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アニホムマツ工場
アニホムマツ工場

No.27, No.25, No.24, No.21, No.20, No.19, No.177件]

たまゆらの微睡に添う


 テランスはときおり、たとしえない懺悔の心に見舞われる。

 組み敷かれてなお清らかに咲く恋人の、慈愛の色に染まるくちびる、悦びにもえたつ身体のなだらかな稜線、きららかな頬をつたう涙のひとすじ、そうしたものを認めたとき、テランスの胸は掻き乱れ、許しを請わせてもらえぬものかと、たけりたつ楔を突き入れながら膝をついて頭を垂れてしまいたくなる。
 彼を抱いているときはいつも、罪なき喉笛に噛み付いて、純白の羽根を煩悩に染め上げていくような、そんなさまを己のうちに広げている。いつしか終わりに手招かれたとき、神の御許へ召されるべきディオンが欲に濡れそぼった翼のせいで羽ばたけず、共に地獄へ向かう羽目になったとしたら、己が彼を貪り尽くしたからに違いない、と。
 けれど、その奥深い混迷を見透かしたかのように、ディオンは力強い男の手でテランスの背をかき抱いて、契り結ぶそこをみだりがわしく蠢動させて、「テランス……」と口端を上げて愛を呼ぶ。ひとつに交ざる身体を無上のようにうち震わせ、無垢なる幻想を脱ぎ捨てて、私は果ててなおお前と共に在るのだと、言外にテランスの魂を愛撫する。
 極上の馳走を貪り、暴いて、腹の奥に迎え入れられながら、身勝手に哀れな仔犬の面で鼻を鳴らしていたテランスは、そうして同じだけの愛欲に浸されて、拘泥を深いものにする。
 互いをくまなくまさぐって、触れぬところのないほど愛を確かめ合ったあと、テランスはいつも恋人の無垢な寝顔を眺めて、ディオンのすべてを胸に刻んだ。
 テランスの目は、愛しくまろいディオンを余すことなくつぶさに映す。なにより気高いその光は、テランスの目を焼くことなく楽しませ、ただ在るだけで肌に沁み入り心まで温める。波打つ純白のシーツに横たえられた身体の、いかに冴え勝りまばゆいことか。足あとひとつ残せぬ高潔な雪原のようでいて、テランスにとってディオンはとこしえに絢爛の春である。
 乱れた金糸を優しく梳いた。頽廃の世にありながら、閉じた瞼に安らぎをのせる彼の四辺には、テランスが育てた眷恋の花が咲き誇っているようである。ディオンに注がれる溺れるほどの愛情、そのおこぼれを吸った花々はあるじに似て勇ましく、きっと太陽たる彼に向いている。これほどの想いは世に名高き斬鉄剣にも斬れまいと、幻想の花々で愛しい人を包んで満たし、ひとり笑う。
 衣擦れの音がして、微睡みのふちをさまようディオンのゆびが、テランスのゆびをひとつ、ふたつ、……しまいにはいつつ握って止んだ。あどけなく、無防備なようでいて、テランスの骨を抜くには十分な攻撃だった。

 テランスはときおり、たとしえない懺悔の心に見舞われる。

 けれどディオンの度量がその憂いを良しとせず、『私を愛せ』と熱烈に男を蕩かすものだから、テランスの仄暗きは照らされて、光の皇子の最たる伴として胸を張り、二本の足で立っていられる。
 荘厳な翼広げてテランスを招く、愛しいディオン。いつまでも彼の隣で、幸多からんことを願ってやまない。
 額にくちづけられた彼が睫毛をふるりと震わせて、しかし瞳をあらわすことはかなわずに、あえかな吐息を枕に落とした。

「余をひとり夢のなかに見送るつもりか。そうはさせない……」

 睡魔にどっぷり浸かったくちぶりで、再びふにゃふにゃとゆびを握りこまれる。テランスは布団よりも上等な体躯で彼を覆って、「おやすみディオン。いい夢を」と緩んだくちびるで、彼にとっておきの愛を捧げた。


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とこしえ映える恋露光
※現パロ


 光沢とろけるシルクシャツを身にまとい、下着一枚履いただけの生脚を晒した恋人が、むじゃきな素振りで私の手をとり、シャツの下へと導いていく。薄布の下に潜り込んだ無骨な指がなめらかな素肌に食い込んで、耳元で「ン……」とあえかな吐息がこぼれてとけた。
 指の腹が浅ましく絹肌を舐めあげる。焦れた爪先がシーツを蹴って、私の太ももにずしりと魅惑の双丘をのせた。渇望を飲み込んで喉を鳴らせば、艶やかなくちびるが得意気に微笑んだ。
 
「ふ……、どうしたテランス。そう固くなることはない」
「……っ、いけません。こんな……妄りすぎます」
「余とこうするのは嫌か……?」
「そんなわけないでしょう。嫌じゃないから困るんだ……」
 
 鼻先を撫でる甘えた声、恋人が身動ぎするたび思考をぼやかす衣擦れの音、それらに混ざってシャッターの切られる硬い音が私を現実に立ち返らせて、焦燥に似た戸惑いを増長させた。
 私だけが知るディオンの痴態──これはその一欠片に過ぎないが──を十の瞳が凝視して、何枚もの刹那が愛の記録として積み重なっていく。皆が真面目くさった顔つきで二人を見守り、持ちうる魅力を発揮させんと尽力するこの空間に、疚しい気持ちを抱える不届き者はただ一人。
 
「テランス……。いつもみたいに可愛がってくれないのか……?」
「っく、はっ……」
 
 違った。私とディオンの二人きり。
 衆人環視を物ともしない奔放な恋人が、私の耳に熱い吐息を流しこむ。ときめきを超えて灼熱の血潮が股間に集中しそうになって、私は固く目を瞑り、どうしてこんなことに……と、ことの始まりに思いを馳せた。
 
 
 ──ときは2週間前に遡る。
 
『イケメンアイドル、路地裏ディープキス! ディオン王子、夜はテランスのお姫様!?』
 
 ……なんて、衝撃的な見だしですっぱ抜かれた。
 大々的に見開き2ページを飾った写真には、壁に背中を押し付けられたディオンが、暗がりの中でもそうとわかるほど恍惚とした表情を浮かべて、向き合う男──もちろん私だ──に四肢を絡めて縋り付いているところがバッチリ写っていた。おまけに、私の手がディオンの腰……いや、尻を揉んでいるのも一目瞭然で、重なりあい蕩ける二人のくちびるはどう見ても舌を入れてますね、といった様相で、それはもう、言い逃れのしようもない完璧な熱愛写真であった。
 やられた、と思いこそすれ、自業自得なのだから決まりが悪い。
 一瞬の油断が仇となった。打ち上げの帰路、酒精にとろんと赤らむ目尻、ぬるい夜風にほどける金髪、低俗なネオンの光に照らされてなお品位に満ちた火照る頬、二人を囲む建物に切り取られた夜空を見上げて「狼でも出そうな夜だ」なんて、目の前の男を狼に変えてしまう悪戯な笑みを浮かべる恋人……。すべてが夢の中のようでいて、うつつの体温を伝えてくるディオンにすっかり舞い上がってしまったのだった。
 ……正直、一瞬どころではなく、かなり盛り上がった。とても際どいところまで。ディープキス程度の暴露で済ませてくれたのは良心的だと思えるほどに。
 あの夜はそう、街の喧騒も二人の時を穢すに及ばず、瞬く星さえ恥じ入るほどにディオンの痴態は輝いて、まさに今、雑誌を握りしめてワナワナと震えている彼と同じくらい赤く茹だった素肌は私を昂ぶらせ……、眉間をおさえて首を振る。私だってこの記事を歓迎しているわけではない。
 ついに衆目に晒されてしまった、下品な形で。世間に愛と笑顔を振りまき、ファンの声援に応えようと邁進してきたつもりだが、世を忍ぶいっときの逢瀬さえ見逃してもらえず、玩具にされてしまうとは……。
 ドン、と鈍い音がした。机に雑誌を叩きつけた恋人に言葉をのんで、荒々しい呼気に膨らむ背を見つめる。
 
「……ディオンのキス顔は横から見ても美しいんだね」
 
 気を紛らわせようと呟けば、あえなく胸を殴られた。手加減なしの威力に咳き込む。びくりと肩を揺らした彼に苦笑して、固く握りしめられた拳を両手で包み込む。眉尻を下げて覗きこめば、紅潮した頬がぷいと逸らされ、険しい横目に睨まれた。
 
「お前だって美しい!!」
 
 うーん。そこは「ふざけるな」じゃないのか。かわいいな、私のディオン。
 
 ──ディオン・ルサージュ。
 世界一美しい男。一世を風靡する人気アイドル。閣僚の父を持つ、財閥御曹司。
 そこに「幼なじみで同僚のテランスをパートナーに持つ男」という肩書が加わるだけだ。素敵なことだ。たとえ世間に後ろ指をさされようと、ディオンに瑕がつくことはない。ただ、タイミングが悪かった。
 人づてに「父親が弟に家督を継がせるつもりらしい」と聞いたばかりで、ディオンは混沌の最中にあった。あっちへうろうろ、こっちへうろうろ、狼狽える彼に熱愛記事の追い打ちだ。平生の威厳あふれる佇まいは姿を消して、毛を逆立てる仔猫のごとき荒れ模様、噛む引っ掻くならご愛嬌だが、ディオンにはいつだって晴れやかに笑っていてほしいと願う私の方が先に根を上げそうだった。
 ひとしきり低く唸った彼がきゅうと下唇を噛んだので、腕を広げて訪れを待つ。ひとつ、ふたつ瞬いて、素直な仔猫が飛び込んできた。体躯に見合った勢いを受け止めて、ぎゅうっと大切に抱きしめる。襟足に隠れたうなじを撫でれば、そこは熱く滑らかな手触りをもって私の手のひらを受け入れた。
 柔らかい頬が首筋に擦り寄せられる。寄る辺ない温もりがしっとりとくっついて、物憂い吐息が素肌を撫ぜた。
 
「すまない。あんな所でお前を誘ったから……。すまない……」
「いいや、私こそ軽率だった。でも大丈夫、私たちは何も変わらないよ」
「テランス……」
 
 か細い声が鎖骨の上をすべって、上向いたかんばせと目があった。額を合わせて指の腹でうなじを撫でさする。ぞくぞくと身を震わせたディオンが、目をそらすことなく私をじっと見つめている。
 ──この瞳に抗える者などいるものか。路地裏ディープキスがなんだ、昼夜問わずどろどろに愛し抜いて腕の中に囲わずにいられる忍耐力を褒められたっていいくらいだ。
 不遜な胸中はおくびにも出さず、うっとりとまたたく瞳に同じだけの想いを返した。
 
「あの写真は少し気恥ずかしいけどね。今まで通りさ。ずっと一緒にいよう」
「テランス……! ……そうだな。ファンにはきちんと説明をして、……。周りがどう変わろうと、テランスと私が変わることはない」
「うん、ディオン。私たちの幸せを願ってくれる人たちもいるはずだ」
「ああ……。まずは筋を通さねばな」
 
