home palette
chat
アニホムマツ工場
アニホムマツ工場

No.11, No.10, No.9, No.84件]

灼熱のマグマはひどく冷たい

※モブ目線
※このページのみモブへの過激な暴力描写有 注意


「私に手を出したのが運の尽きだ。とびきり優秀なグラエナが地の果てまで追ってくる。行けるところまで逃げだしてみるといい、最期まで見守っていてあげよう」


**********


 その男は人畜無害と聞いていた。

 マグマ団の首魁マツブサ。
 依頼主が宣うに、切れ者、凄腕、犬狂い、神がかった人誑し。されど腕力はからきしで、人をも殺める凶猛な飼い犬さえ撒いてしまえば、そいつ自体に脅威なし、と。
 それでも入念に慎重に万全を期し、男の命を奪いに向かった。非力な男の始末など、常と変わらぬ楽な仕事のはずだった。
 けれど違った。無防備に背を向ける男に狙いを定めたその瞬間、凶牙立ち並ぶ狗の口腔に誘い込まれていたと気付いたときには、もう取り返しがつかなかった。

 温かく親しみに満ちた声。人を惹き寄せ溺れさせる甘い眼差し。見るものすべてに至福をもたらす比類なき笑顔。
 綺麗な薔薇だ。数多の男を雁字搦めに貫く茨、地獄の華だ。
 それが、振り向きざま傍らのグラエナにはかいこうせんを放たせた、マツブサという男の印象だった。


**********


 脱兎のごとく夜を駆ける。遠くへ、もっと遠くへ、燃え盛る赤毛の手から逃れるように。
 痛みに火照る身体を氷雨が叩く。追手の気配はなかった。それでも少しも安堵などできなかった。
 入り組んだ道をがむしゃらに走り続けて、そびえ立つビルの隙間に転がり込んだ。震える腕でボールを放る。宙に舞いでたオオスバメは、尋常ではない俺の様子にひどく怯えた顔を見せた。それでも、翼を広げる相棒の足をなんとか掴んで、ぬかるんだ地面を蹴る。地上から離れて数秒もしないうちに、足首を鋭利な何かに喰らいつかれて、泥溜まりの中に無様に引き倒された。
 オオスバメがひとり虚空に逃げ去ってゆく。伸ばした手に応えるように、きらきらとした光の粉が、周囲をぶわりと取り囲んだ。まぶたが落ちる。
 閉じゆく視界の端で、業火の赤を翻す、禍々しい黒角を生やした悪魔が、ゆっくりと飛沫を上げて歩み寄るのを捉えた気がする。

 あとから思い返してみれば、人畜無害などとんだ笑い話だ。
 飼い犬が人を殺めるのは、飼い主が命令を下すからだというのに。

 暗転。



**********


 こつ、こつ、と、遠くで耳障り良い音がする。

 重いまぶたを持ち上げる。数度瞬くと、次第に霞がかった視界が晴れてきた。
 見知らぬ空間だ。正面には、閉ざされた重厚な扉が見える。息苦しく周りを囲む黒い石壁には、ヘルガーの意匠が彫刻された燭台が等間隔に並んでおり、不気味に踊る焔の群れが、薄ぼんやりと空間を照らしている。
 はっと意識が覚醒し、やにわに飛び起きた。実際に跳ね起きたのは気持ちだけで、体はなにかに阻まれ身じろぎすらできなかった。
 唇を噛む。直立の姿勢で、腕が後手に固定されている。頭は……動く。見下ろすと、胸部からおそらくは足首に至るまで、光を反射する細糸──虫ポケモンの糸で幾重にも縛り付けられていた。背後に固定された手首をまわして探ると、どうやら体躯より細い柱に拘束されているようだった。
 全身に浴びた泥が、乾いてこびりついている。体中が鈍痛と疲労を訴えている。あえなく捕まった事実に腹の底が重くなった。けれど、俺はまだ生きている。それも、五体満足で。
 途方も無い安堵に、思わず瞳が潤んだ。

 こつ、こつ、と途切れることなく近づいていた音が、足音が、すぐそこで止まった。

 次いで、ギイイと軋んだ音をたて、いかにも重々しそうに扉が口を開けていく。心の準備は間に合おうはずもない。知らず息を潜めた。再び、こつ、と固い音が地を叩く。向こう側に広がる闇の中から、煮えたぎるマグマの権化が姿を現した。
 ひっと息をのむ。滾る炎に巻かれて、めらめらと焼きつくされるさまを想起した。けれどその絶望とは裏腹に、静かにこちらへ歩を進めた悪の巨魁は、目を細めてふわりと微笑んだ。

「おかえり。たくさん走って疲れただろう。まだ眠っていてもよかったのだぞ」
「う、…………」

 恐怖心に囚われた幼子を宥めて包み込むような、ぬくもりある炎だと思った。
 ばくばくと高鳴る鼓動を抑えるように努めて、彼をじっと見つめ返す。焔色に包まれた恵まれた肢体、佇まいは気品に満ちている。やはり、人を統べるに相応しい、いかにも聡明そうな男であった。
 先程まであれほど恐ろしかった存在が、尻尾を巻いて逃げた己を恥じ入ってしまうほど、希望を与える庇護の眼差しでこちらを見ている。
 ぐっと恐れを飲み込んだ。語りかけることはせず、言葉を待つ。男の不興を買いたくなかった。命乞いというより、彼の心を曇らせたくないと思った。

「やはり私のグラエナは優秀だ。狩りに出したのは久方ぶりだったのに、すぐに獲物を咥えて帰ってきたから驚いたよ」

 ひとりごち、くすくすと可笑しげに笑う。上機嫌な様子に肩の力が抜けていく。捕らえた罪人に言葉をかける姿に、この人なら、きっと生かして帰してくれる、と思った。今すぐ、両腕を上げて敵意がないのを示したかったが、縛られているため叶わない。だからせめて、上目遣いの視線で媚びた。

「ああ、本当にこんな仕事受けなきゃよかった。降参だよ。あんたには敵わない」
「おや、どういう心境の変化だね。私は今、見ての通り隙だらけだよ。今なら殺せると思わないか?」
「殺せない。抜け出せそうにないし……。それに、こんなに立派で綺麗な人だとは思わなかった」
「ありがとう。私もキミが気に入ったよ。数いる犬をくぐり抜け、マグマ団のリーダーまで辿り着いた手腕、褒めてやろう」

 男が音を立てずに拍手をする。焔色と黒色の袖がさらりと衣擦れの音を立て、彼の腰に帰っていった。蝋燭の火が揺れる。赤毛は三メートルほどしか離れぬ先に立っている。
 赤毛が口を閉ざすと、辺りはしんと静まり返って、首筋をひやりと冷気が撫でた。
 彼には必ず目的があるはずだ。気まぐれで咎人のもとへ足を運んだわけではあるまい。狙いはおそらく依頼主についての情報……ええいもう、進んで口を割ってしまおうかと腹を決めかねていると、「ところで」と細腰に手をあてた赤毛が、ちょいと顎を上げて悪戯な笑みを浮かべた。

「私のグラエナには顔を合わせたか?」
「どいつだよ、あんたの犬はいっぱいいすぎて……」
「ふむ。マグマ団随一のグラエナだ。獲物に噛み付いたら最後、二度と離すことはない。骨まで噛み砕き、命尽きるまで食らいつく」

 誇らしげな、いや、恍惚とした表情で、綺麗に整えられた爪をのせる指が、くちびるを撫でている。ちらりと覗いた真っ赤な舌が、蠱惑的に動いて唇を湿らせた。犬狂いと呼ばれるわけだ。殺害を示唆するような不穏な内容に震える背は無視して、おどけてみせた。

「見てないね。そんな躾のなってないグラエナは」
「逆だ。そういう風に躾けたのだよ。まったく惚れ惚れするほど優秀に育ってね。忠誠心の塊みたいなとびきり美しい雄で、骨の髄まで私のことがだぁい好き」
「ずいぶんと大事にしているんだな。アンタのつがいか」

 虚勢を張る下卑た皮肉に、男は否定も肯定も返さなかった。静かに睫毛を上下させ、ただ、艷やかなくちびるに人差し指をあてている。
 それを見てなぜだか、彼が男を咥え込む姿が脳裏に閃いた。抜けるような白い肌、滑らかで長い指、すがりつきたくなるほど魅力的な柳腰。この躰は『男を知って』いる、そういう確信が胸中に広がっていく。思わず、ごくりと喉が鳴った。
 赤毛がこちらへ手のひらを差し出した。

「さて。そんなグラエナの主人の命を愚かにも狙ってしまい、今も無礼を重ねているキミの処遇についてだが……」
「悪かった。なあお願いだ、見逃してくれよ」
「私に刃を向けた愚行が謝罪ひとつで済むとでも?」
「だけど、お上品に生きてるアンタのことだ。足がつくような真似もしたくねえだろう」
「まあ、それはそうだな。私は慎ましやかに過ごしているからね。人を殺すだなんてとてもとても」

 大仰に肩をすくめる芝居がかった仕草も、この男にかかれば憎らしいほど様になる。ほうっと嘆息が漏れた。
 殺し屋なんて稼業をしていても、死ぬのは怖い。身をすくみ上がらせるその恐怖を、赤毛はたやすく取り除いてくれた。聡明で、部下に慕われ、話のわかる男だ。俺が与えそびれた死を、惨たらしく返すような真似はしないだろう。

「それなのに、見ず知らずの人間に命を狙われるなんて。心外だ」
「ああ……俺が間違ってた。アンタはむしゃぶりつきたくなるくらいイイ男だ」
「ふふ。お褒めの言葉をありがとう」
「靴の裏だって股ぐらだって舐めてやる。だから……」

 赤毛が人差し指を振る。口を慎みなさい、というサイン。不快そうな様子は見えない。だってあんなにも、心から愉快でたまらないというふうに、口角を吊り上げている。

「まだ気づかないのか? キミの喉元にはとっくに牙が突き立てられているのに」


 刹那、後ろから勢いよく、なにかが耳をかすめて横切った。


 呼吸が止まった。
 驚愕に見開いた目に、ひとの腕……男の片腕、が、映っている。
 唐突に背後の闇から生えて、顔の横に浮かぶ、凶器さながら隆々と鍛え抜かれた男の腕。手首から先を黒手袋に覆ったそれが、ゆっくりと俺の方に折れ曲がり、喉仏に覆いかぶさっていく。五指がぞろりと這って、俺の首は深淵に掴みあげられた。
 固い指先が、冷たい革手袋から滲み出る殺意が、薄い皮膚を抉るように食い込んでいく。

「うっ……ヒ、ぐ」

 出入り口は、赤毛を越えた向こうにある扉のみ。考えを巡らすまでもなく───その腕の持ち主は、今までずうっと、俺の背後に立っていたのだ。
 ひっ、ひっ、と、醜い音が冷気を揺らした。自分の口から漏れている音だと気づいた時、赤毛の男がなまめかしく微笑んで、「大丈夫か?」と俺を案じた。
 恐怖に全身がガクガクと震え出す。見開いた視界の真ん中で、悠然と佇む男はただ美しく笑んでいる。聞くに耐えない哀れな呼吸が次から次に溢れ出す。
 力一杯絞めるでもなく、しかし苦痛を与えたくてたまらないというような、口ほどに物を言うてのひらが、俺の命を強く握りしめている。
 それでも、腕の根本に人が存在するとは思えないほど、背後からは気配ひとつ感じられなかった。

