カテゴリ「FFⅩⅥ-テラディオ」に属する投稿[4件]
たまゆらの微睡に添う
テランスはときおり、たとしえない懺悔の心に見舞われる。
組み敷かれてなお清らかに咲く恋人の、慈愛の色に染まるくちびる、悦びにもえたつ身体のなだらかな稜線、きららかな頬をつたう涙のひとすじ、そうしたものを認めたとき、テランスの胸は掻き乱れ、許しを請わせてもらえぬものかと、たけりたつ楔を突き入れながら膝をついて頭を垂れてしまいたくなる。
彼を抱いているときはいつも、罪なき喉笛に噛み付いて、純白の羽根を煩悩に染め上げていくような、そんなさまを己のうちに広げている。いつしか終わりに手招かれたとき、神の御許へ召されるべきディオンが欲に濡れそぼった翼のせいで羽ばたけず、共に地獄へ向かう羽目になったとしたら、己が彼を貪り尽くしたからに違いない、と。
けれど、その奥深い混迷を見透かしたかのように、ディオンは力強い男の手でテランスの背をかき抱いて、契り結ぶそこをみだりがわしく蠢動させて、「テランス……」と口端を上げて愛を呼ぶ。ひとつに交ざる身体を無上のようにうち震わせ、無垢なる幻想を脱ぎ捨てて、私は果ててなおお前と共に在るのだと、言外にテランスの魂を愛撫する。
極上の馳走を貪り、暴いて、腹の奥に迎え入れられながら、身勝手に哀れな仔犬の面で鼻を鳴らしていたテランスは、そうして同じだけの愛欲に浸されて、拘泥を深いものにする。
互いをくまなくまさぐって、触れぬところのないほど愛を確かめ合ったあと、テランスはいつも恋人の無垢な寝顔を眺めて、ディオンのすべてを胸に刻んだ。
テランスの目は、愛しくまろいディオンを余すことなくつぶさに映す。なにより気高いその光は、テランスの目を焼くことなく楽しませ、ただ在るだけで肌に沁み入り心まで温める。波打つ純白のシーツに横たえられた身体の、いかに冴え勝りまばゆいことか。足あとひとつ残せぬ高潔な雪原のようでいて、テランスにとってディオンはとこしえに絢爛の春である。
乱れた金糸を優しく梳いた。頽廃の世にありながら、閉じた瞼に安らぎをのせる彼の四辺には、テランスが育てた眷恋の花が咲き誇っているようである。ディオンに注がれる溺れるほどの愛情、そのおこぼれを吸った花々はあるじに似て勇ましく、きっと太陽たる彼に向いている。これほどの想いは世に名高き斬鉄剣にも斬れまいと、幻想の花々で愛しい人を包んで満たし、ひとり笑う。
衣擦れの音がして、微睡みのふちをさまようディオンのゆびが、テランスのゆびをひとつ、ふたつ、……しまいにはいつつ握って止んだ。あどけなく、無防備なようでいて、テランスの骨を抜くには十分な攻撃だった。
テランスはときおり、たとしえない懺悔の心に見舞われる。
けれどディオンの度量がその憂いを良しとせず、『私を愛せ』と熱烈に男を蕩かすものだから、テランスの仄暗きは照らされて、光の皇子の最たる伴として胸を張り、二本の足で立っていられる。
荘厳な翼広げてテランスを招く、愛しいディオン。いつまでも彼の隣で、幸多からんことを願ってやまない。
額にくちづけられた彼が睫毛をふるりと震わせて、しかし瞳をあらわすことはかなわずに、あえかな吐息を枕に落とした。
「余をひとり夢のなかに見送るつもりか。そうはさせない……」
睡魔にどっぷり浸かったくちぶりで、再びふにゃふにゃとゆびを握りこまれる。テランスは布団よりも上等な体躯で彼を覆って、「おやすみディオン。いい夢を」と緩んだくちびるで、彼にとっておきの愛を捧げた。
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テランスはときおり、たとしえない懺悔の心に見舞われる。
組み敷かれてなお清らかに咲く恋人の、慈愛の色に染まるくちびる、悦びにもえたつ身体のなだらかな稜線、きららかな頬をつたう涙のひとすじ、そうしたものを認めたとき、テランスの胸は掻き乱れ、許しを請わせてもらえぬものかと、たけりたつ楔を突き入れながら膝をついて頭を垂れてしまいたくなる。
彼を抱いているときはいつも、罪なき喉笛に噛み付いて、純白の羽根を煩悩に染め上げていくような、そんなさまを己のうちに広げている。いつしか終わりに手招かれたとき、神の御許へ召されるべきディオンが欲に濡れそぼった翼のせいで羽ばたけず、共に地獄へ向かう羽目になったとしたら、己が彼を貪り尽くしたからに違いない、と。
けれど、その奥深い混迷を見透かしたかのように、ディオンは力強い男の手でテランスの背をかき抱いて、契り結ぶそこをみだりがわしく蠢動させて、「テランス……」と口端を上げて愛を呼ぶ。ひとつに交ざる身体を無上のようにうち震わせ、無垢なる幻想を脱ぎ捨てて、私は果ててなおお前と共に在るのだと、言外にテランスの魂を愛撫する。
極上の馳走を貪り、暴いて、腹の奥に迎え入れられながら、身勝手に哀れな仔犬の面で鼻を鳴らしていたテランスは、そうして同じだけの愛欲に浸されて、拘泥を深いものにする。
互いをくまなくまさぐって、触れぬところのないほど愛を確かめ合ったあと、テランスはいつも恋人の無垢な寝顔を眺めて、ディオンのすべてを胸に刻んだ。
テランスの目は、愛しくまろいディオンを余すことなくつぶさに映す。なにより気高いその光は、テランスの目を焼くことなく楽しませ、ただ在るだけで肌に沁み入り心まで温める。波打つ純白のシーツに横たえられた身体の、いかに冴え勝りまばゆいことか。足あとひとつ残せぬ高潔な雪原のようでいて、テランスにとってディオンはとこしえに絢爛の春である。
乱れた金糸を優しく梳いた。頽廃の世にありながら、閉じた瞼に安らぎをのせる彼の四辺には、テランスが育てた眷恋の花が咲き誇っているようである。ディオンに注がれる溺れるほどの愛情、そのおこぼれを吸った花々はあるじに似て勇ましく、きっと太陽たる彼に向いている。これほどの想いは世に名高き斬鉄剣にも斬れまいと、幻想の花々で愛しい人を包んで満たし、ひとり笑う。
衣擦れの音がして、微睡みのふちをさまようディオンのゆびが、テランスのゆびをひとつ、ふたつ、……しまいにはいつつ握って止んだ。あどけなく、無防備なようでいて、テランスの骨を抜くには十分な攻撃だった。
テランスはときおり、たとしえない懺悔の心に見舞われる。
けれどディオンの度量がその憂いを良しとせず、『私を愛せ』と熱烈に男を蕩かすものだから、テランスの仄暗きは照らされて、光の皇子の最たる伴として胸を張り、二本の足で立っていられる。
荘厳な翼広げてテランスを招く、愛しいディオン。いつまでも彼の隣で、幸多からんことを願ってやまない。
額にくちづけられた彼が睫毛をふるりと震わせて、しかし瞳をあらわすことはかなわずに、あえかな吐息を枕に落とした。
「余をひとり夢のなかに見送るつもりか。そうはさせない……」
睡魔にどっぷり浸かったくちぶりで、再びふにゃふにゃとゆびを握りこまれる。テランスは布団よりも上等な体躯で彼を覆って、「おやすみディオン。いい夢を」と緩んだくちびるで、彼にとっておきの愛を捧げた。
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とこしえ映える恋露光
※現パロ
光沢とろけるシルクシャツを身にまとい、下着一枚履いただけの生脚を晒した恋人が、むじゃきな素振りで私の手をとり、シャツの下へと導いていく。薄布の下に潜り込んだ無骨な指がなめらかな素肌に食い込んで、耳元で「ン……」とあえかな吐息がこぼれてとけた。
指の腹が浅ましく絹肌を舐めあげる。焦れた爪先がシーツを蹴って、私の太ももにずしりと魅惑の双丘をのせた。渇望を飲み込んで喉を鳴らせば、艶やかなくちびるが得意気に微笑んだ。
「ふ……、どうしたテランス。そう固くなることはない」
「……っ、いけません。こんな……妄りすぎます」
「余とこうするのは嫌か……?」
「そんなわけないでしょう。嫌じゃないから困るんだ……」
鼻先を撫でる甘えた声、恋人が身動ぎするたび思考をぼやかす衣擦れの音、それらに混ざってシャッターの切られる硬い音が私を現実に立ち返らせて、焦燥に似た戸惑いを増長させた。
私だけが知るディオンの痴態──これはその一欠片に過ぎないが──を十の瞳が凝視して、何枚もの刹那が愛の記録として積み重なっていく。皆が真面目くさった顔つきで二人を見守り、持ちうる魅力を発揮させんと尽力するこの空間に、疚しい気持ちを抱える不届き者はただ一人。
「テランス……。いつもみたいに可愛がってくれないのか……?」
「っく、はっ……」
違った。私とディオンの二人きり。
衆人環視を物ともしない奔放な恋人が、私の耳に熱い吐息を流しこむ。ときめきを超えて灼熱の血潮が股間に集中しそうになって、私は固く目を瞑り、どうしてこんなことに……と、ことの始まりに思いを馳せた。
──ときは2週間前に遡る。
『イケメンアイドル、路地裏ディープキス! ディオン王子、夜はテランスのお姫様!?』
……なんて、衝撃的な見だしですっぱ抜かれた。
大々的に見開き2ページを飾った写真には、壁に背中を押し付けられたディオンが、暗がりの中でもそうとわかるほど恍惚とした表情を浮かべて、向き合う男──もちろん私だ──に四肢を絡めて縋り付いているところがバッチリ写っていた。おまけに、私の手がディオンの腰……いや、尻を揉んでいるのも一目瞭然で、重なりあい蕩ける二人のくちびるはどう見ても舌を入れてますね、といった様相で、それはもう、言い逃れのしようもない完璧な熱愛写真であった。
やられた、と思いこそすれ、自業自得なのだから決まりが悪い。
一瞬の油断が仇となった。打ち上げの帰路、酒精にとろんと赤らむ目尻、ぬるい夜風にほどける金髪、低俗なネオンの光に照らされてなお品位に満ちた火照る頬、二人を囲む建物に切り取られた夜空を見上げて「狼でも出そうな夜だ」なんて、目の前の男を狼に変えてしまう悪戯な笑みを浮かべる恋人……。すべてが夢の中のようでいて、うつつの体温を伝えてくるディオンにすっかり舞い上がってしまったのだった。
……正直、一瞬どころではなく、かなり盛り上がった。とても際どいところまで。ディープキス程度の暴露で済ませてくれたのは良心的だと思えるほどに。
あの夜はそう、街の喧騒も二人の時を穢すに及ばず、瞬く星さえ恥じ入るほどにディオンの痴態は輝いて、まさに今、雑誌を握りしめてワナワナと震えている彼と同じくらい赤く茹だった素肌は私を昂ぶらせ……、眉間をおさえて首を振る。私だってこの記事を歓迎しているわけではない。
ついに衆目に晒されてしまった、下品な形で。世間に愛と笑顔を振りまき、ファンの声援に応えようと邁進してきたつもりだが、世を忍ぶいっときの逢瀬さえ見逃してもらえず、玩具にされてしまうとは……。
ドン、と鈍い音がした。机に雑誌を叩きつけた恋人に言葉をのんで、荒々しい呼気に膨らむ背を見つめる。
「……ディオンのキス顔は横から見ても美しいんだね」
気を紛らわせようと呟けば、あえなく胸を殴られた。手加減なしの威力に咳き込む。びくりと肩を揺らした彼に苦笑して、固く握りしめられた拳を両手で包み込む。眉尻を下げて覗きこめば、紅潮した頬がぷいと逸らされ、険しい横目に睨まれた。