 張り詰めていた糸がふっと緩んで、美しいくちびるが柔らかく弧を描いた。たったそれだけで、温かいものが指の先まで満ちていくようだった。
 安堵をこめた指先で、彼のなだらかな背筋をなぞる。真綿でくるんで、甘い蜜でとろかして、溺れるほどの愛を注いで、輝かしい彼にさらなる光を。とろけるような微笑をこぼしたくちびるが私の首筋に甘くかじりついたものだから、真摯な誓いに下心が混ざるのも早かった。
 ──そうして、いつも以上に甘やかしすぎたのかもしれない。
 だってまさか、ファンに説明をと、二日後に開いた会見で。
 
 
「テランスは余の最高のパートナーだ! 同時に、余もテランスの最高のパートナーだ!! 皆に隠していたこと、そして、はしたない真似を晒してしまったこと、本当にすまなかった。今後は節度を持ってめいっぱい睦み合おう!!」
 
 ──そんなことを、滅多に見られない満面の笑みで宣言するものだから。
 おとがいを解いて涙が浮かぶほど笑っていたら、視界の端でマネージャーが膝から崩れ落ちるのが見えた。めくるめく焚かれるフラッシュをも凌ぐディオンのまばゆい笑顔がこちらを向いて、もう一度、にこ!と、今度は私だけに向けて炸裂した。
 そこから後は、いまいち覚えていない。真摯に「この度はお騒がせて申し訳ありません」から始めようと思っていたのに、ぜんぶ頭から吹き飛んだ。あれで筋を通したつもりの胸を張る恋人が健気でかわいくて、謝罪ではなく惚気会見だったと皆に茶化されるくらい、ひたすら愉快だったことは覚えている。
 その夜は、やらかしてくれた恋人をベッドの上で丁寧に執拗に可愛がって思う存分泣かせたし、後日、事務所へ訪れた雑誌記者にも泣きに泣かれた。増刷に次ぐ増刷、売上が歴代最高記録を絶賛更新中らしい。知ったことではないのだが。
 
 
 それはさておき、今をときめく恋人様はというと。
 
「ああテランス、お前は本当に惚れ惚れするほどの男前だな……」
「ディオン様の寵愛を一身に受けておりますからね」
「ふふ、違いない」
「……っこら、いけません、ディオン様」
 
 こそばゆい囁きを二人の間にとろりと垂らし、凛々しい双眸を甘やかに細めて、キスシーンさえ披露したことのない“王子様”らしからぬ艶やかさで、ゆっくりと私をベッドへ押し倒して厚い胸板を愛撫していた。
 いつの間にか肌蹴させたシャツをめくって、逞しい腹筋を指先でなぞって味わい、粟立つ脇腹をつたってくすぐるように乳首を掠め、しばらくそうしてなすがままの男の肉体を弄んでいたかと思ったら、上体をくっつけて顎を食み、満足そうにくすくす笑ってなんている。天真爛漫な恋人の腰にただ手を添えて、生殺しを耐えている私とは雲泥の差だ。
 ずっと秘密の恋人として密やかに過ごしてきたはずが、世間公認のパートナーになるなんて。あの一件で逆風が吹くどころか、『愛に溺れるセックス特集』と銘打った雑誌で特集を組まれるほどの歓迎っぷりには戸惑うばかりで、夢じゃないだろうなと、しなだれかかる恋人の脇腹をつねってみれば、「あっ! ……ん、そこじゃなくて……」なんて理不尽な両腕に頭をかき抱かれて、ぎゅうと鼻面を挟む胸の谷間に瞠目した。現実は夢よりはるかに刺激的だ。
 
「もう、全年齢向けの撮影なんですよ」
「だってお前とツーショットなんて嬉しくて……」
 
 オイタを叱っても、いじらしくくちびるを尖らせて、大義そうに上体を起こして可愛いお尻を重く揺すぶり、私の恥骨と男心をくすぐってくる。
 両手を上げて降参したら、「それとテランス、いつまで従者気取りのつもりだ? 敬語はやめろ」と追撃された。スタッフたちが小さくどよめく。どうやらディオンは、王子と従者という二人組アイドルの姿を捨てて、本気で恋人同士としてこの撮影に臨んでいるらしい。
 ありのままをつまびらかにさらけ出すつもりはないが、そっちがその気ならと「ディオンも『余』なんておすまししてないで、いつもみたいに可愛くお喋りしなきゃね」と口端を上げて頬を撫でれば、鎖骨までぶわりと赤く熟れた食べごろのお顔が「……ん……」と小さく頷いた。どよめきが一層空気を揺らす。
 よし。かわいいディオンがこれ以上周りを魅了する前に、さっさとかたをつけないと。
 腹の上の恋人がひっくり返らないように腰を支えて、丹田に力を入れて身を起こす。ベッドが軋んで、大人しくひっついたままのディオンに額を合わせて表情を引き締めれば、眼前の瞳がきらきらと眷恋の光を帯びて、華美な睫毛が瞬いた。
 
「世界一愛しい私のディオン。最高の写真を撮ってもらおうね」
「ああ。私の世界一のテランスも、いっとう格好良く撮ってもらわねば」
 
 ふにゃりと笑顔が花開く。とっておきのキメ顔を作ったつもりが、つられて頬が緩んでしまった。格好つかないなと呟いたら、「お前は格好よくてかわいいぞ」と余計やに下がらせるようなことを言う。時と場所を選ばず愛されるのも困ったものだ。くちづけを降らせる代わりにぐりぐりと額を押し付けて、また二人一緒に破顔した。
 
「最後にもう少し撮りたいんですが、テランスさん、クールな感じでお願いできますか?」
「うぐ、はい……」
「もっとこう、最高位の雄らしく、自信たっぷりに……。『ディオンならたっぷり愛し抜いたぜ』みたいなお顔でお願いします」
「えっ?」
「『ディオンならたっぷり愛し抜いたぜ』みたいなお顔で」
「はっ、えっ、はい……?」
 
 撮影開始から散々こっ恥ずかしいことをしているが、そう言われると尚更むず痒くなってきた。しかし、ディオンは私のものだと改めて世に広く牽制するチャンスなのだから、ここで勝負を決めなければ。
 顎を引いて視線を戻すと、ディオンがミーアキャットみたいになっていた。
 
「とすると、余は『愛し抜かれました』という顔で……?」
「いえ、『足りない……』というお顔で」
「おねだりを!?」
「『おねだりを』!?」
 
 二度見した。可愛い口から可愛い語彙がまろびでるのを耳にして、私までミーアキャットみたいになってしまった。
 
「はい。ではいきますね」
 
 異を唱える暇もなく、仕事人の顔をしたカメラマンが構えて促す。最高位の雄なんて表現が肩に重くのしかかるが、ディオンに選ばれた唯一の男となれば、紛れもなく雄の頂点に違いない。
 「二人でてっぺんとろうか」と指を絡めて軽口を叩いたら、「ふ。もとより私たち二人に敵うものなどおるまいよ」なんて凄艶にくちびるを吊り上げて、肉厚なそこを飢えた舌でゆっくりと湿らせる。骨を抜く無二のまなざし、ディオンのすべてに骨の髄までむしゃぶりつかれて、まさしく『愛に溺れる』獣めいた男の顔を晒した私は、くちびるの触れ合う寸前で吐息が熱く混ざり合うのを聞いた。
 
 
 ──そうして、二人の際どいツーショットをふんだんに掲載した紙面が、路地裏スクープの何倍にも世間を騒がせたあと。
 事務所宛てに、先の雑誌カメラマンから手紙が送られてきた。
 三人掛けのソファに二人でぴとりと太もも寄せて、いそいそと封を開けて中身を見やる。
 そこには、簡潔な手紙のほかに、テランスとディオンが笑い合う一枚の写真が入っていた。
 
「はにかんでるディオン、この角度から見てもすごく可愛い!! ……私っていつもこんなにデレデレした顔してる?」
「ふふ。している。仔犬みたいで可愛いぞ。この写真すごくいいな!」
 
 オフショットというやつだろうか。どちらかというとディオンがメインを飾っていた誌面と違い、私が主な被写体となっているようだった。いつの間に撮られたのだか知らないが、ディオンを前に相好を崩して……いや、鍋いっぱいの砂糖で煮詰めて煮詰めて、めろめろに惚けきっているような、そんな照れくさい写真だった。
 
「客観視するのがこんなに恥ずかしいとは……」
「うむ。楽しかったな。また撮ってもらおう! 返事を書くぞ。なあテランス」
「返事はいいけど、ああいう撮影は二度と御免だ」
「なに? 私がお願いしているのに?」
「かわいい顔してもダメ。ディオンの酷なお願いは二度と聞かないって決めてるからね」
「? 酷なことなど言ったことがあったか?」
「さあね。ともかく、ディオンのあられもない姿は今後誰にもおすそ分けできません。乱れるのは私の前だけにしようね」
 
 愛しい身体を惹き寄せて、つるりとしたうなじに這わせたくちびるで、わざとリップ音を立てて吸う。雄々しいくちづけに犯された肌が熱を帯び、ほのかに汗ばんだそこに男の欲望が滲んでとけた。大胆にべろりと味わうと、ディオンの腰がくにゃりと曲がって、ダメ、なんて甘美な誘いがこぼれ落ちた。
 
「テランスっ、こういうのは自宅でだけだと……!」
「んー。撮影のとき散々弄ばれたからね。仕返しされても文句は……っうおお!」
 
 股間を鷲掴まれた。強気な手のひらが服の上から局部を揉みしだく。瞬時にしぼむ余裕とは裏腹に、何かがむくむくと頭をもたげそうになって、大慌てで手首を掴んだ。戦局を覆して優位に立った恋人が、三日月のように細めた目で情けない男の顔を覗き込む。かち合う視線、いっそう深まる美しき笑み、勝利を確信してうごめく剛毅な手。
 
「ディっ、ディ、ディオン!! 本当にダメ、だめだってば、あう」
「仕返しに仕返しされても文句は言えまい? ははは! テランス討ち取ったり!」
「打ち取られた! 可愛い!! さすがだディオン、っく……」
 
 ソファの端まで追いつめられ、いたずらな手首を退けようと抗うも、私よりはるか怪力を誇るディオンの猛攻は止まらない。悪ふざけが過ぎると一喝すれば彼も引いてくれるだろうに、やましい気持ちが言葉を下して喉を鳴らした。若気の至り、ここに極まる。
 ええいままよと目を瞑って身を固くしたら、ふと、優しく撫でるような動きに変わった。急に大人しくなった手のひらの主をちらりと窺う。私を散々弄んでいたはずのディオンが、目元を鮮やかに紅潮させて、伏せた睫毛の下で、羞恥にけぶる瞳をうろうろと彷徨わせていた。
 
「ん……なんだかほんとにエッチな気分になってきた、テランス……」
「っ、ディオン……こっち向いて。ちゃんと顔を見せて……」
「そんなだから週刊誌に撮られるんでしょうが!!! 弁えなさいこのバカップル!!!!!」
 
 二人して飛び上がる。目の前にマネージャーのマダムが立っていた。鬼のような形相で。
 
「「す、すみません……」」
 
 居住まいを正して頭を下げる。私の腕にすがりついて固まっているディオンに胸がキュンと締め付けられたが、腕組みをして見下ろす彼女の見事吊り上がった眦を前にして、色ボケした気持ちは素足で逃げ出していった。普段はおおらかな人が怒るとめっぽう恐ろしい。
 上目遣いに伺う先で、大仰な溜息が空気を揺らし、ディオンが小さく「うぅ」と唸った。二の腕がぎゅっと魅惑の胸板に挟まれて、色ボケした気持ちが抜き足差し足忍び足で出戻ってきた。こっそりと歯を食いしばる。
 