「っひ、ひ、あ……」

 真後ろにいるのは死神だ。根源的な恐怖に身が竦んだ。後ろの正面、殺意の塊、目の当たりになどしたくない。だのに、震える瞳が意思に反して、横に横にと滑っていく。

「キミ」

 赤毛の男がこちらを呼んだ。ぱっと視線が彼に向く。目を細め、顎に手をあててくちびるを隠している。滑らかな指からはみ出た口端が赤く弧を描いている。

「振り返らない方がいい。目を潰されてしまうかも。キミの後ろにいる私の王子様は、たいそうご立腹のようだから」

 物騒なことを愉快げに言い放つ。「お戯れを」と後頭部に声が降ってきた。指先にみなぎる殺意とは裏腹に、感情が窺えないひどく冷淡な声だった。
 若い男だ。死神が血肉をもって、確かにそこに立っている。目眩がするほどぞっとした。呼吸が過ぎて、息が苦しい。赤毛の男は、死神に言葉も視線もくれてやらぬまま、俺の目をじっと見つめて言った。

「恐ろしいか? 大丈夫。好きなだけ私を見ていたまえ。ずっと笑っていてあげる。約束だ、他ならぬ君のためだから」
「……う、……っ!!」

 張り巡らせた糸に絡まった虫を、女郎蜘蛛の嘘偽りなき優しい眼がなめる。心が抱き寄せられそうになる瞬間、思いきり首を握り潰された。
 視界がかっと赤く染まる。息ができない。かっ開いた目に赤毛の苦笑が映る。骨が軋む、これ以上ないと思える剛力は際限なく力を増していく。窒息、いや、破裂する!早すぎる死を確信したとき、赤毛が薄く口を開いた。

「ホムラ」

 凛とした、人を手玉に取る男の声だった。

「はっ。申し訳ありません」
「ハァッ! はっ、ぜぇっ、は、はあーっ! ハッ、はァっ、ひゅ、……ッ!! はぁっ」

 ぱっと手が離されて、必死の思いで酸素をのむ。視界がちかちかと明滅する。
 こつ、こつ、と革靴が再び音をたて、唾を垂らして喘ぐ俺の隣に立った。充血した横目で奴を追う。彼は、俺の背後──ホムラと呼ばれた男の方に腕を高く掲げて、ゆっくりと動かした。
 聞き分けのない子犬を甘く叱るような緩んだ口元、しゃりしゃりと髪のかき混ぜられる音、もしかして、死神の頭を撫でている……?

「こら。私はまだ楽しませてもらってないぞ」
「快くご高覧いただくため、お好みの赤に染め上げました」
「斬新な気の利かせ方だな。……なにをちょっと誇らしげにしているのだ。よしよし」
「わふっ」

 度肝を抜かれた。それは隣の赤毛も同じだったようで、目も口もまんまるに開いている。

「わあ可愛い! どうしたのだ」
「は、マツブサ様に王子様とお呼びいただいたので……」
「んっ……ふふ、ふっ、う、嬉しかったのか。か、かわいい、あはっ」

 荒々しく肩を上下させ、死の気配にまとわりつかれたままの俺をよそに、男たちは笑い合っている。いや、ころころと笑っているのはマグマのトップ一人だ。死を司る男の声には、ひとつも浮かれたところがない。にも関わらず、ご主人様に首ったけなんだろうな、という雰囲気をひしひしと肌で感じた。
 ひたひたと、足元から仄暗いものが這い寄ってくる。躊躇いなく人の首を絞めるような、己に心酔しきった番犬を罪人の背後に置く。それは、どういう意図だろう。彼らが睦まじく交わす熱が肉をなめ、言い知れぬ恐怖にじりじりと骨まで焦がされる。

「一曲踊っていただきたいほど舞い上がっています」
「そ、そんな真顔で。ふふっ、お腹がよじれる! あは、んふふ、ダメだぞ王子様。お前はまずこの子をエスコートしてやるのだ」
「…………」
「急に拗ねる! ふふふ」

 俺に希望をもたらすはずの人が、活き活きと声を弾ませて死神の手を引いた。赤毛の男がゆっくりと俺の前方へ歩み戻る。繋いだ手に追従する地獄の番犬、殺意満ちる者の姿を、俺はようやくこの目にした。
 一目見て、なんて美しいけだものだ、と思った。
 俺をあらん限りの力でいたぶっておきながら、無頼漢とは似ても似つかぬ、礼節をわきまえた好青年のようでさえあった。精悍な顔つきの中ほどで甘やかに眦が垂れているが、凍りつくような無表情が優しい印象をごっそりと削り落としている。そして、そんな端正なおもてには不釣り合いなほど、はちきれんばかりに凶悪に盛り上がる筋肉が、水の滴る男振りを鰻登りに上げている。
 赤毛が愛おしがるのも頷ける、恐ろしいほどに見目の整った青年だった。殺気をみなぎらせているという一点を除けば、きっと好印象を抱いただろう。
 そんな男の黒い瞳が、無感情に俺を刺し貫いている。落ち着いたはずの息が、次第に荒くなっていく。嫌だ。怖い。忌避すべきものだ。すがるような視線を赤毛に向ける。それをあろうことか、赤毛は死神の背に手をそえて、えへんと胸を張った。

「なあキミ。すこぶるイイ男だろう、私のグラエナ。ほら自己紹介」
「マグマ団幹部兼行動隊長兼マツブサ様のグラエナ兼王子様のホムラだ。短い間だがよろしくな挽き肉」

 どっと全身に脂汗が浮いた。

「こら、失礼だぞ。まだ人の形をしているだろう。そんなにこの子が気に入ったか」
「それはもう。丁重にエスコートして差し上げます」
「好きにしろ。せっかく会食の予定が潰れたことだし、久々に二人きりで楽しもう」

 男たちの言うことが、すぐには理解できなかった。
 ひとのかたち、ふたりきり……。
 俺、もう、人間として数えられていない!!
 ぐるぐると視界がまわって、希望の光をはるか遠くに見失った。ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返す。逃げなければとがむしゃらに暴れても、糸の拘束はびくともしない。
 錯乱する俺を意にも介さず、二人は見つめ合っている。若い男が、手首を軽く振ってまわした。

「おや。いつものグラエナは使わないのか?」
「はい。本日は、マツブサ様のことが骨の髄までだぁい好きな、優秀で美しく忠誠心に満ちたグラエナがつとめます」
「ふふっ。頼もしいと愛おしいも追加してやろう」
「身に余る光栄です」

 死神の手から救ってくれたはずの赤毛が、剥き出しの二の腕をうっそりと撫でてあげて、俺というおもちゃを犬の鼻先につきつける。呼吸がうるさい。殺される。このままでは。命を乞わなきゃ。だが何と。赤毛は温和に笑んでいる。「冗談だよ」と肩を叩いてくれそうな、気の置けない表情で。犬が一歩踏み出す。赤毛も俺へと距離を詰めた。底冷えのする美貌が、諌める視線を主人に送る。

「お召し物が汚れてしまいます」
「飛び散らないようにやれ」
「はっ」

 猛犬の鎖が外された。
 ──失禁した。濡れた感覚が、俺に人語を取り戻させた。

「やめろ! 助けてくれ!! 頼む、お願いだから!! あんたを殺すように言ってきた男はアクア団の幹部だ、奴らの情報を持っている、だから!」

 絶叫が石壁に反響する。灯火がゆらゆら揺れる。赤毛が至って柔和に小首を傾げた。

「キミが二週間前に会った男は、幹部ではなくしたっぱだ」
「あっ? そ、そんなはず……ッ、ま、待て、なんで知って……」
「尾行にも気付かないしたっぱ君が、アオギリを思って愚かにも私を消そうと企んだのだろう。それがあの男の逆鱗に触れるとも知らずにね。今頃サメハダーの腹の中じゃないか、ふふふ」

 赤毛の口がアオギリの名前をなぞった瞬間、犬はわずかに眉間をしわ寄せたが、たちまち無表情に戻って凍える視線を俺に放った。目の前に仁王立つ。拳は固く握られている。

「つまり、キミの持つ情報には価値がないということだ。だが安心したまえ。キミの身体には価値がある。さきほど言っていた、股がどうとか……なんだったかな? ホムラ」
「『股ぐらだって舐めてやる』」
「そう、そんな下品なことをさせる気はないが、私はよく鳴く犬が好きでね。楽しませてくれ。そうすれば少しは長く……」
「い、嫌だ!!! やめ、助けっ……!!」
「やかましい。マツブサ様のお言葉を遮るな」

 容赦ない打撃が頬を襲った。あまりの勢いに拘束糸が引きちぎれ、側頭部から地面に激突する。ぐわんぐわんと世界が揺れる。地面に点々と、光を反射する白い粒が転がっているのが見えた。赤く濡れた白……。歯、俺の歯だ。
 這いつくばりながら、拘束が解けて手足が自由になったことに気がついた。一も二もなく逃げなければならなかったが、すくみ上がって震える手をつき、首をわずかに持ち上げるだけで精一杯だった。

「ああ、そんな風に殴るだなんて。拳を痛めてしまうぞ」
「ご心配なく。“仕事”用のグローブです」
「なるほど。お利口さんだな」

 箸よりも重いものを持ったことがなさそうな細指が、犬の血管の浮く太い手首を擦っている。男根にねっとりと絡みつく白蛇のようだった。抜けた腰は役に立たない。腹ばいに地を這う。ぶるぶると慄き定まらぬ腕で前へ前へと、未来待つ扉へ進む。
 温かい声が俺の背中を縫い止めた。

「こら、私を見ていなさいと言っただろう」

 焔と闇の色に包まれた両腕が降りてくる。きめ細やかな肌が、俺の涙を拭って、頬を優しくなぞる。こんな状況にもかかわらず、うっとりと顎をくすぐる指使いに、下腹に熱が溜まりそうだった。横から伸びてきた腕が俺の胸ぐらを掴みあげ、無理やり立ち上がらせる。相変わらず表情には悋気の欠片も浮かべぬ犬が、主人にひたと火焔の瞳を向けている。

「冥土の土産に笑顔を賜るなど、下郎には過ぎた褒美です」
「ふふ。そんなに好き? 私の笑顔」
「大好きですお慕いしています愛していますこの世の何より優れて麗しく慈悲深いマツブサ様のすべてを。一息にはとても表現しきれませんので、あと数日……いえ生涯をかけてお伝えさせていただきますが、まずはこのゴミを片付けないといけないのですよね」
「うんそう。キミ今の聞いたかね? こんな感じで私を好きになってくれたら、死ぬ間際まで満ち足りた気分でいさせてあげられると思うのだが。我ながらいい案じゃないか?そうだ、手でも繋いでいてあげようか」
「ご冗談を」
「そう目くじらを立てるな」

 俺だってこれまでに何人かの命を奪ってきたんだ。奪う覚悟も、奪われる覚悟もできていたはずだった。それでも、今から命を奪う相手を前に、相好を崩して朗らかに会話を続けるなんて、こちらまでまともな神経を失ってしまいそうだった。人の皮を被ったおぞましい化け物ども、俺はそんな奴らに手を出して、返り討ちにされるのだ……。

「……しにたくない……」

 ぽつりと悲嘆が口から落ちた。両膝が激しく笑う。だが立っている。一縷の望みが俺を宙から吊っている。ホムラと呼ばれた死神は、侮蔑さえこもらぬ冷めた双眸で俺を見下している。赤毛の男、マツブサは、誰を彼をも惹きずりこむ底なしの笑みを湛えて、地獄の釜の縁に立つ人間の行く末をただただじっと見据えていた。そのときになって、ようやく飲み込めた。