「お前だって美しい!!」
うーん。そこは「ふざけるな」じゃないのか。かわいいな、私のディオン。
──ディオン・ルサージュ。
世界一美しい男。一世を風靡する人気アイドル。閣僚の父を持つ、財閥御曹司。
そこに「幼なじみで同僚のテランスをパートナーに持つ男」という肩書が加わるだけだ。素敵なことだ。たとえ世間に後ろ指をさされようと、ディオンに瑕がつくことはない。ただ、タイミングが悪かった。
人づてに「父親が弟に家督を継がせるつもりらしい」と聞いたばかりで、ディオンは混沌の最中にあった。あっちへうろうろ、こっちへうろうろ、狼狽える彼に熱愛記事の追い打ちだ。平生の威厳あふれる佇まいは姿を消して、毛を逆立てる仔猫のごとき荒れ模様、噛む引っ掻くならご愛嬌だが、ディオンにはいつだって晴れやかに笑っていてほしいと願う私の方が先に根を上げそうだった。
ひとしきり低く唸った彼がきゅうと下唇を噛んだので、腕を広げて訪れを待つ。ひとつ、ふたつ瞬いて、素直な仔猫が飛び込んできた。体躯に見合った勢いを受け止めて、ぎゅうっと大切に抱きしめる。襟足に隠れたうなじを撫でれば、そこは熱く滑らかな手触りをもって私の手のひらを受け入れた。
柔らかい頬が首筋に擦り寄せられる。寄る辺ない温もりがしっとりとくっついて、物憂い吐息が素肌を撫ぜた。
「すまない。あんな所でお前を誘ったから……。すまない……」
「いいや、私こそ軽率だった。でも大丈夫、私たちは何も変わらないよ」
「テランス……」
か細い声が鎖骨の上をすべって、上向いたかんばせと目があった。額を合わせて指の腹でうなじを撫でさする。ぞくぞくと身を震わせたディオンが、目をそらすことなく私をじっと見つめている。
──この瞳に抗える者などいるものか。路地裏ディープキスがなんだ、昼夜問わずどろどろに愛し抜いて腕の中に囲わずにいられる忍耐力を褒められたっていいくらいだ。
不遜な胸中はおくびにも出さず、うっとりとまたたく瞳に同じだけの想いを返した。
「あの写真は少し気恥ずかしいけどね。今まで通りさ。ずっと一緒にいよう」
「テランス……! ……そうだな。ファンにはきちんと説明をして、……。周りがどう変わろうと、テランスと私が変わることはない」
「うん、ディオン。私たちの幸せを願ってくれる人たちもいるはずだ」
「ああ……。まずは筋を通さねばな」
張り詰めていた糸がふっと緩んで、美しいくちびるが柔らかく弧を描いた。たったそれだけで、温かいものが指の先まで満ちていくようだった。
安堵をこめた指先で、彼のなだらかな背筋をなぞる。真綿でくるんで、甘い蜜でとろかして、溺れるほどの愛を注いで、輝かしい彼にさらなる光を。とろけるような微笑をこぼしたくちびるが私の首筋に甘くかじりついたものだから、真摯な誓いに下心が混ざるのも早かった。
──そうして、いつも以上に甘やかしすぎたのかもしれない。
だってまさか、ファンに説明をと、二日後に開いた会見で。
「テランスは余の最高のパートナーだ! 同時に、余もテランスの最高のパートナーだ!! 皆に隠していたこと、そして、はしたない真似を晒してしまったこと、本当にすまなかった。今後は節度を持ってめいっぱい睦み合おう!!」
──そんなことを、滅多に見られない満面の笑みで宣言するものだから。
おとがいを解いて涙が浮かぶほど笑っていたら、視界の端でマネージャーが膝から崩れ落ちるのが見えた。めくるめく焚かれるフラッシュをも凌ぐディオンのまばゆい笑顔がこちらを向いて、もう一度、にこ!と、今度は私だけに向けて炸裂した。
そこから後は、いまいち覚えていない。真摯に「この度はお騒がせて申し訳ありません」から始めようと思っていたのに、ぜんぶ頭から吹き飛んだ。あれで筋を通したつもりの胸を張る恋人が健気でかわいくて、謝罪ではなく惚気会見だったと皆に茶化されるくらい、ひたすら愉快だったことは覚えている。
その夜は、やらかしてくれた恋人をベッドの上で丁寧に執拗に可愛がって思う存分泣かせたし、後日、事務所へ訪れた雑誌記者にも泣きに泣かれた。増刷に次ぐ増刷、売上が歴代最高記録を絶賛更新中らしい。知ったことではないのだが。
それはさておき、今をときめく恋人様はというと。
「ああテランス、お前は本当に惚れ惚れするほどの男前だな……」
「ディオン様の寵愛を一身に受けておりますからね」
「ふふ、違いない」
「……っこら、いけません、ディオン様」
こそばゆい囁きを二人の間にとろりと垂らし、凛々しい双眸を甘やかに細めて、キスシーンさえ披露したことのない“王子様”らしからぬ艶やかさで、ゆっくりと私をベッドへ押し倒して厚い胸板を愛撫していた。
いつの間にか肌蹴させたシャツをめくって、逞しい腹筋を指先でなぞって味わい、粟立つ脇腹をつたってくすぐるように乳首を掠め、しばらくそうしてなすがままの男の肉体を弄んでいたかと思ったら、上体をくっつけて顎を食み、満足そうにくすくす笑ってなんている。天真爛漫な恋人の腰にただ手を添えて、生殺しを耐えている私とは雲泥の差だ。
ずっと秘密の恋人として密やかに過ごしてきたはずが、世間公認のパートナーになるなんて。あの一件で逆風が吹くどころか、『愛に溺れるセックス特集』と銘打った雑誌で特集を組まれるほどの歓迎っぷりには戸惑うばかりで、夢じゃないだろうなと、しなだれかかる恋人の脇腹をつねってみれば、「あっ! ……ん、そこじゃなくて……」なんて理不尽な両腕に頭をかき抱かれて、ぎゅうと鼻面を挟む胸の谷間に瞠目した。現実は夢よりはるかに刺激的だ。
「もう、全年齢向けの撮影なんですよ」
「だってお前とツーショットなんて嬉しくて……」
オイタを叱っても、いじらしくくちびるを尖らせて、大義そうに上体を起こして可愛いお尻を重く揺すぶり、私の恥骨と男心をくすぐってくる。
両手を上げて降参したら、「それとテランス、いつまで従者気取りのつもりだ? 敬語はやめろ」と追撃された。スタッフたちが小さくどよめく。どうやらディオンは、王子と従者という二人組アイドルの姿を捨てて、本気で恋人同士としてこの撮影に臨んでいるらしい。
ありのままをつまびらかにさらけ出すつもりはないが、そっちがその気ならと「ディオンも『余』なんておすまししてないで、いつもみたいに可愛くお喋りしなきゃね」と口端を上げて頬を撫でれば、鎖骨までぶわりと赤く熟れた食べごろのお顔が「……ん……」と小さく頷いた。どよめきが一層空気を揺らす。
よし。かわいいディオンがこれ以上周りを魅了する前に、さっさとかたをつけないと。
腹の上の恋人がひっくり返らないように腰を支えて、丹田に力を入れて身を起こす。ベッドが軋んで、大人しくひっついたままのディオンに額を合わせて表情を引き締めれば、眼前の瞳がきらきらと眷恋の光を帯びて、華美な睫毛が瞬いた。
「世界一愛しい私のディオン。最高の写真を撮ってもらおうね」
「ああ。私の世界一のテランスも、いっとう格好良く撮ってもらわねば」
ふにゃりと笑顔が花開く。とっておきのキメ顔を作ったつもりが、つられて頬が緩んでしまった。格好つかないなと呟いたら、「お前は格好よくてかわいいぞ」と余計やに下がらせるようなことを言う。時と場所を選ばず愛されるのも困ったものだ。くちづけを降らせる代わりにぐりぐりと額を押し付けて、また二人一緒に破顔した。
「最後にもう少し撮りたいんですが、テランスさん、クールな感じでお願いできますか?」
「うぐ、はい……」
「もっとこう、最高位の雄らしく、自信たっぷりに……。『ディオンならたっぷり愛し抜いたぜ』みたいなお顔でお願いします」
「えっ?」
「『ディオンならたっぷり愛し抜いたぜ』みたいなお顔で」
「はっ、えっ、はい……?」
撮影開始から散々こっ恥ずかしいことをしているが、そう言われると尚更むず痒くなってきた。しかし、ディオンは私のものだと改めて世に広く牽制するチャンスなのだから、ここで勝負を決めなければ。
顎を引いて視線を戻すと、ディオンがミーアキャットみたいになっていた。
「とすると、余は『愛し抜かれました』という顔で……?」
「いえ、『足りない……』というお顔で」
「おねだりを!?」
「『おねだりを』!?」
二度見した。可愛い口から可愛い語彙がまろびでるのを耳にして、私までミーアキャットみたいになってしまった。
「はい。ではいきますね」
異を唱える暇もなく、仕事人の顔をしたカメラマンが構えて促す。最高位の雄なんて表現が肩に重くのしかかるが、ディオンに選ばれた唯一の男となれば、紛れもなく雄の頂点に違いない。
「二人でてっぺんとろうか」と指を絡めて軽口を叩いたら、「ふ。もとより私たち二人に敵うものなどおるまいよ」なんて凄艶にくちびるを吊り上げて、肉厚なそこを飢えた舌でゆっくりと湿らせる。骨を抜く無二のまなざし、ディオンのすべてに骨の髄までむしゃぶりつかれて、まさしく『愛に溺れる』獣めいた男の顔を晒した私は、くちびるの触れ合う寸前で吐息が熱く混ざり合うのを聞いた。
──そうして、二人の際どいツーショットをふんだんに掲載した紙面が、路地裏スクープの何倍にも世間を騒がせたあと。
事務所宛てに、先の雑誌カメラマンから手紙が送られてきた。
三人掛けのソファに二人でぴとりと太もも寄せて、いそいそと封を開けて中身を見やる。
そこには、簡潔な手紙のほかに、テランスとディオンが笑い合う一枚の写真が入っていた。
「はにかんでるディオン、この角度から見てもすごく可愛い!! ……私っていつもこんなにデレデレした顔してる?」
「ふふ。している。仔犬みたいで可愛いぞ。この写真すごくいいな!」
オフショットというやつだろうか。どちらかというとディオンがメインを飾っていた誌面と違い、私が主な被写体となっているようだった。いつの間に撮られたのだか知らないが、ディオンを前に相好を崩して……いや、鍋いっぱいの砂糖で煮詰めて煮詰めて、めろめろに惚けきっているような、そんな照れくさい写真だった。
「客観視するのがこんなに恥ずかしいとは……」
「うむ。楽しかったな。また撮ってもらおう! 返事を書くぞ。なあテランス」
「返事はいいけど、ああいう撮影は二度と御免だ」
「なに? 私がお願いしているのに?」
「かわいい顔してもダメ。ディオンの酷なお願いは二度と聞かないって決めてるからね」
「? 酷なことなど言ったことがあったか?」
「さあね。ともかく、ディオンのあられもない姿は今後誰にもおすそ分けできません。乱れるのは私の前だけにしようね」
愛しい身体を惹き寄せて、つるりとしたうなじに這わせたくちびるで、わざとリップ音を立てて吸う。雄々しいくちづけに犯された肌が熱を帯び、ほのかに汗ばんだそこに男の欲望が滲んでとけた。大胆にべろりと味わうと、ディオンの腰がくにゃりと曲がって、ダメ、なんて甘美な誘いがこぼれ落ちた。
「テランスっ、こういうのは自宅でだけだと……!」
「んー。撮影のとき散々弄ばれたからね。仕返しされても文句は……っうおお!」
股間を鷲掴まれた。強気な手のひらが服の上から局部を揉みしだく。瞬時にしぼむ余裕とは裏腹に、何かがむくむくと頭をもたげそうになって、大慌てで手首を掴んだ。戦局を覆して優位に立った恋人が、三日月のように細めた目で情けない男の顔を覗き込む。かち合う視線、いっそう深まる美しき笑み、勝利を確信してうごめく剛毅な手。
