかと、マツブサは真剣に疑っている。
配慮に満ちた足取りが執務室へと歩みだした。思いがけず手持ち無沙汰どころか手荷物扱いとなったマツブサは、太ましくそそり立つ首筋へと戯れに鼻先を寄せてみた。愛くるしい部下の肌は温かくこれを歓迎した。いたずらに嗅ぎまわる上司を宝物のように運ぶ男は、時折くすぐったそうに身を震わせながら、お好きにどうぞとマツブサの勝手にさせている。
ふと首を傾げてみれば、赤い襟足がさらりと遊んだ。この後は書類決裁を残すのみで、特段重要な予定は入っていない。だから、ふむ……なんて意味ありげに呟いて、隆々とした胸板を手慰みに撫でながら、優雅に濡れる舌で戯れを転がした。
「ホムラは本当に私のことが大好きなのだな」
「はい。心よりお慕いしています」
「想ってもらえて嬉しいよ。だが、私は真っ白な童貞が好きだから……。お前ほどの器量良し、経験がないわけがあるまい?」
己を支える男の指を捕まえて、そのうち一つをきゅうと握る。恣意的であざとい上目遣いに、それとわかっていて可愛い部下は引っかかった。とっておきの内緒話をするように、ホムラのくちびるが降りてくる。ぽってりとしたそのあわいから伝わる熱がマツブサの耳朶を湿らせて、低い囁きが心を揺らした。
「是非ともお耳に入れたいことが。なんとわたくしホムラはですね、五つの頃から己を魅了してやまない人がこうして焦らしてくださるものですから、二十七歳童貞です」
「はぁ……ますます私好みじゃないか……♡」
蕩けるように呟いて、マツブサは熱い舌でくちびるをなぞった。ホムラの恭しいくちづけが手の甲に降ってきて、次いで白い歯が人差し指を優しく咥えた。
「このやり取り何回目ですか……? そろそろご慈悲をいただかないと、このままではフェアリータイプに進化してしまいます」
「あく/フェアリータイプ複合か。確かガラル地方にいたな? オーロンゲ……、ビルドアップポケモンだ。お前にぴったりじゃないか」
くすくすと肩を揺らせば、美しい狼は甘えているようにも恨めしげにもとれる唸り声でぐるぐると喉を震わせた。すっかり気を良くして笑ってると、「あまりいじわるを仰らないでください」と拗ねた声が降ってきて、ずり下がりつつあった身体を軽々と支えなおされた。一瞬ぴょんと宙に放り上げられたマツブサは、「ひゃうっ」などとこぼした口を慌てて閉じて、平静を装った。
再び歩み出した男の首にしっかと抱きつき、すがりついて身を任す。ほのおのからだから伝わる熱が、ぽかぽかとマツブサを温めた。
「いたずらごころも、おみとおしも、持ち合わせる余裕はないですよ」
「わるいてぐせで翻弄したらいいではないか。ふふ……」
「はっ。ではお言葉に甘えて」
「んんっ、やめなさい、ふ、くすぐったいぞ」
耳を食まれて身をよじる。幼子のように足をバタバタと動かしてじゃれあっているうちに、執務室が見えてきた。部屋の前に控えるしたっぱたちが姿勢を正して扉を開く。
「ご苦労、下がっていいぞ」と労うマツブサを抱えたホムラは部下へ一瞥もくれることなく、濃紫の絨毯が敷かれた部屋へと足を踏み入れた。重厚な音を立てて扉が閉まり、世界が二人だけに切り取られる。
しんと静まり返った空間で寄り添うも束の間、そうっと丁重に降ろされて靴底に柔らかな感触を感じたマツブサは、ホムラの体温や息遣いの離れゆくのが惜しくなり、逞しい胸に置いた手はそのままに彼へと向き直った。ホムラは、注がれる視線に首を傾げるでもなく、言葉を紡ぐでもなく、ただ同じだけ熱烈に、燃えるまなざしを返している。
マツブサは唐突に、『今だ』と閃いた。
──マグマ団の勝利は目前だ。なれば、今こそ満を持してホムラと契る時である!
マツブサははしゃぐ気持ちを押し隠し、ふわりと長衣を揺らして愛しい男に顔を近づけた。あるじのご機嫌な仕草を前にして、ホムラは真顔でありながらも嬉しそうに尾を振っている。硝子窓から射す陽光が、愛らしい部下を祝福とばかりに照らしだした。
瑞々しく光を弾く二の腕、隆々とはち切れんばかりに熟した体躯、マツブサに焦がれる眼差しを向けるかんばせの、彫り深く芸術品のように整う雄雄しさといったら。本日も、水の滴る美丈夫っぷりは健在だ。
マツブサは艶やかにとろりと笑んだ。直視したホムラはさっと頬を赤らめた。
くすくすと期待が喉から漏れた。はしたない響きにならぬよう、努めて静かに男の名を呼ぶ。けれど、この愛おしい雄に許可をやろう、褒美をやろうとときめく心が、呼ばう声音に媚態ともとれる艶を与えた。
ホムラは夢見心地に口を開いて、短く応えた。
そうして、長い足を折りたたんで跪き、陶酔した上目遣いを捧げて言うことには。
「ああ、とうに虜である男をこうも誘惑なさるなんて、マツブサ様は本当にイケナイお方だ……。決して情を交わすことは許されないというのに」
「ふふ、…………えっ? なんて?」
「抱くわけには参りません」
「んっ?」
「抱けません」
「えっ」
──冒頭のそれであった。
愕然としたマツブサは、咄嗟に胸ぐらを掴んで恫喝しそうになったが、ぐっとこらえて『いや、こやつほどの男が据え膳食わぬはずがあるまい。きっと照れているのだ』と気を持ち直した。初心で可愛い私の仔犬が、何よりも私を大切にするこの男が、まさか私を拒むはずがないという確固たる自信があった。
ホムラはとうにマツブサのものである。マツブサが欲し、また相手もマツブサを欲してやまぬ存在である。けれど、その男は立ち上がりざまにマツブサの両肩を掴んで、熱に浮かされた身を優しく残酷に引き離した。
「初物でなくなったら、歓心を失ってしまわれる。そうですね?」
誠意に満ちた面差しが、ちらと白い歯を覗かせて微笑んでいる。それは、マツブサの目に寂寥を滲ませる仔犬と映った。マツブサは、己のしでかした過ちに気がついた。
──このよく出来た側近には、降り注ぐ流星群さえ霞むほど、無上の愛を注いできた。寵愛の蜜にとっぷり浸して、「お前は私抜きには生きていけない、そうして私もお前抜きには生きていけないよ」と、精神の深いところをぐちゃぐちゃにかき乱し、煮え立たせ、マントルを抱く猛き男に育ててやったつもりである。
けれども、身体を許さぬまま猫かわいがりし続けてきたせいで、「マツブサ様は『決して手を出さない私』を愛している」という思い込みを植え付けてしまっていたらしい。
マツブサは青ざめた。失策を悟っても、とうに後の祭りである。
「そんなわけあるか! 大体お前、『ご慈悲を』なんて言っていたではないか!?」
「はい。愛していますマツブサ様。狂おしいほどにあなたが欲しい……。ああ、ひとつに融け合うことができたらどんなにか! 私はあなたに恋い焦がれる誠実な雄であり続けます。ですので、劣情に身をやつすことはございません」