 ああ、もう、たすからないのだ。

 わかっても必死の叫びは腹の底から湧き上がって、自らの鼓膜をつんざいた。

「……っない、しにたく、しにたくないっ、死にたくないぃ!!! ころ、ころさないでッ、殺さないでころさないでころさないで!!!!」
「いいだろう。すぐには殺さない。私だったら一秒でも長くマツブサ様を感じていたいからな。ましてや最期まで笑ってお見送りいただけるなど、嗚呼、貴様はまたとない果報者だ……」
「あ、あっあっあっあああころっ、ころさないでころっ、ォア゛!!!」

 目にも留まらぬ強力な一撃が脇腹を抉った。息もできずに激痛に身悶える。男は、背を丸めて転がる俺の頭を足蹴にし、赤毛の方に向かせて踏みにじった。顔中から様々な液体を垂れ流す俺を、穢れとは無縁の慈しみに満ちた笑顔が出迎える。後光さす救いの化身、けれどその手はひとすじの蜘蛛糸を垂らす慈悲もない。
 髪を引っ掴まれて上体を持ち上げられる。隣に顔を並べた美丈夫の甘く垂れた双眸が、赤毛の躰にうっとりと孕ませるような視線を捧げて、返す瞳で路傍のゴミでも見るかのようにこちらを一瞥、掴んだ頭部を地に叩きつける。また蹴り転がされて、赤毛の姿を目の当たりにさせられる。
 容赦なく振るわれる暴力、笑顔の拝謁を赦される恩寵、繰り返される、死ぬまでずっと。
 意味を成さないうめき声が、ぼろぼろと落ちて崩れた。赤毛は、それにすら耳を傾けてくれている。
 男が、片足をゆっくりと後ろに引いた。

「光栄に思え、そして出来うる限り生きてその身に刻むといい」

 びょうと風をきる音。目の前が真っ赤に染まった。



**********



 犬が拳を振るうたび、俺というちっぽけな人間から、人の尊厳が剥がれ落ちていく。
 急所を外されて、殴られ、蹴られ、赤毛の方を向かされる。永遠に続く責め苦の中を、赤毛に見守られるなか、生かされ続ける。信じ難いことに、犬はそれを、これから死にゆく者へのせめてもの手向けと、心からそう捉えているようだった。もしかすると、悪行の合間に善行を積んでいるとさえ思っていたかもしれない。そもそも、悪行だと思っている素振りはなかったが。

 気が付くと、黒い革靴が目前にあった。赤毛の足だ。暴力の嵐がすいと止む。ずっと傍観を決め込んでいた赤毛が、屈みこんで俺の両頬を手のひらで包み込んだ。甘やかな笑顔が近づいてくる。この人も俺を殴るんだと絶望に目を瞑ったら、天国のように柔らかい感触が、切れてぼろぼろの唇に重なった。恐る恐る瞼を開く。至近距離で、赤毛がはにかんでいる。「キスしちゃった。ホムラ以外の子と、はじめて」そう言って、淫猥な処女のように頬を染めて、愛する犬に熱い眼差しを注いでいる。もはや怖いものなどない俺も、その視線の先を追いかけてみた。すると。

 犬の口元が、激しく引き攣っていた。

 初めて表情を崩したなと、なぜだかとても愉快な気持ちになった。
 それもすぐに、早く殺して欲しいと縋る心地にとってかわった。
 こんなにも執拗に徹底的に、憎悪と殺意のこもった拳を振るわれているというのに、決定打というものは、なかなか与えられないものだ。



**********



 何度目の意識喪失で、何度目の覚醒だったろう。
 目の前で、冥府の犬どもがひとつになって蠢いている。
 ──死体の横でおっぱじめるなよ。急にすっきりと晴れ渡った意識で、ふと思ったのはそんなことだった。自分という存在が床にでろりと、汚泥のように広がっている。しかし、まだ生きていた。死に体と表現するにふさわしい有様でも、かろうじて機能しているらしかった。
 どうにもまったくついてない。地獄の責め苦は終わりを迎えたようだというのに、走馬灯さえ過ぎることなく、おぞましい野郎どものセックス(それも騎乗位!)が人生の見納めになるなんて。
 獣たちの交尾を見つめる。尻の穴にぶっとい逸物を突っ込まれて揺さぶられているにも関わらず、赤毛の男は恍惚と蕩けた表情で、つんと尖りの主張する胸をなまめかしく反らして快楽を貪っている。横たわる若い男は、身に乗せた痩躯……とはいえ長身の赤毛の腰をがっつり掴んで、下からがんがんに突き上げて雄々しい唸り声をあげている。瑞々しい肉体を玉の汗が伝い落ちるのが見えた。ちょっとしたお散歩ぐらいの感覚で、ご主人様の下からの眺めを満喫しているのだろうか。どんな膂力をした化け物だ。さすが、いちばんに可愛がられる犬の体力は無尽蔵だと、しみじみ思った。
 美しい獣の鉄面皮もご主人様の痴態の前には剥がれ落ち、蹂躙しているように見えて、めいっぱい可愛がられてずぶずぶに溺れきっている。それでもなお、もっともっとと際限なく愛をねだって、千切れんばかりに尾を振るグラエナ。それを当然のごとく受け入れて、致死量の愛を注いで可愛がる赤毛のご主人様。
あんな風に己の全てを受け入れられてしまうのは、すべてを奪われるのと変わらない。
 心酔、陶酔、手綱を締められて主人になにもかもを捧げるけだもの。俺はそんなやつの、ぴかぴかに輝くご主人様に手を出したのだ。ころされるのも、むりはない……。

 震えが止まらない。
 痛くて寒くて、残り少ない歯の根があわない。

 凍えそうに寒いのに、冷や汗が止まらない。べっとりと水分を含んだ服が重く張り付いている。一衣纏わぬ赤毛の肌は艶やかに紅潮して、しっとりと汗ばみ輝いている。人肌が恋しい。しなやかにくねる美味そうな腰、手を伸ばせば届きそうなのに、腕はちっとも上がりやしない。もはや四肢の感覚すらなかった。いたい。息が苦しい。いたい。いたい? いたいってなんだったろう。
 骨の砕けてひしゃげた身から、ひゅうひゅうとか細い息が出る。もはや咽び泣く気力さえなかった。内側からじわじわと終わりに蝕まれていく。
 生きた血を全身にほとばしらせる激しい交尾を見せつけられて、淀んだ血を吐き出して冷たい地面に横たわる俺。惨めで、みっともなくて、寂しかった。まぶたを瞑っても、そこにあるのは底なしの暗闇だ。そんな侘びしいものよりは、愛しあう彼らの姿を見ていたかった。
 あえかな吐息に喘ぎ、悩ましげに犬の名前を紡ぎながらも、赤毛はかわらず極楽浄土の微笑みをそのおもてにのせている。ずっと、笑ってくれている。
 約束、ちゃんと守ってくれるんだ。
 俺のこと、幸せにしてくれるんだ……。

 ぽろぽろと目から感涙が零れて伝った。篝火のような赤毛が闇を舞う。それはきっと温かいに違いないのに、情熱的に燃える赤糸の隙間から、一千度の愛を失った漆黒の溶岩がぎょろりと俺を射抜いた。

「ホムラ、待て」

 いっとう忠実で利口な犬は、ぴたりと腰の動きを止めた。白いうなじをつるりと汗が滑り落ちていく。赤毛が、己を掴む男の手に自らの手のひらを重ねて、ゆっくりと腰を下ろしていく。じれったく前後に揺すってあやし、最奥まで犬を咥え込んだとき、ひときわ艶やかに笑んだ。ずっと、俺に、目を向けたまま。

「驚いた、まだ生きてるぞ。ンっ、ふ、ほむら、お前は、おもちゃで遊ぶのがうまい……ッ、楽しめたか、なあ? っあ、いいっ……」
「は、マツブサ様と睦み合うひとときに、勝るものなどございません」
「ふ、ぁハっ、与え甲斐のない犬だ」
「お情けをかけていただいたあの日から、しゃぶりつくす骨はひとつと決めています」
「っあ、ン……いい子だ。おいで、思う存分味わいなさい」
「っ、マツブサ様っ……」

 若い男の胸に、赤毛が蕩けるようにしなだれかかる。性急に腹の上の赤毛ごと身を起こした犬が、放り投げた外套の上に主人を押し倒してのしかかった。余裕も理性も飛ばしたケダモノ、けれどご主人様に触れる手だけは、人を殴り嬲り蹂躙し尽くしたものだとはとても思えないほどに、恭しく慮りに満ちていた。
 冷たい石床に、赤髪が乱れ散らばる。脚を掴まれ大きく開かされた男が、重機のような雄にめちゃくちゃに穿たれて、善がりきった嬌声を響き渡らせる。白いうなじがぐっとのけぞる。仰向けに揺さぶられている赤毛の首が、ゆっくりとこちらを向いて、にんまりと嗤った。最期の最期で、これまで見せた優しさを裏切るような、直視するだけで全身が爛れるような笑みだった。
 俺のために笑ってくれるんじゃなかったのかよ。そうか、愛犬を見せびらかしたいだけだったんだな……。

 地獄の業火、灼熱のマグマは、ひどく冷たい。

 人生初の知見を得て、そこで俺の輝かしい人生というやつは、綺麗さっぱり幕を下ろした。




back

一生私だけのグラエナ


 煮えつくような夏の日、ホムラは畢生の主君に出会った。

 青雲は足早に流れゆき、熱風が肌を撫でていく。
 大小の石にとられる歩みは遅く、未だ遠い山頂を背にして振り返った麓の町並みは、さほど彼方へ離れていなかった。
 太陽照りつける活火山、それもロープーウェイの張られた山など、徒歩で登り始めるものではない。
 ホムラは深い溜息をついた。
 えんとつ山には元来さほど興味もない。好き好んで登ろうはずもなく、背に重くのしかかる遺恨を断ち切るために、お天道様へ伸びる道をひたすらに歩き続けていたのだった。
 ふと、腰に下げたホルダー上でモンスターボールが揺れた。透ける赤色越しに、相棒のグラエナが何か言いたそうにこちらを見上げている。この暑さだ、他にトレーナーの影もなく、ボールに入れたまま数時間は経っただろうか。彼がポチエナの頃からずっと一緒にいる仲だ、隣り合って進めばきっと楽しい旅路になった。けれど、自慢の毛皮に覆われた彼を、灼熱地獄に道連れにはしたくなかった。
 顎を大粒の汗が流れていった。再びボールが揺れる。暑さに参っているホムラを案じているのかと思い、安心させるように笑いかけたが、とうのグラエナは目もくれず、前方に向かって牙をむいていた。
 視界の端に黄色が映える。首を巡らすと、そこには――のんびり寝そべるドンメルがいた。
 沈んだ気持ちがほのかに上向く。こちらに気づいた様子はなく、ぐっすりと寝入っているようだった。手持ちが増えれば気分も晴れようと、片手に空のボールを構える。弱らせるまでもないこの無防備さ、一発で捕まえられれば万々歳だ。
 意気揚々と振りかぶった、その瞬間。
 低く涼やかな声が、真昼の空気を凛と覚ました。

「待ちなさい。その子は私のものだ」
「!?」

 ――空振った!
 慌てて振り返る。果たしてホムラの手元を狂わせた何者かは、十数メートルほど離れた所に立っていた。
腰に手を添え、こちらを見据える細身の男。一見して、とても派手な出で立ちだった。
 肌をさす陽射しのもと、いかにも暑苦しい焔色の長衣を見につけて、汗ひとつ浮かべていない。服の上からなだらかな線を描く細腰を視線でなぞりあげると、きちりと上まで詰められた襟の上、几帳面に整えられた燃えるような赤毛が鮮やかに目に映った。そして、ひたとこちらを貫く強いまなざしに見惚れて、ホムラはその場に縫い止められた。
 自信あふれる、人の上に立つ者の佇まいだ。美しい、と思った。出会ったばかりにも関わらず、男の気品に満ちた眩さに、心までくらんでしまう心地がした。
 この人を捕まえたい。ドンメルを見つけた時の高揚と比ぶべくもない衝動が口まで出かかったいよいよそのとき、まぶたを伝い落ちた汗が美しい男の姿を滲ませて、ホムラを正気に立ち返らせた。
 頭を振って睨めつける。とても横取りなぞする無法者には見えないが、不躾にも相手は先ほどドンメルを自分の獲物と宣った。見つけたのは己が先だ。いちトレーナーの誇りにかけて、譲るわけにはいかなかった。