「仲睦まじいのはいいことだけれど、自覚と自制心を持ちなさい。本当にもう……。まあいいわ。『愛に溺れるセックス』特集のあなた達が大好評だったから、数カ月先も特集のメインに据えたいそうよ。今度のテーマは『官能を知る』ですって。OKしておいたから」
「やった!!」
「ええっ! ダメです、ディオンが減る!!」
「減った分はテランスが増やせばよい!」
「どういう原理!?」
 
 ガッツポーズをしたディオンに、どさくさに紛れてほっぺチューされた。凝視するも、ウキウキとはしゃぐ恋人はどこ吹く風だ。会見のあとから日を追うごとに大胆になっていっている気がする。真摯な愛情をもってお応えしたいところだが、マダムの唇が不自然なほど弧を描いていたので、腰を抱くにとどめ……るなんて勇み足を踏むのもやめて、気をつけの姿勢で誠意を示した。
 
「いいさ。『官能を知る』だって? ディオンに鼻の下を伸ばしてる奴らに、私たちのめくるめく官能をこれでもかと思い知らせてやる」
「聞いたか? 私のテランスは最高にイカす男だ」
「はいはい。とっととロケ行くわよ。早く支度して」
「この写真、父上にもメールで送ろう。『お元気ですか? 近々この素敵な恋人とご挨拶に伺います』……送信、っと。」
「あああ!! 相変わらず思い切りがいい……!!」
「きっと父上もわかってくださるはずだ。な、テランス」
「うっ……うん、そうだね。そうなんだけど、猊下はまだ少し怖いなあ……」
「猊下? 案ずるな。何があろうと必ず私がお前を守るから」
「ディオン……! 君は最高にイイ男だ……」
「とっとと支度しなさい!!」
 
 
 ──撮影のときも肯定的に受け入れられて戸惑うばかりだったが、それからも二人を取り巻く空気はあたたかく、スタッフはおろか、行く先々で大勢の人から祝福された。
 さすがに全員とはいかずとも、大多数の人々に好意的に受け入れられていると肌で感じる。それでも急に恋人として振る舞うつもりはなかったが、ディオンに「王子と従者はやめて、王子と王子でいかないか」なんてぽそぽそと耳打ちされて、面白い冗談だなと顔を向ければ、ふざけた色のないかんばせに見つめられて面食らった。
 そなたに従者の真似など、そういつか耳にした彼の切ない声音が蘇る。ディオンの心に刺さる棘は今の世も変わることなく、けれどそれを取り除くのはきっと、あの頃よりもはるかに容易い。少しずつ頑張るね、そう言って額を合わせれば、美しいかんばせがぱっと喜色に華やいだ。
 ディオンは晴れやかな顔で過ごしていることが増えた。特に今日なんて、ロケの最中はおろか道中や休憩中でさえ、そして今もなお、大層ご機嫌そうに頬を緩めて燦燦と輝いている。なかでも、私が人前でつい敬語を忘れて話しかけたとき、いっとうくすぐったそうにはにかんだ笑顔を見せた。人前で恋人として振る舞えるのが嬉しいのかと思っていたが、そういうことか、と、すとんと腑に落ちて、夜の帳が下りた帰路、月明かりに照らされた穏やかな笑みを見つめていたら、ようやくじんわりと体の芯から実感が湧いてきた。
 あの頃とは何もかもが違うのだ。重責に心潰されることもなく、運命に翻弄されることもなく、もしかしたら、長きを共に生き抜くことだって。
 
「ディオン。よかったね」
「ん……」
 
 寄り添う寸前の距離、ちょんと触れた手をそうっと握ってみれば、指は正直に互いを求めて絡みあった。なにが、とは返されずに引かれた顎を見て、微笑みが優しい夜にとけていく。
 心地よい沈黙に身をひたし、いつかの夜のようにネオンに照らされた頬を眺める。ディオンのくちびるがふわと開いて、結ばれて、柔らかなそこを見つめて彼の心を待っていたら、もいちどほどけたくちびるから、吐息のような安堵が漏れた。
 
「……あの日、『ずっと一緒にいよう』と言ってくれたろう。とても嬉しかったのだ。こんなに幸福なことはないと、そう思っていたのに……。ふふ、今はもっと幸せで、これからもきっと、もっとずっと幸せだ。テランスと一緒にいるからな」
 
 美しい瞳がまっすぐに私を映して、まばゆく笑んだ。
 ディオンが、私と共に歩む幸福を選んで、満ち足りた表情を浮かべている。
 一生を伴してよいのだと、他ならぬ彼がそう心に決めてくれたことが、私に寄り添うてくれたことが、それがどんなに、どんなに……。
 心臓を直に掴まれたような、激しい痛みにも似た歓喜の万雷が全身を駆け巡り、ぼやける視界はディオン以外の有象無象を覆い隠した。目の淵いっぱいに雫をたたえて、それでもどうにか、泣き顔よりも笑顔を返してあげたくて、震えるくちびるで不器用な笑みをかたどった。言葉はなくとも、きっとディオンには伝わっている。彼の隣にとこしえに在ることが、私の愛の証明だ。
 固く結んだ手のぬくもりに導かれ、そっと鼻先を寄せ合った。ふわりとほころび、私の訪れを待つくちびるに恭しくくちづけて、ゆっくりと彼のあわいに己を忍ばせる。ディオンの弱いところを舌先であやすようにうっとりと愛撫して、焦れた彼が私の後ろ首をかき抱いて下腹部を押し付けてくるほど丁重に、快楽と己のすべてを染み入らせるような舌使いで、ディオンの腰が砕けるまで熱くとろける口腔を蹂躙した。
 何度味わっても新鮮な歓びに満ちたくちびる。互いの形に寄り添い融け合うそこを甘く食み、名残惜しく離しても、いつまでも繋がっているような心地でいられて、ふにゃふにゃに蕩けて笑っているディオンをたまらず強く抱きしめた。
 夜は短く、私たちの未来は長い。駆け出したくなる衝動をおさえて、歓喜迸る身体をタクシーに詰め込んで、比翼の鳥は愛の巣へと舞い戻った。
 
 
 ──案の定、またバッチリと写真を撮られてマネージャーからしこたま怒られる羽目になったのだが、隠し撮るほどの物珍しさがなくなるほど愛し合う私達の姿が日常茶飯事となるのは、きっとそう遠くない未来のことである。


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春の腕(わたしのうで)


 ホムラの腕はひんやりしている。

 ほどよく日に焼け、惚れ惚れするほど筋肉質で、ぺたぺたと手触りのよい腕だ。ひやりとしたそれに触れれば、体温も威厳も慎みをもしっとりと奪い去られてしまう。
 私のふたつの手のひらに包まれてほのかに温まっていく様子に「雪融けのようだ」とひとりごつと、「春のグラエナをお呼びでしょうか」なんて、真っ向から交えた視線も逸らさずに、明るいうちからそんな困ったことを言う。
 ひのこで炙られたように紅潮していく自覚があって、くちびるを結んで撫でさする。ふいと伸ばされた手の甲が「春ですね」と優しく頬を撫で、髪の毛を耳にかける素振りで耳の縁をつうとなぞっていった。こくりと喉を鳴らしても、夜を思い起こさせる指先は、それ以上私に触れることはない。

「お前のせいで、ぜんぜん麗らかじゃない……」
「はい。マツブサ様こそ綺麗に溶けていらっしゃる」

 恨みがましく睨めつけても、涼しい顔でいるから悔しい。
 張りのある肌をつねってみたら、やはり微動だにせず、「あまりお可愛らしいことをなさらないでください。真っ昼間ですよ」なんて飄々と言い放つ。どの口が、となんだかおかしくなってきて、思わずふにゃふにゃ笑ってしまった。
 オイタした痕が赤く染まっているのに気づいて、円を描くように指の腹で労っていると、自由にしているもう一方の腕が私に寄ってきた。
 硬い指先が、いち、に、……三本、羽のようにくちびるを撫でていく。そうされるのは好きなので、愛しい指をふんわり食むと、「マツブサ様……」と掠れた声が降ってきた。
 意趣返しは成功だ。若い雄は相変わらず平静を装っているものの、まなざしだけがぎらぎらと欲に濡れている。……成功、だろうか。少しやり過ぎてしまったような。
 今さら気づいても、もう遅い。感極まった不埒な両腕に抱きすくめられてしまって、ちっとも抜け出せそうにない。

「ふふ。くるしいぞ、ホムラ」
「くるおしい、のお間違いではないでしょうか」

 たいそうな自信だ。けれど、男の顔がくちづけもなしに首筋にぎゅうと埋まったものだから、照れてるな、ふふん、と得意になった。勝ったと言いたいところだが、この勝負、遺憾ながら引き分けである。
 だって私の両腕も、ホムラの背を掻き抱いて離れない。溶けたところがくっついてしまったみたいで、だからそう、溶かしたホムラが悪いのだ。春だなんだと言いながら、一足飛びに熱帯夜を運びこむ男には、責任をとってもらわなければなるまい。

「今日はお前の腕が痺れるくらい、思いきり尽くしてもらおうか」
「腕どころか全身痺れてしまいそうです。ラフレシアさえ凌駕する抗いがたい猛毒だ。ああ、素敵ですマツブサ様……」

 人をどくポケモン扱いしてうっとりするな。
 口説き文句は微妙だったが、縋り付く力強い腕、頬をくすぐる短髪、火照った吐息、どれもこれもが可愛らしくて、悪い気がしなくなってしまった。
 紫の髪を鼻先でかきわけて、ちうと何度かくちづける。耳をぱくりと食んだ途端に跳ね起きた赤い顔と至近距離で見つめ合い、くちびるの重なる寸前で囁いた。

「ふふん。望み通り動けなくして、頭からぱくりと食ってやろう」
「毎度動けなくなるのはマツブサ様の方ですが」
「ぶ、無礼な……!」

 間髪入れずに返された。口では冷静に突っ込んで、余裕のない様子で昂ぶりをグイと押し付けてくる。まったく、可愛くなくて可愛い男だ。ぞくぞくと背筋が震えても、腕の檻にとらわれていては逃げ場もない。観念して……いや、こうしたかったのは、最初から私の方だ。
 ぎゅっと抱きしめ返して、お好きにどうぞと身体で示す。今度はホムラが身を震わせた。ぬくぬくとした気持ちになって「春だな」と今一度告げてやれば、「はい、お花畑みたいです……」なんていよいよ愛らしいことを抜かすので、声を上げて笑ってしまった。