「すこぶるつきの良い男が童貞をこじらせるんじゃない!」
「はっ、ありがとうございます」
「褒めてない!!」
黒手袋をするりと脱いだ指先が、マツブサの震えるかんばせを愛情に満ちた手つきでなぞった。眼前に立つホムラの凛々しいくちびるは、マツブサをぺろりとたいらげそうな狼の風情に歪んでいる。けれどその指先は狼藉を働かず、ゆっくりとマツブサの稜線を清らかな愛情でふやかした。憔悴する心と裏腹に、耳の付け根から首筋へと辿られるこそばゆさは好ましく、知らず固くなっていた身体から恍惚と力が抜けていく。マツブサはぞくりと身を震わせて、恥じらいに濡れた吐息をこぼした。
「んっ、ぁ……、ホムラ……」
「では、お仕事に戻りましょう。どうぞ」
「………………」
マツブサは丁重にエスコートされ着席した。
火照った身体は置いてきぼり、「あなたの相手はこいつですよ」と言わんばかりに積まれた書類。マツブサは仰天して、斜め後ろに立つ男を見やった。後手に腕を組んだホムラが、いっそ清々しいまでの表情できょとんと瞬いた。
「どうなさいました? 先にお食事にいたしますか」
「こっ……この童貞!!」
「はっ。お側に」
「呼んでない!!」
「ええ……?」
年甲斐もなく頬を膨らませたマツブサのうなじを、無遠慮に、けれど紳士的な指の腹がちょいとなぞった。なんとも憎らしく愛らしいご機嫌伺いだ。身体は正直に快感を拾ってぞくぞくと震えたが、懐柔されてたまるかと顔を背けて抵抗を貫いた。
「マツブサ様」
「…………」
「マツブサ様……」
「………………」
「お気に召しませんでしたら、一休みいたしましょう。ベッドまでお連れいたします」
マツブサの耳元に、弱りきったくちぶりの誘い文句が飛び込んだ。固い指先がうなじを離れて、弾力のある厚いくちびるが、白肌にちうと吸い付いて慈悲を乞う。
そら来た! マツブサは目を輝かせて安堵した。ああは言っても若い雄、やはり手を出さずにはいられまい。執着の滲むくちづけ、情欲にけぶる吐息を漏らしてうなじを味わう狼のくちびるがその証左だ。
マツブサは胸を高鳴らせ、勝利の予感に酔いしれた。仕方のない奴めと余裕ぶって澄ました声が、上ずった。
「ふっ。ベッドに連れ込んで何をするつもりだ……? このスケベ」
「何もいたしません」
「………………」
「誓って」
「ぐうーっ、誓うな!!」
マツブサは激怒した。必ず、かの童貞を貪り喰ろうてやらねばならぬと決意した。
***
その晩、童貞事件の早期解決に臨むマツブサは、思い詰めた面持ちで受話器を握りしめていた。テーブルランプの仄明かりに沈む中、ディスプレイの青白い光に目は冴えて、無機質に鼓膜を叩く呼び出し音が、マツブサにごくりと唾を飲ませた。
伏せられた睫毛の下で、瞳は欲に燃えていた。長年ホムラにおあずけを強いてきたのはマツブサだったが、いざ自分がおあずけをくらう立場になると、一刻も早くあのとっておきのご馳走をいただきたくて堪らなかった。
もはやなりふり構ってはいられない。マツブサは決して人には言えない手段をとった。
そう、つまるところ電話の相手は──
「……もしもし」
「アオギリか。聞きたいことがある、手短に頼む」
宿敵、アクア団のリーダー、アオギリであった。
「はァ~? のんきに電話なんかかけてんじゃねえよ、マグマ団のリーダーさんよぉ」
「では切る」
かけたはいいが、いざ巻き舌で煽られたら腹が立った。
「早ぇよ! なんだよ気になるだろうが! チッ、しゃあねえ。話くらいは聞いてやる。で? アクア団に叩き潰されてぴーぴー泣く予定のマツブサちゃんが、なにを聞きてえんだって?」
「くっ、相変わらず無礼な男め……! まあいい。それがな、ホム……いや、私とホムラはまったくの無関係で、とある知人の話なのだが」
「ぜってえお前らの話じゃん。嫌な予感するわ。聞きたくねえんだけど」
「長年焦らしすぎたせいか、抱いてもらえないのだ。どうしたらいい?」
「聞きたくねえんだけど!!」
突然のがなり声に眉をひそめて、マツブサは受話器から耳を離した。海に傾倒する男はこれだからいけない。ならず者め、と舌打ちしたい気持ちをこらえて、「それで? 貴様には解決策がわかるか、わからないか、どちらだ」と仏頂面に続けた。
悲しいかな、マツブサにはアオギリと当事者のホムラ以外にこんな話を打ち明けられる相手がいなかった。下手に出ることは矜持が許さないものの、藁にもすがる思いで返答を待つ。深々とした溜息が聞こえて、次いで、そっけない声が耳を打った。
「そりゃ、色仕掛けでもすりゃ一発だろうが……お前、色気ねえもんなぁ」
「ぶ……無礼な!!」
陸の力を知らぬ者はこれだからいけない!! マツブサは歯ぎしりをした。
しかし、悔しいが相手はさすが別世界を生きる無法者の長である。思ってもみない着眼点だ。考えてみれば、なるほどアオギリの指摘は的を射ているように思えてきた。
色気、色気とは……と首をひねっていると、受話器の向こう側で、ならず者が水を得た魚のようにピチピチとはしゃぎだした。
「ねんねちゃんだからなァ! マツブサちゃんはなァー!!」
「ぐ。き、極めつけの無礼者め! 色気など……っ、どうしたらいい、言ってみろ」
「はん、偉そうに。それが人に教えを請う態度かあ?」
「ぐうっ、貴様覚えておけ……! 教えて下さい。ほら言え、すぐ言え、さっさと言え」
早口にまくし立てる。ホムラとの共寝のためならこれしきの屈辱安いもの、とくちびるを引き結んだものの、耳元で品のない笑い声が炸裂したせいで、脳裏に思い浮かべたホムラの表情が「マツブサ様……」と悲しげに歪んでしまい、とっさに受話器を叩きつけそうになったがすんでのところで耐え切った。
「ハァ~おっもしれえ! んなの知るかよ、経験でも積みゃいいんじゃねえの」
「経験……? ふむ。そうとわかれば善は急げだ! 感謝するぞアオギリ。ではな」
「はあっ? ちょっ、待て、もし浮気なんざしたらあの野郎にお前……」
まだなにか喚いている気配があったが、マツブサはガチャンと受話器を下ろした。
ふっと鼻で笑ってほくそ笑む。あの男、バイバイのあとも延々と電話を切れない寂しがりだと見える。髭面のならず者にも、可愛いところはあるものだ。
それにしても……。
経験、経験、経験ねえ。口の中で実態のない単語を転がしてみる。それはどんな味だか露とも知れぬ。けれど、手に入れる方法はすぐにピンと来た。
身も蓋もない言い方をすれば、今は出口たる尻穴を魅惑の入り口へと改造すべく、身体を慣らせということだろう。他の男など論外、となれば、アダルティなグッズを購入して挑むべし! そしてその道は開かれている。
なんと、マツブサはネット通販を使えるのである!!