「わたしません!」
「……ふむ」

 相棒の入ったボールを手に、じりと両足を開いて構える。
 雰囲気だけみれば、赤い男は手練に見える。どんなポケモンを繰り出すだろう、果たして自分に勝機はあるか……。
 手のひらがじとりと湿った。静かに佇んでいた男が、無言のまま脚を踏み出した。
 じゃり、ざり、山道に不似合いな磨きぬかれた革靴が、こちらに一歩、また一歩と近づいてくる。敵意を感じさせない足取りで、けれど眼差しはホムラを呑んでしまうほどに燃えている。
 ふと、彼の美しい瞳が細められ、くちびるが涼やかに弧を描いた。王者のしるしとはかくあるべしというような、相対する若者を怯ませるには過ぎた仕草だった。
 ひときわ大きな足音が間近に響いて我に返れば、相手の端正な顔つきがつぶさに観察できるほど、距離を詰められていた。息もできずに心奪われる。
 ボールごとホムラの手を包むように、細い指がそっと覆いかぶさった。

「人のものをとったら泥棒。君は、悪い子かな?」
「……は?」
「大切な子だ。捕まえられたら困ってしまう」

 くすくすと甘い声が耳に届いた。笑い方まで優雅な方だ、と余韻に浸る間もなく、言葉の意味を理解して一気に血の気が引いた。
 男と一匹を交互に見やる。この状況でなおくつろぐ鈍感ポケモン、こいつはまさか野生ではなく……。

「こ、このドンメルは、もしかしてあなたの……」
「うん? そうだとも。言ったろう、私の子だよ」
「し、失礼しました! 野生と勘違いを……!」
「おや、そうだったのか」

 勢いよく上半身を折り曲げる。ボタボタと地に落ちたのは冷や汗だろうか、それほどまでに底冷えした心地で、それでもうっとりとなぞられた五指は熱を持つようだった。たおやかな指は宙をなぞって、彼の腰元へ帰って……いかずに、口元に運ばれたようにも見えたが、謝意を示す最中に確かめるべくもない。

「外に出していたのが紛らわしかったかな。こちらこそすまないね」
「いえ! 本当に、とんだ失礼を」
「そう畏まらないでいい。顔を上げたまえ」

 深々と下げた頭にかかる声はどこまでも温かい。あまりの失態に頭を垂れたまま彼の靴先を見つめていると、長衣の裾を食んでいるドンメルと目があった。いつの間に目を覚ましたのか、無表情に裾をもぐもぐと咀嚼して、男もそれを止めることなく遊ばせている。ドンメルの堂々たる立ち振る舞いがある意味では男そっくりで、緊張が少しだけ和らいだ。

「ふふ、もう気にするな。勘違いならしかたがない。だろう?」
「は……申し訳ありません」

 恐る恐る顔を上げると、にっこりと花咲く笑顔が視界に飛び込んだ。ちょいと小首を傾げて、上目遣いにホムラを見ている。

 ……可憐だ……。

 心臓に深手を負った。無礼を働いたトレーナーに対して怒気のかけらもなく、燃ゆる瞳にはいまや慮りの色さえ浮かべて、なんと寛大で愛らしい人だろう。
 手にしたボールを腰のホルダーに戻す。さきほど中のグラエナが見えたのだろう、「美しい子だ」と、それこそ美しく在る彼が慈しむように呟いた。

「グラエナを連れているトレーナーに悪人はいない。私の持論だ」
「そ、れは……いえ、ありがとうございます」
「そうだ、君の自慢の子とポケモンバトル! ……といきたいところだが、今の手持ちはこの子だけでね。むやみに弱らせたくはない」

 照れた風に頬をかく様もまた麗しい。緊張をほぐそうと配慮してくれているのに気が付いて、ますます心打たれたホムラはすっかりこの人に参ってしまった。

「手持ち一匹でこんなところまで?」
「ゴールドスプレーをたくさん撒いてきた。効果覿面だ」
「どうりで野生のポケモンを見かけないと……。それは周囲に撒くものではなく、ご自身の身体にかけるものですよ」
「そうなのか。物知りなんだな、君は」
「いえ……」

 トレーナーなら知っていて当然だ、と返そうとして、湧き上がった不自然さを飲み下せずに言い淀んだ。
 そんなことも知らないトレーナーが、ロープーウェイも利用せず、わざわざ危険な山道を登るものだろうか。人っ子一人見ぬ炎天下、登山に縁遠い革靴で、そもそもホムラを諌めた時だって、この人は突然現れたように見えた……。
 口をつぐんだホムラをよそに、彼はすらりと高い背をかがめてドンメルの頭を撫ではじめた。優しくポケモンを愛でる手つきに、なんだかいけないものを見ているような気になって、けれど桜色の爪をのせたたおやかな指に惹きつけられて、視線をそらすことも能わない。所作ひとつとっても幽艶だ。そんな人が荒々しい火山道にひとり佇む姿は、いっそ薄気味悪ささえ感じるようだった。

「こんなところで、何をなさっていたのですか」
「君の方こそ。……と言いたいところだが、まあいい」

 怪しいのはお互い様だ、と続いた言葉にドキリとする。いぶかしむ気持ちがお見通しだったことにも、素性を探るような返しにも、咄嗟に言葉を返せなかった。けれど彼は相も変わらず気にした様子を見せないで、ドンメルに向けていた微笑みをそのままこちらへ投げて寄越した。

「ひみつきち」
「え」
「掘ってみたのだ。君にもあるだろう、ひみつきち」

 ひみつきち……。
 高貴さを漂わせる男にはまるで似合わない代物だが、幼い頃ぬいぐるみやらを持ち込んでは遊んでいた、あれのことだろうか。上品な唇が紡いだ幼稚な響きがかえって淫猥な印象を抱かせて、なんだか尻の座りが悪い。

「はあ、昔木の上に作ったような気もしますが……こんな山の中に?」
「こんな山の中にだ。うまくできたのだが、このままでは君に見つかってしまいそうだなぁ」
「このあたりですか」
「どうだろう」
「あ。……もしかして、あそこの隙間」

 男の肩越しに臨む積み重なった巨岩群、そこにバクーダが通れそうな程の大穴を見つけた。奥の様子は窺い知れないが、周囲を見るに中はそこそこの広さがありそうだ。

「もう見つけたのか? 目がいいのだね」
「うーん。いえ、あれ隠す気ありますか?」
「あんまりないよ」

 明け透けな様子に肩透かしをくらった気持ちで視線を向けると、にこりと笑みを返された。邪気も裏表もなさそうで、それがかえって、どうにも怪しい。
 見つけてくれと言わんばかりに空いた穴。男の「ひみつ」に食いついて足を踏み入れた途端、ウツボットのようにぱくりとひとのみにされるのだろうか。物盗りには見えないが、なんにしたって弱者を狙えばいいものの、自分より体格の優れた男を誘い込む意味、そんなの、そんなのは……。
 ひみつきち、暴いてしまって、よいのだろうか。
 ちらと誘うような流し目を受けて、好奇心が膨れ上がった。ごくりとつばを飲む音に、男の柔らかな声音が被さった。

「よかったら招待しよう。ついておいで」
「ぜひ」

 外面もなく即答した。彼は目を瞬かせて、そうか、と嬉しそうにひとつ頷いた。ドンメルが胡乱げな顔でホムラを見上げている。誘ってくれたのは君のおやなのだから、何らやましいところはない。……はずだ、と、目配せしてみたが、通じているのだかどうだか。そいつは新たに仲間に加わったホムラに鼻を鳴らして、自らのおやを先導するようにぽてぽてと歩き出した。
 行こう、と男が言って、赤衣をひるがえす。しゃんと伸びた背筋が、相変わらず場違いに涼しげだった。
 ゆっくりとした足取りに着いていく。怪しすぎる誘いだが、この人に迎え入れてもらいたいという気持ちが勝った。
 男の名前を、男のことをもっと知りたい。逸る心が踊りに踊って、ホムラの足を進ませる。

「あの、あなたは」

 言いかけて、前を歩く男がこちらを振り返ったとき、突風が身体を打った。
 丁寧にくしけずられた赤い髪が、風にすくわれ宙を舞う。思わず見蕩れていると、彼の長衣の裾が風に煽られて大きくはためき、細い足がたたらを踏んでぐらりとよろけた。

「危ない!」

 考えるより先に体が動いた。とっさに駆け寄り、正面から強く抱きとめる。ぎゅうと両腕にしまいこんだ痩躯は見た目よりはるかに華奢で、ホムラは内心大いにたじろいだ。このまま手を離せばすぐさま風にさらわれてしまいそうで、恐ろしさが額の火照りを少し冷ました。

「助かった、礼を言う」
「……いえ」

 威厳を感じさせる物言いで、ホムラにすがりつく腕は幼子のようにか弱い。人を、ましてや男性を儚いと感じるのは初めてだった。こんな細腕でトレーナーが務まるのか、という逡巡より強く、守って差し上げたいと、本能が囁いた。ホムラは、急に芽生えた己の気持ちに困惑した。ただ、未だ風がびょうびょうと吹きすさぶなか、この人を手離すわけにはいかない。それだけは確かだった。
 ふと、背に柔らかなものが置かれたのを感じた。彼が背中に腕をまわしたのだろう。感謝の意でも込めているのか、ひとつ、ふたつ、するすると優しく撫ぜられる。今更になって、ホムラは自分が汗だくに濡れそぼっていることを恥ずかしく感じた。薄手のシャツはすっかり背中に張り付いている。不快だろうに、麗人の手のひらは何の惑いも見せず、濡れた背の上をゆっくりと往復している。
 所在なく彼の顔を見返すと、赤髪の男はおよそ庇護されるべき弱さの感じられない顔つきで、よくできましたと愛おしむように、ホムラだけをその瞳に映して微笑んでいた。

「君はいい子だ。過ちを詫びることができ、人を助けることもできる。私はそういう人間が大好きだ」
「は……」

 どくんと鼓動が高鳴った。思わず、抱きとめる腕に力が入る。男は抗わず、それどころかホムラの汗みどろの首筋にくちびるをすり寄せて、あえかな吐息で若い雄をくすぐった。

「ふふ、すっかり心奪われてしまった。きみ、名はなんと言う?」
「……ホムラ、です」
「そうか。よい名前だね。私はマツブサ」
「マツブサさま……」

 爆発的に暴れる鼓動はきっととうに伝わっている。それでも、極上の彼は腕の中、隙間なく密着したままだ。吐息の触れたところから血潮がガンガンと燃え上がり、逸る気持ちを抑えられずに呼吸が荒くなっていく。
 そんな興奮する若者の濡れた首筋に、マツブサはやわいくちびるをぺとりとくっつけて、ちろ、と、熱い熱い小さな舌で、すくうように舐めあげた。

「っ……!!!」
「ん? しょっぱくない」
「なっ、い、いきなり、なにをなさって……!」
「ふむ。滴るほどだから、どんなものかと思ったが……」

 うちゅ。首筋を食まれる。一回では飽きたらず、彼の舌が大胆にホムラの首筋をねぶりだした。全身がビリリと麻痺したように動けない。楚々としたくちびるが、鎖骨から、赤く染まった耳の下まで優しくなぞり上げていく。太陽が、空気が、彼に舐められた素肌が、轟々と燃えている。
 震える手をマツブサの後頭部にまわすも、撫でるような弱々しさで御髪をくしゃりと掴むことしかできなかった。

「親愛の証に。ポチエナがよくやるだろう。知らないかね」

 ポチエナがこんないやらしい舐め方をするものか!
 声にならぬ声を上げたホムラの耳の付け根に、ちゅうと軽いリップ音を立てて唇が吸い付いた。肩が跳ねる。ご丁寧に背伸びしてまですがりついてきたマツブサが「こんなふうに」と呟いて、それはそれは熱く甘ぁく耳朶に噛みついた。

 きゅうしょにあたった!こうかはばつぐんだ!