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悋気ほどいて踊る爪先


「明日、アオギリと海に行くぞ」
「なんち?」

 梅雨らしからぬ五月晴れ、うだる暑さもなんのその、燦々たるお天道様に負けじと輝く満面の笑み。
 ……を浮かべたマツブサ様から放たれた衝撃的な一言は、忠実なるしもべことわたし、ホムラから敬語と標準語を吹っ飛ばし、鍛えた体躯をも見事にひっくり返した。
 尻餅をついたまま、しばし呆然。咲き誇るぴかぴか笑顔をまばゆく仰ぐ。そこにおわすは常と変わらぬ見目麗しきマツブサ様で、海などいう野蛮な場所とは縁遠いお方であるはずが、今ばかりはそのお姿も蜃気楼のごとく遥かに見える。
 海。アオギリと海。……アオギリと海?
 すわご乱心かと疑うも、マツブサ様にお間違いなどあるはずもない。真意を図りかねているうちに、いたくご機嫌な想い人が、しょうがないなという風にひとつ笑って腰を屈めた。差し伸べられた手に、ひたむきな視線を這わす。
 滑らかで、たおやかで、わたしに惜しみない愛情を注いでくれる白い手のひら……。
 ついに思考を放棄して、愛しいそれにそっと縋った。やおら起きあがろうとして、当然、わたしの体重を支えられようはずもない痩躯が倒れ込んできた。慌てて抱き止め、床に倒れ込む。腕の中でくすくすと可憐な声が上がった。
 わたしを下敷きにした人の、清らかで、かろやかで、喜色溢れるかんばせが、口づけんばかりの距離にある。

「すまないホムラ、ビックリさせたな」
「いえ、失礼しました。海、海とおっしゃいましたか。アオギリの野郎と。アオギリの野郎と海。楽しみですねそれは」
「そうだろうそうだろう!」

 晴れやかな笑顔とは対照的に、わたしの心は大荒れ模様だ。海、ならず者の長、忌避すべき名を二つも並べて、どうしてこうも声を弾ませていらっしゃるのか……。
 心もとない気持ちになって、羽のように軽い柳腰を抱きしめた。贅を尽くした衣装は手のひらに心地よく、胸板の上で無邪気にくねる御身の描く曲線は奇跡みたいに美しい。うっとりと撫でさするも、胸の内にわだかまる黒い靄は消えそうになかった。

「んん、日焼け対策を万全にしておかなくてはな。明日はしばらく滞在するつもりだから」
「は、…………」
「ふふふ。アオギリの奴、二つ返事で快諾しおって。めいっぱい楽しんでやろう」
「…………」

 なんということだ。マツブサ様の方から、あの男にお誘いを……?
 お星様のようにきらめく人の跳ねる声音が、目の前を真っ暗に染めてゆく。マツブサ様は、愛しさと不安でわたしをぺしゃんこにしてしまうおつもりなのだ。ぐるぐる唸って、華奢な胴体に縋り付く。
 あの男の元へ行かせたくない。あの男に限らず、明日といわず、いつまでだってマツブサ様を独り占めしていたかった。強靭な腕の檻に閉じ込めたって、わたしのものにはなってくれないマツブサ様の唯一無二の愛情を、この身一つに賜ることができたなら。それはどんなに幸せなことだろう。
 欲をかいて追い縋るなどみっともないとわかっていても、とても手放せそうになく──
 ふと、頬をやわく突かれているのに気がついた。はっと目を見張る。楚々とした指先が、ツン、ツン、とわたしの柔らかな肉をつついている。お考えの読めない微笑とともに向けられた無垢な爪先が、ツン、ともう一つ頬をつついて、わたしの暗澹たる思いをひといきに蹴散らした。

「この私を腕に収めて、なにを不安がることがある?」
「マツブサ様……」

 視界いっぱいに映るマツブサ様の双眸が、甘やかに、いっとう優しげに細められて、恍惚と見惚れているうちに──ちゅっ。なんて、天使みたいにとろけるくちづけが降ってきた。
 鼓動が跳ねる。平常心に着地する暇もなく、ちゅ、ちう、むちゅ、……数秒くっついて、愛らしく食まれて、柔らかな手のひらに頬を包まれて、……ちゅう。と、艶やかなくちびるが繰り出す連続攻撃に見舞われた。
 瞬いて、また瞬いて、わたしをとろとろに蕩かすそれが──6回当たった、こうかはばつぐんだ!──どうやらおしまいのようだと気付いたら、可憐なおくちに、とどめに首筋を齧られた。びりりと全身にときめきが駆け巡る。

「ま、まつ、まつぶさ様」
「ふふ。さては勘違いしているな? アオギリと遊びに行くわけではないのだよ」
「! それは、どういう──」

 極めてゆっくり丁重に、胸に抱いたマツブサ様ごと上半身を起こす。憐れに鼻を鳴らした忠犬に寄り添う得意げなくちぶりが、耳元を熱く撫で上げた。

「奴のプライベートビーチにプルリルやベトベターを大量放流してやろうと思ってな。その下見だよ。そうとは知らぬ奴自身に隅々まで案内させてやるのだ」
「……!!」

 ぱあと口端が安堵にゆるむ。威光溢るるマツブサ様が、いつにも増して世界を照らす光に見えた。
 奸計を口にした罪深いくちびるが、わたしの耳元からうなじへと伝いおりてゆく。くすぐったさに息を漏らせば、マツブサ様が小さく肩を揺らして笑った。とくんと胸が高鳴って、首筋がじんと熱を持つ。
 何もかもを捧げてやまない男の肌に、なお愛を吸うやどりぎを植え付ける悪い人が、首元に埋めていたお顔を上げた。艶やかな額にかかる赤い髪房をすくい上げる。感謝を口にしようとすると、ふっと寂しそうに眉尻が落とされた。切実な表情に心が乱れて惑う。

「マツブサ様?」
「はあ……それにしてもだ。こうして好きなだけ側に侍って、特別を許されておきながら、それでもやきもちを妬いてしまうのか?」
「も、申し訳ありません……。あなたはあらゆる衆生を惹き寄せます。その輝きは日々増すばかりで、マツブサ様のことを想えば想うほど、わたしの悋気はおさまらず……」
「ふうん。信用されていないのだな……」
「そんな! 滅相もございません!」

 弱々しく伏せられた睫毛の下、視線はふいと逸らされて、尖るくちびるにこぼれる吐息、すべてがあざとく胸を打つ。からかわれているとわかっていても、それらはわたしの心をひどくかき乱し、庇護欲を煽り立ててやまないものだ。
 ひとつになるほどぎゅうと抱きしめ頬ずりすれば、忍び笑いをした人がこつんとわたしに額を寄せた。

「こんなにもお前を可愛がっているのにな? それでも足りないと言うつもりかね」
「はっ、足り……足っ……足りません」

 お茶目な戯れに乗ったつもりが、上目遣いに媚びるポチエナのごとき響きを帯びた。低音の求愛を受けた御身がくすぐったそうにちょいとよじれて、白肌がほのかに赤みさす。

「しょうがない子だ。満たしてやらねば立つ瀬がないな。なんでも叶えてあげるから、なんでもわがままを言ってごらん」
「はっ……! では、明日の下見にお供してもよろしいですか……?」
「うむ。よかよ♡」
「マツブサ様っ……!」

 わたしの背を抱く爪先が、つうと淫らに背筋を伝った。まだ日も落ちぬうちから情事を思い起こさせるようなそれ。昨晩できた傷跡をなぞるように、甘い指先が背中で踊った。

 ──底なしに男を溺れさせてやまないお方を前にして、慢心などできようはずもない。
 けれど、懐き縋る犬を甘やかしてふやかすマツブサ様の無常の愛は、わたしだけに向けられた、わたしだけを手招き受け入れ溺れさせる、まこと比類なき真心である。
 ……と、背中に名誉の傷跡を残していただけるうちは、こうして堂々胸を張っての我が物顔を許していただこう。


 そうして、いざ明くる朝。

 わたしの杞憂をよそに、「いや水着持ってこいや水着ィ!! てめえが『泳ぎたいな、お前のプライベートビーチで』って抜かしたんだろうが!! 農作業レベルの厚着して来てんじゃねえよ! しかも!! そいつは!!! 招待してねえ!!!!!」などと、のっけからがなり立てる水着の男を前に愛嬌溢るるウインクを飛ばしたマツブサ様がめっぽう極めて愛らしく、自然と笑顔溢れる楽しい1日となったのだった。




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くるぶし
※モブ目線

 おまえは、うやうやしく持ち上げられる白いくるぶしを見たことがあるか。
 普段はしかめつらしく振る舞って、最低限しか肌を晒すことのない麗人の、ひらりと舞って男を誘うくるぶしを。

 ──違う違う。誘惑の相手はオレじゃあないさ。高嶺の花は路傍の石を愛でたりしない。ただ、石だからこそ手のひらで転がしてはいただけた。
 オレはなによりあの方の、すらりと魅せつけておきながら隠れんぼしてる脚が好きでさ。裾をめくって、靴下を脱がせて、裸んぼのおみ足を一目見られたらと夢想するほど……。まあ、だから、衝撃的だったわけよ。
 あの方の脚は拝むことができたけど、なまじ見ることができたばかりに、目に焼き付いて離れない。一度だって味わえず、二度と見ることもできやしない、こうも残酷な仕打ちがあるか。
 ちくしょう、オレがもっと見目よく才もあったなら、あのくるぶしをものにできたのかなあ。
 ……気になるか? 高貴なるお方の爛れた情事、聞きたいか? へへっ。そうこなくっちゃなあ。
 潜伏任務中、近くの屋敷にあの方が逗留なさるってんで、こりゃあとびきり運がいい、お顔だけでも拝めれば、いいやあわよくばお褒め頂きたい、なんて下心を抱えてご報告に上がったんだよ。そうしたら、いたのさあの人も。あの方と夜中に二人っきりで。誰ってそりゃ、尊いお方に触れることを許された男といやあ、わかるだろ。あの人さ。
 そう急くなって。あのおみ足に手の届かない者同士、よぅく語ってしんぜよう。宵の肴にでも夜のオカズにでもするがいい……。


*****


 月の明るい夜だった。町外れに佇む屋敷は閑寂として、赤松林の影に荘厳な姿を忍ばせていた。
 オレは堅苦しい数奇屋門をくぐり抜け、長廊下を急いでいた。床板の軋みは背後の薄闇に吸い込まれていき、足裏を季節外れの冷気がなめた。
 火急の用であれば遠慮は無用と聞いてはいたが、プライベートな空間を侵しているという実感が不安を掻き立てて、同時に胸を高鳴らせた。前のめりな気持ちを追って足を動かし、ようやく辿り着いた最奥の部屋の前で、深呼吸をひとつ。就寝されているかもしれないと案じていたが、どうやら杞憂だったようだ。ひたと閉められた障子の格子からは灯りが漏れて、足元に優しく落ちていた。
 一枚隔てたあちら側に、リーダー……マツブサ様がいらっしゃる。きっと無防備にくつろぐ彼は、少しの驚きとともに、優しくオレを出迎えてくださるはずだ。
 緊張を期待と興奮が上回り、騒ぎ立てる鼓動をおさえてこぼした声は上ずった。

「夜分に失礼します。リーダー、少々よろしいでしょうか」

 障子の向こうで、人の動く気配があった。
 高鳴る心音が障子紙を突き破りそうな気がした。そうして数秒、十数秒、いくら待ったかわからない。

「こんな夜更けに何の用だ」
「……!」

 くぐもった声が響いた。明らかにリーダーとは別の男の、冷淡で不機嫌そうな低い声。ここはリーダーの屋敷のはずだ。困惑し、返答に窮していると、障子がざっと開いて大きな人影が現れた。