できるリーダーは違うな、と口端を上げて襟足をファサッと払ったマツブサは、早速パソコンを立ち上げてぽちぽちとショッピングを始めた。実のところ、めぼしい通販サイトはブックマーク済である。マツブサも男の子なので、そういうことには俄然興味があった。
画面上では、多種多様なブツが屹立してギラギラとその身を主張していた。下品すぎて気が引けないでもなかったが、ええいままよと本腰を入れて吟味する。
──大人になったホムラの現物を目にしたことはないが、あれほどの男前だ、おそらくは悪タイプの王様みたいに立派に違いない。そうきっとこの一番えげつない見た目の商品みたいに!
大層逞しいそのイチモツがホムラの股間から生えているところ、そして天高くそそり立たせたソレを見せつけるようにしごくホムラを想像して、マツブサは肌を真っ赤に染め上げた。実践前からこんな調子でどうする、と、火照った身体を冷ますようにバスローブを脱ぎ捨てる。一糸まとわぬ姿になったマツブサは、激しく波打つ胸にそっと手を這わせて、今一度お目当ての商品写真をじっくり眺めた。
そのページには「※上級者向け」と記載されていたが、マツブサは大いなるマグマ団のリーダーである。初心者だが問題なかろうと英断を下し、それでもやっぱり恥じらいに頬を染め、もじもじと両足をすり合わせながら購入ボタンをクリックした。
そうして、そいつはご希望通りに明くる日届いた。
「マツブサ様ですね~。お荷物お間違いないスか?」
「うむ」
「はい~ではここにハンコくださぁい。……あざっしたー」
たまの休日、晴れ渡る空、えんとつ山を望む麓に根ざした、マツブサ所有の由緒正しい別荘地。自慢の数奇屋門を背にして遠ざかる配達員の姿を見送ったマツブサは、満面の笑みを浮かべてぎゅっと輸送箱を抱きしめた。
「ふふ……! 待っていたぞ。早く試さねば……!」
「何を待っていたのですかマツブサ様」
「ウワ!!」
不機嫌そうな声がして、背後からたくましい腕に抱きすくめられた。力強い顎が無遠慮に肩に乗り、マツブサの手元を覗き込む。密着した背中、薄手のシャツ越しに寝起きの温もりを感じて、後ろめたさに鼓動が跳ねた。
ちらと見たホムラのおもてには、『私に無断で』という不満がありありと浮かんでいたが、マツブサは毅然とした態度でツンと顎を上げた。いちいち部下にお伺いを立てねばならぬ道理はない。私だって一人でお買い物くらいするのだ、そもそも今日だって別荘に護衛など必要ないのだ一人でできるもんなのだ……!と湧き上がる反抗心はしかし、腹に回された手がさっと箱を奪い取り、なんの伺いもなく梱包を破き始めたものだから、瞬時に萎れた。
「わーっ! なにをするホムラ! 勝手に開けるな!」
「失敬、危険物が混ざっていないか確認を……、アァ?」
抵抗むなしく、段ボールが投げ捨てられてド派手な中身がお目見えした。乱暴に引っ掴まれた透明なプラ箱は少しひしゃげていたが、それでも、『ドドド淫乱ご満悦!衝撃爆震あなたの恋人♡』なんて文字を背負ってデカデカと佇むソレは、しっかりと二人の目に入った。
空気が凍った。
やましいことなど何もない。隠さねばならぬものでもない。
……はずなのだが、マツブサは心の中で「助けてグラードン……」と、まだ見ぬ彼に追いすがった。
プラ箱から取り出したブツを握りしめたホムラが、空いた腕で無遠慮にマツブサの腹を抱いた。まろやかな脇腹に指が食い込む。マツブサはビクンと肩を揺らした。
「なんですか、これは」
「……そ、ううん、なんのことかね……?」
「マツブサ様がしっかりと『お荷物お間違いない』ご確認をされて『早く試さねば』ともおっしゃられた、この『ドドド淫乱ご満悦衝撃爆震あなたの恋人』なる不埒なコレは、なんですか」
「あう……!!」
逃げられなかった!!