 変態だ!!と騒ぎ立てる心と、遊び心がお強い方なのだ!!と庇い立てる心がぶつかりあって、とにかくエッチだ万歳!!!という万雷の勝ち鬨がホムラの脳裏いっぱいに轟いた。

「マツブサさま!!」
「んぅ」

 好き勝手にあぐあぐと耳を食む彼を引っぺがす。きょとんとした表情に毒気を抜かれる前に、襟から生える細いうなじにかじりついた。

「わっ……こら」
「グラエナの親愛の証をお返しします」

 頬をくすぐる襟足をかき分けて、うなじから耳の裏まで、一切の遠慮なくねぶって味わう。仄かに感じた石鹸の香りは甘露めいて、ますますホムラを昂ぶらせた。自分から仕掛けてきたくせに、マツブサは戸惑った様子でホムラの背をぎゅうと握って息を詰めている。逃げを打たれないよう両腕で柳腰を引き寄せて、真白いうなじに歯型が残るほど強く噛みついた。「んっ」とかすかな嬌声があがる。白い肌が淫靡に紅潮していくさまにホムラは笑みを深くして、打って変わって優しくついばむように何度も何度も口付けた。

「っあ、くすぐったい、ホムラ……」
「マツブサさま……」

 しっぺ返しを食らわすように、執拗に肌理細かな素肌を堪能する。親愛などという言い訳が立たぬほど口づけを降らせ、強く吸い上げ痕をつけても、マツブサは喘ぎ声をあげて身動ぐだけで、ろくな抵抗を見せなかった。それどころか首を大きく傾けて喉元を晒すさまは、もっともっとと男を誘っているかのようだ。

「あ、ホムラっ……、も、もういい……っ」

 今にもとろけてしまいそうな吐息が耳をくすぐった。抱きすくめた躰は羞恥に震えており、けれど両腕は広い背に縋り付いたままで、やめないでと請われているようにしか思えない。

「いけません。まだです、マツブサさま」
「んっ……、も、しつこいっ……!」
「ご存知でしょう。それがグラエナのいいところです」

 ボールの中のグラエナは、きっとホムラの突然の求愛行動に呆れ返っていることだろう。
 ホムラはきつく首筋に吸い付き、一旦唇を離してマツブサの痴態を眺めてみることにした。ひどく恥じ入った様子で閉ざされた瞼に反して、薄く開いた唇からはとても美味しそうにぬかるんだ赤色がのぞいている。指を突っ込んでみたらわけもわからずしゃぶってくれそうだ。
 そんなことを考えていたら、攻勢がやんだと思ったのか、そろりそろりと彼のまつ毛が持ち上がった。徐々に姿をあらわす潤んだ瞳に、可愛い人だな、と思って、微かに兆した己のものを彼の股間に押し付ける。途端にマツブサの目がぎょっと見開かれて、視線が交差したのを合図にホムラは彼の唇を奪った。

「んぅ! ん!」
「ふ……」

 太い腕で彼をがっちり抱き寄せ密着する。身体はさすがに柔らかいとはいかないものの、あわせた唇は極上のくちどけでホムラの熱を抱きとめた。薄いがふにふにと柔らかい感触を楽しむように、ふたつみっつ啄むようなキスをする。マツブサが不慣れなのは一目瞭然だが、抗い方さえ知らないらしく、のけぞる頭を掴んでしまえば、この非力なひとは若い男の陵辱から逃れる術を持たないようだった。
 無防備にも目をつむったままの彼の下唇を己の唇で優しく食む。吐息とともに開いた隙間にそろりと舌で押し入って、ひときわ戦慄いた身体に拒む隙を与えぬうちに、一気にぬるりと侵入を果たした。

「ア、んふ、ぅっ!?」

 腕の中の身体がびくびくと震える。いとも容易くホムラの熱を迎え入れた口腔は負けず劣らず甘い熱に満ちており、うぶな舌がホムラの舌に絡んで濡れた音を立てた。こんらんしきって伸ばされた舌を優しく吸う。驚いたのかすぐに逃げ帰られてしまったが、そのまま裏側を辿って絡めあい、歯茎を撫でるように刺激する。

「んっ、ン、んむ! は、ァあ……っ!? ふぁ」

 腰を押し付け揺らしながら、マツブサの上顎を舌先でくすぐると、凄まじく感じ入った嬌声があがった。これほど気持ちよさそうに鳴かれると男冥利に尽きるな、と思う自分もまた、快楽を享受するマツブサに骨を抜かれかけている。
 一度口を離して唇を食むと、「ん、んっ……」と鼻にかかった声が漏れて、ホムラは改めてマツブサのなかに舌を差し入れた。燃える内側はホムラを歓迎するように濡れそぼり、若い雄はますます昂ぶりを増していく。

「ふぁ、あっ、あ、はぁっ……んむっ、」
「ん、……っは」

 鼻で呼吸することもままならないのか、マツブサは激しく息を荒げている。無我夢中で口内を堪能するホムラ以上に恍惚と悦に入っているようで、臀部をわし掴んで引き寄せた下半身が、ホムラの熱に甘えるように擦りつけられた。
 たかがキスひとつ、だのにこれほどまでにマグマがごとき熱を孕んだマツブサの身体に溶かされて、とろけて一つになりそうだった。可哀想なほどぜえぜえと上がった息が限界を訴えているけれど、上顎への刺激にたいそう弱いらしい彼の反応が可愛くて可愛くて、ホムラは意地悪に丁寧にマツブサの口内を犯し続けた。

「っあ、はぁ、はっ、ゃ、もっ……んぅ!」

 とん、と、ごく小さな振動が背を叩いた。マツブサの拳だ。あまりにか弱い抵抗に、唇がきつく弧を描く。これしきの力で男を止められると思っているのだこの人は。なんて慢心、なんて非力でおいたわしい、なんて可愛く愛おしいお方なのだろう!

「もっ、やめっ、なさい……! ん、はァっ、は……!」
「ふ……」

 自分から誘っておいて、淫らに腰まで押し付けあって、いまさら理性に立ち返ろうとは。けれどホムラはその懇願に応えてあげることにした。今いっときの我慢など易いもの、己は獲物を逃しはしない。

「マツブサ様」
「や、ン……ふ」

 ダメ押しに甘やかすようなキスをひとつ、わざと音を立てて解放した。細腰は抱き寄せたまま、吐息の触れる距離から紅潮した顔を覗き込む。マツブサは肌という肌を真っ赤に染め上げて、唾液にてらりと濡れたくちびるから、ハアハアと熱い息をこぼしている。ホムラの胸にそっと片手を置いて距離をとろうとしたようだが、追いかけるように覆いかぶさると、マツブサは快感に染まった表情を隠すようにふいと顔を反らして、それ以上の抵抗をやめた。
 上気した頬に思わず唇を寄せると、キッと眦を吊り上げた涙目の彼から「こらっ……!」とお叱りをいただいてしまった。ホムラの口を弱々しく手で突っぱねて威嚇する様子がまるでエネコのようで、この方はこんなに男を煽る質で大丈夫なのだろうかと思いながら、それはそれとして手のひらをべろりと舐め上げた。

「ひゃ!」
「親愛、感じ取っていただけたようで何よりです」
「うっ、はぁっ、は、くっ……この、おまえ」

 ぎゅっと握りしめて拳を避難させる姿はやはりエネコのようだ。薄い肩は呼吸とともに激しく上下して、こちらを睨めつける真っ赤な目元は威厳よりも初々しさが勝っており、弱り切った獲物さながらに愛らしい。
 頭から食ってしまいたい、と本能が囁いた。それだけじゃない。大切にしたい、押し倒したい、お守りしてさしあげたい、いますぐ俺のものにしたい……。次々に湧き上がる庇護欲と加虐心めく愛欲が、日照りより強烈に身を焦がしていく。
 茹だるような外気のなか、生々しく抱き合ってますます熱を上げて、けれど自分ばかりが欲に溺れているような、この目に彼の痴態はとても清らかに光って映る。
 ホムラは精悍な面差しで、マツブサの涙目を真摯に見つめた。彼はグゥと子犬のようにひとつ唸って、そっとくちびるを震える指でなぞって睫毛を伏せた。薄い唇がはくはくと開閉し、懸命に何か言わんとしている。
 落ち着くまでゆっくり待つつもりで、乱れた彼の赤髪を指で優しくすくって耳にかけると、それにさえ気持ちよさそうに目を細められてしまって、生殺しの今が非常に辛くなってきた。
 厚い胸に置かれた手が、ホムラの服をぎゅっと握りしめた。

「……し、親愛、どころじゃ……なかった、ろう、っふ……いま、の」
「はい」
「……こ、こんなの……は、はじめて……でっ……」
「はい」
「こんな、いっ、いけな、のにっ……く、」
「マツブサさま……」

 荒い呼気に混ざってたどたどしく繰り出される言葉が、ホムラの心臓を貫いていく。互いの鼓動が混ざり合って、押し上げる熱がはちきれそうだ。
 はぁ、と熱い吐息が素肌を撫でた。マツブサは眉間に少ししわを寄せ、けれど口角を持ち上げて微笑むと、うっとりと呟いた。

「……き、きもちよかった……」
「……!! っは…………!!!」

 おあずけ食らわしておいてなんだこの人は!
 密着する身体をさらに掻き抱いて、ホムラはマツブサの唇に再び食らいついた。びくんと跳ね上がる身体は正直で、張り詰めた熱が太ももにあたる。キスだけで達してしまうのではと思うほどマツブサはとろとろに蕩けていたが、ホムラは小さく形良い尻を両の手で掴んで揉みしだきながら、股ぐらに差し入れた脚を強くこすりつけるように揺り動かして、互いの快楽を追い求めた。
 ――声が聞きたい。彼の楚々としてみだりがわしい嬌声に溺れたい。名残惜しくも離した唇を強く首筋に押し付けると、願ったとおりマツブサの口から溢れんばかりの嬌声が飛び出した。

「あっ、ぁ、ほむら、だっ、だめ、ア、ァ、も……」

 もどかしい、肌に張り付く服を取っ払って直接愛し合いたいと焦れるホムラに反して、マツブサはたどたどしく腰を揺らしながら、悦に入った声をひっきりなしにあげている。限界の近さを確信し、ホムラは真っ赤な耳に直接熱い吐息を吹き込んでやった。

「いいですよ。ほら、マツブサ様……」
「あ……! ほむ、ァっ、あぁっ……~~~~~~っ!!!!」

 押し殺せない嬌声がホムラの耳を悦ばせる。マツブサはびくびくといっそう激しく身震いして、絶頂を迎えたようだった。必死にホムラに縋りつく彼の下肢ががくがくと揺れて崩れ落ちそうだったので、臀部を揉む手はそのままに力強く抱きしめ直す。汗やらなんやらで二人ともぐちゃぐちゃだ。己は未だ射精に至っていないが、それでも、やりきった気持ちに気分が満ち足りていくようで、自然と笑みが浮かんだ。

「っく……っは! はぁ、はっ、っあ、あっ……ぐ、うぅ~っ……」

 腕の中ではふはふと整わぬ息をこぼしているマツブサを見つめていると、これ以上を求めるのは酷だなと思って、ホムラは自分自身に二度目の我慢を強いた。よし、来るべき時にぺろりと美味しくいただこう。
 マツブサの扇情的に紅潮しきったかんばせを、ほろりと一筋の雫が伝い落ちた。ぐすんと鼻を鳴らして、叱られている時のポチエナのようなきまり悪そうな表情をしているから、大変お可愛らしかったですよと慈しむつもりで頬を撫でると、彼はぼすんとホムラの胸に顔を埋めてぐるぐると唸りだした。

 ……かわいい。かわいい!かわいい!!!