「っ……ホムラ隊長!?」

 動転し、敬礼も忘れて仰ぎ見る。
 紫色の髪、凛々しい垂れ目、獣のように引き締まった身体。リーダー同様滅多とお目にかかれぬ雲の上のお方だが、こうも印象的な行動隊長その人を見紛うはずはない。
 ご挨拶をしなければ、と唇を開きかけて、彼の格好にぎょっとして後ずさった。はだけたというより、かろうじて身にまとったという様相の浴衣姿で、雄々しく匂い立つ胸板がさらけ出されている。目をそらすこともかなわず見つめる先で、盛り上がった筋肉を汗が伝った。唇が震える。縦框に寄りかかって腕を組みこちらを見下ろす立ち姿は、傲慢なまでに美しかった。

「用件は」
「あっ、り、リーダーにご報告がありまして……」
「マツブサ様はお休みになられている。報告があるなら私に」

 底冷えのする美貌が顎を上げる。否が応でも意識させられる体格差、威圧的な態度に、身も心もすくみあがった。こんな深夜に何故リーダーの私室に、と疑問を呈することはおろか、逃げを打つことすら許されない物々しさだ。
 ……だというのに、オレときたら取り繕うこともできずに、震える舌に正直な欲望をのせてしまった。

「う、その、できれば直接リーダーのお耳に入れたく……」
「私には聞かせられない『報告』か? 面白い冗談だ」

 くっと口端が上げられた。いよいよ縮み上がったオレの頭上へ、しなやかな上体が覆いかぶさるように伸ばされた。

「とっとと失せろ」

 苛烈な瞳に射抜かれて、ぐうと喉から恐怖が漏れた。がくがくと頷いて踵を返そうとした瞬間、隊長の背後から生白い腕がにゅるりと伸びてきたのを見て飛び上がった。
 ──悲鳴すら出なかった。シミひとつない白蛇のような腕。隊長の脇腹に巻き付いた幽艶な細指が、男の肌をなよやかに伝っていって、むき出しの胸板にするりととまった。おどろおどろしい腕に絡みつかれながらも、隊長はまるで動じていない。眼光鋭くオレを睨んだまま立っている。
 生気の感じられない手が、ぽん、と窘めるように厚い胸を叩いた。

「こらホムラ。あまりしたっぱ君をいじめるんじゃない」
「はっ。申し訳ありません」
「あっ! りっ、り、リーダー……!?」

 居住まいを正して振り向いた隊長の肩越しに、リーダーの微笑が覗いた。幽霊と見紛うのも無理のないほど、生活感の浮かばぬ白肌だ。ほっと息をつく。しかし、隊長の眉間の皺に気圧されて、安堵の気持ちは引っ込んだ。
 緊張に手汗がにじむ。どうしてお二人が揃っているのだろう。今すぐ引き返せと、脳内でけたたましく警鐘が鳴りだした。

「報告があると言ったね。おいで。聞かせてもらおうじゃないか」
「う、はっ、はい……」

 直々にお声がけいただいてしまっては、固辞できようはずもない。
 こちらを手招いたリーダーが、小鳥が羽を休めるような気軽さで、隊長の首根っこに細顎を寄せた。隆々と盛り上がった男の肌に華奢なおとがいがぺとりとくっつき、美しいかんばせが白百合のような笑みを浮かべた。
 口を開けて立ち尽くす自分をよそに、あるじの媚態を当然のように享受した隊長が、柳腰に手をまわして部屋の中に引っ込んだ。伴われた痩躯も浴衣を身に着けている。それもまた着崩れていて、貴婦人をエスコートするような恭しさも、そろいの乱れた浴衣姿とくれば淫猥な仕草に見えた。
 ──ホムラ隊長はリーダーのご寵愛を受けている。いくらでも替えのきく我々と違って、格別有能な偉丈夫は可愛がられて当然だ。
 それでも、それにしたって、さすがにこれは。
 頭を振る。詮索する気持ちを唾ごと飲み下し、ええいままよと敷居をまたいだ。

「散らかっているが気にするな。ホムラと一杯やっていたのだ」
「は、い、いえ……。し、失礼いたします」

 広々として品の良い和室だった。向かいの障子は開け放たれており、月を載せる薄雲に抱かれたえんとつやま、そこからなだらかに続く庭園の眺望も見事なものだったが、それよりも部屋の中央に敷かれた一組の布団が激しく目を引いた。
 くしゃりとめくられた掛け布団、気怠げな皺を寄せた敷布団、そして、脇に転がった二つの枕……。夜の名残が色濃く立ち込めるそこからとっさに視線を逸らしたものの、生々しい光景は脳裏にこびりついてしまった。
 そわそわと尻込みしながら、勧められるまま奥のテーブルにつく。椅子は2つきり、見回せば柱にもたれ掛かる冷ややかな面持ちの隊長と目があって、慌てて視線を伏せた。
 ちょんとすねに刺激を感じた。見下ろすと、桜色の爪をのせた爪先がオレを戯れに突っついていた。真白い裸足……、リーダーの素足。瞠目し、生唾を飲む。
 すべらかな足の甲、ぷくりと愛らしい血管をのせたくるぶし、ほっそりと美しい足首。一連の完璧な調和に見惚れていたら、もったいぶったように脚が持ち上げられて、すらりとしたふくらはぎが大胆に浴衣の裾からお目見えした。しらじらとしてきめ細やかな、麗しいおみ足。息を乱して食い入るように見つめていたら、組まれた足先がそっぽを向いた。
 熱に浮かされた視線を上げる。脚の持ち主は頬杖をつき、蠱惑的な微笑みを浮かべてこちらを見ていた。不躾に見過ぎたことを咎めるでもなく、己の脚が視姦されるのを面白がっているかのように。
 そしてまた、オレのすねをちょいと蹴った。マッチ棒のように、やわらかい裸の指の腹が男の芯を擦って火をつけたのだと思った。リーダーの背後に立ち控える隊長のくちびるが、恐ろしげな弧を描いた。
 背筋が凍った。
 向かいの柔和なくちびるが開かれた。

「それで」
「……あ、は、はっ! ええと。ご、ご報告します。ソライシの動向ですが、奴に仕掛けた盗聴器から言質をとりました。本日落下した隕石を採取するため、明後日の朝えんとつやまに向かうようです。い、急ぎご報告をと思い、馳せ参じました」
「ほう。隕石の存在は確かか」
「は、はい。奴は探知機で大まかな場所も把握しているようです」
「よく知らせてくれた。助かるよ」
「……! はっ、あ、ありがとうございます……!」

 おひさまみたいに優しい笑顔だった。天にも昇る心地になれればよかったが、上機嫌な上司の背後から漂う不穏な気配に肝が冷えた。全身から脂汗がにじみ出る。
 早急に辞そうとする心算をよそに、リーダーがついと顎を上げ、隊長が机上の瓶とグラスを手にとった。ラベルに木の実の絵が描かれた瓶がゆっくりと傾けられる。隊長に酌をさせるなど、と腰を上げたオレをリーダーの片手が制した。その柔らかな指の腹、手のひらには、ほのかに赤みがさしている。
 背筋を正し、細面に視線を這わす。血の気のないように思えたが、明かりのもと改めて観察すれば、目元や頬は紅潮し、うなじなんて湯上がりのようにつやつやと火照ってさえいた。憧れのリーダーの汗ばむ素肌を目の当たりにして、まるで情事の余韻じゃないか、と下腹をくすぐった下品な考えはすぐに打ち消した。酒精に赤らんでいるだけに違いない。着衣の乱れも一組の布団も、そもそも隊長が同席していることだって、深く考えてはいけないことだ。
 芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。隊長の大きな手が無言でグラスを差し出していた。蔑むような凍てつく視線に耐えかねて、受け取る両手も感謝の言葉も惨めに震えた。

「ふふ、ナゾの実のワインだよ。晩酌でこいつをやるとぐっすり眠れる」
「は、はっ……。で、では、遠慮無く。いっ……いただきます」
「よく味わうといい。とっておきだからね」

 冷たいガラスの縁に口をつける。たゆたう水面に舌先が触れても、のんきに一献とはいかなかった。向かい合う切れ長の目が、傍に控える隊長のおもてをとらえた。

「それにしても、えんとつやまか。思い出すなあ。いっとうかわいいグラエナを手に入れた日のことを……。ふ、お手製のひみつきちなんて慣れぬものを作った。まだ残っているかな」
「は、またいつかご招待いただけますか」
「もちろん。かわいいかわいいグラエナの凱旋だ」

 たおやかな指が持ち上げられて、身を寄せる隊長の腹のくぼみをつうとなぞった。ころころと愛らしい笑い声が鼓膜を撫でる。生きた心地がしなかった。恐る恐る窺うと、精悍なおもてにどろりと愛を垂らしたまなこが、熱っぽくリーダーのかんばせを見つめていた。
 ──アクア団の奴らが隊長を『マツブサの忠犬』と嘲るのを聞いたことがある。なにを馬鹿なと聞き流していたが、今ならわかる。これは正しく忠犬だ。ポチエナやグラエナなんて可愛いものじゃない。獰猛で、牙に劣らず鋭い瞳をギラギラと輝かせ、大きく膨らむ身体をあるじにひたと擦り寄せて、「待て」が解かれるのを今か今かと待つ獣だ。
 オレは、そんな恐ろしい忠犬がよだれを垂らして辛抱している目の前で、いたずらな裸足が仕掛けたちょっかいを、鼻の下を伸ばして受けとめた。そして、現在進行形で、あるじの笑顔を享受している。
 喉奥へ一気に滑らせた酒は、まるで味がしなかった。血の気が引いて、震えながら置いたグラスが神経質な音を立てた。

「ソライシに隕石を拾わせたら直ちに奪取しなさい。手荒なことをしても構わん。そのまま現地でボルケーノシステムを試してやろうじゃないか。アクア団の妨害があるやもしれぬから、ホムラ、お前が指揮をとってあげなさい」
「は。必ずや最良の結果を捧げます」

 隊長が恭しく頭を垂れる。慌てて追従し、「そっ、そろそろ失礼します、ごちそうさまでしたッ」と立ち上がりざまテーブルに腿をぶつけたが、もはやかまってはいられなかった。きょとんと瞬いたリーダーが「そうか。ご苦労だった」と言い終わるのを待たずに、ざりざりと畳の上を滑るように退室した。
 凭れるようにして障子を開き、おぼつかない足取りで数歩進んだところで、障子を閉め忘れたことに気がついた。動悸がする。引き返そうにも、この身はすでに彼らの密やかな空間からぷつりと途切れて、薄闇にぽつねんと包まれている。
 影が縫われて動けやしない。振り返ることがどうにも怖くて、ただ呼気を乱していたら。