至近距離から威圧してくる冷ややかな美貌、マツブサを射抜く瞳は猛獣めいて、今にも喉笛を食いちぎらんとせんばかりに爛々と光り返事を待っている。
寵愛する部下から不遜な態度をとられた驚き、それから、不貞が発覚したかのような罪悪感、どさくさに紛れて男性器の形をしたソレでぐりぐりと服の上からへそをいじめられる羞恥心、下腹を撫でさする手に煽られる劣情……、一挙に押し寄せる感情に苛まれたマツブサはすっかり縮こまり、茹で上がって、ぷるぷると震えだした。
「う、あ、えっと、ほら、……いわゆるその、……ばいぶ……なのだ……?」
無防備な下腹を容赦ない手のひらが圧迫する。子犬のようにきゃんと鳴いたマツブサの耳に、怒気の滲む低い囁きが注ぎ込まれた。
「用途は」
「よ、用途!? うっ、……な、慣らすために……」
「慣らす? このような下品な棒で? なにを慣らすおつもりですか」
犯罪者を取り調べるおまわりよろしく、ホムラの顔つきがますます険しくなっていく。馴染みある形をしたソレがヘソのたもとで力強く握りしめられ、ミシミシと軋んだ音が肌を伝って、思わず股間がひゅっとした。転じて、己に忠誠を誓ったはずの男が重ねる度を越した蛮行に、堪忍袋の緒が切れた。
「ええい、わかりきったことを……! なぜ私が詰問されねばならんのだ!! そもそも、お前がさっさと手を出せばこんな策を弄せずとも済んだのだ!!」
「マツブサ様、」
突然逆上し、滅多とない大声で吠えたにも関わらず、怒れるあるじを抱えたホムラは身動ぎすらしなかった。それがかえって、マツブサの怒りを募らせた。
「ホムラのイケズ! すっとこどっこい!! なぁにが『ご寵愛を失いたくない』だ無礼者、一度抱かれたくらいで飽いたりするものか!! 死ぬまで抱け!!!!」
「マツブサ様……」
「ほらどうした! 私を満足させてみろ!!」
経験を積んで色気たっぷりにホムラを誘惑してみよう!……という企みだったはずが、色気はおろか、ムードのひとつも醸せずに、マツブサはいまや暴君と成り果てていた。
その気もないのに覆いかぶさる身体が癇に障って、マツブサは激しくもがいてホムラを振りほどこうとしたが、がっちりと抑えこまれて余計に密着されてしまった。ふうふうと息を荒げて、憎たらしい剥き出しの腕に爪を立てる。さすがはマグマ団きっての頼れる懐刀、こんな時まで誇らしく思えてしまうのが悔しいが、頑として抜け出せそうにない。
ええい腹の立つ!と暴れ子エネコのような抵抗を続けるうちに、へそからバイブが離れたのに気付いて、ぴくりと身体が戦慄いた。見下ろせば、握りしめられたそれがマツブサの上半身へノックを始めて、へそより上を目指すように、とん、とん、と上りはじめた。
断りなくやわな肌をつつきまわす暴挙、不快というより不気味な感触に眉根を寄せた刹那、「申し訳ありません」と頭越しに謝罪が降ってきて、故意か偶然か、固いそれの先が左胸の小粒を押し潰すように突き立てられた。とっさにくぐもった声が出て、マツブサは怒りとは違う感情で肌をかっと赤らめた。
「お許しください。私は貞操を守ることこそ最大の献身と思っておりました。しかし、それはとんだ誤りだったのですね。マツブサ様をこうも不安にさせてしまうなど……」
しおらしい声に反して、ホムラの操る不埒な棒が、胸の先端を押し上げ、つついて、こね回すようにいびり始めた。明確な意図を持って動かされるそれに、マツブサは耐えられず嬌声を上げた。羞恥心に勝る歓喜が、くちびるを笑みの形に歪ませる。マツブサは快感もあらわな息をこぼしながら、固いそれにそっと指を這わせた。
もたらされた刺激は喉から手が出るほど欲しいものだったが、だからこそ、無機物を通してではなく、ホムラ自身の指で与えられたかった。
「ホムラ……! わかってくれたか! そうだ、私はお前と……」
「はい。私と愛を育みたくて、先走ってしまわれたのですよね。もどかしかったでしょう。申し訳ありません、マツブサ様……。ですが、こんな手段はいただけません」
すい、とバイブを遠ざけられて、乳首への刺激が止んだ。あ、……と物足りなさに喉を鳴らしたマツブサのねだるようなまなざしが、底なしに愛を惹き寄せるホムラの瞳に絡め取られた。
溺れる、そう直感した瞬間、ホムラの指が、ぎゅうと胸の尖りをつまんだ。バイブ越しの快楽など比ではない電流が、胸の先から下腹部へと迸った。
「あぁっ! んっ、ほむらっ……!」
「マツブサ様を善がらせていいのは私だけだ!!!!!!!!!!」
「ヒッッッ」
あらん限りの膂力をもって投擲されたバイブが、見事な弧を描いて遥か彼方へ飛んでいった。解放された乳首の疼きも忘れて、あっけにとられる。
お、お前が勝手にグリグリしたくせに!? ……なんて突っ込む間もなく、マツブサは思いやりをかなぐり捨てた指先に顎を捕まれ、飢えた狼さながらぎらつく紅顔にくちびるを奪われた。
「んぅ、ン! っ、ふ……」
──全身が灼熱の欲に炙られる。
後頭部を掴まれて、下唇を食まれ、気持ち良いところを無遠慮な舌に嬲られて、『嬉しい』、『ホムラ』、そればかりが思考を占める。みだりがわしい水音に耳を犯されて、乱れた吐息も余さず味わうように、角度をかえて何度も何度も、互いの柔らかいところが押し合い、くっつき、形をかえて、ひとつになってはまた離れ、そうしてまたひとつに溶け合い絡みあう。
激しい口づけの合間、わずかに離れたくちびるが糸を引き、荒々しく肩で息をする二人の濡れたまなざしが交差した。技巧も手管もあったものではなかったが、衝動に逸る初心なキスは大いに情欲を煽りたて、マツブサを天にも昇る心地にさせた。
「っはあ、ん、ふ……! はっ、きもちい、ほむらっ……」
「はァっ……お可愛らしいです、マツブサ様……」
多幸感に背筋がじんと痺れて、己を包み込む広い胸郭にすがりつく。いやらしい真似だとわかっていて、マツブサは揺れる腰ごと身体を押し付け、男の顎先をくすぐるように甘く食んだ。上目遣いに窺えば、細められた垂れ目がいっそう蠱惑的に蕩けて見えた。
力の入らぬ指先で、引き締まった胴を掴む。「はやく……」と、マツブサのすべてを明け渡す呼ばい声、掠れた吐息に求められたホムラが、にぱっと笑った。
それは太陽よりもまばゆく輝いて、とても照れくさそうな、嬉しくて幸せでたまらないというような、マツブサが大好きな男の稀に見る最高の笑顔だった。