「ディっ、ディ、ディオン!! 本当にダメ、だめだってば、あう」
「仕返しに仕返しされても文句は言えまい? ははは! テランス討ち取ったり!」
「打ち取られた! 可愛い!! さすがだディオン、っく……」
ソファの端まで追いつめられ、いたずらな手首を退けようと抗うも、私よりはるか怪力を誇るディオンの猛攻は止まらない。悪ふざけが過ぎると一喝すれば彼も引いてくれるだろうに、やましい気持ちが言葉を下して喉を鳴らした。若気の至り、ここに極まる。
ええいままよと目を瞑って身を固くしたら、ふと、優しく撫でるような動きに変わった。急に大人しくなった手のひらの主をちらりと窺う。私を散々弄んでいたはずのディオンが、目元を鮮やかに紅潮させて、伏せた睫毛の下で、羞恥にけぶる瞳をうろうろと彷徨わせていた。
「ん……なんだかほんとにエッチな気分になってきた、テランス……」
「っ、ディオン……こっち向いて。ちゃんと顔を見せて……」
「そんなだから週刊誌に撮られるんでしょうが!!! 弁えなさいこのバカップル!!!!!」
二人して飛び上がる。目の前にマネージャーのマダムが立っていた。鬼のような形相で。
「「す、すみません……」」
居住まいを正して頭を下げる。私の腕にすがりついて固まっているディオンに胸がキュンと締め付けられたが、腕組みをして見下ろす彼女の見事吊り上がった眦を前にして、色ボケした気持ちは素足で逃げ出していった。普段はおおらかな人が怒るとめっぽう恐ろしい。
上目遣いに伺う先で、大仰な溜息が空気を揺らし、ディオンが小さく「うぅ」と唸った。二の腕がぎゅっと魅惑の胸板に挟まれて、色ボケした気持ちが抜き足差し足忍び足で出戻ってきた。こっそりと歯を食いしばる。
「仲睦まじいのはいいことだけれど、自覚と自制心を持ちなさい。本当にもう……。まあいいわ。『愛に溺れるセックス』特集のあなた達が大好評だったから、数カ月先も特集のメインに据えたいそうよ。今度のテーマは『官能を知る』ですって。OKしておいたから」
「やった!!」
「ええっ! ダメです、ディオンが減る!!」
「減った分はテランスが増やせばよい!」
「どういう原理!?」
ガッツポーズをしたディオンに、どさくさに紛れてほっぺチューされた。凝視するも、ウキウキとはしゃぐ恋人はどこ吹く風だ。会見のあとから日を追うごとに大胆になっていっている気がする。真摯な愛情をもってお応えしたいところだが、マダムの唇が不自然なほど弧を描いていたので、腰を抱くにとどめ……るなんて勇み足を踏むのもやめて、気をつけの姿勢で誠意を示した。
「いいさ。『官能を知る』だって? ディオンに鼻の下を伸ばしてる奴らに、私たちのめくるめく官能をこれでもかと思い知らせてやる」
「聞いたか? 私のテランスは最高にイカす男だ」
「はいはい。とっととロケ行くわよ。早く支度して」
「この写真、父上にもメールで送ろう。『お元気ですか? 近々この素敵な恋人とご挨拶に伺います』……送信、っと。」
「あああ!! 相変わらず思い切りがいい……!!」
「きっと父上もわかってくださるはずだ。な、テランス」
「うっ……うん、そうだね。そうなんだけど、猊下はまだ少し怖いなあ……」
「猊下? 案ずるな。何があろうと必ず私がお前を守るから」
「ディオン……! 君は最高にイイ男だ……」
「とっとと支度しなさい!!」
──撮影のときも肯定的に受け入れられて戸惑うばかりだったが、それからも二人を取り巻く空気はあたたかく、スタッフはおろか、行く先々で大勢の人から祝福された。
さすがに全員とはいかずとも、大多数の人々に好意的に受け入れられていると肌で感じる。それでも急に恋人として振る舞うつもりはなかったが、ディオンに「王子と従者はやめて、王子と王子でいかないか」なんてぽそぽそと耳打ちされて、面白い冗談だなと顔を向ければ、ふざけた色のないかんばせに見つめられて面食らった。
そなたに従者の真似など、そういつか耳にした彼の切ない声音が蘇る。ディオンの心に刺さる棘は今の世も変わることなく、けれどそれを取り除くのはきっと、あの頃よりもはるかに容易い。少しずつ頑張るね、そう言って額を合わせれば、美しいかんばせがぱっと喜色に華やいだ。
ディオンは晴れやかな顔で過ごしていることが増えた。特に今日なんて、ロケの最中はおろか道中や休憩中でさえ、そして今もなお、大層ご機嫌そうに頬を緩めて燦燦と輝いている。なかでも、私が人前でつい敬語を忘れて話しかけたとき、いっとうくすぐったそうにはにかんだ笑顔を見せた。人前で恋人として振る舞えるのが嬉しいのかと思っていたが、そういうことか、と、すとんと腑に落ちて、夜の帳が下りた帰路、月明かりに照らされた穏やかな笑みを見つめていたら、ようやくじんわりと体の芯から実感が湧いてきた。
あの頃とは何もかもが違うのだ。重責に心潰されることもなく、運命に翻弄されることもなく、もしかしたら、長きを共に生き抜くことだって。
「ディオン。よかったね」
「ん……」
寄り添う寸前の距離、ちょんと触れた手をそうっと握ってみれば、指は正直に互いを求めて絡みあった。なにが、とは返されずに引かれた顎を見て、微笑みが優しい夜にとけていく。
心地よい沈黙に身をひたし、いつかの夜のようにネオンに照らされた頬を眺める。ディオンのくちびるがふわと開いて、結ばれて、柔らかなそこを見つめて彼の心を待っていたら、もいちどほどけたくちびるから、吐息のような安堵が漏れた。
「……あの日、『ずっと一緒にいよう』と言ってくれたろう。とても嬉しかったのだ。こんなに幸福なことはないと、そう思っていたのに……。ふふ、今はもっと幸せで、これからもきっと、もっとずっと幸せだ。テランスと一緒にいるからな」
美しい瞳がまっすぐに私を映して、まばゆく笑んだ。
ディオンが、私と共に歩む幸福を選んで、満ち足りた表情を浮かべている。
一生を伴してよいのだと、他ならぬ彼がそう心に決めてくれたことが、私に寄り添うてくれたことが、それがどんなに、どんなに……。
心臓を直に掴まれたような、激しい痛みにも似た歓喜の万雷が全身を駆け巡り、ぼやける視界はディオン以外の有象無象を覆い隠した。目の淵いっぱいに雫をたたえて、それでもどうにか、泣き顔よりも笑顔を返してあげたくて、震えるくちびるで不器用な笑みをかたどった。言葉はなくとも、きっとディオンには伝わっている。彼の隣にとこしえに在ることが、私の愛の証明だ。
固く結んだ手のぬくもりに導かれ、そっと鼻先を寄せ合った。ふわりとほころび、私の訪れを待つくちびるに恭しくくちづけて、ゆっくりと彼のあわいに己を忍ばせる。ディオンの弱いところを舌先であやすようにうっとりと愛撫して、焦れた彼が私の後ろ首をかき抱いて下腹部を押し付けてくるほど丁重に、快楽と己のすべてを染み入らせるような舌使いで、ディオンの腰が砕けるまで熱くとろける口腔を蹂躙した。
何度味わっても新鮮な歓びに満ちたくちびる。互いの形に寄り添い融け合うそこを甘く食み、名残惜しく離しても、いつまでも繋がっているような心地でいられて、ふにゃふにゃに蕩けて笑っているディオンをたまらず強く抱きしめた。
夜は短く、私たちの未来は長い。駆け出したくなる衝動をおさえて、歓喜迸る身体をタクシーに詰め込んで、比翼の鳥は愛の巣へと舞い戻った。
──案の定、またバッチリと写真を撮られてマネージャーからしこたま怒られる羽目になったのだが、隠し撮るほどの物珍しさがなくなるほど愛し合う私達の姿が日常茶飯事となるのは、きっとそう遠くない未来のことである。
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※現パロ
光沢とろけるシルクシャツを身にまとい、下着一枚履いただけの生脚を晒した恋人が、むじゃきな素振りで私の手をとり、シャツの下へと導いていく。薄布の下に潜り込んだ無骨な指がなめらかな素肌に食い込んで、耳元で「ン……」とあえかな吐息がこぼれてとけた。
指の腹が浅ましく絹肌を舐めあげる。焦れた爪先がシーツを蹴って、私の太ももにずしりと魅惑の双丘をのせた。渇望を飲み込んで喉を鳴らせば、艶やかなくちびるが得意気に微笑んだ。
「ふ……、どうしたテランス。そう固くなることはない」
「……っ、いけません。こんな……妄りすぎます」
「余とこうするのは嫌か……?」
「そんなわけないでしょう。嫌じゃないから困るんだ……」
鼻先を撫でる甘えた声、恋人が身動ぎするたび思考をぼやかす衣擦れの音、それらに混ざってシャッターの切られる硬い音が私を現実に立ち返らせて、焦燥に似た戸惑いを増長させた。
私だけが知るディオンの痴態──これはその一欠片に過ぎないが──を十の瞳が凝視して、何枚もの刹那が愛の記録として積み重なっていく。皆が真面目くさった顔つきで二人を見守り、持ちうる魅力を発揮させんと尽力するこの空間に、疚しい気持ちを抱える不届き者はただ一人。
「テランス……。いつもみたいに可愛がってくれないのか……?」
「っく、はっ……」
違った。私とディオンの二人きり。
衆人環視を物ともしない奔放な恋人が、私の耳に熱い吐息を流しこむ。ときめきを超えて灼熱の血潮が股間に集中しそうになって、私は固く目を瞑り、どうしてこんなことに……と、ことの始まりに思いを馳せた。
──ときは2週間前に遡る。
『イケメンアイドル、路地裏ディープキス! ディオン王子、夜はテランスのお姫様!?』
……なんて、衝撃的な見だしですっぱ抜かれた。
大々的に見開き2ページを飾った写真には、壁に背中を押し付けられたディオンが、暗がりの中でもそうとわかるほど恍惚とした表情を浮かべて、向き合う男──もちろん私だ──に四肢を絡めて縋り付いているところがバッチリ写っていた。おまけに、私の手がディオンの腰……いや、尻を揉んでいるのも一目瞭然で、重なりあい蕩ける二人のくちびるはどう見ても舌を入れてますね、といった様相で、それはもう、言い逃れのしようもない完璧な熱愛写真であった。
やられた、と思いこそすれ、自業自得なのだから決まりが悪い。
一瞬の油断が仇となった。打ち上げの帰路、酒精にとろんと赤らむ目尻、ぬるい夜風にほどける金髪、低俗なネオンの光に照らされてなお品位に満ちた火照る頬、二人を囲む建物に切り取られた夜空を見上げて「狼でも出そうな夜だ」なんて、目の前の男を狼に変えてしまう悪戯な笑みを浮かべる恋人……。すべてが夢の中のようでいて、うつつの体温を伝えてくるディオンにすっかり舞い上がってしまったのだった。
……正直、一瞬どころではなく、かなり盛り上がった。とても際どいところまで。ディープキス程度の暴露で済ませてくれたのは良心的だと思えるほどに。
あの夜はそう、街の喧騒も二人の時を穢すに及ばず、瞬く星さえ恥じ入るほどにディオンの痴態は輝いて、まさに今、雑誌を握りしめてワナワナと震えている彼と同じくらい赤く茹だった素肌は私を昂ぶらせ……、眉間をおさえて首を振る。私だってこの記事を歓迎しているわけではない。