「ん……いい子で待てたな。おいでホムラ」
「マツブサ様……」

 ……蜜のようにとろけた応酬が背筋を舐めた。
 視界が揺れる。振り返ってはならない。ただちにここを立ち去らなければ。心臓がばくばくと暴れている。けれど、男を惹き寄せる甘い蜜に抗えるはずもなく、緩慢に振り返った。振り返ってしまった。
 ──あちら側、中央の布団の上で、たくましい背中がリーダーに覆いかぶさっていた。淫靡に溶けた吐息が耳に届いて、どろりとした予感が肌にまとわりつく。続く甘やかな水音に、ほむら、と愛撫するような嬌声が混ざった。くちびる同士がつながりを深めて、恍惚とひとつに蕩けあう。理性が溶けて、足が震えた。
 赤い襟足が敷布に乱れて、細腕が広い背にすがりついた。くちびるや舌どころではない、二人の全身が絡みあってうごめく度に、衣擦れの音が濃密にわだかまっていく。隊長の背を掻き抱いてはだけた浴衣の裾から、長いおみ足がつるりと生えて、生白い太ももまでもがあらわになった。
 下半身に血が集まる。清潔さが過ぎて、不埒なまでに艶やかな脚だった。
 隊長の手が絹肌をつたって、気品に満ちたくるぶしがそうっと持ち上げられていく。爪先がピンと伸ばされて、情欲を掻き立てるようにうっとりと宙を掻いた。さっきオレのすねを確かにつついた指の腹が、ずっと手の届かぬ彼方でみだりがわしい愛欲に濡れている。艶々と潤う肌のおもてに明かりを浴びて、苛烈で生々しい色気を放つ脚が、股ぐらに誘い込んだ男をむしゃぶり尽くそうと舌なめずりをした。
 目眩がした。気がつけば、あるじの媚態にどっぷりと甘やかされる男の黒い瞳が、食い殺すようにこちらを見ていた。
 オレは弾かれたように逃げ出した。

 ──それから、ほうほうの体で小屋へ帰った。
 布団に入り目をつぶっても、楚々としたくるぶしがまなうらでいやらしく身をくねらせて、眠るどころか身体はますます昂ぶるばかりで、強烈に迸って弾けるその熱を数時間は夢中で反芻していた。
 もう一度見たい、触れてみたい、あの清らかな脚にきつく抱擁されたい。美しく整えられた爪先に翻弄されたい。いたずらなそれを捕まえたなら、指先で舌先で存分に味わいくすぐって、なよやかな足裏までもみだりに穢して、可愛がって可愛がられて……。
 そんな爛れた欲望で頭がいっぱいだった。……だから、忍び寄る影に気づかなかった。

 覚えているのは、そこまでだ。


*****


 ……どうした? 顔色が真っ青だぜ。
 ああ、今頃気がついたのか。オレ、どんどん透けてきてるよなあ。足なんかとっくになくなっちゃって。化けて出ても、こうやってなくなっちまうのかと思うとさ、やっぱり美しいおみ足は生きてるうちに見せびらかしてほしいもんだよな。
 待て待て、気を失う前に忠告! 隊長な、涼しい顔しておっそろしいほど悋気の鬼だぜ。最期に見た人影は、きっとあの人だったと思うんだ。リーダーの色っぽいくるぶしは命に変えても見る価値があるけどな。なんせ、こうして誰かに話したくってたまらなかったほどだから。
 ま、大それた下心は抱いちゃならねえってことだ。おまえもせいぜい気をつけろよ。……聞いてくれてありがとな。
 それじゃあ、おやすみ。良い夢を。




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義理の固さで釘が打てる
※リメイク版解散後


 生きとし生けるものを灼き尽くさんとした太陽が夢幻の如く消え、まったくのんきな春波がちゃぷちゃぷとオレを手招くようになった頃。

 まさに激動と呼ぶべき変化に取り巻かれて忙しなく過ごすうち、すっかり世間の賑わいから遠ざかっていたもんだから、うっかりバレンタインデーという一大イベントを素通りしてしまっていたのだった。

 そう、疎遠になっていた相手と再びお近づきになれねえかなあなんて願望を叶えてくれそうな、なんでもかんでもこじつけるには格好の一日を。
 ……なんて、カレンダーを前に肩を落とす日々を送っていたのだが。

 本日、3月14日、AM7:00。

 突然の訪問にはちょいと非常識な時間のチャイムに起こされて、瞼をこすりながら開けた扉の先には、麗らかな春空に赤毛照らされ、仏頂面にメガネを乗せたかわいこちゃんが立っていた。

「ホワイトデーだ。受け取れアオギリ」

 開口一番、そんな訳のわからんセリフを放ちながら。
 いつもの団服に七三分けできっちりピッチリめかしこんで、お前それ押して歩いて来たの?と二度見するほど摩訶不思議な、コータスほどもあるダンボール箱を載せた台車を添えて。
 見なかったことにして寝直していいかな、と思ったが、メガメガネの下のくろいまなざしに縫い止められては引っ込むわけにもいかず、しばし無言で見つめ合った。
 頬をかく。間の抜けたキャモメの鳴き声が、頭上を通り過ぎていった。薄手のスウェットでも包み込まれるような春日和、ちっとも麗らかではない表情で、唇を引き結んだマツブサがじっとこちらを睨めつけている。
 寝起きの頭をゆるゆる回す。
 「ホワイトデーだ」、事実確認に違いない。しかしながら「受け取れアオギリ」、これがどうにもいただけない。だって前者のセリフとくっつけてしまえばまるで、「バレンタインデーのお返しですよ」と言ってるみたいじゃないか。
 首を傾げる。正面でふんぞり返っているマツブサも、こてんと同じ方向に首を傾けた。
 いくつになっても驚くほど可愛い男だが、今はときめいている場合じゃないのであった。

「……オレ、あげてねえけど」
「…………もらった」
「ええ……?」

 誰かと勘違いされているのだろうか。
 マツブサにバレンタインチョコをお見舞いし、なおかつ律儀にお返しを貰えるような果報者が、このホウエンにいるとでも。
 長らく普通に対面することすら叶わなかった男が自ら会いに来てくれたというのに、青天の霹靂である。なんだか無性に悲しくなってきた。
 取り繕うこともできずにじんわり顔を曇らせていたら、なぜだか大いにメガネをズラして慌てた様子のマツブサが口を開いた。

「た、確かにもらったのだ。…………昔。一緒に、勤めていた頃」

 オレの機嫌をとるかのように、ことさら殊勝な口ぶりで。ここ数年の間、憎まれ口しか叩かなかったこの男が。
 一度、二度、瞬く。すがるような眼差しだった。
 「お前は覚えていないだろうが」、ぽつりと付け足しながら、レンズの下の睫毛がゆっくり伏せられていく。視線の先には、履きつぶしたサンダルに乗るオレのむくつけき足の甲があるだけだ。やましいことでもあるかのように、瞳はまつ毛の影に姿を隠したまま、穴の開くほどつま先を見つめている。

 ――霞んだ記憶が甦る。

 いつのことだったろう。バレンタインだ!なんて同僚がはしゃいでいたもんだから、そういうもんかと思いつつ、ただなんとなく、そう、いたって何の気なしに、売店で買った百円かそこらのチョコアイスだった気がする、そんなものを「バレンタインデーだぜマツブサ!」なんてわたしてやったことがあった。
 いいや、何の気もなかったなんてのは嘘だ。ほんの少しは浮ついていた。好きな奴を困らせない程度の、だけど少しくらいは意識してくれたらなって、ガキっぽさ極まるケチでしょっぱい打算があった、ような気がする。

「思い出した。確かにやったな。だがよお、どんだけ昔の話だよ」

 言われて頭を捻りに捻って、ようやく思い出せた程度のちっぽけな出来事だ。それにその時のマツブサといったら、嬉しそうな素振りの一つもなしに、眉根を寄せてだんまりを決め込んでいたはずだ。
 だというのに、そんな気の遠くなるほど昔の思い出を大事にとっておいたというのだろうか、こいつは。
 一歩踏み出す。くたびれたサンダルの下で、砂が乾いた音を立てた。

「バレンタインに菓子を貰ったら、一ヶ月後に返すのがしきたりだろう。ちゃんと返そうと思っていたのだ。ただ、あの頃から互いに時間がなくなって、それから、……とてつもなく長い間、我々は別の道を歩んでいたから」

 つま先から横へと逸れていった視線が、穏やかな海に向く。朝日を反射してきらきらと輝く青を眺めて、歳を重ねた双眸が眩しそうに細められた。
 あれから幾年経っただろうか。恋煩う暇もなく、相手を思い遣るより出し抜くことばかり考えて、過ぎ去った過去はもう戻らないと思っていたのに。
 クソ真面目で、ぶっきらぼうで、オレの心を惹き寄せてやまなかったこいつがあの頃とあまりに何も変わらないもんだから、一度は捨てたはずの気持ちがこうも胸を締め付ける。

「だからそれは妥当な品だ。受け取った義理に過ぎ去った分の利子を加えただけの、ただの義理返しなのだ。なにも言わずに受け取れ、アオギリ」

 台車をガラリと押したそいつの唇が、ん、と尖ってまた閉じた。
 目眩がした。義理なんてもんじゃないひたむきさにだ。そんな途方も無いスケールの人情を秘めたダンボールが、重々しく二人の間に鎮座している。
 長閑な陽光さす地に根を生やしたまま、マツブサは照れるでもなく、いっそ真摯な眼差しで、オレが首を縦に振るのを待っている。
 大きく息を吸い込んで、大仰に吐き出した。
 重苦しいそいつを重荷に感じないほど、こちらだって長年拗らせては積もらせてきた想いがある。ハイそうですかと受け取ってやるのも癪で、つっけんどんに顎をしゃくった。

「……オレは義理なんて言った覚えはねえけど」

 気の利いたセリフの一つも返せやしない、ううんオレの意気地なし。
 けれど、ちらと盗み見たマツブサは、なんとまあやはりというか、オレのバツの悪さに微塵も気がついていない様子で、盛大にメガネをずり下げていた。

「は!? ブラック●ンブラン一本に真心を込めるのかキサマは!? 冗談だろう」
「なに貰ったかまで覚えてんのかよ! お前って奴は……」
「悪いか。キサマが忘れようとも、私は……。なんでもない」

 台車の持ち手を、退こうとする掌ごと掴む。指先から伝わる熱は、なんでもなくはない温度でオレを末端から温めていった。じわり、回りこんで隣り合う。
 逃れるタイミングを奪われたマツブサは、びくりと震わせた瞳をしばらくうろつかせ、そしてようやく観念したようにオレを見た。
 威圧せぬよう、至って朗らかに見えるよう、意識してマツブサの黒い瞳をじいと見返す。

「なあ。あのアイス当たりつきだったろ。どうだった? 覚えてっか」
「ム。……1本分当たりだった」

 思わず上体を揺らして笑っちまった。そんなことまで覚えてるなんざ、意識してもらえたどころの騒ぎじゃねえな。
 奴の肩からも力が抜けて、ほっとしたように目つきが和らいでいく。

「よかったじゃねえか。交換しに行くか? なーんて……」
「そうだな。また会う時に持ってこよう」
「……マジでまだ棒持ってるのかよ」
「ん? ああそうか、有効期限が切れているかな」
「そういうことじゃなくて……まあいいや。いやよくねえな。全然よくねえわ」

 鮮やかな赤の生え際を指でそうっとなぞる。マツブサはくすぐったそうに身を捩り、ちらとこちらを上目に見やった。
 オレは今、数年前なら信じられないような近さでマツブサと寄り添っている。そう気付いたら、体の芯からぽかぽかと春がこみ上げてきた。
 ごほんと咳払いをひとつ、お返しの品を注視する。

「開けていいか?」
「ここで開けるのか」
「ああ。待てねえや」

 ニッと白い歯を見せる。メガネのつるをクイと持ち上げたマツブサが、「仕方のない奴だ」なんてこくんと頷いた。まんざらでもなさそうだ。上下した顎も、そいつにくっつく赤リブに包まれた首も、これがまあ細っこくて危うげだこと。
 関係ねえことに気を取られながら、心をはずませテープを剥いでいく。そしてダン箱の中からこれまた外箱と思しきダン箱が現れて、満を持してご対面したそれにはどでかく「ウォーターオーブン」の文字がドン!
 ……一目見ただけで、お高さが窺い知れるやつだった。

 いや。いやいやいや。
 なにこれ。なんだこれ?