心臓をぐわりと捕まれ、身体がよろめく。とどめとばかりに、愛情に満ちた手つきで大事に大事に抱きしめられた。華奢な身体を抱く雄々しい腕、甘えるようにすり寄せられた熱い下半身、くちびるに、頬に、瞼に、首筋に、止むことなく降り注ぐ無上のキス……。
舞い上がって喜悦に蕩けたマツブサの頬に鼻先をちょんと寄せたホムラが、「愛しています、マツブサ様……」と真っ白な誠意に満ちた愛を囁いた。
「まずは交換日記からですね……」
「エ゛この期に及んで!?!?」
「晴れて恋人です、ふふ……!!」
「エッ付き合ってなかったのか!?!?!?」
驚愕に全身から力が抜けた。ホムラはいっそうあどけなくふにゃふにゃとはにかんでいる。
マツブサは怒髪天を衝く勢いで憤怒した。必ずやこの筋金入りの童貞を悩殺し、理性を失くした獣のように滅茶苦茶にしてやらねばならぬと決意した。
……つもりだったが、千切れんばかりに激しく尻尾をぶん回し、腹を見せて転がる大型犬のごとく愛くるしいホムラを前になすすべもなく絆されて、自らもめいっぱい相好を崩して、ホムラにぎゅーっと飛びついた。
***
「……ということがあってな。ゆっくり進もうと決めたのだ。ふふ。まさか清らかなお付き合いから始める羽目になろうとは! まあ、じっくりとろ火にかけられるというのも、これがなかなか悪くない。無論、私ではなく知人の話なのだが」
「だから聞きたくねえんだって!!!! ……いや待て、交換日記の件は気になる。まさかマジで始めた?」
「うむ。すごいぞ。業務日誌か? みたいな内容に、愛の言葉が数ページ挟まる。それも毎日」
「ウッワ………………」
「気になるか。見たいか。見せんぞ! ふふん」
「グゥ……!! 悔しいが正直見てえ」
マツブサは朗らかに笑った。
難攻不落の愛すべき男とのお付き合いは、まだ始まったばかりである。
back
あまいゆめ
伏せられた睫毛が、ぱち、ぱち、ぱちりと、大義そうに瞬いている。
おねむですか、なんて意地悪を言えば、愛らしいくちびるがちょんと尖った。
若葉匂い立つ昼下がり、日光浴をしようと言い出したのはマツブサだった。
「いいですね」と返したホムラの声はすっかり弾んで、たっぷり作っていたカイスの実のジャムでサンドウィッチでもこしらえようと腰を浮かすと、「今日くらい、私に付き合ってだらだらしなさい」と愛くるしいウインクに止められた。
そうして、どこに隠していたのだか、きのみが山程入ったバスケットを平らな胸に抱き込んで、そのうち一つをつまんでホムラの厚いくちびるに押し付けたりなんてする。
「ナゾの実だよ。星の力を持っているのだ」とお顔を輝かせて簡単に言うけれど、ナゾの実といえばホウエンでは滅多とお目にかかれぬ珍品であり、そも、おそらくこれはマツブサ自ら育てたものに違いない。背筋を伸ばし、心して味わおう……と咀嚼するものの、口触りのよさや芳醇な風味より、視界に飛び込んでくる可愛い人のわくわくとこちらを見やる笑顔の方がよほど心に染みこんで、「好きです」と飲み下せない告白をこぼしたら、「そうだろう!とっておきなのだ」なんてますます愛らしく胸を張る。
そんな一幕があって、青い芝生に二人腰を下ろして自然の恵みをつまみつまみ、澄んだ大空を頂く牧歌的な風景を眺めていたのだが、ぽかぽかとした日差しに彼の身体がゆっくりと傾いていって、しまいにこてんと、大地と一体になってしまった。
地べたに直接寝転ばれるなんて、と以前なら慌てていただろうホムラも、マツブサが自然や自由や、なにより「肩肘張らない生活」を謳歌しているのだとわかっているので、ただ穏やかに見守っている。
薫風そよいで、チルットの群れが青空に溶けて流れていった。
目下の彼はくにゃりと伸びきっている。華奢な胸板がゆっくりと上下しているのを見つめながら、のんびりナゾの実をかじっていると、物欲しげな上目遣いに捕まった。バスケットへ手を伸ばす。違う、と言いたげな真白い指に太ももをつねられた。ひとつ笑って、彼の薄く開いたくちびるのあわいに、一口大の齧りかけを献上する。柔らかなそれをむにゅ、と食んで、つるっと吸い込んだかんばせが、それはもう満足そうにほころぶものだから、ホムラは思わず気の抜けた笑い声を上げた。
──マツブサは、あれからすっかり気を張るのをやめてしまった。
例えば、風に遊ばれてきらきらと輝く赤髪。以前は丁寧にくしけずられていたそれが乱れて顔にかかっても、彼はちっとも気に留める素振りを見せやしないで、その都度ホムラが指でそっとすくって額をなぞり、形良い耳に優しくかけておまけに手櫛で整えたらば、目を細めて「お利口」なんてうっとりと微笑んでみせるのだ。
『この子はどこまで私に尽くすのだろう』と興味本位で泳がされている気がしないでもないが、薄く染まる目元に作為的なものは見当たらない。なにくれと世話を焼きたがる男のために理由をくれているのだと思って、ホムラも好きにやっている。
甘やかしているのだか、甘やかされているのだか。……と、まあ、近頃はもっぱらそんな様子で、現にいまのマツブサは、いとけない子どもみたいに、うつらうつらと夢うつつなのを隠しもしない。
「諸々のことを片付けたら、アルトマーレに行きましょう。ゴンドラでゆっくり街を巡って、海沿いのホテルに泊まって、朝から晩までずーっとお天道様を浴びて過ごすんです」
「水の都か……うん、いいな」
返事はないかと思ったが、むにゃむにゃとぬくもった声が律儀に返した。
「はい。あちらにも守護神とされるポケモンがいるそうですから、もしかしたら会えるかもしれませんね」
「よく知ってるな」
「マツブサ様と色んなことを経験したくて、たくさん調べているのです」
「ふふ……そうか」
「のんびりした街のようなので、腰を据えて過ごしましょう。気ままに美味しいものを楽しんだり、好きなだけ惰眠を貪ったり……。時間に追われることがないと、むしろやれることが多くて大変かもしれませんね。これからは思い切り羽を伸ばして、……、マツブサ様?」
重厚な石橋の上をあちらこちらへ舞う痩躯、舌鼓を打つ彼の白い手につうと垂れるジェラート、青天よりも晴れやかに破顔して、私の手を引き心をくすぐる彼の喜ぶ姿……、とめどなく湧き上がる想像に夢中になっていたホムラは、いつしか相槌が途絶えていることに気がついた。
ホムラはそっとくちびるを結んで、隣で横臥しているマツブサを見下ろした。
そよそよと気持ちの良い風が、赤い前髪を揺らしている。いくぶん伸びた癖っ毛が、閉じられた目蓋の上で優しく舞った。無垢な細面に顔を近づけ見つめてみても、愛しい瞳は瞼の下に隠れたままで、マツブサは本当にまどろみにとらわれてしまったようだった。