ついに衆目に晒されてしまった、下品な形で。世間に愛と笑顔を振りまき、ファンの声援に応えようと邁進してきたつもりだが、世を忍ぶいっときの逢瀬さえ見逃してもらえず、玩具にされてしまうとは……。
ドン、と鈍い音がした。机に雑誌を叩きつけた恋人に言葉をのんで、荒々しい呼気に膨らむ背を見つめる。
「……ディオンのキス顔は横から見ても美しいんだね」
気を紛らわせようと呟けば、あえなく胸を殴られた。手加減なしの威力に咳き込む。びくりと肩を揺らした彼に苦笑して、固く握りしめられた拳を両手で包み込む。眉尻を下げて覗きこめば、紅潮した頬がぷいと逸らされ、険しい横目に睨まれた。
「お前だって美しい!!」
うーん。そこは「ふざけるな」じゃないのか。かわいいな、私のディオン。
──ディオン・ルサージュ。
世界一美しい男。一世を風靡する人気アイドル。閣僚の父を持つ、財閥御曹司。
そこに「幼なじみで同僚のテランスをパートナーに持つ男」という肩書が加わるだけだ。素敵なことだ。たとえ世間に後ろ指をさされようと、ディオンに瑕がつくことはない。ただ、タイミングが悪かった。
人づてに「父親が弟に家督を継がせるつもりらしい」と聞いたばかりで、ディオンは混沌の最中にあった。あっちへうろうろ、こっちへうろうろ、狼狽える彼に熱愛記事の追い打ちだ。平生の威厳あふれる佇まいは姿を消して、毛を逆立てる仔猫のごとき荒れ模様、噛む引っ掻くならご愛嬌だが、ディオンにはいつだって晴れやかに笑っていてほしいと願う私の方が先に根を上げそうだった。
ひとしきり低く唸った彼がきゅうと下唇を噛んだので、腕を広げて訪れを待つ。ひとつ、ふたつ瞬いて、素直な仔猫が飛び込んできた。体躯に見合った勢いを受け止めて、ぎゅうっと大切に抱きしめる。襟足に隠れたうなじを撫でれば、そこは熱く滑らかな手触りをもって私の手のひらを受け入れた。
柔らかい頬が首筋に擦り寄せられる。寄る辺ない温もりがしっとりとくっついて、物憂い吐息が素肌を撫ぜた。
「すまない。あんな所でお前を誘ったから……。すまない……」
「いいや、私こそ軽率だった。でも大丈夫、私たちは何も変わらないよ」
「テランス……」
か細い声が鎖骨の上をすべって、上向いたかんばせと目があった。額を合わせて指の腹でうなじを撫でさする。ぞくぞくと身を震わせたディオンが、目をそらすことなく私をじっと見つめている。
──この瞳に抗える者などいるものか。路地裏ディープキスがなんだ、昼夜問わずどろどろに愛し抜いて腕の中に囲わずにいられる忍耐力を褒められたっていいくらいだ。
不遜な胸中はおくびにも出さず、うっとりとまたたく瞳に同じだけの想いを返した。
「あの写真は少し気恥ずかしいけどね。今まで通りさ。ずっと一緒にいよう」
「テランス……! ……そうだな。ファンにはきちんと説明をして、……。周りがどう変わろうと、テランスと私が変わることはない」
「うん、ディオン。私たちの幸せを願ってくれる人たちもいるはずだ」
「ああ……。まずは筋を通さねばな」
張り詰めていた糸がふっと緩んで、美しいくちびるが柔らかく弧を描いた。たったそれだけで、温かいものが指の先まで満ちていくようだった。
安堵をこめた指先で、彼のなだらかな背筋をなぞる。真綿でくるんで、甘い蜜でとろかして、溺れるほどの愛を注いで、輝かしい彼にさらなる光を。とろけるような微笑をこぼしたくちびるが私の首筋に甘くかじりついたものだから、真摯な誓いに下心が混ざるのも早かった。
──そうして、いつも以上に甘やかしすぎたのかもしれない。
だってまさか、ファンに説明をと、二日後に開いた会見で。
「テランスは余の最高のパートナーだ! 同時に、余もテランスの最高のパートナーだ!! 皆に隠していたこと、そして、はしたない真似を晒してしまったこと、本当にすまなかった。今後は節度を持ってめいっぱい睦み合おう!!」
──そんなことを、滅多に見られない満面の笑みで宣言するものだから。
おとがいを解いて涙が浮かぶほど笑っていたら、視界の端でマネージャーが膝から崩れ落ちるのが見えた。めくるめく焚かれるフラッシュをも凌ぐディオンのまばゆい笑顔がこちらを向いて、もう一度、にこ!と、今度は私だけに向けて炸裂した。
そこから後は、いまいち覚えていない。真摯に「この度はお騒がせて申し訳ありません」から始めようと思っていたのに、ぜんぶ頭から吹き飛んだ。あれで筋を通したつもりの胸を張る恋人が健気でかわいくて、謝罪ではなく惚気会見だったと皆に茶化されるくらい、ひたすら愉快だったことは覚えている。
その夜は、やらかしてくれた恋人をベッドの上で丁寧に執拗に可愛がって思う存分泣かせたし、後日、事務所へ訪れた雑誌記者にも泣きに泣かれた。増刷に次ぐ増刷、売上が歴代最高記録を絶賛更新中らしい。知ったことではないのだが。
それはさておき、今をときめく恋人様はというと。
「ああテランス、お前は本当に惚れ惚れするほどの男前だな……」
「ディオン様の寵愛を一身に受けておりますからね」
「ふふ、違いない」
「……っこら、いけません、ディオン様」
こそばゆい囁きを二人の間にとろりと垂らし、凛々しい双眸を甘やかに細めて、キスシーンさえ披露したことのない“王子様”らしからぬ艶やかさで、ゆっくりと私をベッドへ押し倒して厚い胸板を愛撫していた。
いつの間にか肌蹴させたシャツをめくって、逞しい腹筋を指先でなぞって味わい、粟立つ脇腹をつたってくすぐるように乳首を掠め、しばらくそうしてなすがままの男の肉体を弄んでいたかと思ったら、上体をくっつけて顎を食み、満足そうにくすくす笑ってなんている。天真爛漫な恋人の腰にただ手を添えて、生殺しを耐えている私とは雲泥の差だ。
ずっと秘密の恋人として密やかに過ごしてきたはずが、世間公認のパートナーになるなんて。あの一件で逆風が吹くどころか、『愛に溺れるセックス特集』と銘打った雑誌で特集を組まれるほどの歓迎っぷりには戸惑うばかりで、夢じゃないだろうなと、しなだれかかる恋人の脇腹をつねってみれば、「あっ! ……ん、そこじゃなくて……」なんて理不尽な両腕に頭をかき抱かれて、ぎゅうと鼻面を挟む胸の谷間に瞠目した。現実は夢よりはるかに刺激的だ。
「もう、全年齢向けの撮影なんですよ」
「だってお前とツーショットなんて嬉しくて……」
オイタを叱っても、いじらしくくちびるを尖らせて、大義そうに上体を起こして可愛いお尻を重く揺すぶり、私の恥骨と男心をくすぐってくる。
両手を上げて降参したら、「それとテランス、いつまで従者気取りのつもりだ? 敬語はやめろ」と追撃された。スタッフたちが小さくどよめく。どうやらディオンは、王子と従者という二人組アイドルの姿を捨てて、本気で恋人同士としてこの撮影に臨んでいるらしい。
ありのままをつまびらかにさらけ出すつもりはないが、そっちがその気ならと「ディオンも『余』なんておすまししてないで、いつもみたいに可愛くお喋りしなきゃね」と口端を上げて頬を撫でれば、鎖骨までぶわりと赤く熟れた食べごろのお顔が「……ん……」と小さく頷いた。どよめきが一層空気を揺らす。
よし。かわいいディオンがこれ以上周りを魅了する前に、さっさとかたをつけないと。
腹の上の恋人がひっくり返らないように腰を支えて、丹田に力を入れて身を起こす。ベッドが軋んで、大人しくひっついたままのディオンに額を合わせて表情を引き締めれば、眼前の瞳がきらきらと眷恋の光を帯びて、華美な睫毛が瞬いた。
「世界一愛しい私のディオン。最高の写真を撮ってもらおうね」
「ああ。私の世界一のテランスも、いっとう格好良く撮ってもらわねば」
ふにゃりと笑顔が花開く。とっておきのキメ顔を作ったつもりが、つられて頬が緩んでしまった。格好つかないなと呟いたら、「お前は格好よくてかわいいぞ」と余計やに下がらせるようなことを言う。時と場所を選ばず愛されるのも困ったものだ。くちづけを降らせる代わりにぐりぐりと額を押し付けて、また二人一緒に破顔した。
「最後にもう少し撮りたいんですが、テランスさん、クールな感じでお願いできますか?」
「うぐ、はい……」
「もっとこう、最高位の雄らしく、自信たっぷりに……。『ディオンならたっぷり愛し抜いたぜ』みたいなお顔でお願いします」
「えっ?」
「『ディオンならたっぷり愛し抜いたぜ』みたいなお顔で」
「はっ、えっ、はい……?」
撮影開始から散々こっ恥ずかしいことをしているが、そう言われると尚更むず痒くなってきた。しかし、ディオンは私のものだと改めて世に広く牽制するチャンスなのだから、ここで勝負を決めなければ。
顎を引いて視線を戻すと、ディオンがミーアキャットみたいになっていた。
「とすると、余は『愛し抜かれました』という顔で……?」
「いえ、『足りない……』というお顔で」
「おねだりを!?」
「『おねだりを』!?」
二度見した。可愛い口から可愛い語彙がまろびでるのを耳にして、私までミーアキャットみたいになってしまった。
「はい。ではいきますね」
異を唱える暇もなく、仕事人の顔をしたカメラマンが構えて促す。最高位の雄なんて表現が肩に重くのしかかるが、ディオンに選ばれた唯一の男となれば、紛れもなく雄の頂点に違いない。
「二人でてっぺんとろうか」と指を絡めて軽口を叩いたら、「ふ。もとより私たち二人に敵うものなどおるまいよ」なんて凄艶にくちびるを吊り上げて、肉厚なそこを飢えた舌でゆっくりと湿らせる。骨を抜く無二のまなざし、ディオンのすべてに骨の髄までむしゃぶりつかれて、まさしく『愛に溺れる』獣めいた男の顔を晒した私は、くちびるの触れ合う寸前で吐息が熱く混ざり合うのを聞いた。
──そうして、二人の際どいツーショットをふんだんに掲載した紙面が、路地裏スクープの何倍にも世間を騒がせたあと。
事務所宛てに、先の雑誌カメラマンから手紙が送られてきた。
三人掛けのソファに二人でぴとりと太もも寄せて、いそいそと封を開けて中身を見やる。
そこには、簡潔な手紙のほかに、テランスとディオンが笑い合う一枚の写真が入っていた。
「はにかんでるディオン、この角度から見てもすごく可愛い!! ……私っていつもこんなにデレデレした顔してる?」
「ふふ。している。仔犬みたいで可愛いぞ。この写真すごくいいな!」
オフショットというやつだろうか。どちらかというとディオンがメインを飾っていた誌面と違い、私が主な被写体となっているようだった。いつの間に撮られたのだか知らないが、ディオンを前に相好を崩して……いや、鍋いっぱいの砂糖で煮詰めて煮詰めて、めろめろに惚けきっているような、そんな照れくさい写真だった。
「客観視するのがこんなに恥ずかしいとは……」
「うむ。楽しかったな。また撮ってもらおう! 返事を書くぞ。なあテランス」
「返事はいいけど、ああいう撮影は二度と御免だ」
「なに? 私がお願いしているのに?」
「かわいい顔してもダメ。ディオンの酷なお願いは二度と聞かないって決めてるからね」
「? 酷なことなど言ったことがあったか?」
「さあね。ともかく、ディオンのあられもない姿は今後誰にもおすそ分けできません。乱れるのは私の前だけにしようね」