 なんだろうこの生き物は。全身が煮えたぎり、胸にぴとりとくっつく悪い人を今すぐモノにしたい衝動が身を焦がす。初対面でこの威力、この人にかかれば、どんな休火山だって大噴火イチコロだろう。
 そうだ、初対面だ、と今更ながらに思い出した。見知らぬ若造にこんなことまで許してしまって、あまつさえバツの悪さを漂わせつつもなんだか嬉しそうに胸板に頬ずりをしている始末で、大丈夫なのだろうかこの方は。心配でたまらなくなってきた。
 徐々に呼吸が落ち着いてきた様子のマツブサは、胸板に額をくっつけたまま、もごもごとなにやらか細い声で囁いた。よく聞こえなかったので、至極丁寧に顎をすくって顔をあげさせる。お目見えした美しい瞳はあっちへこっちへ泳ぎまわって、一度ぎゅっと瞑られた瞼の下に姿を隠したが、再びまみえた時にはしっかりとホムラに熱視線を浴びせてくれた。
 引き結ばれた唇がしどけなく開いて、恥じらいに染まった言葉がこぼれだす。

「す、すまないホムラ、醜態を晒した……」
「ご満足いただけたなら光栄です」
「いや、だがその、君はまだ」
「お気になさらず。我慢できますから」
「うぐ。む……す、すまない……」

 自分だけ気持ちよくなってしまった、なんて罪悪感を抱いているのであろうその表情を見つめながら抜いてもいいですか、と喉まで出かかったが、格好悪いにも程があるので飲み込んだ。代わりに、負い目の分だけ付け入る隙をくださってありがとうございます、と心のなかでほくそ笑む。
 びょうと一際ぬるい風が吹いた。ふうと一息ついて、彼の乱れた御髪を指ですいて整える。綺麗な赤髪は何度撫で付けても毛先がぴょんと外に跳ね、こんな末端までお可愛らしいのだな、と愛おしさが際限なく湧き上がる。
 ぽつりと「そ、そろそろ離れないか……」なんて呟きが聞こえたが、ホムラの汗濡れの肉体が不快だという意味ではなさそうだし、なによりまだいつ強風が吹くかわからないので「早計ですよ」と進言した。
 そうして数秒、両者無言で見つめ合う。するとマツブサは、またしてもいやいやするエネコのように両腕を突っ張って距離をとろうと身動ぎしだした。もちろん手放すつもりはないし、なにより胸板を押す腕がか弱すぎるので、ホムラはびくともしなかったが。
 無言のまま微笑んでいると、マツブサもまた押し黙ったまま眉尻をへにょんと下げて、潔く脱出を諦めた。
 涼やかな彼の頬にやっと伝い落ちてきた一筋の汗を、ちゅうと口付けた唇でぬぐう。「うぁ」とあがった悲鳴に心和ませつつ、向かい合っていた身体をやにわに離して真隣に並び立った。エスコートするように腰にまわした腕の強さは変わらず、引き寄せた身体は大人しくこちらに寄りかかっている。
 目前のひみつきちを見やると、二人とそちらの中間地点をドンメルがのそのそと進んでいるところだった。

「あ。すっかり忘れてました、ドンメル……」
「我々を待っていたのだ。気を使ってくれたんだろうな」
「いい奴ですね」
「そう。いい子なんだ、私のドンメルは」

 いいなあ、私のホムラと呼んでほしいなあ、とぼんやり思った。
 どうやら一部始終をそばで見守っていたらしいドンメルは、こちらを振り返ることなく大穴に向かって歩を進めていった。砂埃が舞い、地面にドンメルの足跡が続いていく。丸いそれの合間に、三本指の小さな軌跡が続いているのが見えた。ひみつきちに侵入した野生ポケモンでもいるのだろうか。

「……?」
「さあ、早くひみつきちに避難して涼もう。着替えもある」
「この期に及んでお招きくださって大丈夫ですか。さては私に惚れましたね?」
「さっきから言っている、君みたいな子は大好きだよって」
「……………………」

 叩いた軽口に、そんな答えが返ってくるとは思わなかった。無防備な急所を4倍弱点で突かれた気分だ。

「なんでこれで照れるんだ! あんなにすごいことをしておいて!」
「その……嬉しくて」
「き、君なあ……。私まで恥ずかしくなってきた」

 きっといま、自分は耳まで真っ赤になっている。片腕に抱きおさめた人の頬も、熟れて美味しそうな色に染まっていた。それにさえ胸が締め付けられて、もはや冷静に振る舞える自信がなかった。この暑さ、いや、マツブサの甘い体温に頭がやられたに違いない。
 がっちり支えた腰を引き寄せ、二人して照れ照れと、言葉少なにひみつきちへと歩を進める。ドンメルが消えていった闇の中を壁伝いに進んでいると、フラッシュでも使ったのか、ぱっと眩い光に視界をとられ、彼の腰にまわした腕を離して顔に掲げた。光に慣れるまで待つこと数秒、マツブサはやんわり身体を離して、とことこと出入り口付近に歩み戻ったようだった。
 次第に戻ってきた視界で、基地内をぐるりと眺める。彼が「うまくできた」とのたまったそこは、どう見てもただの岩窟だった。
 掘りっぱなしの様相で、荒削りの岩がごろごろと転がっており、落ちているとしか言いようのないクッションがふたつ、それ以外に家具は見当たらない。彼のものだろう鞄が隅に放られているだけで、急ごしらえなのは明らかだった。
 ひみつ基地とは名ばかりで、とても人を招こうと思えるような場所ではない。育ちのよい男なら、きっとなおさら。
 野生の勘が訴える。やはりこの男、めっぽう怪しい。魅力的な人だと思ったが、これ以上の深入りは危ないかもしれない。
 ちらと相手を盗み見る。マツブサは、ホムラから数歩離れたところ、出入り口との間に何の気なしに立っていた。「まあ座りたまえ」と朗らかな声がかけられる。袖振り合うも多生の縁、たまたま招待されただけだと思い込みたくても、彼がわざわざ逃げ道を塞ぐ形で陣取った事実が、日和る思考を打ち消した。
 何が狙いか知らないが、いつでも逃げ出せるようにとクッションの上に浅く座り込む。動きを追うように意外と頓着なく座した彼と顔を見合わせた。やはり表情に邪気はない。
 深呼吸を一つ、ホムラは静かに切り出した。

「私を待ち伏せしていましたね?」
「おや。気づいていたのか」

 さらりと認めたマツブサは顔色一つ変わらない。それどころか、唇は愉快そうに弧を描いて、目尻に皺を寄せさえしている。こちらの手持ちは6匹、対する相手はドンメル1匹。トレーナー自身の体格差も一目瞭然だというのに、ぞっとするほど優位を伺わせる笑みだった。

「登山道にあなたは不似合いですからね。色々と不自然極まりない」
「そうかね。うまくいったと思うが」
「……なにがでしょう」
「まあ、そう急くな。そうだな、あの子たち」

 マツブサがすいと指差した先に目をやると、宙にボールホルダーがぽつんと浮いていた。驚いて注視すると、いきなりぐんにゃりと空間が揺れて、ホルダーを手にした緑色のポケモンが姿を現した。

「カクレオン……!?」
「そう。さすがに知っているか」

 突如現れたそいつに心中で仰天していたが、それよりも大変なことに気がついた。カクレオンが握りしめているそれ、計6つのモンスターボールを装着したホルダー。色といい形といい、いやに見覚えがありすぎる。
 腰に手をやって己のボールホルダーを確かめた。指先が感じるのは布地の感触ばかりで、つけていたはずのそれがない。……やられた!
 背筋にざっと悪寒が走る。いつの間に盗られた?ホムラが彼の躰を夢中で貪っていたとき?彼はずっと翻弄されていたはずだ――いいや、その時しかない。男を煽って自分の躰に集中させて、まんまとホルダーを手に入れたのだ。近くに控えたカクレオンにそれを投げ渡して――あの足跡はこいつか!
 ホムラが獲物だと思っていたその人は、いまや捕食者の余裕を湛えた笑顔で愚かな若者をじいと眺めている。滑らかな手を顎に当て、面白くて仕方がないといった笑みは戯れではない。臨戦態勢をとっているドンメルたちがその証拠だ。
 ぐわんと頭が揺れる。とっさに腰をあげようと動いたホムラを彼の一言が押し留めた。

「おっと、血迷うんじゃないぞ。私が3匹も出している意味、わかるだろう?」
「くっ……さん、びき?」
「ああ、言ってしまったな。もう1匹潜んでいるよ、私のカクレオン」

 洞穴にくすくすと上品な笑い声が響き渡った。今となっては威圧的でしかないその態度、そしてあえて開示された情報は、ホムラにゆっくりと両手を挙げさせるのに十分な代物だった。
 小首を傾げてこちらを見つめるマツブサの表情は、先と変わらず麗しい。こういった状況に慣れているのだと思い知って、背筋にびりりと震えが走る。怪しすぎるどころではない、手を出してよい人ではなかったのだと、間抜けにも釣られてしまった己を恨んだ。少し前まで情欲に鳴り響いていた心臓が、今は緊張感にどくんどくんと高鳴っている。

「……マツブサ様」
「そう怖い顔をするな。なに、とって食おうというわけじゃない」

 マツブサはゆっくりと立ち上がり、走り寄ったカクレオンの手元から、勿体ぶった手つきでボールをひとつ手にとった。彼が選んだそれは、ホムラにとって特別な意味をもつものだった。人に言えない経緯で手に入れたばかりの、そしてわざわざ人目を忍んで山頂を目指す理由そのものの、特別なポケモンだ。
 全身から血の気が引いて、冷や汗がダラダラと流れ出す。

「まんまと私に引っかかってくれてありがとう。嬉しくてついマーキングしてしまったが、それ以上を返してくれて嬉しいよ」

 彼が軽くボールを放る。ボン、と音を立てて、二人の間にポケモンが繰り出された。まず目につくのは凶悪なツノ、それから、攻撃的な目つきに黒い短毛、しなやかな体つきを誇るそいつが、ぐるると喉を鳴らしてマツブサの足元に擦り寄った。ここホウエンではとても珍しいポケモン、ヘルガーだ。

「密猟者ホムラ、私のヘルガーに手を出したのが運の尽きだ」
「…………!」

 そのヘルガーは宵闇の中、冴えない男から奪い取ったポケモンだった。どこかの金持ちの手下であろう男が、いつも決まった時間、決まったルートで散歩をしていた珍しいポケモンだ。男の手持ちは相棒のグラエナたちが軽々下して、顔を見られた記憶もヘマをした覚えもない、いつもと同じ、けれど特別記憶に残る夜だった。
 その証拠に今もなお、対峙した男の言葉がはっきりと蘇る。
 「こいつに何かあってみろ、俺もお前も命はないぞ。ご主人様は末恐ろしい人なんだ」……。
 そして、バトルに圧勝しヘルガーを奪ったホムラに向かって、顔中を涙と鼻水まみれに汚した大の大人が、地面に額をこすりつけて懇願したのだ。「死にたくない!お願いだから、そいつを連れて行かないでくれぇ」なんて、絶叫に近い嗚咽を上げて。必死だな、と一笑に付してその場を去った覚えがある。
 それが、これほど早く、笑えない形で己の身に返ってくるとは。