いっそ禁欲的なまでに無防備な寝姿だ。──ホムラは自らが夢見がちであることを重々承知しているが、現のマツブサは己の夢想など及ぶべくもないということも、こうしてよく知っている。
堅苦しい詰襟から解き放たれた、鎖骨まであらわな生白い頸すじ。つるりと男を手招きするそこに指を伸ばしかけ、肌理細やかなその流線上に新緑の影が踊るのを見て、不埒な心と一緒に指を引っ込めた。
ホムラはひとりぽつねんと静けさの中に取り残されて、一度、二度の瞬きののち、自分もごろんと寝転んだ。改めて彼の方に向き直る。くうくうと静かに寝息をもらす表情には険がなく、夢を追いかけていた頃の何倍も穏やかに見えた。
――「なにも無くなってしまった」。
グラードンが彼方へ立ち去るのを見届けたあの時、マツブサはかすかにそう呟いて、すぐ後ろにホムラが立っているのに気が付くと、バツが悪そうに「冗談だよ」と美しく笑った。
ホムラは、それが軽口だなどと信じていない。彼はあれきり失意も諦念もあらわにすることはなかったが、それでも、心にぽっかりと穴の空いているであろうことは、彼を恋い慕う男としてわかっているつもりだ。
もしも願いが届くのならば、どうか温かい夢でありますように。
安らぎを感じさせる寝顔は、ホムラの胸にぽかぽかと沁みこんだ。けれど同時に、夢の中でしか安寧を享受できない彼の不器用さを、少しばかり歯がゆくも感じた。
ホムラはゆっくり目蓋を閉じた。薄い瞼の向こう側で、木漏れ日がちらりちらりと揺れている。
なにも今、急いですべてを満たそうとする必要はないのだ。これまでも、これからも、マツブサはずっと手の届く場所にいる。ホムラにとって、共に過ごす未来は希望に満ちていて、終わりなどないように感じられた。
目を閉じたまま、そっと指先を伸ばしてみる。触れた先の柔らかい感触は、マツブサの滑らかな手のひらだ。それは世界を沈める冷たさでもなく、星を飲み込む灼熱でもなく、実に心地よい温もりでホムラの指先と溶け合った。
きゅうと握りしめてみる。いらえはない。けれど、ン、……と鼻に抜けた声が蜜のように甘く蕩けて落ちたものだから、たまらない心地になって、引き寄せた手の甲にくちびるを押し付けた。柔肌を伝って、指を優しく絡ませる。その仕草が幼子のようなのか、恋い焦がれる男のようなのか、自分ではとんとわからないけれど、きっと彼に聞いたって答えてはくれない気がした。
とっぷりと睡魔に浸りゆく中、ホムラは『心に穴が空いたなら、私で満たしてしまえばよいのだ。アルトマーレだろうと、どこに行こうと、この人をめいっぱい幸せにして差し上げよう。そうして、何度だって忠誠を……いいや、これからはとこしえに愛を誓うのだ』と思いつき、ふにゃりと相好を崩して、マツブサを追いかけるように夢の世界へ誘われていった。
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伏せられた睫毛が、ぱち、ぱち、ぱちりと、大義そうに瞬いている。
おねむですか、なんて意地悪を言えば、愛らしいくちびるがちょんと尖った。
若葉匂い立つ昼下がり、日光浴をしようと言い出したのはマツブサだった。
「いいですね」と返したホムラの声はすっかり弾んで、たっぷり作っていたカイスの実のジャムでサンドウィッチでもこしらえようと腰を浮かすと、「今日くらい、私に付き合ってだらだらしなさい」と愛くるしいウインクに止められた。
そうして、どこに隠していたのだか、きのみが山程入ったバスケットを平らな胸に抱き込んで、そのうち一つをつまんでホムラの厚いくちびるに押し付けたりなんてする。
「ナゾの実だよ。星の力を持っているのだ」とお顔を輝かせて簡単に言うけれど、ナゾの実といえばホウエンでは滅多とお目にかかれぬ珍品であり、そも、おそらくこれはマツブサ自ら育てたものに違いない。背筋を伸ばし、心して味わおう……と咀嚼するものの、口触りのよさや芳醇な風味より、視界に飛び込んでくる可愛い人のわくわくとこちらを見やる笑顔の方がよほど心に染みこんで、「好きです」と飲み下せない告白をこぼしたら、「そうだろう!とっておきなのだ」なんてますます愛らしく胸を張る。
そんな一幕があって、青い芝生に二人腰を下ろして自然の恵みをつまみつまみ、澄んだ大空を頂く牧歌的な風景を眺めていたのだが、ぽかぽかとした日差しに彼の身体がゆっくりと傾いていって、しまいにこてんと、大地と一体になってしまった。
地べたに直接寝転ばれるなんて、と以前なら慌てていただろうホムラも、マツブサが自然や自由や、なにより「肩肘張らない生活」を謳歌しているのだとわかっているので、ただ穏やかに見守っている。
薫風そよいで、チルットの群れが青空に溶けて流れていった。
目下の彼はくにゃりと伸びきっている。華奢な胸板がゆっくりと上下しているのを見つめながら、のんびりナゾの実をかじっていると、物欲しげな上目遣いに捕まった。バスケットへ手を伸ばす。違う、と言いたげな真白い指に太ももをつねられた。ひとつ笑って、彼の薄く開いたくちびるのあわいに、一口大の齧りかけを献上する。柔らかなそれをむにゅ、と食んで、つるっと吸い込んだかんばせが、それはもう満足そうにほころぶものだから、ホムラは思わず気の抜けた笑い声を上げた。
──マツブサは、あれからすっかり気を張るのをやめてしまった。
例えば、風に遊ばれてきらきらと輝く赤髪。以前は丁寧にくしけずられていたそれが乱れて顔にかかっても、彼はちっとも気に留める素振りを見せやしないで、その都度ホムラが指でそっとすくって額をなぞり、形良い耳に優しくかけておまけに手櫛で整えたらば、目を細めて「お利口」なんてうっとりと微笑んでみせるのだ。
『この子はどこまで私に尽くすのだろう』と興味本位で泳がされている気がしないでもないが、薄く染まる目元に作為的なものは見当たらない。なにくれと世話を焼きたがる男のために理由をくれているのだと思って、ホムラも好きにやっている。
甘やかしているのだか、甘やかされているのだか。……と、まあ、近頃はもっぱらそんな様子で、現にいまのマツブサは、いとけない子どもみたいに、うつらうつらと夢うつつなのを隠しもしない。
「諸々のことを片付けたら、アルトマーレに行きましょう。ゴンドラでゆっくり街を巡って、海沿いのホテルに泊まって、朝から晩までずーっとお天道様を浴びて過ごすんです」
「水の都か……うん、いいな」
返事はないかと思ったが、むにゃむにゃとぬくもった声が律儀に返した。