「配送事故? 取り違えとかあるのな、実際」
「間違ってない。それがお返しだアオギリ」
「いやなんで? マジでなんで? ホワイトデーってこういうのだっけ」

 3倍返しなんて次元じゃあない。さっき利子がどうとか言ってた気もするが、それにしたって百円そこらの棒アイスから十数万円の家電まで成長させる利子なんざ、オレは極悪非道の高利貸しかってんだ。
 真顔を向ければ、マツブサは眉尻をへにょんと下げていた。いやいや、狼狽えたいのはこっちだぜ。

「カガリに相談したのだが、なかなか決まらなくてな。自分が貰って嬉しいものなら間違いないという結論に至ったのだが。……もしや不快だったか」
「快とか不快とか以前に仰天してんだよ。落ち着く時間くれ。タンマだタンマ」
「う、うむ……?」

 顎鬚を撫でる。ざりざり、見据える先のマツブサが、所在なげに視線を彷徨わせている。
 あいも変わらずズレてる奴だ。離れている間もまともな人付き合いをしていなかったことが窺えてなんだか寂しくなってくるが、まあ今回は相談相手が悪かった。ホムラがこのことを知れば止めてくれたに違いない、ああ無念。
 けれども、明らかにやりすぎとはいえ、オレの喜ぶものを考えてうんうん頭を悩ませて、それでようやくこれならば!と目を輝かせて購入し、せっせとここまで運んできたのだろう姿を想像すると、なるほど最高の贈り物であると頷けなくもないのだった。
 なにより、『自分が貰って嬉しいもの』ときたもんだ。
 にやーっと口端が上がっていく。「オレんち来る?」なんてお誘いを繰り出すには、あまりにおあつらえ向きの口実を含んだお返しであった。
 気付いてねえんだろうなあ。虎視眈々と己を狙う狼の住処に家電を置いてく、その意味に。
 ニコニコと頬を緩ませるオレに何を思ったか、愛しい赤毛の男もまた、にやりと悪戯な笑みを浮かべた。

「嬉しいかアオギリ」
「ああ嬉しい、嬉しいぜマツブサよ」
「ふん。借りは返したからな。せいぜい冷えた油物をチンして元通り美味しく腹に収めたりなどするがいい」
「どんな気持ちで言ってんだそりゃ」

 大の男が二人して、キャスターをごろごろ転がし歩く。玄関の段差にがつんと台車をぶつけて停止、大人しくしているマツブサの片手を惜しみながらも解放し、ダン箱の前にしゃがみこむ。
 上目遣いに見上げてみれば、逆光に目を細めるオレに負けず劣らず細まった瞳と目があった。

「アイス、当たったんだよな」
「ああ。証拠なら家に……」
「つまりオレは2本あげたと言っても過言じゃねえ。ってことはよお、お返しも2倍にならなきゃおかしいんじゃねえの?」

 どっこいせ、なんて掛け声と共に箱を持ち上げる。豪華なお値段に見合ったなかなかの重量だ。
 あんぐりと口を開けて立ちすくむ男を置いて、サンダルを脱ぎ散らかしてすたすたと廊下を進む。

「は……?……、はっ!? いや、そっ……、暴論ではないか!?」

 ようやく我に返った男の慌てっぷりが、実に耳に心地よい。くるりと見返りお顔を拝見。マツブサはドアの隙間に身を挟み、足を踏み入れてよいものだか逡巡しているようだった。
 今更遠慮する仲でもあるまいに、と微笑ましく思う己を自覚しながら、顎で誘う。

「ってことで、寄ってけよ。朝一で来といて、捨てゼリフ吐いてハイ退場はねえだろ。アオギリ様特製アクアパッツァでもお見舞いしてやる。せいぜいオレがこいつを使いこなすところを指をくわえて見てるがいいぜ」
「ぐ、ぐぬぬ……。い、いやしかし、それでは施しを受ける一方……」
「ざまあみろ。一生返しきれねえ勢いで、義理には義理を重ねてやるさ」
「そ、そうか。……それは、困ったな」

 ちっとも困ったように見えない男のかんばせが、ふわりと柔らかくほころんだ。
 そよそよどころか、男の見栄もプライドも吹き飛ばす勢いの、真っ向から対峙するには勢力を増しすぎた春一番の笑顔であった。
 思わず見惚れていると、そろりと玄関に身を滑り込ませたそいつが右手を壁につき、片足を曲げてブーツを脱いだ。初めて目にする幼い仕草に、そぞろ胸をくすぐられる。
 毛を逆立ててばかりだった野良猫をうまいこと手懐けられたような、一段飛びに腹まで撫でさせてもらったような、そんな達成感に満ちた気分だ。遅れてぐわんと、心どころか身体までもが大きく戦慄いた。
 参ったな。どんな荒波だって軽々制するオレさまが、一人の男にこんなにも酔わされちまうだなんて。

「そんじゃまあ、今日からこいつを使い倒してやるからな」
「いいから前を向け。つまづくぞ」
「ハッ、照れてんのか?お顔がゆるゆるだぜマツブサさんよお」

 なあんてはしゃいでいたばかりに、案の定腕に抱えた義理の塊をぶち当て壁に大穴を開け一悶着を起こしたのだが、それはまた今度の話だ。




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竜の光明


 創世阻む陽炎ひらめき、天を光の矢が穿つ。
 宙に浮く禍々しき結晶が、人の世へと降り注ぐ。

 テランスは、傷だらけの最愛の人とそのさまを見た。

 重々しく立ち込めていた暗雲が舞台を降りて、無垢な星星が夜空へと舞い戻る。
 ヴァリスゼアに光落とす望月を遥かに眺めていたディオンは、傍らのテランスに一瞥もくれることはなかった。
 打ち寄せる波が岬にくだけて、崖下で白白と波打った。風がうなって、濡れた長衣は重くはためき、崩れた金髪が頬を打つ。拳だけが強く握りしめられて、表情に険はない。
 ビリッと耳慣れた音がした。無理を通した彼の右腕、矜持満ちたそこを仄白い閃光が取り巻いて、弱々しく月夜に散った。それが、ドミナントたる彼の最後の発露だった。

 とても静かな幕引きだった。

 ディオン・ルサージュは、ザンブレクの英雄だった。民草を護り、救い、導き賜う聖なる光。──それが、かつての彼だった。
 今、テランスの瞳に映るのは、途方も無い虚ろを抱きしめる人間の姿だった。
 目を離せば二度と会えなくなるような、危うい淵に立つ人間の。

「フェニックス、イフリート……。終わった、すべてが……」

 かぼそい呟きをその場に残し、ディオンの靴底が土を擦った。おぼつかない足取りが月影へと吸い寄せられていく。その先に待つのは断崖だ。けれど、一歩、また一歩と彼は歩みを止めることなく、白い背中が悠久の闇にとけていく。
 テランスは、幼い頃からその背に憧れ、敬愛し、必死で守り抜いてきた。それが今やぽつんと遠のいて、とてもさびしく、この世のものと思えないほど幽艶に揺らめいている。ぞっと血の気が引いて、咄嗟に声を張り上げた。

「ディオン様! 終わりではありません、これからです!」

 応えはない。必死の遠吠えは愛しい背中に跳ね返されて、足元にほろほろと落ち重なった。ともすれば縋り付くような励ましも、今の彼には抱えきれないだろうことも承知で、けれど諦めるつもりはなかった。

「我々はまた、ここから出発するのです! ディオン様は、我々の……私にとっての、唯一のしるべです。どうか、どうか……」

 本当は、テランスにとって民も国も二の次だった。ディオンの望みを叶え、彼が幸せでいてくれさえすれば、それでよかった。その齟齬が二人を隔てていることも、重々承知した上で。
 よき理解者たりえなかった、黄泉の道連れにも選ばれなかった。けれど、彼の支えとなるのは、この世の楔となれるのは、きっとテランスの他にない。そう思うのに、ようやく絞り出せたのは、弱々しい懇願だった。

「……置いて行かないで……ディオン……」

 テランスの大切な人は、ゆっくりと断崖へつま先をかけた。その先は、と目を見張れば、土埃に輝きを奪われた彼の靴が、動きを止めた。
 瞬く。まさか、と思って、ごくりとつばを飲む。
 ああ果たして、そのまさか。
 ディオンの手のひらが、テランスを手招いた。顔は向こうへ向いたまま。来い、とでも言いたげな、不釣り合いな気軽さで。
 あ、と唇を震わせたテランスの方へ、澄ました横顔が振り返った。
 ひときわ強い風が吹き、鼓膜が震えた。穴の開くほど見つめる先で、金髪をゆっくりとかき上げたディオンが、小さく笑った。

「仕方のない奴だ。そう悲壮な声で鳴かれては、おちおち物思いに耽ってもいられない」
「……っ! ディオン様……!」

 たまらず彼のもとへ駆け寄る。彼の中にはまだ自分の居場所がある、その事実だけで、身体が羽のように軽く感じられた。
 月華を背負う愛しい人が、ぎゅうと目を細めてテランスを見つめた。遠く、まばゆいものを見るような眼差しで。浮足立った心がすとんと地に足つけて、テランスは彼の目の前で立ち止まった。
 静かに佇むディオンを、じっと見つめる。闇夜に翳る彼の笑顔は、とても朗らかとは言いがたかった。
 ──取り繕うこともできないほど傷ついて、それでいながら無理にくちびるを歪ませて、どうしてこの人はこうなのだろう。
 だからテランスは、強がりの彼を大事に大事に腕の中にしまいこむことにした。めいっぱい捧げた愛に寄りかかってもらえずとも、別にいい。傷も悲しみもひた隠して、それでもこわごわとテランスに寄り添う彼の優しさを知っている。
 ディオンはほうっと息をついて、ぎこちなくテランスの首筋に鼻を埋めた。それだけで十分だった。

「帰りましょう、ディオン様」
「…………」

 俯く彼の髪をそうっと撫でる。返事はない。脇腹のあたりに指が縋り付くのを感じて、常になく寄る辺ない温もりに、胸を締め付けられた。
 無骨な指先が何度か髪を梳いたころ、物憂い吐息が素肌をなぞった。

「……余にはもう、帰る場所など……」
「私がいます。貴方の安寧は私がつくる」
「……安寧……余が奪った、父上から、民から……」
「ディオン……」
「アルテマは斃れたが、余の罪が消えたわけではない。こうして長らえた命さえ、正しいのかどうかさえ……。それでも、それでも余は……お前と共に……」
「っは……!」

 押し殺した声に、短く返す。
 贖罪に命を賭そうとしていた彼が、わずかでも希望に手を伸ばそうとしている。それがなにより嬉しくて、二人の間に光明が差したようだった。
 世界が一変したとて、テランスは揺らがない。ディオンと共にある限り、テランスが折れることはない。それはまた、彼にとってもそうであればいいと願っている。いいや、願いなんてものでは足りない。
 今度こそ、己がディオンにとっての光となろう。
 強く抱きしめた腕の中、愛しい身体がふるりと身じろいだ。