「私のドンメルは奪おうとしないのに、使用人に預けたヘルガーは安々と奪ってくれて。君、相手を選んでやってるな? まったく、グラエナみたいじゃないか。優れた相手に絶対服従……私は君の目に優れて見えるか」
「は、…………」

 彼の長い脚になつくヘルガーをたおやかな手が撫でる。愛おしそうに嬉しそうに配下を撫でるその指一つに、ホムラの生死は握られている。優雅に、圧倒的に君臨する支配者は、かざした手でヘルガーを後ろに下がらせると、悠々とこちらへ歩み寄ってきた。
 がんがんと流れる血潮が耳を打つ。ホムラにゆっくりと黒い影が覆い被さった。正面に立つマツブサが、ホムラの両頬をなみなみならぬ優しい手つきで包み込み、どろどろの熱を湛えた視線で瞳を覗き込んでくる。あの時の手下の尋常でない怯えようが、今になって身に沁みた。

「山頂に取引相手がいるな。そうはさせない。君の旅はここで終わりだ」
「……殺し、ますか、私を……」
「ころす? ……ふふっ、ははは!」

 額にこつん、とマツブサの額が合わさった。ぎらぎらと燃える瞳に呑まれて瞬き一つできやしない。耳をすりと撫ぜられて、快感とも恐怖ともつかぬものがぞくぞくと体の芯を震わせた。
 にっこりと、マツブサの唇がいっとう慈愛深い笑みをかたどった。

「殺したりなどするものか。君を手放すつもりはないよ」

 言い終わるやいなや、唇を塞がれる。ひとたび触れ合うだけの軽いキス、けれどホムラは食われる、と思った。おさまったはずの熱が、いつの間にか強烈に勃起しているのを自覚した。言葉なく息を乱すホムラを、視界いっぱいに映るその人の聖母にも処刑人にも思える苛烈な視線が火炙りに煽り立てていく。

「録画を見たが、君たちの動きは素晴らしかった。しばらく動悸がおさまらなくなるほど興奮したのは初めてだ。あれほど見事にグラエナたちを複数同時に操る者は見たことがない」
「……?」

 急な話についていけずに数度瞬く。心臓がバクバクとうるさくて、なにを言われているのだかてんで頭に入ってこない。吐息のかかる距離、興奮冷めやらぬ様子で続けるマツブサは、押し黙ったままのホムラの輪郭を艶やかな手つきで撫で続けている。

「一糸乱れぬ包囲網、一切の躊躇も隙もない連携攻撃! 彼らが統率のとれた優れた集団足りえるのは、絶大な信頼をおける優秀なトレーナーがいてこそだ」
「…………?」

 さきほどまであんなに恐ろしく燃えていた瞳が、なんだか夢を見る少年少女のようにきらきらと輝いている。……もしやこれは、褒められている、のだろうか。ホムラは太ももに置いた手で皮膚をつねってみた。普通に痛い。どうやら死の恐怖から白昼夢を見だしたわけでもないようだ。けれども、それならばこの流れは一体なんだ。

「ふふ。呆けているな? ホムラ、君のことだよ」
「…………???」

 ぽかんと薄く開いたままのホムラの唇を、あざとい指先がひとなでして去っていく。打って変わって、末恐ろしいご主人様と称された男らしからぬ穏やかな微笑みは、ホムラの反応を待っているようだった。しかし、一体何を言いたいのだか、やはりどうにもわからない。ぐっと息をのむ。ふ、と彼の笑みが音をこぼした。

「私は君が欲しくてわざわざ先回りまでしたのだ」
「……? 殺されると、思って……違う、のですか」
「殺しに来たわけじゃない。手に入れるために来た」
「……!」

 両頬からゆるやかに離れていった手のひらが、薄い胸にホムラの頭を抱き込んだ。華奢なそこからとくんとくんと鳴る心音が、若者の緊張しきった身体を解きほぐしていく。

「ホムラ、お前はこれから一生私のグラエナだ。逃がしはしないから、今ここで腹を括りなさい」
「一生、マツブサ様のグラエナ……」

 心臓を直に握られたようだった。潰されて血みどろになったかと思うほど心音は暴れたて、全身を多幸感と灼熱が巡り満たして溶けていく。彼とくっついたところから受け入れられて一つになってしまいそうな、そんなすさまじい威力の、抗いがたい命令だった。
 ずっとそうしていたいと思えたが、マツブサはそっと身体を離してホムラの両肩に手を置くと、拒否されるとは微塵も思ってないような、プレゼントの箱を開ける寸前の子どものような表情で、じっとホムラの答えを待っている。その瞳は幾千の輝きに満ちていて、滴り落ちてしまいそうだ、と見惚れた若者は、ほうとため息をこぼして微かに震える唇を動かした。

「……マツブサ様」
「うん。なんだ?」
「今をときめく雄なので、いちばん愛していただけると光栄です……」
「そういう図々しいところ、なかなか好ましいぞ」

 喜色満面、わくわくといった表現が相応しい声音が洞窟の中を跳ねまわる。どっと緊張感が抜けたことでむしろ指先が細かく震えだし、みっともないと思う間もなく、目前のマツブサがそっと腕を広げて言った。

「怖がらせて悪かったね。絶対に逃したくなかったのだ。ほら、おいで」
「は、はい……」
「よしよし、もう大丈夫。ボールも返してあげる」

 格好悪いだなんて今更だ。甘やかしてくれるのなら思う存分甘えてしまえと、ホムラはマツブサに縋り付くように抱きついて、勢い余って地に押し倒した。快活な笑い声が響きわたる。固い地面にこの人を横たわらせるなど本意ではないが、今の己は赤子同然なんにもできない存在だから、仕方がないと開き直った。
 ぽんぽんと幼子に対する手つきが背を叩く。ホムラをダメにしたのはこの人だけど、あやしてくれるのもこの人だ。ガチガチの熱が彼の太ももを圧迫して、「あっ……」と恥じらう声が耳をくすぐった。演技ではないこの二面性、叫びだしたくなるほど凶悪でたちが悪すぎる。

「……離れがたいです」
「わかった。好きなだけぎゅっとしておいてあげよう。そうだ、お互いずいぶん汚れたな。着替えたくはないか?」
「今、マツブサ様の脱衣を見たら、我慢できそうにないです」
「そうか。私も初めてはベッドの上がいいから、帰ったら着替えようね」
「…………」
「またそこで照れる! 本当に可愛いなあ、ホムラは」

 帰る先が一緒、初めてはベッドの上、考えれば考えるほど昂ぶりがおさまらなくなっていく。正真正銘、ホムラはこの人のモノになったのだと、じんと痺れる頭で自覚した。
 死の恐怖を味わうなど、人生で初めてのことだった。それ以上に、心から渇望した瞬間、己をモノにしてもらえるなど、こんな僥倖ほかにあるまい。たまらない心地でぐりぐりと彼の首筋に頭をなすりつけていたら、間近に寄ってきたヘルガーにずつきを食らった。ご主人様と戯れるなら俺も混ぜろと言うことらしい。鋭い目つきに負けじとガンを飛ばす。お前のご主人様は、俺を一番にしてくれたぞというマウントを込めて。……いや、返事はもらってないか?

「そういえば、マツブサ様はなぜ私を見つけられたのですか」
「ヘルガーには装飾品をつけている。発信機入りのね」
「ああ……なるほど」

 妙なデザインの、と言ったら気を悪くされそうなので言及しないが、今度はホムラを足蹴にしだしたヘルガーの首周りには確かに見慣れない装飾品がついている。せっかく徒歩で山道をこそこそ移動していたのに居場所がバレていたのだと思うと、少しばかり悔しくてヘルガーにデコピンを食らわせた。仕返しに指を噛まれたが。なんなら、カクレオン2匹とドンメルにさえ、寄ってたかってポコポコと蹴りつけられはじめたが。

「ホムラも私のものになったんだ。羨ましければつけてあげようか」
「いえ。探す手間がないくらい、お側に置いてください」
「やっぱり君、好きだなあ」

 いい加減己の筋肉で潰してしまいそうなので、よいしょとマツブサの身体を持ち上げ上下を入れ替えた。やはり仔エネコみたいに持ち上げられてもだらんとしているし、己の上に乗せても軽くて温かくてなにより可愛い。背中に刺さる石の痛みもこの愛くるしさの前には無に等しいと思えるほどで、俺はこの人のモノになったんだ!と万感の思いを込めてぎゅっと大事に抱きしめた。

「私にはやりたいことがあるのだよ。君にはそれに付き合ってもらう。ただ、最初の仕事は山頂で待つ君の取引相手……私のヘルガーを欲した愚か者を、可愛がってあげること、かな」
「はっ。待ち合わせは夜ですから、噴火口にでも追い立ててやります」
「私のグラエナはお利口さんだ。楽しみにしているよ」

 彼は厚い胸に顎を置き、あどけない顔でるんるんとホムラの唇を撫でている。ときおり若者の昂ぶる雄を腹で確かめるように身体を揺らしているのは、無意識なのか、意地悪なのか。どちらにせよ質の悪さは一級品で、まんまと手玉に取られたホムラはうっとりと囁いた。

「魔性のお方だ。こうして皆をたぶらかしていらっしゃるんですか」
「無礼な。私が口説くのは君だけだよ」

 返す刀の切れ味の鋭いこと。嘘か真か、ここまで言わせて応えないのは男にあらず。ホムラはマツブサの柳腰を掴んでずりずりと引き上げて、唇同士が触れ合う距離まで麗しい顔を持ってきた。落ちる赤髪をかきあげて、愛しいご主人様の頬を丁重にやんわりと手のひらで包み込む。

「責任、とっていただけますか」
「もちろん。ともに明るい未来を築こうね」
「……大切にします」
「うん。末永くよろしく頼むよ」

 頬にふわりとあたる唇の感触。心から喜んでいるのが伝わってくる弾ける笑顔。なんと罪作りな人だろう。けれど、諸手を上げて自ら甘い甘い毒の蜜に飛び込んでしまったホムラには、これから続く未来への期待に胸をときめかせることしかできなかった。
 気の利く一言を返そうとしたところ、ヘルガーに思い切り足を噛まれて顔をしかめる羽目になり、むしろそのおかげで一層甘やかしてもらえたので、こいつらともうまくやっていこうと苦笑ながらに新入りは心を決めた。


 ホムラが密猟なんて後ろ暗い生業から足を洗って、けれど堂々と大義ある悪事をはたらくようになるまで、あと数ヶ月。
 初めてのお仕事を終えて帰った先で、いきなり一緒にだだっ広い風呂に入ることになって嬉しい悲鳴を上げるまで、あと数時間。
 ちなみに「いい子だから一緒に寝ようか」とからかわれ、機を逃さない男はそれからずっと「私はいい子なので一緒に寝ます」を実現した。




back

いい子にご褒美


「ホムラ、お誕生日おめでとう」

 良い子寝静まる子三つ刻。
 全ての針が十二を指してひとつ歳を重ねたわたしの寝室、音もなく現れたその人は、跳ね起きたわたしに覆い被さるようにベッド脇へ乗り上げて、甘い声でそう言った。