「はい。あちらにも守護神とされるポケモンがいるそうですから、もしかしたら会えるかもしれませんね」
「よく知ってるな」
「マツブサ様と色んなことを経験したくて、たくさん調べているのです」
「ふふ……そうか」
「のんびりした街のようなので、腰を据えて過ごしましょう。気ままに美味しいものを楽しんだり、好きなだけ惰眠を貪ったり……。時間に追われることがないと、むしろやれることが多くて大変かもしれませんね。これからは思い切り羽を伸ばして、……、マツブサ様?」
重厚な石橋の上をあちらこちらへ舞う痩躯、舌鼓を打つ彼の白い手につうと垂れるジェラート、青天よりも晴れやかに破顔して、私の手を引き心をくすぐる彼の喜ぶ姿……、とめどなく湧き上がる想像に夢中になっていたホムラは、いつしか相槌が途絶えていることに気がついた。
ホムラはそっとくちびるを結んで、隣で横臥しているマツブサを見下ろした。
そよそよと気持ちの良い風が、赤い前髪を揺らしている。いくぶん伸びた癖っ毛が、閉じられた目蓋の上で優しく舞った。無垢な細面に顔を近づけ見つめてみても、愛しい瞳は瞼の下に隠れたままで、マツブサは本当にまどろみにとらわれてしまったようだった。
いっそ禁欲的なまでに無防備な寝姿だ。──ホムラは自らが夢見がちであることを重々承知しているが、現のマツブサは己の夢想など及ぶべくもないということも、こうしてよく知っている。
堅苦しい詰襟から解き放たれた、鎖骨まであらわな生白い頸すじ。つるりと男を手招きするそこに指を伸ばしかけ、肌理細やかなその流線上に新緑の影が踊るのを見て、不埒な心と一緒に指を引っ込めた。
ホムラはひとりぽつねんと静けさの中に取り残されて、一度、二度の瞬きののち、自分もごろんと寝転んだ。改めて彼の方に向き直る。くうくうと静かに寝息をもらす表情には険がなく、夢を追いかけていた頃の何倍も穏やかに見えた。
――「なにも無くなってしまった」。
グラードンが彼方へ立ち去るのを見届けたあの時、マツブサはかすかにそう呟いて、すぐ後ろにホムラが立っているのに気が付くと、バツが悪そうに「冗談だよ」と美しく笑った。
ホムラは、それが軽口だなどと信じていない。彼はあれきり失意も諦念もあらわにすることはなかったが、それでも、心にぽっかりと穴の空いているであろうことは、彼を恋い慕う男としてわかっているつもりだ。
もしも願いが届くのならば、どうか温かい夢でありますように。
安らぎを感じさせる寝顔は、ホムラの胸にぽかぽかと沁みこんだ。けれど同時に、夢の中でしか安寧を享受できない彼の不器用さを、少しばかり歯がゆくも感じた。
ホムラはゆっくり目蓋を閉じた。薄い瞼の向こう側で、木漏れ日がちらりちらりと揺れている。
なにも今、急いですべてを満たそうとする必要はないのだ。これまでも、これからも、マツブサはずっと手の届く場所にいる。ホムラにとって、共に過ごす未来は希望に満ちていて、終わりなどないように感じられた。
目を閉じたまま、そっと指先を伸ばしてみる。触れた先の柔らかい感触は、マツブサの滑らかな手のひらだ。それは世界を沈める冷たさでもなく、星を飲み込む灼熱でもなく、実に心地よい温もりでホムラの指先と溶け合った。
きゅうと握りしめてみる。いらえはない。けれど、ン、……と鼻に抜けた声が蜜のように甘く蕩けて落ちたものだから、たまらない心地になって、引き寄せた手の甲にくちびるを押し付けた。柔肌を伝って、指を優しく絡ませる。その仕草が幼子のようなのか、恋い焦がれる男のようなのか、自分ではとんとわからないけれど、きっと彼に聞いたって答えてはくれない気がした。
とっぷりと睡魔に浸りゆく中、ホムラは『心に穴が空いたなら、私で満たしてしまえばよいのだ。アルトマーレだろうと、どこに行こうと、この人をめいっぱい幸せにして差し上げよう。そうして、何度だって忠誠を……いいや、これからはとこしえに愛を誓うのだ』と思いつき、ふにゃりと相好を崩して、マツブサを追いかけるように夢の世界へ誘われていった。
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「明日、アオギリと海に行くぞ」
「なんち?」
梅雨らしからぬ五月晴れ、うだる暑さもなんのその、燦々たるお天道様に負けじと輝く満面の笑み。
……を浮かべたマツブサ様から放たれた衝撃的な一言は、忠実なるしもべことわたし、ホムラから敬語と標準語を吹っ飛ばし、鍛えた体躯をも見事にひっくり返した。
尻餅をついたまま、しばし呆然。咲き誇るぴかぴか笑顔をまばゆく仰ぐ。そこにおわすは常と変わらぬ見目麗しきマツブサ様で、海などいう野蛮な場所とは縁遠いお方であるはずが、今ばかりはそのお姿も蜃気楼のごとく遥かに見える。
海。アオギリと海。……アオギリと海?
すわご乱心かと疑うも、マツブサ様にお間違いなどあるはずもない。真意を図りかねているうちに、いたくご機嫌な想い人が、しょうがないなという風にひとつ笑って腰を屈めた。差し伸べられた手に、ひたむきな視線を這わす。
滑らかで、たおやかで、わたしに惜しみない愛情を注いでくれる白い手のひら……。
ついに思考を放棄して、愛しいそれにそっと縋った。やおら起きあがろうとして、当然、わたしの体重を支えられようはずもない痩躯が倒れ込んできた。慌てて抱き止め、床に倒れ込む。腕の中でくすくすと可憐な声が上がった。
わたしを下敷きにした人の、清らかで、かろやかで、喜色溢れるかんばせが、口づけんばかりの距離にある。
「すまないホムラ、ビックリさせたな」
「いえ、失礼しました。海、海とおっしゃいましたか。アオギリの野郎と。アオギリの野郎と海。楽しみですねそれは」
「そうだろうそうだろう!」
晴れやかな笑顔とは対照的に、わたしの心は大荒れ模様だ。海、ならず者の長、忌避すべき名を二つも並べて、どうしてこうも声を弾ませていらっしゃるのか……。
心もとない気持ちになって、羽のように軽い柳腰を抱きしめた。贅を尽くした衣装は手のひらに心地よく、胸板の上で無邪気にくねる御身の描く曲線は奇跡みたいに美しい。うっとりと撫でさするも、胸の内にわだかまる黒い靄は消えそうになかった。
「んん、日焼け対策を万全にしておかなくてはな。明日はしばらく滞在するつもりだから」
「は、…………」
「ふふふ。アオギリの奴、二つ返事で快諾しおって。めいっぱい楽しんでやろう」
「…………」
なんということだ。マツブサ様の方から、あの男にお誘いを……?