「……お前はどうしたい」
「ディオン様のお側に」
「もう主従ではないと言っても……」
「はっ。永劫あなたと共に」

 もう一度、彼の身が戦慄いた。腰を抱いて、つむじにくちづける。今度はくすぐったそうに震えたディオンがゆっくりと顔を上げ、熱い視線が交差した。痛々しい笑顔がほどけて、愛しいかんばせが、ぎこちなくとも安堵に頬を緩ませている。心にふつふつと喜びが灯されて、テランスはつられて微笑んだ。

「……余から離れる最後のチャンスを逃したな。お前は馬鹿だ。救いようのない馬鹿だ」
「一途だとおっしゃってください。どこまでだってお供いたします」
「うん、もう手放したりするものか」

 あどけなくつぶやいたくちびるに、とっておきの愛を返す。少し荒れてしまった、けれど変わらず瑞々しくて柔らかなそこは、ふわりとテランスを受け入れた。別離の時を取り戻すような口づけではなく、末端でさえこれほど愛おしい彼を慈しむようについばんで、ふやけてひとつに融け合ってしまうほど、魅惑のくちびるを味わい、満たす。
 滑らかなうなじに手を這わせて、ぞくぞくと身を震わせる彼をより引き寄せる。薄く開いたそこに招かれた舌でディオンの好きなところを丹念に可愛がったら、んぅ、と切なくあえかな吐息を漏らした彼が、うっとりと長い睫毛を上げて美しく微笑んだ。くちびるを離して、かわりに額をこつんと合わせ、甘やかなディオンの表情に陶酔する。

「ディオン……」
「ん、はぁ……。お前はいつだって余の欲しいものをくれる。ふふ。『永劫共に』……か」

 花も恥じらう極上の笑み、心を蕩かす口ぶりで、ディオンはテランスの左手をそっとすくい上げた。見開いた視界の中で、彼の指が丁重に、かけがえのないものを扱うかのような優しさで、テランスの薬指に柔らかいくちびるを押し付けた。瞬いて、また瞬いて、彼の整った鼻梁を呆然と見やっても、夢幻に消えることなく、彼はテランスにぴたりと愛を寄せている。
 そうしてゆっくり離れていったかんばせが、テランスを見つめてふわりとはにかんだ。

「テランス。余の永遠もお前にやろう」

 ──その、言葉以上に燦々と注がれる、愛にあふれたまなざしに。
 己のすべてが、報われた、と思った。
 目頭と喉が熱くひりつく。くちづけられたところから温もりに蕩けてしまいそうで、ぐっとこみ上げた嗚咽を飲み込み、それでもこらえきれずにこぼれた雫が、はたはたと頬を伝った。

「……ディオン、ディオンっ……!」
「すまない。ずいぶん待たせたな」

 目からたくさんの想いが溢れては零れ落ちていく。
 視界が滲んで、テランスは大急ぎで目元を拭った。もはや彼からいっときも目を離さないと誓った心が、喜びの雨に彼の姿を隠してしまう。
 凛々しくて、強がりで、決して涙を見せないこの人に、己ばかりが頼りない姿を見られて情けないような、弱みさえ受けとめてもらえるのが喜ばしいような、矛盾した想いが喉奥を焼いた。

「……そうこすっては腫れてしまうぞ」

 拳にするりと静止の指がかかって、瞼に、目尻に、濡れた頬に、淡いくちづけが降ってくる。それがまた雫を溢れさせると知らずに、ディオンは途方もない想いをのせたまなざしでテランスをじっと見つめている。

「ほら、楽しいことを考えてみろ。帰ったら何がしたい? なんでもしてやろう」
「っ、う、なんでも、」
「なんでもだ。愛しいテランス」

 その言葉だけで十分なのに、ディオンはそれ以上をくれると言う。いじらしい人の愛情にこたえるべく頭をひねるが、貴方の側にいられるだけで……とくちびるを震わせることしかできなかった。
 ふと、優しく首を傾げたディオンの耳飾りに視線がいった。無垢な耳たぶを抱きしめているそいつは、できることなら己の指で外してあげたいものだと、いつだって朝まで褥を共にできない我が身に溜息を吐かせる代物だったはずだ。
 そう、人目を避けねばならず、時間をかけて睦み合うこともできなかったあの頃、抱いていた夢があったじゃないか。冗談みたいにささやかで、けれども、口にすることさえ憚られた叶わぬ夢が。
 頬を吸うくちびるに誘われて、テランスはぽつりと願いを零した。

「……ディオンと、一日中ベッドの上で、自堕落に過ごしてみたい……」
「んっ……ふ、ティーンのようなことを」
「な、なんでもとおっしゃるから……!」
「はは、すまない。柄にもなく照れているのだ、あんまりお前が愛おしくって」

 口を尖らせたテランスの後ろ首に、するりと両腕が巻き付いた。どきりと高鳴る胸に、ぶ厚い胸がすがりつく。星月の霞むほどきらきらとまばゆい彼の、ふわりとほころぶくちびるが、テランスのそれに重なった。

「今日から伴侶だ。余のプロポーズを受けたからには、お前をとびきりの幸せ者にしてやる。お前も余を満たしてくれ。なあ、テランス……」
「ディオン……」

 テランスの下唇を甘美に食んだその人が、熱を乞うて身を揺らす。
 男を求める舌を優しく吸って、両腕にとらえた彼の背筋を淫猥に撫でおろす。とびきりの嬌声、こぼれる吐息のひとひらさえ口腔に招き入れ、テランスはディオンに甘えるように腰を押し付けた。
 それからテランスは、宝箱にしまいたいほど素晴らしいディオンの痴態──テランスのシャツの下に滑り込み、広い背をまさぐる手のひら、愛する男を敷いて前後に揺れるまろい尻、口では恥じらいながらも、大きく広げられてテランスを迎え入れる両足、……。そのすべてを心に刻んだ。
 二人はじっくりと時間をかけて互いを与え合い、もはや分かたれぬひとつの心をくまなく確かめ、慈しみ、果てなき愛情に浸って長い夜を明かした。


***


 ──がらりと色を変えた世界にも、変わらず朝はやってくる。
 聖なる翼はおろか、あらゆる魔法が姿を消して、社会の有り様や人々の営みに至るまで、様変わりした生活に戸惑う毎日だったが……ああ、テランスとディオンの在り方に比べれば、それらは実に瑣末な変化だ。
 フェニックス、イフリート、皆で守り抜いた人の世を、ディオンとずっと一緒に守っていく。傍らに控える従者としてではなく、隣り合って苦楽を分かち合う伴侶として……。

 テランスは分厚いカーテンを開け放ち、古めかしく軋む窓を全開にして、部屋に新鮮な空気と光を取り入れた。薄く引かれたレースカーテンを揺らす風が、小鳥のさえずりをシーツの上に運びこむ。
 ベッドの上、半身を起こしてはいるものの、差し込む朝日にぽやぽやと微睡んでいる可愛い伴侶の額にくちづけて「おはよう」と笑いかければ、「んぅ。……う」と、返事なのだか寝言なのだかわからない鳴き声があがって、テランスは破顔してもうひとつくちづけた。
 かつて欠けたるところのなかった皇子様は、今や無防備な姿を晒してくれるようになった。愛されたがりなディオンが、素のままで十分に愛してもらえるともっと自信を抱けるようになるまで、テランスはべたべたに甘やかすつもりでいる。
 テランスは、子猫のように擦り寄ってきたくちびるへお望みのままくちづけて、「まだ寝る?」と蕩けた声で問いかけた。ふにゃふにゃと何か(否定だろう、たぶん)を口の中で転がしたディオンが、裸足のつま先をゆらゆらと彷徨わせ、ぺたりと床を踏みしめた。
 スリッパを履かせてあげたくなるけれど、ぐっとこらえる。『従者のような真似』は彼の頬をふくらませる要因だ。こちらとしては『ベタ惚れ伴侶の仕草』に違いないのだが、線引きの難しいところであるし、それに、口喧嘩で勝てた試しがなかった。

「おはようテランス」

 眠り姫のお目覚めだ。寝ぐせがついていようと、着崩れたリネンシャツから柔らかな胸がこぼれていようと、丸見えの滑らかな脚が目に毒だろうと、ディオンは今日も麗しい。

「おはようディオン。いい朝だ」
「うん。……下着がどこかにいってしまった」
「ええと……昨日、廊下で脱がせたかも……ごめん」
「ふふ……そういえば寝室まで点々と脱ぎ捨てていったな。面白いからそのままにしておこうか」
「そうだね。今日はロズフィールド卿しか来客予定がないし」
「ロズフィールド卿が来るんじゃないか!」

 ──地に堕ち、贖えぬ罪を背負っても、ディオンは折れずにまっすぐ立っていた。
 愛する父に従順な英雄たらんとするのをやめて、人々のためにより心を砕き、助力を惜しまず泥をかぶって邁進するその姿は、余計に男の魅力を引き立たせた。
 もとより見目麗しい男の全身に、清廉かつ気高い美しさが生々しく息づいているのだ。幼い頃から憧憬に懸想の念をけぶらせていた一人の雄が、惚れ直さないわけがない。
 ほうと息をついてディオンを見つめる。テランスの熱視線を『いつものこと』として享受した彼が、意気揚々と廊下に向かった。

「卿も多忙だな。こたびは野獣退治の件だったか……。支度をするぞ。行こうテランス」
「ああ。無理はするなよ、ディオン」
「誰に物を言っている? お前の伴侶がそれしきで音を上げたりするものか」

 にっといたずらな少年のように上がった口端。以前にまして愛らしいかんばせに見惚れていたら、ちゅうと頬にくちづけが降ってきた。あっと驚いて手を伸ばすも、ひらりと逃げられて、おまけに向けられた満面の笑みにとどめを刺されて、とうに骨抜きのテランスは幸せに溺れてしまいそうだった。

「そもそも、余の身を案じるなら夜は少しくらい手加減しろ」
「それは無理だ。もう誰憚ることないと思うと、可愛い君を前に我慢できるはずがない」
「お前は可愛げがなくなった。前は余の言うことならなんでも叶えてくれたのに……」
「でも今のほうが好きだろ?」
「自分で言うな。恥ずかしい奴……。大好きだテランス!」
「わっ、もう、ディオン、君は本当に……!」

 振り向きざまに飛びつかれて、二人して床に転がり笑い合う。テランスを下敷きにし慣れた身体が胸板に手をついて起き上がったと思ったら、また勢い良く倒れこんできてテランスはぺしゃんこに押しつぶされた。
 ぺったり身を寄せたディオンが、耳元でころころ笑う。くっついたところから伝わる振動が心地いい。背中を抱いて声を上げて笑っていたら、遠く階下で「おおい、邪魔するぞー! おらんのかー!?」という大声と無遠慮な足音が響き渡った。がばりと跳ね起きたディオンが、脱兎のごとく駆けていく。

「下着!!!!」
「あっ待ってディオン! 私が……」
「うわああああああああ」
「うおおおおなんじゃあ!! 見とらん! ワシは見とらん!!」
「ああ……ははは……」

 最強の翼を失おうと、その手に輝き灯すことがなくなろうと、ディオンは、どんな光よりまばゆく温かく愛おしい。

 ──あの日墜ちた英雄は、今もこれからも人として、ずっとテランスと共にある。


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