「っ……!? た、んじょうび」
「そう。おめでとう。今年も私が一番乗りだ。なんでも欲しいものを言いなさい」

 ふわふわの髪にちょいと寝癖をつけた可愛い人が、わたしのベッドの上にいる。
 ──夢、かと思ったが、重ねられた手のひらから伝わる温もりが現実だと告げている。瞬いて、もう一度瞬いて、恍惚と見つめていたら、「なんだかふにゃふにゃしているなあ」なんて仕方なさそうにこてんと首が傾いた。
 月明かりに浮かぶ最愛の人、マツブサ様は、誕生日を祝うには過分で目に毒な微笑みを浮かべて、もそもそと布団の中に潜り込んできた。ぎょっと目を見開いたわたしをよそに、シルクのパジャマがしゃらりと鳴って、冷えた裸足がわたしのくるぶしにぺたりとくっつく。慌てて布団をかけ直して差し上げると、にっこりと満足げな笑みが返った。
 お可愛らしい、いつにも増して。
 それにしたって、吐息の混ざるほど近しい距離で、喉から手が出るほど欲してたまらない存在に「欲しいもの」を問われたら、咄嗟に言葉は出ないものである。

「ま、つぶさ様……あ、あの」
「ふふ、あったかい。こうしていると昔みたいで懐かしいな」

 ちょいと手招かれては抗えず、ずるずると布団の中に舞い戻る。二人寄り添って横臥するなんて、もうどれだけ振りだろう。幼い頃は安心感に包まれていた胸が今はときめきに高鳴って、下心が布団の中に満ちていく。
 そんな男心の機微を知ってか知らずか、向き合った人の滑らかな手のひらが、わたしの脇腹をなぞって背に回された。親愛のお仕草だろうか、敏感なところを刺激したそれにぞくぞくと背筋が震えて、くちびるを噛み締める。
 誕生日を祝ってくださるのは嬉しいが、だからこそ、わたしがとうに幼い男の子ではないと認めてもらわなければ困る。己に執着を向ける男のたくましく育った身体とひとつ布団にくるまるなんて、無垢というには婀娜めいて、蠱惑的と呼ぶには無防備だ。

「ん……、それで? 去年は遊園地でデートをしたな。今年はなんだ? たまには思いきり我儘を言うといい」

 指の腹がつうと背の窪みをなぞる。
 心臓がばくんと高鳴り、急激に下腹へ血が集まるのを感じて、据え膳、なんて言葉が脳裏をよぎった。鮮烈な期待にごくりと喉が鳴る。

「……マツブサ様のぜんぶをください」

 ご命令なのだから、腹の底から思いきった我儘を。
 上目遣いのおねだりに愛しい瞳はきょとんと瞬き、くちびるが優雅に弧を描いた。

「待てない?」
「は、い……」

 保護者然としていた人が、ひといきに艶冶な空気を纏った。返した声は見事に掠れて、くすくすと愛らしく笑われる。余裕も体面も奪われて、丸裸にされた気分だ。マツブサ様の視界に映るわたしはきっと、浅ましい顔をしているに違いない。
 唾を飲む。火照った頬を、細指がちょんとつついた。

「どうしたい? 優しくしたい? それとも、乱暴にしたい……?」

 頬をつたった指先に顎を撫ぜられて、かっと身体が熱くなる。──どうしたいと聞かれても、ただ、マツブサ様とエッチなことをして、とろとろに蕩けて一つになりたい。
 くちびるが震えて、ちょっと迷ってから「優しく、めちゃくちゃにして差し上げたい、です」と答えた。それが正解なのかはわからない。けれど、マツブサ様は嬉しそうに破顔した。

「だーめ。二十歳になったらな」

 垂涎のご馳走をちらつかせ、ひょいと無慈悲に取り上げる。うっとりと頬を撫でながら、砂糖菓子みたいなくちぶりで。
 マツブサ様の意に反することなどしたくはないが、「ワガママ」を求めたのはマツブサ様だ。なにより、麗しいかんばせに拒絶の色は見られない。握った拳は震えたが、決意の声はすっと通った。

「わたしはもう立派な大人です。二十には足りませんが、マツブサ様をお守りするに足る膂力と実力は備えているつもりです」
「そうだな。お前は本当に、すこぶる良い男だよ」
「ならば、どうしてまだお許しいただけないのですか……?」

 二十歳になった自分なんて想像もつかないけれど、マツブサ様を想う気持ちなら、例え未来の自分であっても負ける気はしなかった。
 わたしの前髪をすくって遊ぶマツブサ様を視線でなぞる。愉快そうに小首を傾げる優雅なお顔、赤毛から覗く真白いうなじ、たおやかに滑る細い指、そして、布団に隠れて見えはせずとも、目に焼き付いて離れない、なだらかな流線を描く柳腰、すらりと伸びる美しきおみ足……。
 あと数年の辛抱なんて拷問だ。早くその御身の奥深くまで飲み込んでいただかないと、愛が溢れて溺れてしまう。
 ふと、胸元に縋りつかれて、耳元にくちびるが寄せられた。熱い吐息になぶられて、ぞくぞくと肌が粟立ち昂る。柔らかな肉のぴとりとくっついたそこ、わたしの耳の中へ、男を溶かす灼熱の告白が注がれた。

「お前の特別になりたいのだよ」

 きゅうと細められた瞳と目が合った。とうにわたしのとっておきに君臨しておきながら、そうと知っている可愛いお顔で、そんな罪深いことを言う。
 『特別』の距離で見つめ合い、口づけすらくださらずにはにかむ人が愛おしくって憎らしくって、華奢な身体に覆い被さり抱きすくめた。ぎゅうと力強い腕の中、「んっ、」なんて鼻に抜ける甘い声を漏らしたマツブサ様は、わたしの背を両手で掻き抱いて、おまけに、いやらしく脚を絡ませたりなんてする。

「どうか、弄ばないでください、マツブサ様……」
「愛しいお前を弄んだりなどするものか。お預けだよ。いい子なら容易いな?」

 ──こんなお預けがあってたまるか!
 ぐるぐると喉が鳴る。マツブサ様の太ももにすり寄せた下半身が甘く痺れて、息が浅くなっていく。服越しにくっついているだけで、こんなにも気持ちがよくてたまらない。大きく息を吸う。清潔なソープの香りに隠れて、芳しいマツブサ様の匂いがする。押し付けたくちびるを迎えるうなじは、温かくて、すべすべで、男を誘う味がした。
 ああ、このままずぶずぶに合わさってひとつになることのできたなら、どんなにか素晴らしいことだろう……。

「ふふ、こーら。『待て』だぞ、悪い子だ」
「ふ、うう、マツブサ様っ……」

 マツブサ様のご命令が頭の中でぼんやり溶けて、腰が動くのを止められない。お預けもできずに身勝手な劣情を押しつけて、情けなくて恥ずかしくて、でも、マツブサ様は犬がお好きだから、盛りのついた雄犬もきっと愛してくださるはずで、だから……。
 みっともない言い訳が口をつきそうになって、魅惑の首筋をはむはむ、あむあむと甘く噛んで誤魔化すように閉じ込めた。食らいつかれてなお抵抗の兆しがない人は、心地よさそうに喉を鳴らして、あえかな吐息が漏れるのを隠そうともせず、わたしの頭を撫でている。

「ン、はぁ……。二十歳の記念すべき日にという他にも、私はロマンチックなのでね。『初めて』は満点の星空の下がいい、」
「わたしの部屋にはプラネタリウムがあります」
「…………」

 食い気味に返す。お返事はなかったが、マツブサ様が興味を持たれた気配がしたので、勢いづいて言い連ねた。

「お布団だって、この通りとってもふかふかです。マツブサ様が選んでくださった最高級の寝具です」
「……ん、ふ……」

 腕の中の身体がふるりと震えた。覗き込んだかんばせは、愛おしさを噛み締めるようにふにゃりと相好を崩している。
 口説き落としてみろ、ということか。
 合点して、闘志に心がぎらついた。

「もちろん朝ご飯もお作りします。マツブサ様が大好きな紅茶もご用意します」
「あは、……ふ、うん、……」
「この世の何より大切にします。わたし以上にあなたを慮れる者などおりません」
「そうだな、ふふ……」
「愛していますマツブサ様、お慕いしています、もっとぎゅってしてください」
「うんうん、ふっ、ふふふ……」

 可憐な笑い声を漏らしたマツブサ様が、雄を挑発するように腰を揺らした。交尾の真似事にふける下半身が灼熱に膨らんで、ますます息が荒くなる。焦らされているのだか、煽られているのだか、とにかく早くお許しが欲しかった。
 発情期の獣よろしく迫っておきながら、仔犬の素振りで鼻先をくっつけて慈悲を乞う。とても大人の男とは思えないような、甘えきった声が二人の間にとろりと溶けた。

「マツブサ様、意地悪をなさらないでください……。ちんちんが痛いです、可愛がっていただけますか……?」
「ははは! お前という奴は、愛らしい顔をして獲物に噛みついて離さない、まったくポチエナそっくりだ!」

 満面の笑みを咲かせたマツブサ様のくちびるが、ちうと天使みたいな音を立てて、わたしのくちびるに重なった。
 キス、夢にまでみた、額にでも頬にでもない、くちびるへのキス!
 柔らかくてふわふわで、信じられないほど気持ちがよくて、芯まで痺れて一気にのぼせた。すぐに離れてしまった魅惑のくちびるを夢中で追いかけると、にゅるりと蕩けるように熱いなにかをくちびるのあわいに差し込まれた。
 ──マツブサ様の舌だ! 清楚なマツブサ様の末端が、わたしの舌を、初心な粘膜を、ぬるぬると熱く淫らにあやしている。
 あまりの快感になすがまま身を任せていると、柔な手のひらに尻を掴まれて、思わずビクンと身体が跳ねた。絡み合っていた舌がゆるゆると引っ込められるのを、回らぬ頭で追いかける。可憐なくちびるに舌を吸われて、ビリリと全身に電流が走った。鼻息荒く見つめる先で、情欲に濡れた瞳に純情を射抜かれて、わたしはすっかり茹で上がってしまった。

「はぁっ、は、まつぶささまっ……! エッチです、うう、マツブサ様っ……」
「おや、エッチな私は嫌いかな……?」
「いえ、いいえ、でも……マツブサ様も、きもちい、ですか……?」
「ふふ、どうかな。ほら、触って、舐めて、好きにして……私が気持ちよくなっているか、じっくり確かめてごらん。おいで、ホムラ」
「マツブサ様っ……!」

 マツブサ様が身を委ねてくださる、マツブサ様が、わたしの、わたしだけのマツブサ様が!
 パンパンに膨らんだ欲望がまなざしひとつではち切れそうで、僅かに残る理性が「っ、ですが、ゴム、とか……じゅんび、なんにも……!」と待ったをかけたけれど、わたしの頭を抱き寄せた人の蕩けた声が、なにもかもをとろかした。

「してあるよ。いい子で我慢していたのだものな?」

 敵わない。きっと二十歳になったって、マツブサ様にとってわたしはいつまでも可愛い男の子なのだろう。
 とどめに「からかってすまない。お前があまりに愛おしくって」なんて頭をくしゃくしゃに撫でられたものだから、わたしはその夜、愛しい人に縋りついて求愛するのをやめられず、火にかけられたバターみたいにとろとろに甘やかされて、ベッドが壊れて笑い転げるなんて夢みたいに最高な誕生日を堪能させていただいたのだった。




back

Unauthorized copying and replication and use of the contents of this site, text and images are strictly prohibited.
(当サイトのテキスト・画像の無断転載・複製・使用を固く禁じます。)


▶︎管理人:みちより(@D_Michiyori
 好きなもの:犬、デグー、主を守っているつもりで主の庇護下にある偉丈夫



back