お星様のようにきらめく人の跳ねる声音が、目の前を真っ暗に染めてゆく。マツブサ様は、愛しさと不安でわたしをぺしゃんこにしてしまうおつもりなのだ。ぐるぐる唸って、華奢な胴体に縋り付く。
あの男の元へ行かせたくない。あの男に限らず、明日といわず、いつまでだってマツブサ様を独り占めしていたかった。強靭な腕の檻に閉じ込めたって、わたしのものにはなってくれないマツブサ様の唯一無二の愛情を、この身一つに賜ることができたなら。それはどんなに幸せなことだろう。
欲をかいて追い縋るなどみっともないとわかっていても、とても手放せそうになく──
ふと、頬をやわく突かれているのに気がついた。はっと目を見張る。楚々とした指先が、ツン、ツン、とわたしの柔らかな肉をつついている。お考えの読めない微笑とともに向けられた無垢な爪先が、ツン、ともう一つ頬をつついて、わたしの暗澹たる思いをひといきに蹴散らした。
「この私を腕に収めて、なにを不安がることがある?」
「マツブサ様……」
視界いっぱいに映るマツブサ様の双眸が、甘やかに、いっとう優しげに細められて、恍惚と見惚れているうちに──ちゅっ。なんて、天使みたいにとろけるくちづけが降ってきた。
鼓動が跳ねる。平常心に着地する暇もなく、ちゅ、ちう、むちゅ、……数秒くっついて、愛らしく食まれて、柔らかな手のひらに頬を包まれて、……ちゅう。と、艶やかなくちびるが繰り出す連続攻撃に見舞われた。
瞬いて、また瞬いて、わたしをとろとろに蕩かすそれが──6回当たった、こうかはばつぐんだ!──どうやらおしまいのようだと気付いたら、可憐なおくちに、とどめに首筋を齧られた。びりりと全身にときめきが駆け巡る。
「ま、まつ、まつぶさ様」
「ふふ。さては勘違いしているな? アオギリと遊びに行くわけではないのだよ」
「! それは、どういう──」
極めてゆっくり丁重に、胸に抱いたマツブサ様ごと上半身を起こす。憐れに鼻を鳴らした忠犬に寄り添う得意げなくちぶりが、耳元を熱く撫で上げた。
「奴のプライベートビーチにプルリルやベトベターを大量放流してやろうと思ってな。その下見だよ。そうとは知らぬ奴自身に隅々まで案内させてやるのだ」
「……!!」
ぱあと口端が安堵にゆるむ。威光溢るるマツブサ様が、いつにも増して世界を照らす光に見えた。
奸計を口にした罪深いくちびるが、わたしの耳元からうなじへと伝いおりてゆく。くすぐったさに息を漏らせば、マツブサ様が小さく肩を揺らして笑った。とくんと胸が高鳴って、首筋がじんと熱を持つ。
何もかもを捧げてやまない男の肌に、なお愛を吸うやどりぎを植え付ける悪い人が、首元に埋めていたお顔を上げた。艶やかな額にかかる赤い髪房をすくい上げる。感謝を口にしようとすると、ふっと寂しそうに眉尻が落とされた。切実な表情に心が乱れて惑う。
「マツブサ様?」
「はあ……それにしてもだ。こうして好きなだけ側に侍って、特別を許されておきながら、それでもやきもちを妬いてしまうのか?」
「も、申し訳ありません……。あなたはあらゆる衆生を惹き寄せます。その輝きは日々増すばかりで、マツブサ様のことを想えば想うほど、わたしの悋気はおさまらず……」
「ふうん。信用されていないのだな……」
「そんな! 滅相もございません!」
弱々しく伏せられた睫毛の下、視線はふいと逸らされて、尖るくちびるにこぼれる吐息、すべてがあざとく胸を打つ。からかわれているとわかっていても、それらはわたしの心をひどくかき乱し、庇護欲を煽り立ててやまないものだ。
ひとつになるほどぎゅうと抱きしめ頬ずりすれば、忍び笑いをした人がこつんとわたしに額を寄せた。
「こんなにもお前を可愛がっているのにな? それでも足りないと言うつもりかね」
「はっ、足り……足っ……足りません」
お茶目な戯れに乗ったつもりが、上目遣いに媚びるポチエナのごとき響きを帯びた。低音の求愛を受けた御身がくすぐったそうにちょいとよじれて、白肌がほのかに赤みさす。
「しょうがない子だ。満たしてやらねば立つ瀬がないな。なんでも叶えてあげるから、なんでもわがままを言ってごらん」
「はっ……! では、明日の下見にお供してもよろしいですか……?」
「うむ。よかよ♡」
「マツブサ様っ……!」
わたしの背を抱く爪先が、つうと淫らに背筋を伝った。まだ日も落ちぬうちから情事を思い起こさせるようなそれ。昨晩できた傷跡をなぞるように、甘い指先が背中で踊った。
──底なしに男を溺れさせてやまないお方を前にして、慢心などできようはずもない。
けれど、懐き縋る犬を甘やかしてふやかすマツブサ様の無常の愛は、わたしだけに向けられた、わたしだけを手招き受け入れ溺れさせる、まこと比類なき真心である。
……と、背中に名誉の傷跡を残していただけるうちは、こうして堂々胸を張っての我が物顔を許していただこう。
そうして、いざ明くる朝。
わたしの杞憂をよそに、「いや水着持ってこいや水着ィ!! てめえが『泳ぎたいな、お前のプライベートビーチで』って抜かしたんだろうが!! 農作業レベルの厚着して来てんじゃねえよ! しかも!! そいつは!!! 招待してねえ!!!!!」などと、のっけからがなり立てる水着の男を前に愛嬌溢るるウインクを飛ばしたマツブサ様がめっぽう極めて愛らしく、自然と笑顔溢れる楽しい1日となったのだった。
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