愛しい身体を惹き寄せて、つるりとしたうなじに這わせたくちびるで、わざとリップ音を立てて吸う。雄々しいくちづけに犯された肌が熱を帯び、ほのかに汗ばんだそこに男の欲望が滲んでとけた。大胆にべろりと味わうと、ディオンの腰がくにゃりと曲がって、ダメ、なんて甘美な誘いがこぼれ落ちた。
「テランスっ、こういうのは自宅でだけだと……!」
「んー。撮影のとき散々弄ばれたからね。仕返しされても文句は……っうおお!」
股間を鷲掴まれた。強気な手のひらが服の上から局部を揉みしだく。瞬時にしぼむ余裕とは裏腹に、何かがむくむくと頭をもたげそうになって、大慌てで手首を掴んだ。戦局を覆して優位に立った恋人が、三日月のように細めた目で情けない男の顔を覗き込む。かち合う視線、いっそう深まる美しき笑み、勝利を確信してうごめく剛毅な手。
「ディっ、ディ、ディオン!! 本当にダメ、だめだってば、あう」
「仕返しに仕返しされても文句は言えまい? ははは! テランス討ち取ったり!」
「打ち取られた! 可愛い!! さすがだディオン、っく……」
ソファの端まで追いつめられ、いたずらな手首を退けようと抗うも、私よりはるか怪力を誇るディオンの猛攻は止まらない。悪ふざけが過ぎると一喝すれば彼も引いてくれるだろうに、やましい気持ちが言葉を下して喉を鳴らした。若気の至り、ここに極まる。
ええいままよと目を瞑って身を固くしたら、ふと、優しく撫でるような動きに変わった。急に大人しくなった手のひらの主をちらりと窺う。私を散々弄んでいたはずのディオンが、目元を鮮やかに紅潮させて、伏せた睫毛の下で、羞恥にけぶる瞳をうろうろと彷徨わせていた。
「ん……なんだかほんとにエッチな気分になってきた、テランス……」
「っ、ディオン……こっち向いて。ちゃんと顔を見せて……」
「そんなだから週刊誌に撮られるんでしょうが!!! 弁えなさいこのバカップル!!!!!」
二人して飛び上がる。目の前にマネージャーのマダムが立っていた。鬼のような形相で。
「「す、すみません……」」
居住まいを正して頭を下げる。私の腕にすがりついて固まっているディオンに胸がキュンと締め付けられたが、腕組みをして見下ろす彼女の見事吊り上がった眦を前にして、色ボケした気持ちは素足で逃げ出していった。普段はおおらかな人が怒るとめっぽう恐ろしい。
上目遣いに伺う先で、大仰な溜息が空気を揺らし、ディオンが小さく「うぅ」と唸った。二の腕がぎゅっと魅惑の胸板に挟まれて、色ボケした気持ちが抜き足差し足忍び足で出戻ってきた。こっそりと歯を食いしばる。
「仲睦まじいのはいいことだけれど、自覚と自制心を持ちなさい。本当にもう……。まあいいわ。『愛に溺れるセックス』特集のあなた達が大好評だったから、数カ月先も特集のメインに据えたいそうよ。今度のテーマは『官能を知る』ですって。OKしておいたから」
「やった!!」
「ええっ! ダメです、ディオンが減る!!」
「減った分はテランスが増やせばよい!」
「どういう原理!?」
ガッツポーズをしたディオンに、どさくさに紛れてほっぺチューされた。凝視するも、ウキウキとはしゃぐ恋人はどこ吹く風だ。会見のあとから日を追うごとに大胆になっていっている気がする。真摯な愛情をもってお応えしたいところだが、マダムの唇が不自然なほど弧を描いていたので、腰を抱くにとどめ……るなんて勇み足を踏むのもやめて、気をつけの姿勢で誠意を示した。
「いいさ。『官能を知る』だって? ディオンに鼻の下を伸ばしてる奴らに、私たちのめくるめく官能をこれでもかと思い知らせてやる」
「聞いたか? 私のテランスは最高にイカす男だ」
「はいはい。とっととロケ行くわよ。早く支度して」
「この写真、父上にもメールで送ろう。『お元気ですか? 近々この素敵な恋人とご挨拶に伺います』……送信、っと。」
「あああ!! 相変わらず思い切りがいい……!!」
「きっと父上もわかってくださるはずだ。な、テランス」
「うっ……うん、そうだね。そうなんだけど、猊下はまだ少し怖いなあ……」
「猊下? 案ずるな。何があろうと必ず私がお前を守るから」
「ディオン……! 君は最高にイイ男だ……」
「とっとと支度しなさい!!」
──撮影のときも肯定的に受け入れられて戸惑うばかりだったが、それからも二人を取り巻く空気はあたたかく、スタッフはおろか、行く先々で大勢の人から祝福された。
さすがに全員とはいかずとも、大多数の人々に好意的に受け入れられていると肌で感じる。それでも急に恋人として振る舞うつもりはなかったが、ディオンに「王子と従者はやめて、王子と王子でいかないか」なんてぽそぽそと耳打ちされて、面白い冗談だなと顔を向ければ、ふざけた色のないかんばせに見つめられて面食らった。
そなたに従者の真似など、そういつか耳にした彼の切ない声音が蘇る。ディオンの心に刺さる棘は今の世も変わることなく、けれどそれを取り除くのはきっと、あの頃よりもはるかに容易い。少しずつ頑張るね、そう言って額を合わせれば、美しいかんばせがぱっと喜色に華やいだ。
ディオンは晴れやかな顔で過ごしていることが増えた。特に今日なんて、ロケの最中はおろか道中や休憩中でさえ、そして今もなお、大層ご機嫌そうに頬を緩めて燦燦と輝いている。なかでも、私が人前でつい敬語を忘れて話しかけたとき、いっとうくすぐったそうにはにかんだ笑顔を見せた。人前で恋人として振る舞えるのが嬉しいのかと思っていたが、そういうことか、と、すとんと腑に落ちて、夜の帳が下りた帰路、月明かりに照らされた穏やかな笑みを見つめていたら、ようやくじんわりと体の芯から実感が湧いてきた。
あの頃とは何もかもが違うのだ。重責に心潰されることもなく、運命に翻弄されることもなく、もしかしたら、長きを共に生き抜くことだって。
「ディオン。よかったね」
「ん……」
寄り添う寸前の距離、ちょんと触れた手をそうっと握ってみれば、指は正直に互いを求めて絡みあった。なにが、とは返されずに引かれた顎を見て、微笑みが優しい夜にとけていく。
心地よい沈黙に身をひたし、いつかの夜のようにネオンに照らされた頬を眺める。ディオンのくちびるがふわと開いて、結ばれて、柔らかなそこを見つめて彼の心を待っていたら、もいちどほどけたくちびるから、吐息のような安堵が漏れた。
「……あの日、『ずっと一緒にいよう』と言ってくれたろう。とても嬉しかったのだ。こんなに幸福なことはないと、そう思っていたのに……。ふふ、今はもっと幸せで、これからもきっと、もっとずっと幸せだ。テランスと一緒にいるからな」
美しい瞳がまっすぐに私を映して、まばゆく笑んだ。
ディオンが、私と共に歩む幸福を選んで、満ち足りた表情を浮かべている。
一生を伴してよいのだと、他ならぬ彼がそう心に決めてくれたことが、私に寄り添うてくれたことが、それがどんなに、どんなに……。
心臓を直に掴まれたような、激しい痛みにも似た歓喜の万雷が全身を駆け巡り、ぼやける視界はディオン以外の有象無象を覆い隠した。目の淵いっぱいに雫をたたえて、それでもどうにか、泣き顔よりも笑顔を返してあげたくて、震えるくちびるで不器用な笑みをかたどった。言葉はなくとも、きっとディオンには伝わっている。彼の隣にとこしえに在ることが、私の愛の証明だ。
固く結んだ手のぬくもりに導かれ、そっと鼻先を寄せ合った。ふわりとほころび、私の訪れを待つくちびるに恭しくくちづけて、ゆっくりと彼のあわいに己を忍ばせる。ディオンの弱いところを舌先であやすようにうっとりと愛撫して、焦れた彼が私の後ろ首をかき抱いて下腹部を押し付けてくるほど丁重に、快楽と己のすべてを染み入らせるような舌使いで、ディオンの腰が砕けるまで熱くとろける口腔を蹂躙した。
何度味わっても新鮮な歓びに満ちたくちびる。互いの形に寄り添い融け合うそこを甘く食み、名残惜しく離しても、いつまでも繋がっているような心地でいられて、ふにゃふにゃに蕩けて笑っているディオンをたまらず強く抱きしめた。
夜は短く、私たちの未来は長い。駆け出したくなる衝動をおさえて、歓喜迸る身体をタクシーに詰め込んで、比翼の鳥は愛の巣へと舞い戻った。
──案の定、またバッチリと写真を撮られてマネージャーからしこたま怒られる羽目になったのだが、隠し撮るほどの物珍しさがなくなるほど愛し合う私達の姿が日常茶飯事となるのは、きっとそう遠くない未来のことである。
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竜の光明
創世阻む陽炎ひらめき、天を光の矢が穿つ。
宙に浮く禍々しき結晶が、人の世へと降り注ぐ。
テランスは、傷だらけの最愛の人とそのさまを見た。
重々しく立ち込めていた暗雲が舞台を降りて、無垢な星星が夜空へと舞い戻る。
ヴァリスゼアに光落とす望月を遥かに眺めていたディオンは、傍らのテランスに一瞥もくれることはなかった。
打ち寄せる波が岬にくだけて、崖下で白白と波打った。風がうなって、濡れた長衣は重くはためき、崩れた金髪が頬を打つ。拳だけが強く握りしめられて、表情に険はない。
ビリッと耳慣れた音がした。無理を通した彼の右腕、矜持満ちたそこを仄白い閃光が取り巻いて、弱々しく月夜に散った。それが、ドミナントたる彼の最後の発露だった。
とても静かな幕引きだった。
ディオン・ルサージュは、ザンブレクの英雄だった。民草を護り、救い、導き賜う聖なる光。──それが、かつての彼だった。
今、テランスの瞳に映るのは、途方も無い虚ろを抱きしめる人間の姿だった。
目を離せば二度と会えなくなるような、危うい淵に立つ人間の。
「フェニックス、イフリート……。終わった、すべてが……」
かぼそい呟きをその場に残し、ディオンの靴底が土を擦った。おぼつかない足取りが月影へと吸い寄せられていく。その先に待つのは断崖だ。けれど、一歩、また一歩と彼は歩みを止めることなく、白い背中が悠久の闇にとけていく。
テランスは、幼い頃からその背に憧れ、敬愛し、必死で守り抜いてきた。それが今やぽつんと遠のいて、とてもさびしく、この世のものと思えないほど幽艶に揺らめいている。ぞっと血の気が引いて、咄嗟に声を張り上げた。
「ディオン様! 終わりではありません、これからです!」
応えはない。必死の遠吠えは愛しい背中に跳ね返されて、足元にほろほろと落ち重なった。ともすれば縋り付くような励ましも、今の彼には抱えきれないだろうことも承知で、けれど諦めるつもりはなかった。
「我々はまた、ここから出発するのです! ディオン様は、我々の……私にとっての、唯一のしるべです。どうか、どうか……」
本当は、テランスにとって民も国も二の次だった。ディオンの望みを叶え、彼が幸せでいてくれさえすれば、それでよかった。その齟齬が二人を隔てていることも、重々承知した上で。
よき理解者たりえなかった、黄泉の道連れにも選ばれなかった。けれど、彼の支えとなるのは、この世の楔となれるのは、きっとテランスの他にない。そう思うのに、ようやく絞り出せたのは、弱々しい懇願だった。
「……置いて行かないで……ディオン……」
テランスの大切な人は、ゆっくりと断崖へつま先をかけた。その先は、と目を見張れば、土埃に輝きを奪われた彼の靴が、動きを止めた。
瞬く。まさか、と思って、ごくりとつばを飲む。
ああ果たして、そのまさか。
ディオンの手のひらが、テランスを手招いた。顔は向こうへ向いたまま。来い、とでも言いたげな、不釣り合いな気軽さで。
あ、と唇を震わせたテランスの方へ、澄ました横顔が振り返った。
ひときわ強い風が吹き、鼓膜が震えた。穴の開くほど見つめる先で、金髪をゆっくりとかき上げたディオンが、小さく笑った。
「仕方のない奴だ。そう悲壮な声で鳴かれては、おちおち物思いに耽ってもいられない」
「……っ! ディオン様……!」
たまらず彼のもとへ駆け寄る。彼の中にはまだ自分の居場所がある、その事実だけで、身体が羽のように軽く感じられた。
月華を背負う愛しい人が、ぎゅうと目を細めてテランスを見つめた。遠く、まばゆいものを見るような眼差しで。浮足立った心がすとんと地に足つけて、テランスは彼の目の前で立ち止まった。
静かに佇むディオンを、じっと見つめる。闇夜に翳る彼の笑顔は、とても朗らかとは言いがたかった。
──取り繕うこともできないほど傷ついて、それでいながら無理にくちびるを歪ませて、どうしてこの人はこうなのだろう。
だからテランスは、強がりの彼を大事に大事に腕の中にしまいこむことにした。めいっぱい捧げた愛に寄りかかってもらえずとも、別にいい。傷も悲しみもひた隠して、それでもこわごわとテランスに寄り添う彼の優しさを知っている。
ディオンはほうっと息をついて、ぎこちなくテランスの首筋に鼻を埋めた。それだけで十分だった。
「帰りましょう、ディオン様」
「…………」
俯く彼の髪をそうっと撫でる。返事はない。脇腹のあたりに指が縋り付くのを感じて、常になく寄る辺ない温もりに、胸を締め付けられた。
無骨な指先が何度か髪を梳いたころ、物憂い吐息が素肌をなぞった。
「……余にはもう、帰る場所など……」
「私がいます。貴方の安寧は私がつくる」
「……安寧……余が奪った、父上から、民から……」
「ディオン……」
「アルテマは斃れたが、余の罪が消えたわけではない。こうして長らえた命さえ、正しいのかどうかさえ……。それでも、それでも余は……お前と共に……」
「っは……!」
押し殺した声に、短く返す。
贖罪に命を賭そうとしていた彼が、わずかでも希望に手を伸ばそうとしている。それがなにより嬉しくて、二人の間に光明が差したようだった。
世界が一変したとて、テランスは揺らがない。ディオンと共にある限り、テランスが折れることはない。それはまた、彼にとってもそうであればいいと願っている。いいや、願いなんてものでは足りない。
今度こそ、己がディオンにとっての光となろう。
強く抱きしめた腕の中、愛しい身体がふるりと身じろいだ。
「……お前はどうしたい」
「ディオン様のお側に」
「もう主従ではないと言っても……」
「はっ。永劫あなたと共に」
もう一度、彼の身が戦慄いた。腰を抱いて、つむじにくちづける。今度はくすぐったそうに震えたディオンがゆっくりと顔を上げ、熱い視線が交差した。痛々しい笑顔がほどけて、愛しいかんばせが、ぎこちなくとも安堵に頬を緩ませている。心にふつふつと喜びが灯されて、テランスはつられて微笑んだ。
「……余から離れる最後のチャンスを逃したな。お前は馬鹿だ。救いようのない馬鹿だ」
「一途だとおっしゃってください。どこまでだってお供いたします」
「うん、もう手放したりするものか」
あどけなくつぶやいたくちびるに、とっておきの愛を返す。少し荒れてしまった、けれど変わらず瑞々しくて柔らかなそこは、ふわりとテランスを受け入れた。別離の時を取り戻すような口づけではなく、末端でさえこれほど愛おしい彼を慈しむようについばんで、ふやけてひとつに融け合ってしまうほど、魅惑のくちびるを味わい、満たす。
滑らかなうなじに手を這わせて、ぞくぞくと身を震わせる彼をより引き寄せる。薄く開いたそこに招かれた舌でディオンの好きなところを丹念に可愛がったら、んぅ、と切なくあえかな吐息を漏らした彼が、うっとりと長い睫毛を上げて美しく微笑んだ。くちびるを離して、かわりに額をこつんと合わせ、甘やかなディオンの表情に陶酔する。
「ディオン……」
「ん、はぁ……。お前はいつだって余の欲しいものをくれる。ふふ。『永劫共に』……か」
花も恥じらう極上の笑み、心を蕩かす口ぶりで、ディオンはテランスの左手をそっとすくい上げた。見開いた視界の中で、彼の指が丁重に、かけがえのないものを扱うかのような優しさで、テランスの薬指に柔らかいくちびるを押し付けた。瞬いて、また瞬いて、彼の整った鼻梁を呆然と見やっても、夢幻に消えることなく、彼はテランスにぴたりと愛を寄せている。
そうしてゆっくり離れていったかんばせが、テランスを見つめてふわりとはにかんだ。
「テランス。余の永遠もお前にやろう」
──その、言葉以上に燦々と注がれる、愛にあふれたまなざしに。
己のすべてが、報われた、と思った。
目頭と喉が熱くひりつく。くちづけられたところから温もりに蕩けてしまいそうで、ぐっとこみ上げた嗚咽を飲み込み、それでもこらえきれずにこぼれた雫が、はたはたと頬を伝った。
「……ディオン、ディオンっ……!」
「すまない。ずいぶん待たせたな」
目からたくさんの想いが溢れては零れ落ちていく。
視界が滲んで、テランスは大急ぎで目元を拭った。もはや彼からいっときも目を離さないと誓った心が、喜びの雨に彼の姿を隠してしまう。
凛々しくて、強がりで、決して涙を見せないこの人に、己ばかりが頼りない姿を見られて情けないような、弱みさえ受けとめてもらえるのが喜ばしいような、矛盾した想いが喉奥を焼いた。
「……そうこすっては腫れてしまうぞ」
拳にするりと静止の指がかかって、瞼に、目尻に、濡れた頬に、淡いくちづけが降ってくる。それがまた雫を溢れさせると知らずに、ディオンは途方もない想いをのせたまなざしでテランスをじっと見つめている。
「ほら、楽しいことを考えてみろ。帰ったら何がしたい? なんでもしてやろう」
「っ、う、なんでも、」
「なんでもだ。愛しいテランス」
その言葉だけで十分なのに、ディオンはそれ以上をくれると言う。いじらしい人の愛情にこたえるべく頭をひねるが、貴方の側にいられるだけで……とくちびるを震わせることしかできなかった。
ふと、優しく首を傾げたディオンの耳飾りに視線がいった。無垢な耳たぶを抱きしめているそいつは、できることなら己の指で外してあげたいものだと、いつだって朝まで褥を共にできない我が身に溜息を吐かせる代物だったはずだ。
そう、人目を避けねばならず、時間をかけて睦み合うこともできなかったあの頃、抱いていた夢があったじゃないか。冗談みたいにささやかで、けれども、口にすることさえ憚られた叶わぬ夢が。
頬を吸うくちびるに誘われて、テランスはぽつりと願いを零した。
「……ディオンと、一日中ベッドの上で、自堕落に過ごしてみたい……」
「んっ……ふ、ティーンのようなことを」
「な、なんでもとおっしゃるから……!」
「はは、すまない。柄にもなく照れているのだ、あんまりお前が愛おしくって」
口を尖らせたテランスの後ろ首に、するりと両腕が巻き付いた。どきりと高鳴る胸に、ぶ厚い胸がすがりつく。星月の霞むほどきらきらとまばゆい彼の、ふわりとほころぶくちびるが、テランスのそれに重なった。
「今日から伴侶だ。余のプロポーズを受けたからには、お前をとびきりの幸せ者にしてやる。お前も余を満たしてくれ。なあ、テランス……」
「ディオン……」
テランスの下唇を甘美に食んだその人が、熱を乞うて身を揺らす。
男を求める舌を優しく吸って、両腕にとらえた彼の背筋を淫猥に撫でおろす。とびきりの嬌声、こぼれる吐息のひとひらさえ口腔に招き入れ、テランスはディオンに甘えるように腰を押し付けた。
それからテランスは、宝箱にしまいたいほど素晴らしいディオンの痴態──テランスのシャツの下に滑り込み、広い背をまさぐる手のひら、愛する男を敷いて前後に揺れるまろい尻、口では恥じらいながらも、大きく広げられてテランスを迎え入れる両足、……。そのすべてを心に刻んだ。
二人はじっくりと時間をかけて互いを与え合い、もはや分かたれぬひとつの心をくまなく確かめ、慈しみ、果てなき愛情に浸って長い夜を明かした。
***
──がらりと色を変えた世界にも、変わらず朝はやってくる。
聖なる翼はおろか、あらゆる魔法が姿を消して、社会の有り様や人々の営みに至るまで、様変わりした生活に戸惑う毎日だったが……ああ、テランスとディオンの在り方に比べれば、それらは実に瑣末な変化だ。
フェニックス、イフリート、皆で守り抜いた人の世を、ディオンとずっと一緒に守っていく。傍らに控える従者としてではなく、隣り合って苦楽を分かち合う伴侶として……。
テランスは分厚いカーテンを開け放ち、古めかしく軋む窓を全開にして、部屋に新鮮な空気と光を取り入れた。薄く引かれたレースカーテンを揺らす風が、小鳥のさえずりをシーツの上に運びこむ。
ベッドの上、半身を起こしてはいるものの、差し込む朝日にぽやぽやと微睡んでいる可愛い伴侶の額にくちづけて「おはよう」と笑いかければ、「んぅ。……う」と、返事なのだか寝言なのだかわからない鳴き声があがって、テランスは破顔してもうひとつくちづけた。
かつて欠けたるところのなかった皇子様は、今や無防備な姿を晒してくれるようになった。愛されたがりなディオンが、素のままで十分に愛してもらえるともっと自信を抱けるようになるまで、テランスはべたべたに甘やかすつもりでいる。
テランスは、子猫のように擦り寄ってきたくちびるへお望みのままくちづけて、「まだ寝る?」と蕩けた声で問いかけた。ふにゃふにゃと何か(否定だろう、たぶん)を口の中で転がしたディオンが、裸足のつま先をゆらゆらと彷徨わせ、ぺたりと床を踏みしめた。
スリッパを履かせてあげたくなるけれど、ぐっとこらえる。『従者のような真似』は彼の頬をふくらませる要因だ。こちらとしては『ベタ惚れ伴侶の仕草』に違いないのだが、線引きの難しいところであるし、それに、口喧嘩で勝てた試しがなかった。
「おはようテランス」
眠り姫のお目覚めだ。寝ぐせがついていようと、着崩れたリネンシャツから柔らかな胸がこぼれていようと、丸見えの滑らかな脚が目に毒だろうと、ディオンは今日も麗しい。
「おはようディオン。いい朝だ」
「うん。……下着がどこかにいってしまった」
「ええと……昨日、廊下で脱がせたかも……ごめん」
「ふふ……そういえば寝室まで点々と脱ぎ捨てていったな。面白いからそのままにしておこうか」
「そうだね。今日はロズフィールド卿しか来客予定がないし」
「ロズフィールド卿が来るんじゃないか!」
──地に堕ち、贖えぬ罪を背負っても、ディオンは折れずにまっすぐ立っていた。
愛する父に従順な英雄たらんとするのをやめて、人々のためにより心を砕き、助力を惜しまず泥をかぶって邁進するその姿は、余計に男の魅力を引き立たせた。
もとより見目麗しい男の全身に、清廉かつ気高い美しさが生々しく息づいているのだ。幼い頃から憧憬に懸想の念をけぶらせていた一人の雄が、惚れ直さないわけがない。
ほうと息をついてディオンを見つめる。テランスの熱視線を『いつものこと』として享受した彼が、意気揚々と廊下に向かった。
「卿も多忙だな。こたびは野獣退治の件だったか……。支度をするぞ。行こうテランス」
「ああ。無理はするなよ、ディオン」
「誰に物を言っている? お前の伴侶がそれしきで音を上げたりするものか」
にっといたずらな少年のように上がった口端。以前にまして愛らしいかんばせに見惚れていたら、ちゅうと頬にくちづけが降ってきた。あっと驚いて手を伸ばすも、ひらりと逃げられて、おまけに向けられた満面の笑みにとどめを刺されて、とうに骨抜きのテランスは幸せに溺れてしまいそうだった。
「そもそも、余の身を案じるなら夜は少しくらい手加減しろ」
「それは無理だ。もう誰憚ることないと思うと、可愛い君を前に我慢できるはずがない」
「お前は可愛げがなくなった。前は余の言うことならなんでも叶えてくれたのに……」
「でも今のほうが好きだろ?」
「自分で言うな。恥ずかしい奴……。大好きだテランス!」
「わっ、もう、ディオン、君は本当に……!」
振り向きざまに飛びつかれて、二人して床に転がり笑い合う。テランスを下敷きにし慣れた身体が胸板に手をついて起き上がったと思ったら、また勢い良く倒れこんできてテランスはぺしゃんこに押しつぶされた。
ぺったり身を寄せたディオンが、耳元でころころ笑う。くっついたところから伝わる振動が心地いい。背中を抱いて声を上げて笑っていたら、遠く階下で「おおい、邪魔するぞー! おらんのかー!?」という大声と無遠慮な足音が響き渡った。がばりと跳ね起きたディオンが、脱兎のごとく駆けていく。
「下着!!!!」
「あっ待ってディオン! 私が……」
「うわああああああああ」
「うおおおおなんじゃあ!! 見とらん! ワシは見とらん!!」
「ああ……ははは……」
最強の翼を失おうと、その手に輝き灯すことがなくなろうと、ディオンは、どんな光よりまばゆく温かく愛おしい。
──あの日墜ちた英雄は、今もこれからも人として、ずっとテランスと共にある。
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創世阻む陽炎ひらめき、天を光の矢が穿つ。
宙に浮く禍々しき結晶が、人の世へと降り注ぐ。
テランスは、傷だらけの最愛の人とそのさまを見た。
重々しく立ち込めていた暗雲が舞台を降りて、無垢な星星が夜空へと舞い戻る。
ヴァリスゼアに光落とす望月を遥かに眺めていたディオンは、傍らのテランスに一瞥もくれることはなかった。
打ち寄せる波が岬にくだけて、崖下で白白と波打った。風がうなって、濡れた長衣は重くはためき、崩れた金髪が頬を打つ。拳だけが強く握りしめられて、表情に険はない。
ビリッと耳慣れた音がした。無理を通した彼の右腕、矜持満ちたそこを仄白い閃光が取り巻いて、弱々しく月夜に散った。それが、ドミナントたる彼の最後の発露だった。
とても静かな幕引きだった。
ディオン・ルサージュは、ザンブレクの英雄だった。民草を護り、救い、導き賜う聖なる光。──それが、かつての彼だった。
今、テランスの瞳に映るのは、途方も無い虚ろを抱きしめる人間の姿だった。
目を離せば二度と会えなくなるような、危うい淵に立つ人間の。
「フェニックス、イフリート……。終わった、すべてが……」
かぼそい呟きをその場に残し、ディオンの靴底が土を擦った。おぼつかない足取りが月影へと吸い寄せられていく。その先に待つのは断崖だ。けれど、一歩、また一歩と彼は歩みを止めることなく、白い背中が悠久の闇にとけていく。
テランスは、幼い頃からその背に憧れ、敬愛し、必死で守り抜いてきた。それが今やぽつんと遠のいて、とてもさびしく、この世のものと思えないほど幽艶に揺らめいている。ぞっと血の気が引いて、咄嗟に声を張り上げた。
「ディオン様! 終わりではありません、これからです!」
応えはない。必死の遠吠えは愛しい背中に跳ね返されて、足元にほろほろと落ち重なった。ともすれば縋り付くような励ましも、今の彼には抱えきれないだろうことも承知で、けれど諦めるつもりはなかった。
「我々はまた、ここから出発するのです! ディオン様は、我々の……私にとっての、唯一のしるべです。どうか、どうか……」
本当は、テランスにとって民も国も二の次だった。ディオンの望みを叶え、彼が幸せでいてくれさえすれば、それでよかった。その齟齬が二人を隔てていることも、重々承知した上で。
よき理解者たりえなかった、黄泉の道連れにも選ばれなかった。けれど、彼の支えとなるのは、この世の楔となれるのは、きっとテランスの他にない。そう思うのに、ようやく絞り出せたのは、弱々しい懇願だった。
「……置いて行かないで……ディオン……」
テランスの大切な人は、ゆっくりと断崖へつま先をかけた。その先は、と目を見張れば、土埃に輝きを奪われた彼の靴が、動きを止めた。
瞬く。まさか、と思って、ごくりとつばを飲む。
ああ果たして、そのまさか。
ディオンの手のひらが、テランスを手招いた。顔は向こうへ向いたまま。来い、とでも言いたげな、不釣り合いな気軽さで。
あ、と唇を震わせたテランスの方へ、澄ました横顔が振り返った。
ひときわ強い風が吹き、鼓膜が震えた。穴の開くほど見つめる先で、金髪をゆっくりとかき上げたディオンが、小さく笑った。
「仕方のない奴だ。そう悲壮な声で鳴かれては、おちおち物思いに耽ってもいられない」
「……っ! ディオン様……!」
たまらず彼のもとへ駆け寄る。彼の中にはまだ自分の居場所がある、その事実だけで、身体が羽のように軽く感じられた。
月華を背負う愛しい人が、ぎゅうと目を細めてテランスを見つめた。遠く、まばゆいものを見るような眼差しで。浮足立った心がすとんと地に足つけて、テランスは彼の目の前で立ち止まった。
静かに佇むディオンを、じっと見つめる。闇夜に翳る彼の笑顔は、とても朗らかとは言いがたかった。
──取り繕うこともできないほど傷ついて、それでいながら無理にくちびるを歪ませて、どうしてこの人はこうなのだろう。
だからテランスは、強がりの彼を大事に大事に腕の中にしまいこむことにした。めいっぱい捧げた愛に寄りかかってもらえずとも、別にいい。傷も悲しみもひた隠して、それでもこわごわとテランスに寄り添う彼の優しさを知っている。
ディオンはほうっと息をついて、ぎこちなくテランスの首筋に鼻を埋めた。それだけで十分だった。
「帰りましょう、ディオン様」
「…………」
俯く彼の髪をそうっと撫でる。返事はない。脇腹のあたりに指が縋り付くのを感じて、常になく寄る辺ない温もりに、胸を締め付けられた。
無骨な指先が何度か髪を梳いたころ、物憂い吐息が素肌をなぞった。
「……余にはもう、帰る場所など……」
「私がいます。貴方の安寧は私がつくる」
「……安寧……余が奪った、父上から、民から……」
「ディオン……」
「アルテマは斃れたが、余の罪が消えたわけではない。こうして長らえた命さえ、正しいのかどうかさえ……。それでも、それでも余は……お前と共に……」
「っは……!」
押し殺した声に、短く返す。
贖罪に命を賭そうとしていた彼が、わずかでも希望に手を伸ばそうとしている。それがなにより嬉しくて、二人の間に光明が差したようだった。
世界が一変したとて、テランスは揺らがない。ディオンと共にある限り、テランスが折れることはない。それはまた、彼にとってもそうであればいいと願っている。いいや、願いなんてものでは足りない。
今度こそ、己がディオンにとっての光となろう。
強く抱きしめた腕の中、愛しい身体がふるりと身じろいだ。
「……お前はどうしたい」
「ディオン様のお側に」
「もう主従ではないと言っても……」
「はっ。永劫あなたと共に」
もう一度、彼の身が戦慄いた。腰を抱いて、つむじにくちづける。今度はくすぐったそうに震えたディオンがゆっくりと顔を上げ、熱い視線が交差した。痛々しい笑顔がほどけて、愛しいかんばせが、ぎこちなくとも安堵に頬を緩ませている。心にふつふつと喜びが灯されて、テランスはつられて微笑んだ。
「……余から離れる最後のチャンスを逃したな。お前は馬鹿だ。救いようのない馬鹿だ」
「一途だとおっしゃってください。どこまでだってお供いたします」
「うん、もう手放したりするものか」
あどけなくつぶやいたくちびるに、とっておきの愛を返す。少し荒れてしまった、けれど変わらず瑞々しくて柔らかなそこは、ふわりとテランスを受け入れた。別離の時を取り戻すような口づけではなく、末端でさえこれほど愛おしい彼を慈しむようについばんで、ふやけてひとつに融け合ってしまうほど、魅惑のくちびるを味わい、満たす。
滑らかなうなじに手を這わせて、ぞくぞくと身を震わせる彼をより引き寄せる。薄く開いたそこに招かれた舌でディオンの好きなところを丹念に可愛がったら、んぅ、と切なくあえかな吐息を漏らした彼が、うっとりと長い睫毛を上げて美しく微笑んだ。くちびるを離して、かわりに額をこつんと合わせ、甘やかなディオンの表情に陶酔する。
「ディオン……」
「ん、はぁ……。お前はいつだって余の欲しいものをくれる。ふふ。『永劫共に』……か」
花も恥じらう極上の笑み、心を蕩かす口ぶりで、ディオンはテランスの左手をそっとすくい上げた。見開いた視界の中で、彼の指が丁重に、かけがえのないものを扱うかのような優しさで、テランスの薬指に柔らかいくちびるを押し付けた。瞬いて、また瞬いて、彼の整った鼻梁を呆然と見やっても、夢幻に消えることなく、彼はテランスにぴたりと愛を寄せている。
そうしてゆっくり離れていったかんばせが、テランスを見つめてふわりとはにかんだ。
「テランス。余の永遠もお前にやろう」
──その、言葉以上に燦々と注がれる、愛にあふれたまなざしに。
己のすべてが、報われた、と思った。
目頭と喉が熱くひりつく。くちづけられたところから温もりに蕩けてしまいそうで、ぐっとこみ上げた嗚咽を飲み込み、それでもこらえきれずにこぼれた雫が、はたはたと頬を伝った。
「……ディオン、ディオンっ……!」
「すまない。ずいぶん待たせたな」
目からたくさんの想いが溢れては零れ落ちていく。
視界が滲んで、テランスは大急ぎで目元を拭った。もはや彼からいっときも目を離さないと誓った心が、喜びの雨に彼の姿を隠してしまう。
凛々しくて、強がりで、決して涙を見せないこの人に、己ばかりが頼りない姿を見られて情けないような、弱みさえ受けとめてもらえるのが喜ばしいような、矛盾した想いが喉奥を焼いた。
「……そうこすっては腫れてしまうぞ」
拳にするりと静止の指がかかって、瞼に、目尻に、濡れた頬に、淡いくちづけが降ってくる。それがまた雫を溢れさせると知らずに、ディオンは途方もない想いをのせたまなざしでテランスをじっと見つめている。
「ほら、楽しいことを考えてみろ。帰ったら何がしたい? なんでもしてやろう」
「っ、う、なんでも、」
「なんでもだ。愛しいテランス」
その言葉だけで十分なのに、ディオンはそれ以上をくれると言う。いじらしい人の愛情にこたえるべく頭をひねるが、貴方の側にいられるだけで……とくちびるを震わせることしかできなかった。
ふと、優しく首を傾げたディオンの耳飾りに視線がいった。無垢な耳たぶを抱きしめているそいつは、できることなら己の指で外してあげたいものだと、いつだって朝まで褥を共にできない我が身に溜息を吐かせる代物だったはずだ。
そう、人目を避けねばならず、時間をかけて睦み合うこともできなかったあの頃、抱いていた夢があったじゃないか。冗談みたいにささやかで、けれども、口にすることさえ憚られた叶わぬ夢が。
頬を吸うくちびるに誘われて、テランスはぽつりと願いを零した。
「……ディオンと、一日中ベッドの上で、自堕落に過ごしてみたい……」
「んっ……ふ、ティーンのようなことを」
「な、なんでもとおっしゃるから……!」
「はは、すまない。柄にもなく照れているのだ、あんまりお前が愛おしくって」
口を尖らせたテランスの後ろ首に、するりと両腕が巻き付いた。どきりと高鳴る胸に、ぶ厚い胸がすがりつく。星月の霞むほどきらきらとまばゆい彼の、ふわりとほころぶくちびるが、テランスのそれに重なった。
「今日から伴侶だ。余のプロポーズを受けたからには、お前をとびきりの幸せ者にしてやる。お前も余を満たしてくれ。なあ、テランス……」
「ディオン……」
テランスの下唇を甘美に食んだその人が、熱を乞うて身を揺らす。
男を求める舌を優しく吸って、両腕にとらえた彼の背筋を淫猥に撫でおろす。とびきりの嬌声、こぼれる吐息のひとひらさえ口腔に招き入れ、テランスはディオンに甘えるように腰を押し付けた。
それからテランスは、宝箱にしまいたいほど素晴らしいディオンの痴態──テランスのシャツの下に滑り込み、広い背をまさぐる手のひら、愛する男を敷いて前後に揺れるまろい尻、口では恥じらいながらも、大きく広げられてテランスを迎え入れる両足、……。そのすべてを心に刻んだ。
二人はじっくりと時間をかけて互いを与え合い、もはや分かたれぬひとつの心をくまなく確かめ、慈しみ、果てなき愛情に浸って長い夜を明かした。
***
──がらりと色を変えた世界にも、変わらず朝はやってくる。
聖なる翼はおろか、あらゆる魔法が姿を消して、社会の有り様や人々の営みに至るまで、様変わりした生活に戸惑う毎日だったが……ああ、テランスとディオンの在り方に比べれば、それらは実に瑣末な変化だ。
フェニックス、イフリート、皆で守り抜いた人の世を、ディオンとずっと一緒に守っていく。傍らに控える従者としてではなく、隣り合って苦楽を分かち合う伴侶として……。
テランスは分厚いカーテンを開け放ち、古めかしく軋む窓を全開にして、部屋に新鮮な空気と光を取り入れた。薄く引かれたレースカーテンを揺らす風が、小鳥のさえずりをシーツの上に運びこむ。
ベッドの上、半身を起こしてはいるものの、差し込む朝日にぽやぽやと微睡んでいる可愛い伴侶の額にくちづけて「おはよう」と笑いかければ、「んぅ。……う」と、返事なのだか寝言なのだかわからない鳴き声があがって、テランスは破顔してもうひとつくちづけた。
かつて欠けたるところのなかった皇子様は、今や無防備な姿を晒してくれるようになった。愛されたがりなディオンが、素のままで十分に愛してもらえるともっと自信を抱けるようになるまで、テランスはべたべたに甘やかすつもりでいる。
テランスは、子猫のように擦り寄ってきたくちびるへお望みのままくちづけて、「まだ寝る?」と蕩けた声で問いかけた。ふにゃふにゃと何か(否定だろう、たぶん)を口の中で転がしたディオンが、裸足のつま先をゆらゆらと彷徨わせ、ぺたりと床を踏みしめた。
スリッパを履かせてあげたくなるけれど、ぐっとこらえる。『従者のような真似』は彼の頬をふくらませる要因だ。こちらとしては『ベタ惚れ伴侶の仕草』に違いないのだが、線引きの難しいところであるし、それに、口喧嘩で勝てた試しがなかった。
「おはようテランス」
眠り姫のお目覚めだ。寝ぐせがついていようと、着崩れたリネンシャツから柔らかな胸がこぼれていようと、丸見えの滑らかな脚が目に毒だろうと、ディオンは今日も麗しい。
「おはようディオン。いい朝だ」
「うん。……下着がどこかにいってしまった」
「ええと……昨日、廊下で脱がせたかも……ごめん」
「ふふ……そういえば寝室まで点々と脱ぎ捨てていったな。面白いからそのままにしておこうか」
「そうだね。今日はロズフィールド卿しか来客予定がないし」
「ロズフィールド卿が来るんじゃないか!」
──地に堕ち、贖えぬ罪を背負っても、ディオンは折れずにまっすぐ立っていた。
愛する父に従順な英雄たらんとするのをやめて、人々のためにより心を砕き、助力を惜しまず泥をかぶって邁進するその姿は、余計に男の魅力を引き立たせた。
もとより見目麗しい男の全身に、清廉かつ気高い美しさが生々しく息づいているのだ。幼い頃から憧憬に懸想の念をけぶらせていた一人の雄が、惚れ直さないわけがない。
ほうと息をついてディオンを見つめる。テランスの熱視線を『いつものこと』として享受した彼が、意気揚々と廊下に向かった。
「卿も多忙だな。こたびは野獣退治の件だったか……。支度をするぞ。行こうテランス」
「ああ。無理はするなよ、ディオン」
「誰に物を言っている? お前の伴侶がそれしきで音を上げたりするものか」
にっといたずらな少年のように上がった口端。以前にまして愛らしいかんばせに見惚れていたら、ちゅうと頬にくちづけが降ってきた。あっと驚いて手を伸ばすも、ひらりと逃げられて、おまけに向けられた満面の笑みにとどめを刺されて、とうに骨抜きのテランスは幸せに溺れてしまいそうだった。
「そもそも、余の身を案じるなら夜は少しくらい手加減しろ」
「それは無理だ。もう誰憚ることないと思うと、可愛い君を前に我慢できるはずがない」
「お前は可愛げがなくなった。前は余の言うことならなんでも叶えてくれたのに……」
「でも今のほうが好きだろ?」
「自分で言うな。恥ずかしい奴……。大好きだテランス!」
「わっ、もう、ディオン、君は本当に……!」
振り向きざまに飛びつかれて、二人して床に転がり笑い合う。テランスを下敷きにし慣れた身体が胸板に手をついて起き上がったと思ったら、また勢い良く倒れこんできてテランスはぺしゃんこに押しつぶされた。
ぺったり身を寄せたディオンが、耳元でころころ笑う。くっついたところから伝わる振動が心地いい。背中を抱いて声を上げて笑っていたら、遠く階下で「おおい、邪魔するぞー! おらんのかー!?」という大声と無遠慮な足音が響き渡った。がばりと跳ね起きたディオンが、脱兎のごとく駆けていく。
「下着!!!!」
「あっ待ってディオン! 私が……」
「うわああああああああ」
「うおおおおなんじゃあ!! 見とらん! ワシは見とらん!!」
「ああ……ははは……」
最強の翼を失おうと、その手に輝き灯すことがなくなろうと、ディオンは、どんな光よりまばゆく温かく愛おしい。
──あの日墜ちた英雄は、今もこれからも人として、ずっとテランスと共にある。
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「ふふ……愛おしい。余を守り、愛し抜く手だ」
テランスの右手を撫でまわす、高貴な猫がそう鳴いた。
指先から指の股をつうっとなぞり、手のひらの硬い豆をちょいとつついては、嬉しそうにくちびるを緩める最愛の人。今にもごろごろと喉さえ鳴らしてくれそうで、テランスの眦は愛らしさにとろんと蕩けた。
手付かずの左手で、じゃれつく頭を優しく撫でる。すると、ご満悦なはずの愛猫様から、間髪入れずにぴしゃりと跳ね除けられてしまった。
首を傾げる。さて、なにがご不満なのか。右手は未だ、にぎにぎと遊ばれているのだが。
もう一度、左手をそうっと近づけてみる。魅惑のかんばせに到達する寸前、理不尽な上目遣いに咎められ、ああなるほどと破顔した。
「私から触れるのは禁止なのですか?」
「そうだ。余がお前を愛する番だ」
「それは重畳」
優位に立って胸を張る、その愛くるしさがじんわり胸に沁み渡る。大人しく弄ばれているうちに、テランスの硬い指の腹が、無垢なくちびるのうえに招かれた。
ディオンには、気に入ったものを口元に持っていく癖がある。まるで幼子のような仕草だが、一番のお気に入りたるテランスは、もう何百回とそのくちびるで味あわれている。あどけなくもいやらしい、とっておきの可愛い癖だ。
目を細めて、美しいくちびるをじっと眺める。紅を指さずとも桜色に艶めいて、撫でられれば撫でられるほど、甘く色づく彼のくちびる。視界と指先でやわらかなそれを感じて、ぱちぱちと光が爆ぜるようだった。
もはやテランスの指が撫でているというより、彼のくちびるに愛でられているといった様相だが、その蹂躙は好ましい。
うっとりと息を吐いたら、悪戯な上目遣いと目が合った。楚々として開いたくちびるから白い歯がちょいと覗いて、逞しい指を甘く食む。
こうなると油断はできない。困ったことに彼の噛み癖は愛嬌も威力も絶大で、テランスをすぐダメにしてしまう。
かじらないでくださいね、なんて建前だけの抵抗を示す前に、歯形がつくほどがじりとやられた。思わず笑う。マーキングなんてされなくたって、テランスはとっくにディオンのものだ。
「ディオン様は本当に私の手が好きですね」
「太くて硬くて筋張っている。勇猛な騎士の手だ。噛み心地もいい」
「味見ですか? お口に合えばよいのですが」
「味なんかとっくに知っている。好きだから食べているのだ」
噛み跡を、小さい舌がちろりと撫でる。指を咥えたままの双眸が、挑むようにこちらを向いた。挑む、というには熱と期待が大いにこもり、仔猫が腹を見せて万歳をしているような、勝ちを譲る眼差しだ。
いじらしいおねだりに飛びつきたくなる心地を抑えて、テランスは紳士を装った。
「私から触れてはならないんでしたね?」
「……お前はときどきいじわるを言う」
麗しいくちびるがむっと尖った。
「順番は守りませんと。それとも、『私が愛される番』はもうお終いですか?」
「……いじわるばっかり言う」
ますます尖った。
相好を崩して白旗を掲げる前に、ディオンの指先がテランスの左手を運んでいって、手のひらいっぱいにぺとりと頬をくっつけた。金糸がさらりと流れて光る。すべすべのほっぺを思うさま擦り付けられて、愛を囁く余裕もなくしたテランスは、忍び笑いもほどほどに額をこつんとくっつけた。
「今度は私が貴方を愛する番だ」
「うん。お前が欲しい。指では足りない」
贅沢な睫毛の下から男をねだり、お気の向くまま懐いて甘えて、尊大に私を炙って蕩かす、ヴァリスゼアいち可愛い愛猫。
「仰せのままに。私のディオン」
擦り寄るくちびるに返事ごと食べられて、ちうちうと吸われるまま熱い吐息にねぶられた。
「いっぱいしてくれ……」
「欲張りさんだなあ。お腹いっぱいにしてあげますよ」
「ふふ! 残さず平らげてやる」
「ほんとに食べられちゃいそうだ」
可愛いうなじにリボンを結んで、家猫にできたらいいのにな。
叶わぬ夢想はさておいて、くにゃりとしなだれとびきりの媚態を見せる恋人に隅から隅まで味わってもらうべく、テランスは愛しい身体に覆い被さった。
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